人間牧場

○夕日のリレー

 長い長い夏休みが終ると同時に、今年も双海町の小学生の通学合宿「夕焼け村」が、双海潮風ふれあいの館で始まりました。募集に応じた参加者は30人だそうですが、9月1日から1週間、子どもたちは自宅へ帰らず、ふれあいの館と学校を往復して集団宿泊をするのです。目的は子どもの自立ですが、親離れは勿論のこと親の子離れも狙っています。

夕日をバックに夕日の話をする私(赤石さん撮影)

 毎年の事ながら今年も第1日目の夕方、夕日が沈むころに夕日の話をして欲しいと頼まれ、単車の荷台に木になるカバンを積んで出かけて行きました。40分前に出かけると子どもたちは、夕食の準備に追われていました。私が作った夕日の時刻表によると、この日の日没時間は18時34分なので、担当の赤石さんに少し食事を早めるようお願いして準備をしました。ふと何げなく見たふれあいの館の板壁に、詩人谷川俊太郎のご存知、「朝のリレー」の詩が張ってありました。

潮風ふれあい公園から子どもたちと見た夕日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  カムチャッカの若者が きりんの夢を見ている時
 メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている
 ニューヨークの少女がほほえみながら 寝返りをうつとき
 ローマの少年は頭注を染める 朝陽にウインクする
 この地球では いつもどこかで 朝が始まっている
 ぼくらは朝をリレーするのだ 緯度から 緯度へと
 そうしていわば交代で地球を守る
 眠る前のひととき 耳をすますと
 どこか遠くで 目覚まし時計のベルが鳴っている
 それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受け止めた 証拠なのだ

夕日と反対側に架かった七色の虹

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この詩を読みながらふと私は、何年か前自分が作った、「ふたみの夕日夕焼け物語」という次の詩を思い出しました。この詩は私の自著本「昇る夕日でまちづくり」のP200~P201に書いているのです。

 西瀬戸の 生みと空を染め分けて
 詩情豊かにしずむ ふたみの夕日は美しい
 陽がしずみはじめてから 没するまで
 ゆったりとした 時の流れの中で
 人の思いは深くなる 
 過ぎ去った歳月への 回想もあれば
 明日への夢や期待もあるだろう
 思えば地球上の人類は
 ひとつの太陽を見て 暮らしている
 同じ夕日をどこかで
 朝日として 見ているのだから
 不思議である

 有名な谷川俊太郎という詩人とは比較にならない、何の変哲もないローカルな詩ですが、私が子どもたちにいつも話すのは、双海の夕日を地球の裏側の人が朝日として見えいるという不思議です。まさに「朝のリレー」と同じ「夕日のリレー」です。この日も綺麗な夕日を見ながら、思いつくまま約30分余り子どもたちに夕日の話をしてやりました。参加した子どもたちが大きくなって、どこかで何処かの夕日を見た時、双海の美しいい夕日とともに、自分につながるふるさとや多くの人々のことを、思い出して欲しいと願っています。
 この日は夕日の反対側の方向に綺麗な七色の虹が印象的にかかり、子どもたちも大満足したようでした。

  「地球上 朝のリレーを するように 夕日もリレーし 心和ます」

  「うわ~凄い 夕日と虹の コラボ見て 子ども思わず 感嘆声を」

  「この夕日 何処かの国の 朝日なる 地球自転を 繰り返しつつ」

  「地球から 一億五千 万キロも 離れているのに 光が届く」 

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人間牧場

○27回目の夕焼けプラットホームコンサート

 夕日馬鹿を自認する私によく聞かれるのは、「日本一と自慢する夕日を見に行きたいのですが、一年中で最も美しく見えるのはいつですか?」という質問です。私はその度に、「あなたが夕日を見に来た時が一番綺麗です」などと笑って答えるのです。つまり黄砂降る冬の夕日も、菜の花が咲く月と夕日がランデブーする夕日も、夏の炎熱焦がす夕日も、また秋のつるべ落としの夕日も、見ようによってはそれぞれ趣きがあって、甲乙つけ難いのですから、ひょっとしたら私の答えが正しいのかも知れません。
 それでもあえて説明するなら、空気の済んだこれから始まる秋の夕日が一番かも?と思って、一年に一度開かれる夕焼けプラットホームコンサートの開催日を、9月の第一土曜日と決めていますが、この時期は立春から数えて二百十日に当る台風シーズンなので、昨年のように時には大荒れの天気で中止止むなしの苦汁の決断をしなければならないのです。

