人間牧場

○第6回松山五行歌作品展に来ませんか!

 「胸の思いやつぶやきを、五行の言葉で詠んでみました。お暑いなか、またご多忙とは存じますが、ご来場の上、ご感想等賜りますようお願い申し上げます。」という優しいリード文を添えた一枚のハガキが先月、見山あつこさんから届きました。前後して私を松山五行歌会に誘ってくれた玉井恭介さんから、一昨年、昨年に続いて続いて「作品展に出品する歌を二首送るように指示がありました。玉井さんは松山五行歌の中心メンバーなので、作本店に出品する作品のイメージを膨らませて、イラストをや手描き文字で化粧額装してくれるのです。早速思いつくまま急いで二首作り、玉井さんのメールアドレスに送りました。

 私は松山五行歌会に入っているとはいいながら、幽霊会員のようなもので、歌会には忙しいことを理由にまだ一度も出たことがなく、ましてや欠席歌の提出も締め切りギリギリで、時々見山あつこさんから「締め切り間近です。忘れちゃいませんか」などと督促をしてもらう厄介極まりない会員なのです。それでも見山あつこさんから優しいお導きをいただき、何とかこの4~5年五行歌を送り続けているのです。
 私の歌は皆さんの歌と違ってどちらかというと川柳ぽい感じがします。他の人の歌は全てアカデミックで、高島屋7階というビッグな展示会場の一角を怪我すような歌ではないため、最初はお断りをしたのですが、玉井さんから「肩の力を抜いて」と誘われるまま展示の末席を汚しているのです。

高島屋7階の松山五行歌会作品展会場

 

会場案内の見山あつこさんたち

 展示会は8月23日から始まっていて、8月28日までの一週間です。私は県庁で愛媛海区漁業調整委員の辞令交付式があるため松山に出かけたついでの午前中、高島屋の7階に立ち寄りました。会場では見山あつこさんたちが対応していて、挨拶を交わしながら見学をさせてもらいましたが、玉井さんのご好意で私の駄作も綺麗に化粧されて、会場の一角に展示されていました。
 さて、私の今年の作品のテーマは「物忘れ」で次の二首を作りました。

  「今日は何日?何曜日?」
  それさえ忘れ
  わが親父
  毎朝息子の
  俺に聞きに来る

  「久しぶり」
  言われてハテナ?
  誰だっけ
  ホラあの人と
  思うけれども・・・・

 他の人の作品に比べ茶目っ気の多い私の作品を見ながら、少し気恥ずかしくなり見学もそこそこに会場をお暇しましたが、高島屋で何人かの知人や友人に出会いました。「まあお珍しい。こんな所で出会うとは」挨拶を交わした知人や友人に、7階の展示を実に行くように案内した次第です。
 帰ると早速2~3人の方から展示を見た感想がメールで送られてきました。嬉しい反応にも気恥ずかしい気がしました。今日は私たちの家族が見に行くそうです。益々気恥ずかしくなっています。

  「五行歌の 作品展示 高島屋 恥ずかしながら 私も参加」

  「物忘れ テーマ作品 二首作る 友人上手く 綺麗額装」

  「恥ずかしい 今となっては 後祭り 友からメール 『実にいい歌』?」

  「わが作品 五行歌言える ものでなし それもまた良し 満足しつつ」

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人間牧場

○夕焼けビールトロッコ列車に乗る

 2ヶ月前のある日、年輪塾小番頭の松本さんから、「8月23日(ふたみの日)に夕焼けビールトロッコ列車を一両刈りきろうと思うので、予定を空けておいてください」と連絡が入りました。ビール列車はJR予讃線海岸回りの夏(7月8月)の風物として、ツアーが売り出されると直ぐに完売されるほどの人気で、今ではすっかり定着した企画ですが、23日は平日の木曜日のため、列車を借り切っても果たして55席を埋めることができるか、他人事ながら心配しましたが、今の双海のまちづくりは存分な力が充電されていて、何と満席での運行となりました。

トロッコビール列車のチラシ

 昨日はこのところの天候不順で朝からあいにくの雨でこれまた心配しましたが、夕方になると西の空が明るくなって、爽やかな初秋といった感じのする天気でした。今回のビール列車の始発駅は松山です。私たち一行4人は地域事務所の武智さんに伊予市駅まで送ってもらいました。伊予市駅でトロッコに移った松山乗車組と伊予市乗車組は合流して、早速座席机上に配られたビールで乾杯し、賑やかにスタートしました。向井原を過ぎ三秋峠をゆっくりと越え双海に入ると、高野川辺りから眼下に晩夏の伊予灘の海が開け、心地よい風がトロッコ列車全体を包み込みました。

伊予市駅を出発するトロッコ列車

 2ヶ月前土砂崩壊に列車が乗り上げて脱線不通になった現場を、ノロノロ運転で通るといきなり上灘川に架かる長い鉄橋を通ります。わが家をはじめ懐かしくも感じる家並みを見ながらトンネルを抜けると上灘駅到着です。ここで何人かの人や荷物を乗せ、まるで水墨画を見ているような幻想的な景色を見ながら多いに盛り上がりました。下灘~喜多灘~長浜と進むにつれて呑むほどに酔い、酔うほどに飲んで長浜駅到着です。長浜では40分の休憩時間がありますが、既に辺りは暗く何処行く当てもなくトロッコから一旦降ろされるので、トイレ休憩をしたり雑談をしたりしながら過ごさなければなりません。そこで松本さんや富田さんが考え付いたのは、長浜駅の駅舎待合室を借りてのギター演奏と落伍という小イベントでした。

トロッコ列車の車内

 その矛先は当然私に向いていて、数日前落伍をするように言われていたので、木になるカバンに裂き織の羽織りとハーモニカを忍ばせていたのを取り出し、20分間思いつくままに演じました。酒の勢いとは偉いもので、落伍は予想を超えた大爆笑で多いに盛り上がりました。また私の後には市役所の岡井さんがギターを弾きながら歌い盛り上げてくれました。
 帰りはビールに加えチューハイもあって、呑み直しの二次会が伊予市駅まで延々続いたようでした。私は上灘駅で下車し、トロッコ列車をホームから見送りましたが、これもまた味のある風景でした。

 

車窓からの眺め

 トロッコには顔見知りの人が殆んどで、中予地方局の前神女史の計らい宜しく多くの関係者も同乗して、まちづくりシンポジウム列車といった感じでした。シンポジウムの語源は「酒を飲みながら語り合う」ことですから、これはもうピッタリで、偶然にも戒能県議さんも同乗していて立ち話をしました。また顔見知りの和田由美子ファミリーもいて、参加してよかったという印象でした。
 私がこの線路にトロッコ列車を走らせたいと思ったのはもう20年も前でした。四万十川を走るトロッコ列車を借りてきて試験的に走らせたり、当時のJR四国の社長さんに蒸気機関車を走らせて欲しいとハガキを何枚も書いて実現したりした思い出は数多くあります。その出発となった下灘駅のプラットホームコンサートもいよいよ来週9月1日(土)に迫ってきました。ワクワク・ドキドキ・ジーンがまた再来しそうです。

 

  「予讃線 海岸周りの トロッコに 乗ってビールを 飲みつつ夕景」

  「酒呑まず お茶で乾杯 したけれど 時間が経てば 酔った気分で」

  「二十年 前にトロッコ 走らせた 思えば懐かし あれやこれやが」

  「駅舎にて 落伍演じる 計らいに 赤鬼たちが 口開け笑う」

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人間牧場

○旧野村町を訪ねる

 7年前まで愛媛県内には70市町村がありました。子どものころから70市町村の名前をおぼろげながら覚えていたし、役場に勤めてまちづくりを担当したこともあって、70市町村時代に全ての市町村を訪れているため、合併して20市町になった今でも、消えることのない記憶として旧市町村名を覚えているのです。3年前まで乗っていたトヨタプラッツに搭載していたカーナビソフトは、合併後も旧市町村名のままでしたが、さすがに3年前に買ったトヨタカローラアクシオのカーナビソフトは現代対応されていて、県外に行くとチンプンカンプンといったところです。
 昨日は西予市の旧野村町へ講演に出かけました。朝9時30分からの集会だったので最短ルートの双海~中山~内子~肱川~野村といった旧町を走りましたが、晩夏とはいいながら残暑厳しい中を1時間余りで到着しました。

展望台からの眺望
展望台からの眺望

 会場となっていた乙亥会館横の野村町健康保健センターを確認した後、少し時間的な余裕があったので、野村町に行く度に視野に入っていて、一度は登りたいと思っていた愛宕山の展望台に登ろうと、道順も分からぬまま、狭い登山道を車で走りました。愛宕山の頂上付近は一方通行になっていて、桜の名所らしく見事な古木がうっそうと緑陰を作っていました。
  駐車場に車を止めて朝露で濡れた雑草の中を歩き、鉄でできている三階建ての展望台へ登りました。昨日の朝はまだ誰もこの鉄塔展望台に登っていないのか、通路には幾重にもクモの巣が張ってやたらと顔にくっつき、行く手を阻みましたが、展望のできる三階に上がると心地よい風が吹きぬけて、少し汗ばんだ顔を静かに撫でてくれました。眼下には野村町の市街が一望でき、早くも黄金に色づき始めた田圃が程よく配色され遠望も開けて、目の冷めるような美しさでした。宇和町から野村に入って、野村ダム方面の峠から見る光景は、どこか大分由布院に似ている風情があって、大好きなロケーションですが、この展望台からの眺めもいいものでした。

 再び乙亥会館まで引き返し、20分前にセンター駐車場に車を止めて中に入りました。そのうち会場の和室に予定していた30人余りが集まり、私の講演が始まりました。持ち時間は1時間余りなので「食育と地域づくり」について思いつくままお話をしました。顔見知りの人も多く和気藹々でした。
 野村町といえば思い出すのは乙亥相撲や大野ヶ原モゥーモゥー塾などですが、もう7~8年も前中央公民館で開いた高齢者大学に招かれた折、講演の最中に水戸黄門のテーマソングが、あるおばあちゃんの巾着の中で鳴り始め、思わぬハプニングに会場が騒然となったことを思い出しました。あの時は携帯を持っては来たものの、マナモードにするすべも覚えていないおばあちゃんだったため、結局講演中に私が壇上から降りてその着信音を止めたのでした。幸いなことでしょうかおばあちゃんの携帯電話の機種が、私の機種と同じという笑うに笑えない騒動でした。

 山里田舎の人は人懐っこく、私の持っている木になるカバンのことを覚えてくれていたり、ミツバチの師匠井上登さんと連れだって、人間牧場へ訪ねてきた人がいたり、またこの春市役所を定年退職した黒田達子さんも顔を見せてくれ、嬉しい出会いとなりました。行く先々で出会いを重ねる人たちの、顔を思い浮かべながらこのブログ記事を書いていますが、合併騒動はひとまず終ったものの、中央から外れた地域は何処も右肩下がりの光景が目に付いて仕方がないのです。
 野村町は海のない町ながら、明浜や三瓶と合併したお陰で、海のある街となりました。宇和海という海抜ゼロmから高知県梼原町と境をなす大野ヶ原まで、広い広い土地となりましたが、これからも多いに頑張ってほしいと願い、大相撲巡業来訪の予定を知らせる看板や幟をバックミラーで見ながら、野村町を後にしました。

  「久方に 野村の町を 訪ねけり 高台登り 秋を先取り」

  「そういえば 何年か前 講演で 携帯電話 騒動あった」

  「高台に 登り家並みを 見下ろすと 行く場所辺り 頭に入りて」

  「野村にも 遠く離れた 街だけど 知り人友が たくさんおりて」  

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人間牧場

○大爆笑のクルクル寿司

 息子家族と一つ屋根の下で同居を始めたわが家には、三つの台所があります。一つは今住んでいる家を新築した時から、私たち家族が使ってきた台所です。二つ目は亡くなった祖母が、元気な頃使っていた台所です。三つ目は棟の違う隠居の親父が使っている台所です。それぞれの台所に、それぞれの思い出があるのですが、息子家族が同居をするという話が持ち上がった一昨年の今頃、家族会議が開かれ、大家族の寄り添いとプライバシーについて話し合いました。親父の隠居はそのまま手つかずで使い続けていますが、息子家族4人が二階の4部屋と、私たちが使っていた台所を明け渡してリフォームすること、私たちが使っていない祖母の使っていた台所を、リフォームして使うこと、一階と二階のトイレをリフォームすること、私の書斎を明け渡して台所にすること、私の書斎は使っていない応接間へ移動することなどでした。

 設計は設計事務所に勤める息子が担当し、工事の費用見積もりを事前に出して、オーナーである私たち夫婦の許可を得て工事をすることとして、早速その年の暮れからリフォーム工事に取り掛かりました。家の改造はこんなに金がかかるのかと妻を驚かせるほどで、息子と妻の険悪なバトルも何回かありましたが、まあ何とか折り合いをつけて完成し、昨年の5月に待望の同居生活が始まりました。
以来1年4ヶ月が過ぎましたが、今では家族会議で話し合った以上の成果があって、私たちも息子家族もそれなりに満足した暮らしを営んでいて、嫁と姑の人間関係を気にしていた私としては、ホッと胸を撫で下ろしているところです。

 私の暮らしの中で嫁と孫の存在はとても大きいものがあります。嫁は笑顔よく対応してくれ、孫も私たち夫婦にとっては生きる希望のような存在となり、同居して良かったとしみじみ思っています。
 嫁は息子が設計した、少しデラックス過ぎると思えるライニングルームを自分の城だと思って、色々な料理に挑戦し、毎日のように私たちのところへ、まるでご近所さんのように様々なものを届け、妻も呼応して届けているのです。昨晩は嫁の作った熱々の餃子が皿一杯届き、これが同居の特典とばかりに私たちも美味しくいただきました。

 

自宅のダイニングでクルクル寿司

 2~3日前の土曜日、外出先から息子達が握り寿司を土産に持ち帰りました。私たちもお裾分けをいただきましたが、息子たち家族は自分たちのダイニングで、何とクルクル寿司を始めていました。孫たちがどこかで貰ってきたアンパンマンのおもちゃ回転寿司道具の上にお皿を乗せ、食べたい寿司を乗せてクルクル回しながら楽しんでいました。孫二人は何処で覚えたのか、「いらっしゃい、いらっしゃい、何にいたしましょうか」などと、可愛いエプロンをしてもらって店員さんになったり、お客になったりして遊びながら食べていました。私たち夫婦も招かれてダイニングルームへ行きましたが、もう大爆笑でした。笑顔の家庭はいいものです。孫の鳴き声や笑い声が聞こえるとこちらまで元気になります。

 そんなわが家にも少し変化が見え始めています。同居以来家にいた嫁が、先月から嫁の実家の喫茶店で働き始めたのです。働くといっても午前10時過ぎに家を出て、午後4時には帰ってくる程度の働きですが、それでも嫁にとっては仕事と子育ての両立ですから大変なようです。近所の歯科医院にパートで勤めている今年66歳の妻も、そろそろリタイアしようと相談しています。嫁は家、姑は外だった構図が崩れそうなのです。また今は元気な9月1日で94歳となる親父の健康や、そろそろ本当のリタイアとなるであろうセミリタイアの私も、家にいる時間が長くなります。老域を迎えた3人と、息子家族との有り様も気にしなければならないようです。

  「孫たちと 笑いを誘う ダイニング 寿司をクルクル 回して食べる」

  「同居孫 朝から泣いたり 笑ったり これもパワーと 受け止め暮らす」

  「嫁も外 姑も外 俺も外 孫も息子も みんな外外」

  「留守番は 93歳 親父だけ 間もなく俺たち 仲間になりて」

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○富田香代子さんからの手紙(第3弾)

 「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い 姓は車名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します」とは、ご存知「男はつらいよ」のシリーズ映画に出てくる、渥美清さん演じる寅さんが必ず使う名セリフの啖呵です。「大和の国が富士ならば、一富士二鷹三茄子・・・」などなど、大道商売をする人が客寄せのために語る啖呵は、「江戸っ子、神田の生まれ」と言わんばかりの気風のよさと、小気味よい流暢な節回しで、見る人を夢の世界へ誘い込むのです。
 そんな言葉と寅さんの似顔絵を染め抜いた日本手ぬぐいが、達筆な手紙とともに昨日私の手元に送られてきました。8月8日付け読売新聞「駅前模様・JR予讃線・下灘駅」の記事を読んで数日前、「下灘駅 元双海町役場職員 若松進一」という、いとも面白い私宛宛名で届いた手紙の主富田香代子さんからの手紙に入っていたものです。

富田香代子さんから送られてきた寅さんグッズの日本手ぬぐい

 下灘駅に寅さんがやって来たのは昭和52年(1977年)、当時私は双海町役場で広報を担当していました。寅さんがロケにやって来るという噂話を聞き、カメラを持ってロケ風景を撮りに行きました。ロケをしている山田洋次監督にお願いして寅さんの写真を撮らせてもらいましたが、その時寅さんから返ってきた言葉は、「やあ」が3回だけでした。その逸話は平成23年7月19日発行の、「寅さんDVDマガジン」V0l.14で詳しく紹介されていますが、今回富田香代子さんから送られてきた日本手ぬぐいは、お盆月ということもあって、あの世に逝った寅さんからの贈り物では?と思ったりしました。

私が広報マンの時撮影した下灘駅の寅さん映画の撮影風景

 しかし富田香代子さんの達筆にして筆まめさには驚かされています。しかも内容が濃くて、私が返信した便りに、私が毎日書いているブログのコピーを同封したところ、早速質問が何点か記されていました。
 私はつたないながら五行歌をやっていますが、「五行歌って決まりがあるの?」が第一の質問でした。私も始めてまだ間がないので、詳しいことは分かりませんが、俳句のような季語や季題もなく自由だそうです。五行の短文で表現する自由律詩のようなもので、種田山頭火を連想するといいのかも・・・。私は自分で勝手に「笑売啖呵」という短歌風(5・7・5・7・7)31文字にこだわって、毎日ブログ1本の巻末に4首の笑売短歌を作っていますが、これもある意味五行歌なのです。

 第二の質問は、予讃線沿線の景色と愛の関係についてです。下灘駅も夕日も花も全て「愛」と結びついています。私の持論は「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」です。ゆえにこれまでの30年に及ぶ私のまちづくりの物語は全て「愛」がキーワードのような気がするのです。故に青春18キップのキャンペーンポスターに3度も紹介されたり、下灘駅や夕日や花に人が集まって来るのです。第三は柴又帝釈天と寅さんです。第19作目のマドンナは未亡人を演じる真野響子さんでした。
 たった一つの読売新聞の記事が取り持つ縁とでもいうのでしょうか。富田香代子さんからの便りには、どこか懐かしい私の記憶を見事に蘇らせてくれました。このブログも今日あたりプリントアウトしてお頼りに添えたいと思っています。富田香代子さんは一体どんな素敵な女性なのでしょうか。

  「寅さんを 染めた手ぬぐい 便り添え 送られ嬉し 盆過ぎの夕」

  「手ぬぐいの 寅さん元気 久しぶり 死んでいるゆえ 歳もとらずに」

  「柴又へ 一度は行きたい 思いつつ 夢叶えずに 今の今まで」

  「新聞の 記事が取り持つ ご縁にて 素敵な女性 便り友なる」

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人間牧場

○劇団イリュージョン27周年公演2012観劇

 松山市を拠点に活動している、劇団イリュージョンの27周年公演が松山市民会館であり、昨日は午後13時30分から家族で観劇に出かけました。高校時代からもう20年にわたって劇団に所属し、活動している次男一生も「江口厚生」役で出演していて、また作・演出を手掛ける劇団代表井上佳子さんの指導の下、最近は忙しい仕事の合間を縫って息子は「振付け」もやっていて、あの華奢な体の何処にエネルギーがあるのかと思わせるような躍動感溢れる姿に、感動しながら2時間を過ごしました。

劇団イリュージョンの公演パンフレットの表紙

 受付で貰ったパンフレットに次のようなSTORYが載っていました。
 「街のはずれの川辺に、八月になると開く地獄屋という変わった店がある。その店は地獄アメや、地獄案内等、怪しげなものを売ったり案内したりする店で、脱衣婆さんという婆さんが店番をしている。今年の夏は、その店で17才のさほという少女が夏休みのアルバイトとして手伝っていた。少女は事故で家族を亡くし親類の家に身を寄せていた。夕方に開くその店には変わった客がやって来る。ある日一人の少年がばあさんの親類だと言って現れる。少年の名はモモタロウと言った。不審に思うさほに少年は津波で流され三途の川を漂っていたところを、三途の川の脱衣婆さんに拾われ、自分の両親も、自分の名前も未だ不明だと話す。そして日が落ちる頃、どこからともなく少年や少女たちが集まってくる。その少年や少女たちも戦争や震災で死んだ子どもたちだったのだ。さほは地獄屋の周辺には、夢食い金魚や市立探偵の江口、アザラシの小早川、蝶と化身した花むらさき各々の因縁の糸を巡って現れる。一度事故で生死の間をさまよったさほは、地獄屋があの世とこの世を結びつけている場所だと気付き、モモタオルの不幸な運命と死に深く心を寄せるようになる。そして各々の人物の運命と因縁がまわり始める・・・・・・」というSTORYなのです。

孫3人も神妙に観劇

 

演劇の一場面

 27年間も続いている劇団で、その20年も劇団員をやっている縁で私たち夫婦は、毎年この頃開かれる定期公演をずっと見続けているのですが、年々充実し続ける劇団と演劇、それに進化し続けようと頑張る次男の姿をダブらせながら、今年も楽しく観劇することができました。
 昨日は5歳の孫尚樹、4歳の孫希心、3歳の孫奏心も一丁前に、満席の座席のひとつを確保して見ました。イリュージョンという劇団の名前や、大人の私たちでもかなり難しい内容の演劇は、幼い孫たちにとってはさらに難しいため、途中でむずがるのではと心配しましたが、3歳の孫奏心が後半眠くなって母親の胸を枕に寝たものの、孫尚樹と希心は比較的おとなしく、最後のカーテンコールまで目を凝らして見ていてホッとしました。

 息子は日ごろ日赤松山病院の看護師としてオペ室で働いています。私たち親も息子がどんな仕事をしているのか知るよしもありませんが、失敗の許されない手術室での毎日の勤務は、かなりきつい仕事のようです。まだ独身ゆえ家庭を持たない気楽さもあるものの、仕事と劇団の両立は、公演が終われば体重が一気に5キロも減るような激しい練習や舞台なので、もうそろそろ止めたらと妻は常日頃から勧めていますが、一向にその言葉は聞き入れられないようです。年齢的に見ても結婚をと考える親心は当然だと思うのですが、結婚より演劇を選んで仕事と両立しているのですから、静観する以外はないのです。でも毎年公演を見ながら活き活きと舞台を務める息子を目を細めながら見る、親馬鹿な私たち夫婦は一応に納得もしているのです。それにして息子のダンスはまるで玄人はだしで、とてもわが息子だとは思えないほどなのです。

  「今年も 家族みんなで わが息子 出演演劇 感激しつつ」

  「いやあ凄い 感心しつつ わが息子 エネルギッシュな ダンス数々」

  「演劇と 仕事両立 する息子 妻はそろそろ 嫁さん欲しい」

  「誰の子か? 見まがうほどに 踊る子の 姿に拍手 あちらこちらで」 

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人間牧場

○人間牧場千客万来

 昨日は人間牧場へ社会教育実践交流集会実行委員会のメンバーがやって来るというので、朝から大忙しでした。普通の来訪であれば別にどういうことはないのですが、昼食をするとなるとたとえ少人数でも、それ相応の準備が必要なのです。前日の夜妻に頼んでいたお米を1升研いでもらったり、味噌汁の具となる鱧や豆腐、シイタケ、薬味のネギなどを刻んでタッパに入れ貰い、加えてギノー味噌さんからいただいていた味噌や、ポリタンク2つに飲料水を積み込み、午前8時に自宅を出発しました。
 この日はまちづくり双海人のメンバーもピザ釜を使って色々な商品の試作をするようで、移動式ピザ釜の実験も試みるとあって朝から大忙しで、ピザ釜を造る戸田さんは私より一足先に到着して、倉庫から新品の草刈機を取り出してせっせと草を刈っていました。

食後の私の話

 昨日は天気もよく、海の彼方には真っ白い入道雲が湧き立ち、夏真っ盛りの暑い一日でした。戸田さんは一人で重い耐火煉瓦を車から降ろしていたため、すっかり準備の整った私も手伝うことになりましたが、この作業はかなりの重労働で、フーフーいいながら朝から大汗をかいてしまいました。
 そのうち松本さんや富田さん家族、それに10時に下灘コミセン前で待ち合わせた人たちも集まって、総勢15人ほどの賑やかな声が行き交いましたが、県内から集まり人間牧場への来訪は初めていう方々は、その眺望の素晴らしさに一応に驚いた様子でした。
 昨日はのんびりゆっくりの交流会だったので、時間を気にすることもなくかまどに火を入れ、ご飯と味噌汁を作りました。家では魚の粗料理を除けばまったく料理をしたことがないのに、ここではご飯を炊いたり味噌汁を炊くのも、全て私がやらなければならないのです。現代人はいつの間にかガス釜や電機釜、電子レンジなどの調理器具に馴れて、焚き火をすること、日で調理することすら出来なくなっているからです。

新しくできた移動式ピザ釜と松本さん
作業小屋でピザ作りする双海人の面々

 11時半にはすっかり料理も出揃いました。私の妻と松本さんの奥さんが用意した漬物やサラダ、じゃこ天、ピザ釜で焼いたアジの開きなどに加え、ピザ釜2基で焼いたピザ等が次々持ち込まれ、まあ豪華な食事と相成りました。ご飯は一升一釜、味噌汁は一鍋炊きましたが、昨日はご飯も水加減やかまどの火加減も抜群でいい具合に炊けたし、味噌汁も完食でした。みんな破顔一笑ならぬ破顔一升といった感じで満足の手合いでした。
 戸田さんが持参したハウスみかんも好評だったし、人間牧場に植えているブルーベリーも収穫体験したり冷蔵庫で冷やして食べてもらいましたが、ボール一杯のブルーベリーを跡形もなく食べてしまいました。食後は少しの時間私の出版した夕日徒然草を基に、腹ごなし程度のお話を聞いて貰いました。残暑厳しいとはいいながら、人間牧場にも秋の気配が漂い始め、時折吹く心地よい風が頬を撫でました。

たわわに実ったブルーベリー

 

インフォメーションサービス

 社会教育実践交流集会実行委員さんとまちづくり双海人の交流会もでき、2時過ぎに全員が山を下り帰って行きました。私は片付けや火の始末の確認、戸締りをしたりした後、摘み残したブルーベリーを収穫しましたが、傍にミツバチの巣箱を置いていてブンブン音がしていたため、危ないと思って摘み取らなかった熟したブルーベリーの実を、ボールに二つも収穫することができました。お土産にいただいたピザとボール二つのブルーベリーに妻は驚いた様子でした。早速食べましたが大粒の完熟した実はとても美味しく、これからしばらくの間、冷やして食べるべく小分けをして保存していました。
 一週間後の来週はまちづくり双海人のツアーや、愛媛大学学び直しの学生たちの講義と、ここのところ人間牧場も千客万来といったところです。その都度私も昨日と同じように忙しい日々が待っているようです。

  「牧場に 千客万来 人が寄る その都度私 右往左往す」

  「自宅では 料理事など しないのに 牧場来ると 飯まで炊いて」

  「ミツバチと 同じく牧場 人が寄る 楽し新し 美しいから」

  「来週も 牧場大勢 人が来る 笑顔真心 これが第一」  

 

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人間牧場

○夕日が沈むころになると血が騒ぐ

 私が夕日夕焼けを意識し始めたのは30代の頃です。以来30年を超えて夕日夕焼けに思いを寄せてきたため、夕日が沈むころになると体がムズムズして、何か血が騒ぐような気がするのです。そんな私を見て仲間は「今世紀最大の詐欺師だ」とパロディ豊かに笑うのです。夕日は日本中、いや世界中何処にでも沈むのに、「双海町の夕日が日本一だ」と信じ込んでいるばかりか、色々な仕掛けを作って周りを信じ込ませようとしてきたのです。そんな奇妙な行動が納得できず、時には大きな反対にも会いましたが、それでも人の百倍も夕日を愛し、「夕日のことだったら若松に聞け」と言われるほどに自著本まで出して、夕日の神話を作り上げてきたのですから、「今世紀最大の詐欺師」と言われても快い響だと納得するのです。

逆立ちをして見た逆さ夕日

 政争の過程で袂を分けていたものの、最後は最も夕日について理解をしてくれた町長さんを事故で亡くし、合併で双海町という自治体は地図上から消えたりして、夕日は沈んだままになるのでは?と危惧していましたが、幸いなことに私の意思を継いだと思われる人たちが、夕日に思いを寄せてくれ始め、時には夕日を否定しながら今まで以上に、様々な仕掛けを作り楽しんでくれているのです。
 昨日もいつの間にかすっかり西寄りになった島影に、夏の夕日が綺麗に落ちました。町のシンボル本尊山をまるで赤富士のように真っ赤に染めながら沈む夕日を見ると、明日へのエネルギーが湧くような心境でした。実は昨日の夕方裏山で、一人だったことをいいことに、とんでもない姿で夕日を見ました。着ていたTシャツを脱ぎ裸で逆立ちをして夕日を見たのです。

 「えっ、裸で逆立ち?」と奇妙に思うでしょうが、私が一年に一度やる奇妙な行動なのです。今から12年前の55歳の時、つまり20世紀最後の夕日が沈んだ2000年12月31日を期して出版した、自著本「昇る夕日でまちづくり」の題名は、本をプロデュースしてくれた水産高校の先輩玉井さんがつけてくれましたが、夕日は逆立ちしてみれば昇るのです。
 歳をとったため自力で逆立ちをすることができないため、山の斜面に足をかけてほんの30秒程度見るだけですが、沈む夕日も昇る夕日に変わる一瞬の逆さま現象は、私に新たな発想を呼び覚ましてくれるのです。何年か前恋人岬のモニュメントに足を置いて逆立ちをして夕日を見ていて、気違い扱いされたことを思い出しました。

これが正しい昨日の夕日です

 人は左から見れば右に、右から見れば左に、逆立ちして見れば沈む夕日も昇るように見える、まさに逆転の発想です。虫の目の人間から鳥の目の人間になるため若い頃、仲間とともにセスナ機をチャーターして空からふるさとを見る運動を興しました。セスナ機の窓から小便をひった思い出は忘れることは出来ません。歳をとるとついつい新しいことへの挑戦を渋りがちですが、幾つになってもたとえ小さくても、挑戦者であり続けたいと思うのです。
 夕日を見るとワクワク・ドキドキ・ジーンとするのは、まだ私の心に挑戦者としての残り火があるからだと勝手に思い込み、昨日も逆立ちをして夕日を見ながら思いました。馬鹿げてると思いませんか?。

  「坂に足 乗せて逆立ち 夕日見る 気違いではと 首をかしげる」

  「沈むけど 逆立ち見れば 昇ってる ように見えると 逆転発想」

  「夕日見る 何故か体が ムズムズと 夕日気違い 変なおじさん」

  「夕日から 何度パワーを 貰ったか これから先も これまでどおり」

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人間牧場

○使えるようになった携帯電話

 妻が誤ってズボンのポケットに入れたまま、洗濯してしまった携帯電話は、息子に頼んで手続きを終え、電話の機種も電話番号も元のまま、新しくなってわが手元に帰って来ました。お盆を挟んだこの3日間は携帯電話に追いかけられることもなく、のんびり過ごしましたが、携帯電話がないと何かにつけて不便で、あらためて自分の日々の暮らしの中で、携帯電話がいかに役に立っているかということを、思い知らされました。携帯電話に記憶させていた電話帳も無事新しい携帯電話に移し替えてくれていて、ホッと胸を撫で下ろすのです。

 私が携帯電話を持つようになったのは、そんなに古い話しではありませんが、携帯電話にアンテナのような棒が内蔵されていて、それを引っ張り出して通話していたのですから、スマートフォンが主流となった携帯電話は偉い技術革新が進んだものです。三男がテレフォンカードを集めていた時代もそんなに古くはないのに、テレフォンカード等もう何年も使うこともなく、机の引き出しにしまったまま忘れ去られようとしています。やはりこれも時代の流れなのでしょうか。

 私はメールをパソコンでするため、携帯電話でのメールは余程のことがない限りしません。たまに旅先へ向かう途中手持ち無沙汰な時、車窓を眺めながら思いつくままにメールを入れ、知人に近況を報告したり、時には旅先の感想をショートなコメントにして送るのです。メールに馴れている相手からは、即座に返信が帰ってきますが、私はその返信に返信する余裕もなく読み過ごしてしまうのです。それにしても現代は携帯電話でメールする人が沢山見受けられます。電車の中は勿論のこと、時には自転車に乗って、あるいは歩きながらメールをしている人を見かけますが、危なかしいものです。

 先日大阪へ出張した帰り、瀬戸大橋の上で瀬戸内海に沈む綺麗な夕日を見ましたが、車内の人はその感動的な光景にも気づかず、ただ黙々と携帯電話でメールを打ち続けていました。日本の若者の全てが携帯電話に夢中になって、本など読まない時代がやって来ました。何とかしないと日本人は本を読まない軽薄な人間になってしまいはしないか心配です。「そんなことあんたが心配してもどうにもならない」と言われそうですが、便利は不便の始まりです。過ぎたるは及ばざるが如しの例えのとおりでしょうか。

  「同じ機種 同じ番号 携帯が 手元に戻り ホッと一息」

  「携帯の 機種を変えたら 如何かと 勧められたが 首立て降らず」

  「携帯と パソコンなくば 手も足も 出ない現代 そろり卒業」

  「携帯に 気を取られつつ 時過ごす なくすることも 多いと気づく」

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人間牧場

○孫の発熱

 お盆の帰省といえるかどうか分かりませんが14日の夜、松山に住んでいる孫たちがお盆休みにやって来ました。14日まで娘婿の実家のある大阪羽曳野へ出かけていて、その帰りに夕方遅く到着しましたが、自宅の内孫はその来訪がとても心待ちだったため、夜9時を過ぎても少し遅くまで賑やかに家の中を走り回っていました。それでも明くる日の15日は雨が降ったりやんだりなのに、海に泳ぎに行きたいと言うので、私が仕方なく軽四トラックに積んでシーサイド公園まで行きました。内孫二人は寝冷えをしていて鼻水が出たり数日前熱が出たりしていたので、家で留守番をさせようとしましたが、大泣きで一苦労して休みだった息子が何処かへ連れて行ったようです。

 シーサイド公園の隣の、灘町海岸の砂浜が空いていたのでそこで泳ぎ始めましたが、二人に誘われて私は海水パンツも履いていないのに、「おじいちゃんも泳ごう」と誘われるまま、半ズボンで泳ぎながら二人の孫の相手を約1時間ばかりしました。浮き輪の尚樹とシュノーケルの朋樹は元気に泳いでいましたが、朋樹が急に寒くなったので帰りたいといい始めました。急いで車に乗せて帰り、シャワーを浴びせ着替えさせたものの朋樹はその後少し熱が出始め、夕方には38度5分まで上がり心配しました。
 それでも朋樹はわが家に泊まりたいというし、妻も泊めたいと言い張りましたが、病気の孫を預かってもし何かあると大変なので、二人の不機嫌も顧みず帰らせました。

 今朝5時30分に娘の家へ症状を聞くため電話しましたが、朝になってもまだ熱が下がらないといい、今日は娘も仕事なので私が看病と留守番をかねて、午前7時までにマンションへ行くことになりました。朝ブログを一本書いて6時20分にわが家を出発しましたが、お盆の早朝は道も空いていて、時間通り午前7時に到着しました。
 病院の殆んどがお盆休みのようなので、直ぐに準備をして救急救命センターへ診察に出かけました。萱町のセンターへは一度孫を連れて行ったことがあるので、全てが分かっていて到着するなり問診表に記入して、直ぐにお医者さんに診てもらいましたが、単なる風邪のようで注射も打たず薬も貰わず、診察費1500円を支払ってマンションへ帰りました。

 弱めの冷房の効いた部屋で孫朋樹と二人、テレビを見ながら熱の下がるのを待ちましたが、30分毎に体温計で熱を測りましたが、次第に熱も下がり昼ころには36度台となりホッとしました。娘が出かける前に用意してくれていた昼食弁当を二人で食べ、冷蔵庫に冷やしていた桃を剥いて。デザートとして食べさせましたが食欲も戻り、午後2時30分に娘が帰ったころには、すっかり元気を取り戻したようでした。私は財布を娘の用意した保険証の入ったバッグに入れたまま、帰ってしまうハプニングもありましたが、お陰様で冷房の効いた部屋で、看病といいながら一日のんびりと過ごすことができました。娘のパソコンをいじって、ブログ一本を書いたりして、孫朋樹と久しぶりに色々なことを話しました。

  「暑い夏 孫と二人で 冷房の 効いた部屋にて 一日過ごす」

  「心配を したけど熱も 徐々下がり ホッと一息 マンション後に」

  「俺も歳 今度は財布 忘れたり いつものことと 妻に笑われ」

  「暑い夏 孫もストレス 溜め込んで 今度は俺の 番かも知れぬ」 

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