人間牧場

○ジョン万次郎の生家を訪ねる(その7)

 ジョン万次郎は今から185年前の1827年(文政10年)、土佐の足摺岬のそばにある漁村中ノ浜で、漁師を営む父悦助と、母しおの間に次男として生まれました。誕生日の記録は残っていませんが、万次郎本人が1月1日生まれだと語っているので、それを信じるしかないのです。家は両親と兄妹の7人家族でした。しかし悦助の漁業収入は少なく、赤貧洗うが如き暮らしだったようです。家族は畑を借りて耕作したり、近くの村で野良仕事を手伝う等して生計を立てていました。

 万次郎が8歳の時父悦助が亡くなりましたが、幼くして父を亡くすと、病弱な兄に代わって万次郎は一家を支える稼ぎ手となり、薪割りや漁船に乗ることもあったようです。記録によると少年の頃は活発で騒がしく、親も手こずるほど悪戯者でしたが、次第に銭の取れる漁師になることを夢見ていたようです。
 生まれた中ノ浜から14歳の万次郎が30里(114キロ)も離れた宇佐の港から何故初漁に出たのか、疑問の残るところです。一説によると中ノ浜の古老の家で米つきの仕事をしていたのですが、作業がはかどるように石臼に砂利を入れたのを主人に厳しく咎められ、叱られた万次郎は隣村の大浜浦まで逃げ、たまたまそこに着船していた宇佐浦の漁船に頼み込み、乗せてもらったようです。このささいなきっかけがその後の10年以上に及ぶ万次郎の長い旅の始まりとなったのですから、世の中は何が起きるか分からないものです。

太平洋を見下ろす丘の上に立つ記念碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

立派に造られた万次郎の生家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 万次郎の生家は地元の顕彰会によって見事に復元されていました。戦争中の昭和19年に漁師の家に生まれ、漁村のうらぶれた姿を知っているだけに私の目から見れば、復元した生家は余りにも立派過ぎ、時代考証も考えていないようでしたが、万次郎の後の活躍や万次郎の足跡をたどってやって来る人のことを思えば、顕彰会の時代錯誤も頷ける部分もあるようです。それにしても茅葺の見事な姿には大いに驚きました。出世をすると粗末なダイガラも、水を汲み上げた井戸も、万次郎先生ゆかりのものとなるのですから可笑しな話です。海を見下ろす小高い所に万次郎の記念碑が、帰郷150周年を記念して市長さんが揮毫した記念碑が、また波返しのコンクリート壁にはジョン万次郎の生涯が漫画チックに、それぞれ設置されていました。周辺の店の看板にも「ジョン万次郎の名前を使い、コバンザメ商法を営んでいるようでした。

 愛南町山出温泉で始まった第1回ジョン万塾は、中ノ浜の万次郎生家見学で一応終え、講義や道案内をしてもらった青野さんにお礼を言って現地解散となりました。これだけ微細にジョン万次郎について詳しく学べば、次からの学習会は大いに深まるものと期待しているところです。
 今回の学習会で惜しむらくは、目と鼻の先といえどもかなりの距離がある、足摺岬に建っているジョン万次郎の銅像を見れなかったことです。次の機会もあるだろうと帰郷のため先を急ぎましたが、少しだけ心残りとなってしまいました。

  「万次郎 生家訪ねて 中ノ浜 立派に復元 立派過ぎたる」

  「石臼も 井戸も全てが 万次郎 お店の看板 殆んど記述」

  「偉人だが 持ち上げ過ぎて 歪曲な 歴史認識 改めるべき」

  「物語 ここが原点 万次郎 今も変わらず 海は静かに」

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人間牧場

○ジョン万次郎の足跡を辿るエクスカーション(その5)

 ジョン万塾の勉強会と交流会を終えた私たち年輪塾の一行は、明くる22日山出温泉を午前8時に出発し、宿毛経由でジョン万次郎の足跡を辿るべく土佐清水市へ向かいました。愛南から土佐清水へ向かうには大月を通る海岸周りと山周りがありますが、今回は山周りのルートを走りました。集合場所である道の駅めじかへそれぞれが乗り合わせた車に分乗して走るので、早く到着する人もいれば少し遅れて到着する人もいましたが、何とか迷い子になることもなく全員が揃いました。