「風の吹く駅で」を熱唱する子どもたち

 今年も一昨日の9月1日、夕焼けプラットホームコンサートは、昼間の鱧まつりとジョイントするような形で開かれましたが、この日も朝から小雨がぱらついたりして関係者をやきもきさせました。コンサートは出演者のスケジュールを確保しなければならないので、余程のことがない限り多少小雨でも、決行しなければならないので、スタッフは音響道具の上にブルーシートをかけたり外したりしながら準備を進めていました。やがて午後5時頃から下灘小学校児童の「風の吹く駅で」のコーラスで幕を開けました。プラットホームに飾られた白いススキの穂が初秋の風になびき、バックに瀬戸内の海が広がる風景は、野外コンサートならではの雰囲気を存分に楽しませてくれました。

夕日がとても印象的でした

 前述したようにこの日の天気は今一で、西の空は曇っていて、自慢の夕日も期待できないとみんなが思っていました。ところがメインゲストの澄んだ歌声が響く頃になると、何と何と雲間から印象的な真っ赤な夕日が顔を覗かせ、残照が海に尾を引いてこれ以上はないという演出をしてくれたのです。思わず会場から大きな拍手が起こりました。司会をしていた小林真三さんも幕間に「若松さんジーンと来ました」と話されましたが、勿論私も涙が出るほど感動し、仲間も口々、そして遠方から私を慕ってやって来た遠来の人たちも、みんな大満足の手合いでした。夕日が見れない時はコンサートを発案した私の責任とばかりに打ち沈みますが、この日ばかりはまるで私が夕日を見せたように、「どうだ!」とばかりに胸を張りました。そのくらいこのコンサートには思い入れが深いのです。

大阪からやって来た二人の素敵なお嬢さん?
ピザを焼く松本さん

 今年はコンサート会場の片隅で、松本さんや浜田さんたちまちづくり双海人のメンバーは、移動ピザ釜でせっせとピザを焼いて、移動マルシェの実験事業に余念がありませんでした。汗だくで100枚近くも焼き上げたようですが、私は自分で食べることもなく、友人の高岡さんご夫妻に試食をしてもらいましたが、美味しかったとお礼を言われました。
 埼玉県入間市から清水さんたち、高松から溝渕さんたち、高松から私の講演を聞いた人たちがバス一台40人、八幡浜から妻の友人たち、私の親類たち等等、私が誘致した人の数は毎年の事ながら百人を超えていました。この日は大阪から朝日新聞の夕刊記事を見たという、二人の素敵な女性も駆けつけ、嬉しいご縁を深めることができました。私にとって夕焼けコンサートはまさに一服の清涼剤であり、パワーをいただきました。わが息子も建築士仲間と参加者にウチワを配り一役買いました。スタッフの皆さんありがとう。そして知人友人の皆さん、来年もまた元気でお会いしましょう。

 

今年の夕やケプラットホームコンサートポスター

 

愛媛新聞朝刊記事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「今年も 二十七回 重ねたり 夕焼けコンサート 下灘駅で」

  「諦めて いた西の空 押し上げて 真っ赤な夕日 思わず歓声」

  「新聞を 見たと二人の 女性来る はるばる大阪 聞いて呆れる」

  「コンサート 何処吹く風と ピザを焼く 匂い風乗り これも一役」

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○夕日の似合う男が何故か朝日に

 私は若い現職のころから、別名夕焼け課長、夕日教育長等と呼ばれ、そんな呼び名にむしろ愛着を感じていました。そんなこともあってか、夕日や夕焼けの話になると、必ず新聞や雑誌、テレビやラジオにこれでもかというほど登場し、マスコミの力を最大限に利用して、双海町の夕日や夕焼けをスターダムにのし上げようと努力してきたのです。新聞や雑誌はスクラップしまちづくりの資料として多いに活用して来ましたが、テレビの映像はVTRテープに、ラジオの音はカセットテープに録音していますが、いずれも時代遅れなものとなり、倉庫の片隅にうず高く積まれているのです。いつの日か整理をしたいと思いつつ、多分このままごみ化するのではないかと思うのです。
 マスコミは私や双海町にとって大恩人なので、後輩たちにはこれからもいい関係を保って欲しいと思っていますが、少なくとも私はもうマスコミに登場することはないだろうと、むしろ一線を画そうと思っていますが、今回も登場と相成りました。

 

 

 

 

  私や双海町が取り上げられた新聞記事は、地元紙愛媛新聞がダントツに多く、他の新聞は物の比ではありませんが、読売・毎日・朝日・経済・スポーツなどの中央紙にもかなりの頻度で出ています。中でも朝日新聞は最も多く、夕日の似合う男、夕日の双海町なのに、何故か朝日によく取り上げられているのです。
 平成24年8月28日(火)付けの朝日新聞夕刊に、今回も紙面一面の半分を割いて、「ひとえきがたり・下灘駅(愛媛県、JR予讃線)」というコーナーで紹介された記事を見て、東京練馬区に住む妻の同級生から、「あなたのご主人が新聞に出ている」と、驚いた様子で電話がかかってきました。ふるさと八幡浜を離れて異郷の地で暮らしている人にとって見れば、「愛媛県」とか「八幡浜」は勿論のこと、「双海町」や「若松進一」まで懐かしく感じ、とても嬉しかったと、妻とついつい電話で長話していたようです。

平成24年8月28日付朝日新聞夕刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  この朝日新聞夕刊は愛媛県双海町では出回っておらず、直ぐに新聞から切り取って手紙を添えて送ってくれました。相前後して取材をしてくれた朝日マリオン21の牧野さんから掲載紙が送られてきて、スキャナーで撮ってブログに掲載することにしました。何日か前、同じように読売新聞に掲載された記事もアップしていたので、同じ駅がテーマの記事でも新聞や書く人が違うと、切り口が違うことを実感した次第です。
 「沿線ぶらり」では夕焼けぴちぴち市や間近に迫った夕焼けプラットホームコンサート、しもなだフォト旅、「興味津々」では鱧について薀蓄を書いていて、間近に迫った下灘鱧まつりのことが紹介されていました。

  「新聞を 読んだと妻の 友人が 電話と手紙 はるばる江戸から」

  「都会では ふるさと全て 懐かしく まるで自分が 載ってるように」

  「物好きな 人もいるもの 新聞を 読んでわざわざ コンサート来る」

  「ありふれた 景観だけど 新聞に 載れば素敵と 思わず思う」

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○今年も暑い夏を元気に乗り切りました

 今日から9月だというのに、相変わらず残暑の厳しいい日が続いています。人間は不思議なもので、去年のことなどすっかり忘れて思い出せないのに、何を比較対象にして話すのか、「今年の夏は特別暑かった」という言葉を平気で言うのです。かく言う私もその人間の一人で、暑さ転じて「熱さを感じるのは歳のせいだ」とか、「今年が一番暑かったようだ」などと、逢う人相手ごってに話をしているのです。
 それでも暑いといいながら、窓の外から窓越しに聞こえる虫の声は日増しに大きくなり、今朝は薄い夏用の布団を無意識の内に手繰り寄せて寝ていました。

 こんな暑かった夏でしたが、私は冷房が嫌いなこともあって、わが書斎に備え付けているエアコンを、来客のためにたった一度しか使いませんでした。福島の原発事故以来、節電を意識した暮らしを始めていますが、「節電」に関して少なくても私は優良国民なのです。妻からは「冷房装置も余り使わないと傷むかも知れない!」と注意され納得していますが、何とか暑い夏を熱中症になることもなく、乗り切れホッと一息といったところです。夜が短く昼が長い夏至の6月22日から2ヶ月余りが経ちましたが、夜明けが段々遅くなり、日暮れも段々早くなってきました。今朝も新聞屋さんが新聞配りに午前5時にやって来ましたが、まだ外は真っ暗でした。

畝を立て植えつけた白菜の苗

 昨日はすっかり木陰になった家の裏の斜面の草刈りを、少し涼しくなった午後4時から始めました。前回草を刈ってからそんなに日にちは経っていないのに、夏草の勢いは強く、草刈機の替えた真新しい刃が面白いほど草を瞬く間になぎ倒して行きました。1時間半ほどの作業で予定の場所が刈れたので、今度は前日消石灰を振り撒いていた畑に耕運機を倉庫から出してかけました。このところ夕立が何度かあったため、残暑が厳しかった割には畑の土は緩んでいて、綺麗になりました。その後畝を立てて、前日大洲市役所へ講演に出かけた折買って来ていた、白菜の苗78本を2畝に植えました。白菜の種蒔きは8月中にしないと上手くできないそうなので、これで遅れを取り戻せそうです。

 昨日は同居している孫希心君の5歳の誕生日で、希心君は朝からまるでヒーローになったような一日でした。昨日に合わせて両親がインターネットで注文していた、欲しがっていたオモチャも届き、みんなから「お目でとう」の言葉が相次いで、嬉しくて仕方がないようでした。風呂に一緒に入っても、どこか一味違ったお兄ちゃん振りを見せようと張り切り、進んで色々なことをしていました。こうして子どもは成長するものなんだと実感した次第です。
 忙しくて暑かった夏も終わり、今日からわが家も私も少し秋モードです。昨日の午後妻は、東峰の友人宅へ名残のスイカを買い出しに出かけ、スイカ好きな私のために大きなスイカを6個も持ち帰りました。親類へ2個お裾分けして喜ばれましたが、これから一週間は美味しいスイカを朝・昼・晩と、食後のデザートとして食べる予定です。今年もスイカのお陰?で元気に暑さを乗り切りいい夏でした。

  「暑かった 夏も日めぐり 一区切り 今日から九月 ギアをチェンジす」

  「好物の スイカ仕入れて くれた妻 いつもながらの 気配り感謝」

  「孫五歳 俺は間もなく ○○歳 上り調子と 下りっぱなし」

  「消石灰 撒いて耕し 畝立てて 白菜苗を 汗かき植える」 

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○深夜の友人からの長電話

 昨日の夜11時頃、寝転がってテレビを見ていると自宅に電話がかかってきました。「こんな時間に一体誰だろう?」と言いつつ、いつものように妻が電話口に出ました。「こんな時間に誰だろう?」と私も思いました。すると「お父さん○○さんから電話よ。お酒に酔っているみたい」」と言いながら私にコードレスの受話器を渡してくれました。さあそれからが大変です。まるでエンドレスのテープレコーダーを聞いているように、同じことを巻き返し繰り返し、延々30分近くも話すのです。「俺は酔っている。すまん」と前置きして話すのですが、「酔っているようなので用件は明日にでも」と電話を切ろうとすると、それを遮るようにまた元に戻って話しを始めるのです。こちらも少し頭に来て最後は電話を切りましたが、すっかり眠気も吹っ飛んでしまい、昨晩はそのことが気になり中々寝付けませんでした。

 私の親父は12人兄弟の長男です。親父の兄弟は戦災で亡くなった2人の叔母に加え、病気で3人の叔父と1人の叔母が亡くなっていますが、93歳の親父を含めて6人が健在でその連れ添いも4人健在なのです。故にこのような深夜や早朝に電話が架かると失礼ながら、「もしや?」と思ったりするのです。
 酒に酔って私に電話を架けてきたのは役場の元同僚でした。在職中は一緒に仕事をしたこともあり何かと気が合って、時々ならぬ頻繁に一緒に酒を飲んだ間柄でしたが、私と相前後して退職したため、年に数回車ですれ違う程度の出会いしかないのです。つまり私と彼は今や住む世界が違う人なのです。私が講演等で忙しくしている様子は風の噂で知ってはいても、パソコンもやらないため、私の毎日書いているブログ記事も読んだことがないらしく、「ブログって何?。そんなもの持っていない。」とあっさり会話が途切れてしまいました。

 彼が言いたかったことは、9月の敬老の日に、「自分が区長をしている敬老会で落伍をしてくれないか」という相談でした。しかも「金がないのでタダで、お年寄りを存分に笑わせてくれ!」というのです。断ると酒の勢いで電話口ながら「俺の一生の頼みが聞けないのか」と毒つくので、ひとまず「分かった分かった。あんたの頼みを聞いて予定を入れましょう」と安請け合いをしてひとまず電話を切りました。電話を切って書斎へ入り予定表を見ると、既に予定が入っていましたが、何とか都合がつきそうな感じでした。
 電話を架けてきた彼はまだ酒が残って夢の世界でしょうが、酒の勢いとはいえ引き受けてしまったからには、彼の顔も立てねばと、「酒によってこんな話をするとは何事か」と多少不機嫌ながら考えています。

 退職後の暮らし方は百人百様です。役場を辞めた人の殆んどは退職後2~3年、区長等地元のお世話役を押し付けられ、進んでというよりは嫌々ながらやっています。時にはまるでクレーマーではないかと思われるような言動の人もいますが、概して一般市民から見れば非協力的で、学習活動やボランティア活動に参加して、活き活きと輝いて生きている人は少ないようなのです。
 長電話を切る時、彼が最後に言った「あんたが羨ましい」という言葉は、少し嬉しい誉め言葉でした。確かに私は退職して自由人になりながら、請われるままに講演活動やボランティア活動をして、心身ともにすこぶる健康でやっているのです。地元の区長も2年ほどではありましたが務めたし、それなりに情報も発信しているのです。60歳の定年を終えてからの第二の人生は、しっかりとした自分の生活設計さえ持てば、とても楽しく生きられるのです。好きだった酒も病気になって止めましたが、酒に変わる何かを掴み、人生の楽園で楽しく生きている自分を、幸せ者だと思いました。

  「酒に酔い 深夜架かった 長電話 酒の勢い 切りたい切れず」

  「電話にて お前の生き方 羨ましい 言われて見れば 頷き嬉し」

  「定年後 どんな生き方 するのかは 人それぞれと 思いながらも」

  「酒止めて 良かったですね 妻が言う 昔は俺も あんなだったと」

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○デジタルに弱い私

 一昨日の昼過ぎ、鳥取県へ講演小旅行に出かける時、いつものように木になるカバンに、私の7つ道具と思われる名刺入れや携帯電話、電光掲示板、自費出版書籍類、ハーモニカ、夕日のハガキ、夕日のグッズなどを忍ばせ出かけました。自家用車だったため、息子からもらって重宝しているエコバッグに、最近はまっている二宮金次郎銅像と中国の古書大学、それにこそ丸という薬に加え、大道芸にも似た使い方をする、窪田先生お手製のトンボと竹で自作した竹の棒まで入れて、車に積み込みました。妻にいわせると私の小道具は多過ぎて、持って行くのを忘れたり、出先において帰ったりするのだと言われ、私も同感なのですが、少しでも楽しい話にしたいと思いつつ、持ち歩いているのです。
 自家用車なので道を走っていて、珍しいものや看板表示が目につくと、寄り道をしたり少し遠回りをしたりしながら旅を楽しむのです。

 昨日までの2日間は鳥取県への旅でしたが、倉吉の20世紀館の屋外にたわわに実った20世紀梨を見つけ、写真に撮ろうとカメラを取り出すと、スイッチは入るものの画像表示ができず、画面が真っ暗になるのです。前にも一度こんなことがあって修理に出し、保障期間ということもあってタダで直してもらいましたが、今回はそんなに上手く行かないかも知れないと、気持ちが少し沈んでしまいました。このカメラは私の誕生日のプレゼントとして、子どもたちが買ってくれたものです。仕方がないので帰宅後、前に使っていたデジカメを書棚から取り出して、バッテリーを充電し使ってみましたが、何とか使えそうなので修理が終るまで使いたいと思っています。今朝は早速仕事に出かける息子嫁に買、い求めたお店へ修理に持って行ってもらいました。

復活した電光掲示板

 悪いことは重なるもので、私の愛用している電光掲示板がこれも電光文字を表示しなくなりました。原因は分かりませんが、多分充電のし過ぎによるものです。一ヶ月ほど前私の電光掲示板は完全に壊れたように見えました。そのためいただいた新居浜の十亀さんに「何とかならないか」電話を入れましたが、予備のものもないということで、手配ができ次第送るからとの事でした。
 その後松山北倫理法人会のモーニングセミナーで絵夢の藤島さんにお会いした折、私の話をヒントに独自の電光掲示板を開発し売り出したたことを聞き、加えて私にお礼にと一個真新しい電光掲示板をプレゼントしてくれたのです。息子に頼んでソフトを入力し、私が文字入れの作業をして使えるようになりましたが、これも数日前から文字が出なくなり、すっかり落ち込んでいました。

 数日前十亀さんから代用品が届きましたが、ソフトが違うのか幾ら頑張っても入力ができないようです。昨日の夕方パソコンにつなぎ文字入力モードにしたら、古い十亀さんにもらった電光掲示板も藤島さんにもらった電光掲示板も、何と文字が復活したのです。「エッ何で」と思いましたが、デジタルに弱い私はすっかり狐に鼻をつままれた感じがしています。
 アナログならまだしも、デジタルは私の手の届かない世界なので、故障すれば最初から諦めていますが、これからもデジタルと、長い付き合いをしなければならない私にとって、こればかりは越えられない世界なのです。今のところパソコンは順調で、ブログを書いたり原稿を書いたり、メールのやり取りをしていますが、いつ機嫌を損なうか分からないのです。その度に周りの人様に迷惑をかけることを、これからもお許し下さい。

  「文系を 自認の私 デジタルは 使いきれずに 苦労賛嘆」

  「故障した ものとばかりに 思ってた 電光掲示が 二つ復活」

  「講演の 小道具多過ぎ ゆえなるか 忘れて慌て 人に迷惑」

  「今のとこ パソコン調子 安定す 冷や冷やしつつ 使い続ける」

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○鳥取県湯梨浜町への講演旅行

 縁とは不思議なもので、つい最近は島根県が少し遠のいたと思えば、お隣鳥取県からの講演依頼や研修会が増えてきました。一ヵ月後の9月28日・29日・30日に地域づくり団体交流研修全国大会があり、松本さんと浜田さんを誘って既に申し込んでいますが、今回の湯梨浜町に加え、10月27日には鳥取県の東の端岩美町、12月2日には鳥取県の南西部日南町と講演の予定が入っているのです。
 鳥取県は人口が60万人足らずの全国で一番人口の少ない県です。でも鳥取砂丘や伯耆富士大山、20世紀梨、倉吉の町並み、皆生や三朝温泉などなど、見所・食べ物も多く行く度に新しい発見がある所です。

 

今日が初出荷の20世紀梨

 昨日は鳥取県のほぼ中央の倉吉に程近い湯梨浜町から講演を頼まれ、瀬戸大橋を通って自家用車で出かけました。昨日は台風15号の影響で、双海町は朝からあいにくの雨でしたが、高速道路で香川県に入るとその雨も止み、まずまずの天気の中を松山自動車道~高松自動車道~瀬戸大橋~山陽自動車道~中国自動車~米子道と高速道路を乗り継ぎ、湯原インターから倉吉までは一般国道を通る片道350キロの旅でした。湯梨浜町は東郷町・羽合町・泊村が合併してできた町ですが、日本海に面した場所に周囲14キロの東郷池という汽水池がある温泉地です。何年か前、まだ合併していない東郷町の頃、町長さんに頼まれて成人式の記念講演に出かけたり、倉吉に講演に出かけた折、妻と連れ立って今回と同じ東郷池のほとりの水明荘という国民宿舎に泊まったことがあるのです。

水明荘の近くの四手網小屋

 今回の講演の窓口となった湯梨浜町ネットワークはなみの岡本俊彦さんとホテルのロビーで午後5時という約束をしていたので、少し早めに出て倉吉の鳥取県地域づくりセンターに立ち寄りました。所長の福田京子さんは一ヵ月後に迫った全国大会の実行委員長をされていて、しばらくの間全国大会にまつわるお話をして時を過ごしました。
 午後4時30分にホテルへ岡本さんと相次いで到着し、分科会実行委員長さんと3人で東郷池の周りを見学がてら一周しました。池というより湖の方がