人間牧場

○月刊社会教育が届く

 一ヶ月余り前、月刊社会教育という雑誌の編集者から、「魅力あるまちづくりと社会教育」という特集を組むので、原稿を書いて欲しいとメールが入りました。2千字そこそこの比較的短い文章依頼なので、快く引き受けました。私が書いたのは提言というコーナーで、社会教育経験者としてまちづくりをどう思うかというものです。私以外に誰が書くのかも分からぬまま、締め切りより早く原稿をメールで送りましたが、日ごろの忙しさで送った原稿のことや、掲載雑誌のこともすっかり忘れていました。
 一昨日その掲載雑誌が私宛に2冊同封されて送られてきました。中を開けると見覚えのある懐かしい福留強先生(聖徳大学生涯学習センター所長)さんも同じコーナーに原稿を寄せていて、興味深く読ませてもらいました。

 私の記事は見開き2ページにわたって、「魅力ある人間牧場づくり」について書いていますので、読みづらいとは思いますが、スキャナーでスキャンして記録に残すことにしました。

目次

 自分で書いた記事なのに、いつもながら読み返して自責の念にかられます。でも印刷されれば後の祭りで、消しゴムで消すことも出来ず、全国誌ゆえに全国の関係者に恥をさらけ出してしまうのです。 まあとって食われる訳でもないので、自分の能力はこんなものだと半ば諦めていますが、次に書く時はもっと考えて書きたいと反省をしました。

  今日は早朝6時に香川県高松へ出張するため、いつものように4時に起床して、とりあえずアメーバブログを一本書き、もう一本はこの記事となってしまいまあした。今日はこれから出発して福岡県へ講演のため出かけます。明日は行橋市辺りで仕事をするため家を留守にします。 忙しい毎日ゆえブログの記事も疎かになる、明日はブログを書くことが出来ない焦りもありますが、まあ久しぶりのお休みだと思って、のんびり小旅行を楽しもうと思っています。

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人間牧場

○夕日徒然草・空の書納品(その2)

 先日今治市越智商工会で開かれた青年部講演会に出席してくれた村上太さんとは、えひめ地域政策研究センターが人材育成のため、毎年開催している地域づくり人養成講座で知り合いました。以来この6年ほど着かず離れずの付き合いをしていますが、その時の担当が年輪塾清水塾頭だったこともあって、清水さんの仲立ちで私の名刺や夕日徒然草の印刷を村上さんに頼んで欲しいと依頼があり、起業の意味を込めてお願いすることになったのです。私個人の依頼ゆえ名刺や薄っぺらい夕日徒然草という本の出版くらいしかお役に立てませんでしたが、それでもこの5年間で夕日徒然草262,500円×5冊=1,325,000円に名刺代ですから、小額ながらそれ相応の貢献はしているのです。

納品にやって来た村上太さんたち

 講演会が終ってから控室で、夕日徒然草・空の書の印刷が明くる日出来上がるので、「7月2日の月曜日、朝9時に人間牧場へ納品する」約束をしました。朝9時ということは午前7時に今治を出なければなりませんが、案の定8時過ぎに松山で車の渋滞に巻き込まれたようで、少し遅れると携帯電話がかかりました。手持ち無沙汰なため私は、用意しておいた波型エスロン板を、ピザ釜横の作業小屋に張る作業をしました。これまで人間牧場の建築物は、親父に頼んで倉庫を作った他は、全て地元の大工さんに頼んでいましたが、そろそろ周辺の整備は自分でしなければと思い立って、先日は薪の収納小屋も、西村ジョイで材料を買い、自分が設計施工をそれなりに仕上げているのです。
 この日もピザ釜の横の作業小屋の入口上の空間を波型エスロンを3枚張り終え、これで虫や埃が入らなくなるはずです。

印刷代を支払いお金を数える村上さん

 村上さんは昨年も同行した美しい女性と一緒に9時30分やって来ました。千部の夕日徒然草・空の書を無事納品してくれました。今回は原稿書きの悪戯で2話余分に書いた原稿を番外その1、番外その2として集録したり、最終章を示すシーサイド公園恋人岬のモニュメントに沈む夕日を、印象的に裏表紙へあしらったため、消費税込み275,000円と少し高めとなってしまいましたが、これは仕方がないと諦め、いつものことながら現金で手渡しました。
 私が工面したこのお金は、この一年間「夕やけ徒然草」を売ったお金に、まったく手をつけず貯めたものです。したがって100円・500円硬貨や千円札、5千円札、一万円冊とまちまちなのです。その日の朝妻が、「折角払うのにそんなお金じゃ数えるのも面倒だし失礼よ」と言って、両替してくれました。お陰様で支払いはスムーズに行きました。

 原稿を5年間にわたって書いた自分もさることながら、編集を一手に引き受けてくれた清水和繁さん、印刷工程を担当してくれた村上太さん、そしてこの5年間見守ってくれた妻等、感謝しても感謝しきれない多くの人に、支えていただいたことに感謝したいと思います。またワンコインで買って読んでくれた人や、この本をネタ本にした落伍を聞いて、おついしょ笑いをしてくれた人たちにも、厚くお礼を申し上げます。
 これからは残部の販売と落伍の話芸に磨きをかけて、修行に務めますのでよろしくお願い致します。

  「五年前 五冊の本を 出すという 計画立てて 始めはしたが」

  「五年後に 目標どおり 5冊出し 目標達成 ホッとひと息」

  「多少無理 しないと進化 出来ぬもの 過ぎてしまえば 納得しきり」

  「さて次は 夢の幾つか また思う しばらく休み 英気養う」

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人間牧場

○夕日徒然草ついに完結・・印刷・出版(その1)

 5年前、人間牧場にどでかい高知県馬路村産魚梁瀬杉の切り株で造った座卓がお目見えしました。高知県奈半利町に住み高知新聞直売所を営む、坂本利男さんのお店下の駐車場の隅で、埃を被っていたこの切り株に出会い、私の人生は少し変わり始めました。お願いしてこの切り株をいただき、物のついでにとこともあろうか、宅配便でわが家まで送ってもらいました。その後わが家の倉庫の隅にに少しの間眠っていましたが、親父がこれを見つけてチェンソーやカンナで細工を施し、下台をつけて座卓に造ってくれたのです。
 家には置く場所もなく、たまたま人間牧場に水平線の家が出来たのを機に、長男に頼んで二人でトラックに積んで運びましたが、ここでも広間の隅にさしたる目的もないまま、むしろ場所を取るため邪魔者扱いされ置かれていました。
 たまたま2006年6月、新築間もない人間牧場で開かれた過疎逆による第24回逆手塾の折、この切り株座卓の上に座布団を敷いて話したことがいい快感だったため、落語ならぬ落伍をやろうと新しい発想が沸き始めたのです。

夕日徒然草最終章「空の書」表紙

 この座卓はよくよく年輪を数えてみると、坂本利男さんから聞いた「150年生」という話を裏づけるように年輪が込み合って数え切れないほど150もの年輪を刻んでいるのです。前後して講演を頼まれ訪ねた高知県馬路村魚梁瀬の千本山で、名だたる魚梁瀬杉の銘木林立を見る機会があり、その容姿や木霊にいいようのない感動とパワーを得ていたこともあって、この切り株にあやかり落伍のネタを150話創作しようと、とてつもない発想を思いついたのです。
 一気に150話を作るほどの能力や暇はないので、とりあえず1年に30話ずつ5年間で仕上げようと計画し、それを「夕日徒然草」と題して五輪の書にあやかり、地の書・水の書・火の書・風の書・空の書と積み重ね、印刷出版ようと思いました。1冊250円で1000部印刷し、500円のワンコインで販売すれば250円儲かって人間牧場の運営費が稼げるなどと、取らぬ狸の皮算用を立てて、1人ほくそ笑んでいました。しかも例え半分の500冊しか売れなくても、初期投資の25万円さえ用意すれば、後は自転車操業のような形で出版費用を投資できるのですから、美味しい話です。

最終章を示す裏表紙の恋人岬モニュメントにしずむ夕日の写真

 早速地の書の執筆に取り掛かり、書きたい話題も泉の如く出て来て、エッセイ風な地の書は僅か1週間で執筆するという、持ち前の速さで執筆し終えました。たまたまえひめ地域政策研究センターへ農協から出向していた、清水和繁さんに相談を持ちかけ構成や校正などの全般をお願いしたのです。清水さんは快く引き受けくれて、印刷を担当してくれた今治の村上太さんと私の腐れ縁3人で、以後5年間付き合いをすることになったのです。
 最初は売れた冊数等を記録したりしていましたが、忙しさでいつの間にかそれも忘れ、水の書や火の書、風の書と進むに連れて浅学や浅知恵が暴露され、筆が進みにくい奥の深さに苛まれもしましたし、落伍を演じる話芸も中々上達しませんでした。それでも一度決めた5年間で150話の創作落伍の本の執筆は、拙文のそしりを免れませんが、何とか最終章空の書まで漕ぎつけ、昨日やっと完結・印刷・出版の運びとなりました。人から見れば何の変哲もない「夕日徒然草」という本ですが、私にとっては5年間も費やしたシリーズ本なので、労作という言葉が当てはまるようです。

  「先ず一話 それから二話と 積み重ね 百五十話を やっと完結」

  「高知県 馬路村産 魚梁瀬杉 切り株出会い 人生変わる」

  「年輪の パワーを貰い 精進す 書き読む度に 進化足跡」

  「金ないが 自転車操業 宜しきを 得たりどうにか 最終章まで」

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人間牧場

○予讃線海回りで回送列車脱線

 ~平成24年6月25日午前5時20分ごろ、伊予市双海町上灘(天一稲荷神社の裏)のJR予讃線(海回り線)で、松山発伊予長浜行き回送列車(一両)が、台風4号以降の長雨の影響で線路上に崩落していた土砂に乗り上げ脱線した。同区間で列車は運休し、JR四国が土砂の撤去作業を実施。国土交通省運輸安全委員会の鉄道事故調査官2人も現地入りした。~

一昨日の愛媛新聞朝刊記事

 昨日の愛媛新聞週間記事欄にこんな小さな記事が載っていました。そして一昨日4面の社会欄には「伊予市で脱線JR海回り線 明日運転再開へ」、昨日は「「今日運転再開 伊予市JR脱線」という見出しで小さな記事が載っていました。事故当時は取材のヘリが飛んだり、テレビや新聞で大々的に報道されたりしましたし、再開の目途がまったく立っていなかっただけに、早い復旧や伊予市ー伊予長浜間の代行バス運行のお陰で大した混乱もなく運行再開ができたことは何よりも嬉しく思うのです。

 

 

 

昨日の愛媛新聞朝刊記事

愚かなことですが、人間はなくさなければその存在の大きさに気づくかないものです。車が普及して鉄路を走る列車など、時代遅れな乗り物と思っている人は少なくないのです。事実今回の脱線事故で影響を受ける人の数は一日たかが千人余りでしたが、されど千人なのです。列車を利用する人は表現は悪いものの交通弱者といわれる高校生やお年寄りです。高校生は通学に、お年よりは病院や買い物に行くのに利用してますが、JRが唯一の交通手段なのですから、不通はまさに死活問題なのです。

  かつて私はそのことが重要とばかりに、水面下で廃線が決定的だったJR予讃線海回りの存続をかけて、下灘駅で夕やけプラットホームコンサートをやりました。夕日を売り出すためにやったと人々は言っていますが、主催した私の本心は列車を守るためにやったというのが本心です。お陰様で利用者は少ないものの、観光という利用の仕方も働いて、夕やけビール列車や菜の花トロッコ列車など、また旅行会社が海回りを走るツアーを企画実施する等、それなりに利活用しているのです。今年の8月23日「ふたみの日」には列車を一両借り切ったビール列車も走らせるべく、仲間たちが孤軍奮闘しているようです。今一度長年私たちの足となっている列車の存在を思い、大いに感謝しましょう。

運転再開を知らせる7月2日の愛媛新聞朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「脱線で 不通となった 海回り やっと再開 ほっと一息」

  「人間は なくし始めて 存在に 気づく愚かさ 今も昔も」

  「この夏は トロッコ列車 借り切って 走らせようと 意気込む仲間」

  「この記事が ああそんなこと あったなあ 思い出彼方 消えて行くのか」 

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人間牧場

○カブト虫の養殖に成功か?

 昨日は人間牧場で小雨の中、草刈機で草を刈ったり、チェンソーで集材した間伐材を薪用に小切りしたりと、いわゆる山仕事を精力的にやりました。昨日は蒸し暑く私的には、この夏一番の暑さだったようで、作業が進むにつれてズボンの上に、雨合羽のズボンを履いていたこともあって大汗をかき、すっかり濡れ鼠のような惨めな格好になっていました。作業の途中でやって来た二人のお客さんには汗臭くて、さぞや不快な気持ちにさせたのだろうと、深く反省をしているのです。
 チェンソーを使って薪用に間伐材を小切りしていて、何げなく見ると横の苗床に被せている防虫ネットの隅で、何やら黒いものがうごめいている姿が目に留まりました。これは苗床に産んでいるカブト虫の幼虫が成虫になって逃げ出さないよう、捕獲することを目的にして張った、いわばカブト虫の養殖実験装置なのです。

 この苗床には近くの道路沿いに落ちていた落ち葉を毎年のように軽四トラックに2台拾い集め、脚と全身で踏み込んでその上に米糠や油粕、オガクズなどを加えて腐葉土を作っているのです。ベニヤ板で囲っただけの簡単な装置ですが、種芋から生えるはずのツルの伸びが今一だし、種芋をネズミにかじられる被害に遭ったため、この春は種芋を植えることを断念し、毎年苗床の腐葉土でカブト虫のものと思われる幼虫を見つけていて、それを育てようと方向転換したのです。
 よく見ると産まれだちの真っ黒なカブト虫は四匹いました。作業が終って帰り支度をするため水平線の家に引き返して、菓子の空き箱を持って苗床まで行きました。防虫ネットを少し開けてカブト虫を四匹捕獲しましたが、4匹とも元気過ぎて手にまとわりつき、逃げ出さないよう箱に入れるのにも一苦労でした。

カブト虫を貰ってご満悦の孫希心と奏心

 わが家にはやんちゃ盛りの孫は2人います。また松山には虫大好き人間の孫が2人います。とりあえず一匹ずつ分けてやろうと自宅へ持ち帰りましたが、まあそれから大騒動です。昨年の秋倉庫にしまっていたカブト虫専用の容器を取り出して土を入れ、その中に小枝などを差し込んで一応カブト虫の住処を作ってやりました。孫たち二人は大喜びで、手にまとわりついて動き回るカブト虫をものともせず、壊れるのではないかと思うほどいじくっていました。やはり男の子だとその様子を感心しながら見ていました。
 夕食の時間になっても孫たちはその場所から離れようとしないので、ダイニング外のウッドデッキにカブト虫の入った容器を置き、中からガラス窓越しにカブト虫の動く姿が見れるようにしてやりましたが、二人の孫たちは寝る直前まで窓越しにカブト虫のことが気になるのか、餌としてやったパイナップル片に抱きついて蜜を吸っている様子をマジマジトと見ていました。

 私はこれまで、苗床の腐葉土に産み落とされた卵から孵った幼虫を拾い集めて、腐葉土の入ったポリ容器で養殖を試みてきましたが、すべて管理不行き届きで失敗してしまいました。結局養殖とはいいながら自然に任せて何もせず防虫ネットを張っただけなのに、今年はカブト虫をかなり多く捕獲できそうです。
 孫たちに1人1匹ずつと思って捕らえましたが、今年は虫の大好きな外孫にも鱈腹譲ってやろうと思っています。防虫ネットがカブト虫によって破られないよう祈るばかりです。

  「苗床の 腐葉土生まれ カブト虫 念願養殖 やっと日の目を」

  「孫たちは やはり男だ カブト虫 貰って気勢 上げつつさわる」

  「カブト虫 立派な角を 動かして 俺は王様 言わんばかりに」

  「田舎ゆえ 金で買わない オモチャあり だから田舎は 楽しいはずだ」

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人間牧場

○雨で延期したふるさと体験塾

 今日はふるさと体験塾の「船で海に飛び出そう」が計画されていましたが、やるか延期するかを決める午前6時の作戦会議をする頃に、少し強い雨が降り始め、一度は決行を決めていたのに、天気予報も否定的な降水確率だったため、結局延期となってしまいました。「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」と絶えずポジティブな行動をとってきた私ですが、「子どもを乗せるので事故でもあったら大変」という漁師さんの方針を覆すこともできず、残念な結果となりました。私は来月5日から7日にかけて福岡県へ出張する予定なので、間に合うように帰れるかどうか、日程をにらんだ心の葛藤が始まりました。何とか帰りたいと思いつつ・・・。

 雨合羽や長靴を用意してふるさと体験塾に出かけようとした矢先のことだったので、今日はその足で人間牧場へと向かいました。そしてポロポロ程度の雨の中、草刈機で人間牧場に通じる私道沿いの草を刈りました。草刈りは雨で草が濡れている時は、草刈機の刃もよく切れて、作業効率がよいのですが、いかんせん今日は梅雨特有の蒸し蒸しした暑さで、加えて薮蚊の洗礼を受けました。それでも何とか予定した場所は草刈りを終えることが出来ました。
 そこへ10時頃内子の永見進夫さんという方から電話がかかってきて、大洲の兵頭和子さんという方と人間牧場を訪ねたいというのです。事業延期が生んだ休暇日なので、「午前中ならどうにか」と返事をし、12時に下灘コミュニティセンターで落ち合うことにしました。

兵頭さんと永見さん
汗をかき合羽のズボンを裾まくりしたままで話す私

 下灘コミュニティセンターへは待ち時間を合わせると往復30分程度かかるので、草刈りは午前中で断念しました。最近は時間厳守の観念のない人もかなりいて、待ち時間中お客さんを待ってイライラするのですが、今日のお二人はきっちり5分前に到着しました。早速下浜~人間牧場までの細い道を上がり、1時間ばかり四方山話や人間牧場のあちこちを見学してもらいました。永見さんは連合設計社市谷建築事務所、兵頭和子さんは話顔施人という珍しい名刺を持っていました。お二人とも私とお会いしたことがあるらしく、打ち解けたお話が出来ました。

チェンソーを使った薪割り体験用の薪づくり

二人が帰った後、5月26日のこども体験塾で薪割り体験のために山から切り出して運び、山積みにしていた間伐材を、薪の長さにチェンソーで切る作業をしました。30本近くの丸太をチェンソーで切るのですが、先日私が長年使っていたチェンソーガ故障して使えなくなってしまったため、親類で貰ったチェンソーに混合油を入れて試運転していたので、今日はすんなり作業がはかどり、切った薪は先日造った薪小屋へ運び、積み重ねて行きました。これで丸太が雨で腐ることもなく薪割り体験ができるようです。

チェンソーで切り薪小屋に収納した丸太

 

 「延期だと 通知を受けて 手持ち無沙 草刈り作業 蚊に刺されつつ」

 「牧場を 訪ねたい旨 電話あり どうぞどうぞと 迎えに下りる」

 「チェンソーで 間伐材を 小切りする 薪割り体験 これで安心」

 「薪小屋に うず高く積む 大量の 丸太来た人 薪割り挑戦」

 

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人間牧場

○越智商工会青年部での講演

 自分がそれ相応の年齢になったからでしょうか、それとも青年の力が弱ったからでしょうか、最近青年の集まりに出る機会が段々少なくなってきたように思うのです。私は青年団出身で、そのことを今でもある種誇りに思い、青年団で手に入れた①仲間、②ふるさと、③主張、④感動、⑤夢という五つの道具を使って生きているのです。故に青年団を含めた青年活動には関心もあって、請われれば何をさておいても駆けつけるのです。
 今治市菊間町・大西町・波方町商工会が合併統合して越智商工会となっていますが、今年1月16日越智商工会で開かれた新春講演会に招かれたご縁で、今度は商工会青年部に招かれ昨晩出かけて行きました。

星の浦海浜公園のモニュメント

 私は旧菊間、旧波方へは時間の都合で出かけられませんでしたが、先立って少し早めに星の浦海浜公園と、藤山健康文化公園へ出かけ、事前調査の真似事をさせてもらいました。星の浦海浜公園はとても落ち着いた感じのする公園で、ピラミッドのような石組みのモニュメントがとても気に入っていて、道の駅になっても良さそうな雰囲気があるのですが、残念ながらトイレと小さな売店があるものの、活性化の手立てはしてないようです。松山の大山寺等と今治の国分寺等を結ぶ遍路道や交通量の多い国道196号沿線でもあるので需要は十分見込め、私だったらもっと活用したいと思いました。休憩所付近で姫路から来たという初老の遍路さんに出会いました。これまで雨続きだったこともあって、洗濯も移動も難儀をしたと、自慢の自転車を見せながら、洗濯物を暖簾のように干してくつろいでいました。

公園入り口にある近藤哲夫さんの作品「継獅子」

 

山頂にある妙見山古墳

 ついで、越智商工会の直ぐ近くの交差点を右折して藤山健康文化公園へ出かけました。この公園を訪れるのは今回が三度目ですが、国の史跡に指定されている妙見山古墳が頂上にあって、手入れの行き届いた広い広い芝生の多目的広場は、愛媛県内でもピカイチの充実した美しい公園だと思うのです。合併以来こんな素晴らしいおらが町の公園も、人に知らせるすべもなく、すっかり埋もれた存在になっていることは、惜しい気もするので、是非今後の活用を期待したいと思いました。朝までの雨も止みこの日久しぶりにかを覗かせた夏の太陽を浴びて、公園内を散策し大いに汗をかいてしまいましたが、私の知的コンテンツを大いにくすぐったようでした。

見事な芝生公園
越智商工会青年部の研修会

 商工会青年部の研修には沢山の青年と思しき人たちが集まっていました。私は90分にわたり熱弁をふるいましたが、青年部らしい反応は今一のようでした。それでも講演が終わって二人の青年が控室へ名刺交換にやって来てくれ、少しの時間お話をさせてもらい、是非人間牧場へ行きたいとリクエストがありました。商工会青年部に期待したいのは、自分の生業である商売をしっかりすることは勿論ですが、買い物難民といわれる人たちへの、出張販売を含めた新しいコミュニティビジネスを起業することなど、新しい視点での地域づくりに一歩踏み出して欲しいと思うのです。
 若者の夢や希望、それに行動力に大いに期待したいものです。

  「そういえば つい最近は 青年の 集会減った ような気がする」

  「年齢が 若いだけでは 青年と 言えない俺の 方が若者?」

  「若いとは 何にも増して 貴重なり 歳とるほどに 若さ懐かし」

  「講演が 終わると直ぐに 若者が 名刺交換 嬉し反応」 

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人間牧場

○随分近くなった宇和島

 昨日は松前幼稚園と宇和島市保育所園長等研修会の講演ダブルヘッターで、何かと忙しい一日でした。予定では最初、松前幼稚園での講演が11時30分終了となっていましたが、プログラムが早く回って、11時過ぎに私の講演が終りました。本当は園児たちとカレーパーティに参加しなければならなかったのですが、園長さんに無理を言って会場を後に、伊予インターチェンジまで地道を走り、そこから高速道路に乗りました。
 伊予インターに乗ったところで大粒の雨が降り出し、急ぐけどスリップ事故を起こさないよう自制気味なスピードで大洲~西予と進み、西予から宇和島までは高速道路も無料とあって、少し交通量が多いなあと感じながら1時間20分ほどで、12時30分に会場となる宇和島市役所地下1F会議室に到着しました。

 私にとって宇和島市役所界隈は、50年前宇和島水産高校に遊学した折、近くの桝形町に3年間下宿していたこともあって、懐かしくもよく知っている、いわば第二のふるさとでもあるのです。当時は国道といっても道が悪く、唯一の交通機関は国鉄で、終着駅だった宇和島へは鈍行の蒸気機関車に揺られ、延々半日をかけなければ来ることができなかったのです。ところが最近開通した高速道路を使えば、伊予インターから宇和島インターまで僅か1時間余りで宇和島へ行けるのですから、隔世の感がするのです。でも蒸気機関車に乗って窓越しに見えた法華津峠からの遠望や、宇和盆地、肱川沿線、長浜の赤橋、瀬戸内海は私の旅情を存分にかき立ててくれていました。伊予インターから宇和島インターまでは高速道路といいながらまだ一車線なので、車窓に広がる風景を見る余裕等なく、ただ「早い」「便利」だけのようでした。

宇和島市の保育園長さんたちが集まった研修会

 研修会に先立って、用意していただいた「かどや」という料理屋特製の、美味しい弁当をいただきながら、私が来ることを知ったらしい土居市議会議長さんや佐々木監査委員さんたちが入れ替わり立ち代わり控室に見えられ、久しぶりに交友を温めました。土居さんは水産高校の後輩だし、佐々木さんは元公民館主事なのです。
 元小学校校長だった園長連絡協議会の会長さんの話によると、会長さんは愛媛県校長会と、平成17年に園長さんの保育所で私の講演を聞いているそうでした。その話を聞いて一瞬たじろきましたが、90分間多いに盛り上がったお話をさせてもらいました。
 講演終了後宇和島と合併した吉田町出身の泉議会事務局長さんからお声がかかって議会事務局へ立ち寄り、また谷本さんや松本課長さんのいる商工観光課へも顔を出し、楽しい会話を終えて、再び帰路に着きました。

 宇和島地方が中心になってこの春から秋まで南予いやし博が開かれています。高速道路の開通に合わせたこの催しで遅れが指摘されている南予地方が活性化することを祈っているし、高知南西部との交流がさらに進むものと思われますが、くれぐれも一過性に終ることなく住民が主体となった来年以降に続く効果を期待するのです。
 かつてしまなみ海道が開通した時も、イベント屋の仕掛けが主流を占めて地元が予想したほど動かず盛り上がらず、結局一年後には閑古鳥と悪評を叩かれましたが、地域づくりはあくまでも地元が主体なのです。来月には愛媛の三大祭りといわれる、和霊さんの牛鬼祭りも開かれます。高校時代以来行ったことがないこの祭にも、妻を誘ってそろそろ出かけてみたいと、商工観光課の壁に張り出された大きなポスターを見て思いました。ふと下宿のおばちゃんは元気だろうか?と、懐かしい顔を思い出しました。

  「宇和島が 高速お陰 だんだんと 近くになるが 思い出遠く」

  「高速は 周りの景色 見る余裕 殆んどなくて 思い出残らず」

  「半世紀 思い出遠く なりにけり 下宿おばちゃん 元気にしてか」

  「牛鬼の ポスター見つつ 和霊祭 妻に見せたい 今年は行こう」 

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人間牧場

○私設公民館煙会所の復活

 昨年の5月に息子たち家族4人と同居生活を始めるため、私が書斎として使っていた部屋を私たち夫婦のダイニングキッチンにリフォームしたため、これまで余り使っていなかった広い応接間へ私の書斎を移転しました。元々応接間だったところですから、冬の寒い時等は来客の殆んどを応接間に案内して対応していましたが、季節は巡りて夏になったため、このところ来客の殆んどは戸外といいながら屋根のある東屋夕観所で、少し込み入った話の時は私設公民館煙会所で、それぞれ使い分けながら気分や客筋によって対応しています。来客の殆んどは東屋夕観所も私設公民館煙会所も大満足で、とりわけ私設公民館煙会所は名前の不思議もあって、狭いながらも囲炉裏を囲むシチュエーションに大いに満足し、話も弾むのです。

 昨日は午前中2組、午後2組の来客があって、それぞれ4組とも私設公民館煙会所へ案内し色々な話をしました。午前中国立大洲青少年交流の家の所長さん以下3人の方が見えられました。所長さんたちは3月に新任あいさつに、わが家を訪ねて来られているので今回が2度目ですが、煙会所も海の資料館海舟館も初めてとあって、そこここを案内しお話に花を咲かせました。
 相次いで愛媛県建築士会の本田会長さんが一人で見えられました。公益法人に移行するのを機に地域貢献活動に少し軸足を置くらしく、地域貢献活動の基金を使って助成団体を募集する審査委員への就任依頼のようでした。本田さんには建築設計の仕事をしている長男息子が何かとお世話になっているため、「私で良かったら」と浅学菲才も顧みず快くお引き受けすることにしました。

東京からやって来た中森まどかさん

 午後は学校関係者が講演の打ち合わせに3人で来られ、夕方には双海地域事務所の松本さんが、昨夕開催されたコミュニティビジネス講演会の中森まどか講師と、中小企業基盤整備機構四国本部の方を伴って見えられ、8月に行なう予定の地域ビジネス人財育成プロジェクトの研修打ち合わせを行ないました。
 来客の都度息子嫁にお茶を入れてもらい、煙会所まで運んでもらいますが、無粋な私の接客よりお茶を差し出す息子嫁の笑顔が好印象を与えたようです。このところ煙会所がにわかに復活したような感じです。このところ人間牧場にすっかりその役割を奪われ、忘れられていましたが、煙会所の存在も捨て難く、これからも大いに活用したいものだと思いました。

 青年の船で建国200年のアメリカへ行き、帰国後青年の育成を目的に手作りで造った煙会所ですが、これまで時には外国人まで多くの人を招き入れて、私の存在を大いに高めた煙会所は、全国の若者に支持されて全国に煙会所の分家が、北海道から鹿児島奄美大島まで17ヶ所も出来る等、それなりの成果を収めてきました。特に夕日による双海町のまちづくりは、ここから起こったといっても決して過言でないほど、多くの町民が集まり、大いに議論をした結果の今日だと思うと、感慨深いものがあるのです。
 人は人の元に集まりますが、その集まる拠点はいつの時代も必要であり、煙会所と人間牧場は私のバックボーンなのです。一度そこら辺のことを記録に留めたいと思いながら接客している今日この頃です。

  「煙会所 設置してから 四十年 役割果たし 再び日の目」

  「煙会所 囲炉裏を囲む 話には どこか懐かし ふるさとの味」

  「近々に 囲炉裏火を入れ 煙出し 存在感を 高めなければ」

  「人と人 結ぶ拠点が 煙会所 多くの智恵が ここから生まれ」

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人間牧場

○列車が町内で脱線事故

上空を旋回する取材ヘリ

 昨日縁戚筋の人が亡くなったことを新聞で知り、喪服を着て葬儀に参列するため昼前自宅を出ました。郵便局や地域事務所で所用を済ませ、地域事務所の外に出ると、大きなパラボラアンテナを積んだ放送車が駐車場の隅に留まっていました。間もなく何やら爆音のような大きな音がするので上空を見上げると、ヘリコブターが低空飛行をしていました。とっさにそれが今朝有線放送で「JR予讃線の土砂崩壊による列車不通の取材」と思いました。小さな田舎町へこんな大掛かりな取材ヘリが来ることは滅多にないので、近所の人も外に出て空を見上げて大きな口を開けていました。

脱線の模様を伝えるNHKテレビ夕方ニュース

 地域事務所で聞けば、土砂崩壊による列車の脱線事故のようで、その場所が天一稲荷神社の裏山で直ぐ目と鼻の先であることに大いに驚きました。手持ちのデジカメで歴史の証人とばかりに取材ヘリを撮影しましたが、脱線事故の現場に行く時間も暇もなかったので、気にしながらその場をやり過ごしました。何年か前城の下の裏山が崩れ、1年間の長きに渡って防災工事が行われ全国ニュースとして流れた経緯もある場所に近い、魔の地すべり急斜面なのです。
 葬儀やその後出席した松山工業高校の学校評議委員会から夕方帰り、自宅テレビで夕方のニュースを見ていると、昨日の朝上空からヘリで撮影したであろう映像とともに、列車脱線の現場の様子が詳しく紹介されていました。

土砂崩壊の現場
2012年6月26日の愛媛新聞朝刊列車事故記事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 今朝はその様子を詳しく知ろうと、毎朝決まったように午前5時前後に来る愛媛新聞朝刊の到着を待ちましたが、今朝に限って5時半になっても届かず、書斎の机の前に座って配達員の単車の音に耳を澄ましているところです。

 そのうち5時32分新聞が配達されました。案の定新聞一面に崖崩落と列車脱線現場の写真が記事とともに出ていました。
 この写真に載っている現場は、私の家の玄関先の庭から見える直線距離にして1キロにも満たない場所なのですから驚きです。
 5面に関連記事が載っていますが、幸いにも乗客がいなかった回送列車だったこと、乗務員や運転書に怪我がなかったことは不幸中の幸いなのです。若しスピードを上げて列車が走っていたら、目と鼻の先に長い鉄橋があるだけに、一大惨事になっていたかもしれないと思うのです。

  「ブンブンと 取材のヘリが 上空を 列車脱線 大きなニュース」

  「人身の 事故でなかって 良かったと 現場遠めに 眺めて思う」

  「天災は 忘れた頃に やって来る 拳拳服膺 胸に刻みて」

  「新聞の 一面記事に 載るほどの 重大事故が 目鼻の先で」

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