大迫力の万次郎少年の像

 青野さんの案内で先ず向かったのは、足摺岬の付け根付近にあるジョン万次郎資料館です。資料館の近く土佐清水市あしずり港公園に万次郎少年像がありました。この像の前に立つのは今回が3度目ですが、いつ見ても素晴らしい他に比類なき立派な像です。この像は遭難し流されて5ヶ月間暮らした鳥島で、捕鯨船ジョン・ホーランド号を発見した時の、助けを求める5人の漁師の姿がとてもリアルに表現されています。鳥島や太平洋の荒波をイメージしたバックのスケールの大きいモニュメントも大迫力で、見るものを圧倒するのです。

モニュメント

 

 

 

 

 

 

 

 

穴から見える「空」という文字
穴から見える「人」という文字
穴から見える「時」という文字

 見落としがちな横の看板に、「冒険とは夢を形にする行動力である」という言葉が書かれていました。この言葉は望郷の念に駆られゴールドラッシュに沸き返るアメリカで砂金をすくい、600ドルを稼いで帰国準備のためにボート「アドベンチャー号(冒険号)」を買い、商船サラボイト号に積んで日本に向かったジョン万次郎の心をよく表している言葉で、私の最も好きな言葉のひとつなのです。岬に模した少年像の直ぐ近くの場所に素敵な別のモニュメントが建っていました。3つの穴を覗くと「空」「時」「人」という文字が見えました。穴の開いていない穴からは何も見えず、多分「無」という文字が隠されているのではないかと想像しながらみんなで覗き込みました。

ジョン万次郎資料館

 

 

 

 

 

 

 

 

万次郎のドラマはこのかつお船で始まった

 記念館では企画展が行なわれていましたが、船の模型が沢山集められていたものの、ジョン万次郎たち五人が乗って漁に出て遭難したかつお船や、鳥島で救助された捕鯨船ジョン・ホーランド号、海を渡った咸臨丸、日本に帰るために購入したアドベンチャー号など以外は目新しい発見はありませんでした。ジョン万次郎直筆の英語の表記掛け軸(複製)以外はジョン万次郎自身の書なども見当たりませんでした。皆さんはショップで本を買ったり、カツオバーガーを買ったりしていました。それでも前日の青野さんの話を思い出しながらジョン万次郎の足跡をしっかりと辿ることができたようです。

  「オプショナル ツアーでジョン万 足跡を 辿り辿りて 足摺岬」

  「看板に 書かれた言葉 反芻す 行動なくば 風も起こらぬ」

  「船でしか 外国行けぬ 時代経て 今は空路 何処へも行ける」

  「物言わぬ 万次郎像が 言っている しっかり生きろ 遅くはないと」    

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○ジョン万次郎塾(その3)

 「ジョン万次郎の研究家青野博さんの話で塾はいよいよスタートしました。「ジョン万の生き方に学ぶ」と題した講演のため、青野さんはスライドショーと一枚のレジメを用意してくれる熱の入れようでした。レジメに書かれた次の13項目に沿って話をしていただき、随分分かり易く聞くことができました。

講演する青野博さん

 

講演に聞き入る塾生たち

 ①群像 五人の仲間
  万次郎と船頭筆之丞、その弟重助、五右エ門、そして寅右衛門の五人の乗組員がいたが、万次郎以外の
  四人のその後の消息も興味がある。      

 ②運命の船出 宇佐浦西浜
   万次郎14歳、宇佐浦(現在の土佐市宇佐町)から天保12年(1841)1月5日午前10時、長
  7.6mのかつお船で初漁に出港、運命の第一歩が始まる。  

 ③漂流 鳥島
  7日から13日遭難の航海、酷寒の海での過酷な生活、江戸から南600キロの伊豆諸島最南端鳥島漂
  着、飲み水もない5ヶ月間の暮らし、アホウドリを食料に生き延びた。  

 ④ハワイへ
  水平線に現れた救いの船はアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助される。寄港したハワイで5
  人の運命が分かれる。

 ⑤鎖国時代
  日本は鎖国政策、アメリカは自由の国といえど身分差別の厳しい国。

 ⑥万次郎ひとりフェアヘーブンへ
  ホイットフィールド船長との出会いが新たな運命を生む。フェアヘーブンへ。

 ⑦ハワイに残った四人
  現地で結婚した寅右エ門

 ⑧ゴールドラッシュ
  アメリカ西海岸へ砂金を探しに出かけ600ドルの資金を貯めて上陸用ボートを購入、帰国準備、筆
  之丞、五右衛門賛同、捕鯨船サラボイド号にアドベンチャー号を積み込む。  

 ⑨三人の帰国 沖縄へ上陸
  沖縄摩布仁に上陸、奇しくも太平洋戦争沖縄戦でアメリカ軍が上陸したのもこの地であった。取調べ。
  ペリー率いるアメリカ艦隊4隻浦賀来航。万次郎の活躍が始まる。 

 ⑩宇佐での別れ

 ⑪その後の万次郎
  43歳で病気のため第一線から退き隠居に近い生活。71歳で波乱に富んだ人生を終える。

 ⑫150年を経て
  現在のジョン万次郎を機軸にした地域づくり。

 ⑬日米の交流
  ジョン万次郎を縁にした日米交流、青野さんの活動や活躍。

  「ジョン万の 年表順を なぞらえて 興味津々 話聞き入る」

  「二回目は あれもこれもと メモ記入 聞きたいことが 山ほどありて」

  「運命は 人の出会いと 前向きに 生きる姿で 切り開かれる」

  「こうまでも ドラマチックに 生きれるか 自分と重ね 愚かさ嘆く」

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人間牧場

○第1回ジョン・万次郎塾(その1)

 旅する巨人といわれた民俗学者宮本常一に続いて、600ものまちや村を冷害や風水害から救った復興の祖といわれる二宮尊徳をテーマに、それぞれ2年間学習してきた私塾年輪塾は、今年から2年間、江戸末期から明治初期にかけて数奇な運命を辿った、ジョン・万次郎をテーマに学習することになり、その第1回目の学集会が、少し遠隔の地である愛南町山出憩いの里温泉で昨日と今日、28人が参加して開催されました。
 愛南町を選んだ理由は、ジョン万塾の世話をしてくれたのが高知県四万十市の和田修三さん、愛南町の上田来喜さん、脇田弘樹さんだったことと、ジョン・万次郎の出身地が高知県土佐清水市中浜で、明くる日のエクスカーションに都合が良かったこと、また講師のジョン・万次郎研究家青野博さんが高知県土佐市の人だったことなどなど、諸々の条件が重なったからでした。

 3人は今回のプログラムを組み立てるに当たり、会場選定から当日の運営までかなり頻繁に、しかも綿密に連絡を取り合い打ち合わせをしてくれました。また3人の収集したかなり大量の資料は脇田さんを通じて年輪塾ネットで塾生に配信され、私のようなものでも、津本陽の「椿と花水木」(万次郎の生涯上・下)、井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記等の課題図書をアマゾンで取り寄せ、また脇田さんから送られてきた「日本の100人」(No、067ジョン万次郎)などを、年表を頭に描きながらかなり詳しく読んで事前学習して望みました。
 昨日は久しぶりの好天に恵まれ、前日打ち合わせていた通り、松本小番頭さんが自慢のプリウスに乗って、朝8時10分前にわが家へ迎えに来てくれました。8時に浜田さんと待ち合わせ、3人で双海町を予定通り出発しました。双海~長浜~大洲と肱川沿いを走り、大洲から高速に乗って西予、宇和島を素通りして津島やすらぎの里付近まで、楽しい雑談をしながら進みました。そこから先は地道国道56号を南レクまで走り、農面道路を経て休むこともなく一気に会場となる山出温泉に到着しました。時計を見ると10時40分過ぎでした。幾ら便利になったとはいえ、幾らプリウスだといえ、あまりの早さに一応が驚きを隠せませんでした。

 

お城の形をした山出温泉

 そのうちメンバーが一人二人と到着し、4月14日大洲市田処大杉年輪塾以来の旧交を温めました。準備の都合もあるので、少し早めの11時過ぎから、何故か?バイキング990円(おつり10円)の食事をしました。田舎だからと侮っていましたが、どうしてどうして、美味しいご馳走がこれでもかというほど並び、欲どしい私たちはこれでもかというほどお代わりを重ね、すっかり食べ過ぎてしまいました。
 この日の塾には新顔も何人か顔を見せていて、特に脇田さんの手助けのために愛南町役場の若手が4人も参加してくれ、受付や会場準備といったコマゴマをやってくれ、大助かりでした。
 講師の青野さんは四万十市の職員である和田修三さんの無二の親友だと聞いていました。また青野さんは土佐市の職員を長年していて早期退職し、現在は病院の事務長やたかおか薬局の社長さんをしているそうですが、生まれは愛媛県松山市だったり、お父さんが国鉄に勤めていたころ、下灘駅に勤務した経験があるという、意外にも耳寄りな話を聞き親密感を覚えました。
 青野さんはジョン万次郎の研究家と名乗るだけあって、かなりな博学でその研究のために海外へも何度か足を運び、関わる人と親密な交友も続けているのです。いやあ凄い人だと思いました。年輪塾では今年末に第2回目の学集会を人間牧場で、来春高知県四万十市で第3回学習を行い、来年末には大掛かりな公開セミナーを開く予定です。後3回の学集会にも指導をしてもらうよう依頼し、快諾を得ることが出来ました。

  「楽しみに していたジョン万 学習会 ついに始まり 進化を期待」

  「ジョン万の 研究私財 投げ打って 面白き人 世にはいるもの」

  「遠い町 すっかり近く なり便利 噓じゃないかと 時計確認」

  「私には ジョン万次郎 夢の人 聞けば聞くほど もっと知りたい」

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人間牧場

○一日あれこれ

 昨日は前日に引き続き今度は家庭菜園横畦畔の草刈りをしました。草刈というよりは下刈りという方が正しいのかも知れません。何せこの2~3年草刈機で手の届きうる場所までしか草を刈らず、その上は伸び放題になっていたのです。親父はそのことが気になって、畑に竹や木々が覆いかぶさるように見えるのが、何とも見苦しいと私に再三注意をしていたのです。私も気になっていましたが昨日は前日使った草刈機を倉庫に仮置きしたままになっていたので、これ幸いとばかりに始めました。

 先ず畦畔に脚立を梯子替わりにして上り、草刈機のエンジンをかけて竹、木、雑草を手当たり次第刈り払いして行くのですが、これが中々の重労働で、チップソーという優れものの刃をつけた草刈機でも切ることが難しく、時には草刈機のエンジンを止めて鎌と鋸で切ったりしながら進みました。
 私の作業を見かねた親父も落ちてきた竹、木、雑草を近くの自家焼却場付近まで運ぶのですが、これがまた相当な量で、瞬く間に山のようになりました。こうして野積みしたものを何日か乾燥し、燃え易くなったら、少しずつ親父が朝晩償却処分をしてくれるのです。

 親父は最近足腰が弱って、杖がなければ歩くのもおぼつかなくなっていますが、これらの片付けは私以上の能力を発揮して手伝ってくれ、大いに助かりました。途中濡れるほどの雨が少し降り出し、止めようかとも思いましたが、手ついでにと昼を知らせるチャイムサイレンが鳴ってからもしばらく、二人で大汗をかきやっと一通りの下刈りと片づけを終えることが出来ました。
 汗を流すためシャワーを浴び、さっぱりして妻と二人で昼食を食べましたが、労働は食欲が増すのか、腹が減っていたこともあって、不通より少し余分に食べたような満腹感で、食後の午睡を少しの時間貪りました。

人間牧場の眼下に浮かぶ思い出の島由利島

 午後になって今日と明日愛南町と高知県土佐清水市で開く年輪塾で、落伍をしなければならないため、落伍の七つ道具と思われるめくり、拍子木、出囃子CD、半纏、ネタ本夕日徒然草・空の書、扇子などを取りに人間牧場へ行きました。雨上がりの人間牧場から見える瀬戸内海はまるで墨絵を見ているような素敵な、いつ見ても見飽きぬ眺望でした。特に昨日は沖合いに浮かぶ20年余りも通った由利島の姿がくっきり見えて、思わずデジカメに納めました。この島は毎年夏になると子どもたちと一緒に今やれる青春をテーマに、「無人島に挑む少年のつどい」を開催した場所なので、この時期になると懐かしい日々が蘇ってくるのです。

 人間牧場内には仏壇に供えるシキビと、神棚に供えるサカキがあります。息子嫁に頼まれていたシキビとヒサカキを剪定鋏で収穫しました。シキビもヒサカキも新芽が充実して、幾分枯れにくくなりましたが、それでも夏の暑い時期なのでせいぜい1週間が限度といったところです。仏様も神様も日々の充実した暮らしに満足して生きる感謝の意味を込めて、妻と息子嫁が大切にお祀りしてくれています。朝晩お茶やご飯を供えて手を合わせたり手を打ったりして、感謝の意を表するのですが、これだけでも随分心が洗われるような気がするのです。昨日は私生活的にはとても充実した、仕事のはかどった一日でした。

  「年老いた 親父手助け 雑草を 片付け作業 随分助かる」

  「雨上がり 沖合い浮かぶ 由利島に 思いを馳せる 思い出数々」

  「ヒサカキと シキビを切って 持ち帰る 神仏供え 幸せ感謝」

  「大汗を かいて冷たい お茶を飲む 熱中症には ならぬとばかり」

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人間牧場

○人間牧場に雷が落ちる

 人間牧場は標高130メートルの高台にあって、瀬戸内海・伊予灘を眼下に見ることができます。逆に下から人間牧場の存在を見るには、下灘・豊田漁港の沖防波堤まで行かなければ全容は見えませんが、下灘コミュニティセンターや下灘駅からも山の端にチラリ見え隠れしています。建築当初は薄めの防腐剤を塗っただけの真新しい板張りの外観が眩しく輝いていましたが、築7年を経過するとさすがに古ぼけて、周りの自然に同化してよく目を凝らして見ないと、その存在さえ分からなくなってしまいました。ウッドデッキに防腐剤を塗ったりメンテナンスに心がけていますが、建築の仕事をしてる息子の話によると、そろそろ外壁にも防腐剤を塗りたいそうですが、費用と手間暇がかかるので躊躇しているようです。

人間牧場水平線の家のウッドデッキで虫干し?をする孫たち

 先日の海の日、所用で孫たちを伴って本村の慶徳寺へ出かけた帰り、海岸国道へ降りず池久保に通じる中間道を通って人間牧場へ出かけました。孫たちは人間牧場の苗床で、カブト虫を見つけたくて、虫篭まで用意して出かけましたが、残念ながらこの日は苗床の上に張った防虫網が破られて、一匹も捕まえることは出来ず、孫たちを大いに落胆させました。
 それでも孫たち3人はウッドデッキに寝転んだり二階のロフトへよじ登ったりしながら楽しそうに遊んでいました。そのうち孫たち3人が「喉が渇いた」と冷蔵庫を開けました。すると冷えているはずのお茶やジュース類がまったく冷えていないのです。可笑しいと思って冷蔵庫の中を覗き込むとスイッチが入っていないことに気がつきました。

 一瞬「冷蔵庫が壊れたのかも」と疑いましたが、部屋のスイッチを入れても電灯さえ全て点かないのです。急いで部屋の壁に備え付けている配電盤の蓋を開けてスイッチ類を入れたり切ったりしましたが、これまたウンともスンとも言わないのです。困り果てて息子に電話し、電気工事をしてくれた親類従兄弟の若松電設に連絡を取ってもらいましたが、これは電力会社へ連絡した方がいいという話になりました。
 祭日だったこともあって、連絡に時間がかかり、午後4時に四国電気工事の人が修理にやって来ると言うので一旦山を下り、息子家族と午後2時ころ再び人間牧場へ出かけ、息子嫁が冷蔵庫の中身を全て外へ出し大掃除をしてくれました。

まるで啄木鳥のように電柱に登って作業する四国電気工事の作業員

 孫たちが少しぐずるので息子は家族を乗せて下り、私一人が留守番をしていました。背もたれ椅子に座って本を読みながら、明くる日に迫った伊予市いっぷく亭での「笑いの力」という講演の構想を練りました。そのうち息子も、四国電気工事の担当者2人もやって来て、テスターで原因を調べ始めました。まず電源元のメーター、続いて引込み線の電柱と感電防止の服を着た担当者は調べて回りましたが、異常は見つからず、結局はずっと下のトランスの設置された電柱まで車で向かい、その間2時間近くもかかり、帰ってきたのは午後6時でした。聞けばトランスに雷が落ちヒューズが2本切れていたとのことでした。復旧した通電確認のため、あちらこちらのスイッチを入れ完全に復旧していることを確認した担当者は、水平線の家やロケ風呂を見学して帰って行きました。

 そういえば梅雨明け間近なこの最近、よく雨が降り雷が鳴りました。雷鳴が轟く度に、落雷で黒く焼けただれた人間牧場の直ぐ横にある、樹齢200年のヤマモモの木を思い出すのです。ヤマモモの木は落雷の洗礼を受けながら、枯れることなく今も生き続けていますが、電柱で良かったと息子と話しました。お陰で息子と水入らずで色々なことを話すことが出来ました。

  「冷蔵庫 開けてビックリ 冷えてない 喉の渇いた 孫たち残念」

  「原因は 落雷二つ ヒューズ切れ 原因分かり ホッと一息」

  「電柱に 登った姿 啄木鳥に 思わず似てる カメラでパチリ」

  「雷に 悪戯されて 電気消え 冷やしたものは 全て処分す」 

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人間牧場

○仁淀川流域を訪ねる(その1)

 私がよく招かれて出かける高知県は、よく雨が降るせいか大きな川の多い県です。その中でも特に最後の清流といわれる四万十川、つい最近その美しさが脚光を浴びている仁淀川、上流域に私の人間牧場に鎮座している150年生魚梁瀬杉の切り株があるであろう安田川などなど、分け入る度に大河の魅力とでもいうのでしょうか、変わらぬ原風景が懐かしい気持ちにさせてくれたり、一種のパワーを与えてくれるのです。
 昨日は仁淀川の上流域である久万高原町を通って、中流域の仁淀川町へ講演に出かけました。梅雨が明け山の端の向うに青空や入道雲が見え隠れする三坂路は、峠の九十九折の道の下に最近三千メートル級の長いトンネルが貫通し、10分近くも短縮したという話を聞いていましたが、通るのは初めてとあって楽しみにしていました。三坂路の途中から右に折れた道は高規格な道路で、まるで高速道路のような感じがしましたが、三坂馬子唄や笠地蔵の民話でお馴染みだった峠道を通らない寂しさも少しだけ感じました。

 産業廃棄物の処理場問題で揺れ、一応の終息を見た久万の町を抜けると道沿いの川は次第に大きくなり、川面に映える旧美川村の軍艦岩の変わらぬ風景に出会いました。柳谷村の中心は合併してから少し活気がなく、かつて訪ねた公民館や公民館前の宮岡ストアーのお姉さんの顔を懐かしく思い出しました。愛媛県側最後のトイレ休憩の場所であるヒメシャラでトイレを済ませましたが、私の持っているインディアンカヌーを柳谷の連中に一年間貸していたのもこの場所でした。
 県境近くに中野ガソリンスタンドがありますが、青年団活動をしていた顔見知りのご主人は、前回の補欠選挙で町会議員に当選し、今はバッチをつけていますが、今年の春の成人式に講演に出かけた折久しぶりに出会いました。いつもは滅多に客の来ないガソリンスタンドなのでガソリンを入れるのですが、今回は先を急ぐ旅だったので、横目で見ながら通り過ぎました。

大渡の大つり橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大渡ダムの内側
大渡ダムの外側

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発電ダムを過ぎて高知県に入ると仁淀川と名前を変え、渓の深さは一段と深くなり、はるか下に川面を見ながら走るのですが、そこここに立派な橋が架かっていて、茶畑や空と形容される山の彼方に人家を見ながら走りました。大渡橋や大渡ダムはいつ来て見ても魅力があり、時計を見ながら回り道をして橋を渡り、ダムを見に立ち寄りました。橋やダムは人間の造った文明ですが、この文明によってどれほどの人の日々の暮らしが便利になったことでしょう。
 中津渓谷の入口付近に今回の講演会の会場となるゆの森があります。ここのレストランで何年か前玉井恭介さんと二人で講演に来たことがあるし、何度か中津渓谷は紅葉のころに訪ねたことがあるのです。ゆの森の施設に入ると、フロントで顔見知りの二人の女性職員が笑顔で迎えてくれました。講演会は午後2時からなのでそれまでにお風呂に入り、食事をするよう勧められ、真昼間だというのにお風呂を楽しみました。4~5人の地元の入浴客がいましたが、その人たちと「何処から来たの?」「何しに来たの」などと言葉を交わしながら、癒された時を過ごしました。レストランでは湯上りに冷たくて美味しい水を飲み、入浴客が教えてくれた千円のゆの森弁当を食べましたが、美味しくいただきました。

  「久方に 仁淀の川沿い 訪ね来る 懐かしきかな 癒され走る」

  「ダムに橋 寄り道しつつ デジカメで 記憶に残す ためにシャッター」

  「いらっしゃい ゆの森ホテル 女性たち 笑顔迎えて くれる幸せ」

  「講演に 来たのに風呂に 入るとは これも一つの 楽しみ思い」

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人間牧場

○慶徳寺を訪ねる

 人間牧場での活動テーマを漢字の一字に例えると、どうなるのだろうと考えてみました。私が人間牧場を造りたいと思うようになったのは49歳の時でした。その理由を何年か前に書いた原稿に次のようなことを書いているのです。
 「『人間牧場を造りたい』。こんな夢を描いたのには大きく分けて3つの理由がある。ひとつは20年間に及ぶ無人島キャンプの非日常ボランティア活動で味わった、感動を体験する場が身近に欲しかったこと。二つ目は10年で40回開催し開講したフロンティア塾のような自立人間の育成を目指す、常設の修養場が欲しかったこと、三つ目は過疎や高齢化、第一次産業の不振といった様々な負の要因で里山が荒れ続け、このままでは日本の田舎が駄目になるという危機感から、再び村おこし運動を起こそうと決意したからである」

 また別の「人間牧場構想アラカルト」というレジメに、「人間牧場三つのキーワード」として次の三つを列記しているのです。
 ①自分と生きる(人生の仕上げをどう生きるか)
 ②家族と生きる(最も小さな結びとどう生きるか)
 ③地域と生きる(社会へどうお返しをしながら生きるか)
 40代で構想し、50代で構想を具体的計画にするためその裏打ちとなる資金蓄積を行い、60代で施設整備を行ないながら活動をしてきましたが、前述した三つの理由と三つのキーワードは、今も忘れることなく心に刻み込んでいるのです。

 このことから引用して思い出す漢字はどうやら「恩」ではないかと、最近思うようになりました。そこで「恩」を具現化するため、近所に住む慶徳寺というお寺の山口和尚さんに、奥さんを通じて一筆書いて欲しいと頼みました。和尚さんは快く承諾して、文字のデザインを小さな紙に書いて3案送ってくれました。その中から私のイメージする漢字を一字選び、長男息子の名前が一心、孫の名前が希心、奏心なので、心という文字を余り崩さないようにと、知ったかぶりの注文をつけて書いてもらったのです。

お寺の本堂で神妙な面持ちの孫三人
本堂前で和尚さんと記念撮影
慶徳寺の山門で

 先日その書が書き上がったと奥さんを通じて私の元に届けられました。紙代も手間賃も、ましてや文化的お値打ち代もあるだろうと相談しましたが、結局は「差し上げます」となったのです。そこで先日の海の日に孫を伴って、仏前にお供えする粗末なものを持って、慶徳寺を訪ねました。ご夫妻揃って温かく迎えていただきました。書いてもらった書は結局和尚さんに預け、伝を頼って表装をお願いすることにしたのです。
 尚樹を含めた孫たち3人は始めて来たお寺の本堂で奥さんからジュースを貰ったり、和尚さんとお話したりして有意義なひと時を過ごしました。出来上がるであろう掲額は果てさて何処に飾ろうか、これから追々考えてみたいと思っています。

 

 

 

 

 

  「孫連れて お寺に出かけ 説教を 聞かすつもりが 接待受けて」

  「恩という 漢字一字を 書く依頼 送られて来た 見事な書体」

  「これからは 恩の一字に あやかりて 余命を生きる 決意も新た」

  「また一つ わが宝物 手に入れる この字に恥じぬ 生き方せねば」  

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人間牧場

○花火はいつ見ても綺麗だ

 成人式も海の日も、国民の祝日の変更によって「いつだったったっけ?」と、首を傾げたくなってしまい、祝日の意味が多少薄らいだ感じがしています。今年の海の日は7月16日でした。周囲を海に囲まれ海の恩恵に浴して生きている私たち国民が海の存在に気づき、海に感謝することは当然ですが、合併してもなお「双海」という地名のついた地域に住んでいるのですから、余計海へのこだわりを持っていなければならないのです。そんなこともあって役場に在職していた頃は、何かにつけて海を意識して生きてきました。
 海に沈む夕日も、海に一番近い下灘駅のプラットホームでのコンサートも、またウォーターフロントの双海シーサイド公園も全てテーマは海でした。夏祭りというイベントにいたっては、魚のつかみ取りや漁船パレード等まさに海一色の特色ある催しで双海を大いにPRしてきたのです。

恋人岬の特設ステージで行なわれたコンサート

 今年も数日前新聞折込に「双海の夏祭り」のチラシが入っていて、その存在に気がつきましたが、世の中のイベントが「見る」から「参加する」に変化しているというのに、わが町の夏祭りはどちらかというと「参加する」から「見る」「聞く」といった方向になりつつあることに気がつきました。合併したのでこれも仕方がないと思えば思えるのですが、双海らしさという面では多少物足りなさを感じずにはいられませんでした。それでも多くの人の努力があるのですから、感謝しなければならないと思い、孫や家族を連れたりして折に触れて参加を試みました。
 今年は二年に一度になった花火が上がので、夕方夕涼みがてら家族や親類と相談して花火の見学に出かけました。食事の都合で少し遅くなったため、孫たちはひと足早く出かけたのですが、後から出かけた私たち夫婦はみんなとはぐれてしまい、夫婦だけの静かな見学となりました。

 恋人岬の特設舞台では歌手のしびれるような歌声が響き渡り、階段式護岸を埋めた観客から盛んな拍手が送られました。やがて司会者の合図で「10・9・8・7・・・・・・・・・3・2・1」とカウントダウンされ、一斉に花火が上がり始めました。いつもの事ながら双海の花火はすり鉢の上から中を見ているようなシチュエーションなので、どこの花火大会よりも場所的には恵まれていて、夜空と海が一体となって映えるのです。
 実に美しい花火で、横に座った妻と二人で夜空を口を開けて仰ぎ、「うわー綺麗」と何度も感嘆の声を上げながら見学しました。夏の夜の花火を見るにつけ、「これぞ日本の夏」と思うのです。花火を見ていると音と光に何かパワーを貰ったような気がするのです。
 この日は通称「やまぜ」と言われる夏特有の南西の風が強く吹き、花火が風下に流されましたが、その分花火の硝煙雲もなくより鮮明だったようでした。夫婦だけで特等席のような場所で見た花火は、今も心の中と持参したデジカメの中に、余韻となって残っています。

  「夏祭り 肩を寄り添い 夫婦だけ 特等席と 思う場所にて」

  「花火には 何処か不思議な パワーあり 元気いただき 夏を乗り切る」

  「口開けて 上がる花火を 『わー綺麗』 何度も言いつ 音も楽しむ」

  「日本の 夏は花火に 蚊取りだと 線香会社 テレビで宣伝」

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人間牧場

○梅雨明け間近な暑い連休の一日

 九州地方の熊本、福岡、佐賀、大分などでは、降り始めからの雨量が500ミリを超える信じられないほど降って、各地で土砂崩れや堤防決壊が相次ぎ、一時は25万人以上に避難指示や避難勧告が出されました。死者や行方不明者を合わせると30人にものぼり、今年は最悪の悲しい夏となってしまいました。
 昨日は梅雨明けを思わせる真夏の太陽が照りつけ、雨から一転して各地で35度を越す猛暑日となって、これまた各地で熱中症や水の事故が相次いだようで、雨が降れば雨の被害、晴れれば暑さの被害と、人間の弱さを露呈しているのです。

 天候不順は様々な場所に影響が出ています。屋外のイベントは軒並み中止や延期に追い込まれ、雨が三粒降ったら漁に出ないというわが町の漁師さんは、もう長い間操業ができずモヤモヤとしているようです。
 昨日は毎年海の日に開いている双海の夏祭りが行なわれました。平成の大合併から8年目を迎えて、イベント事情もすっかり様変わりして、予算の都合なのか下灘と上灘が一年交代の開催となってしまいました。しかもこのイベントも「双海ならでは」を感じさせにくい企画になって、これも時代の流れと多少思ったりするのです。それでも少しで地域をも盛り上げようと、色々なグループや団体が出店してマルシェを開いていました。

シーサイド公園のビーチ

 昨日は小学校4年生になる孫朋樹が泊まりに来ていて、泳ぎたいと言うのでシーサイド公園のビーチまで連れて行ってやりました。単車の後に乗せて地域事務所裏の駐車場まで行き、そこから海まで歩きましたが、ビーチには涼を求める海水浴客が沢山来ていて、大賑わいでした。朋樹はゴーグルと足ヒレを着け、足の届く渚付近を行ったり来たりしながら1時間近くも泳いでいました。私はその監視役として堤防の上から、泳ぐ姿を確認しながら時を過ごしましたが、麦藁帽子とバスタオルで日除けをしたものの、一番暑い午後2時からの時間帯だったため大汗をかきました。

海水浴を楽しむ孫朋樹

 昨日は弟家族5人や娘家族4人、息子家族4人、私たち夫婦2人の計15人が、中庭で炭火を起こした本格的なバーベキューをやりました。午前中私と妻が伊予市内まで買出しに出かけ、娘・息子嫁・弟息子嫁たち女性群が料理を作ってくれました。6人の子どもたちは大いに喜んではしゃぎ回り、私たちも久しぶりに楽しい野外パーティーで、ご馳走を沢山食べました。酒も呑まず肉を余り食べない私は、もっぱら野菜や魚中心でしたが、西日の当らない中庭は心地よい風が少し強めに吹いてとても爽やかでした。

バーベキュー

 私より7つ年下の弟も、先月で仕事を定年退職しました。若い頃奥さんに先立たれたものの娘も嫁ぎ、息子と同居をして穏やかな暮らしをしているようで、何はともあれホッとしています。梅雨明け間近です。今年も暑い夏がやって来ました。元気にこの暑さを乗り切りたいものです。

 

 

 

 

 

  「大雨が 一転昨日 猛暑日に いやはや暑い 冬が恋しい」

  「久方に みんなが揃い バーベキュー 子ども喜び キャーキャーはしゃぐ」

  「アルコール ゼロと書いてる ビール飲む 大酒飲んだ 昔懐かし」

  「孫連れて 海水浴を 監視する 汗タラタラと まるでサウナだ」

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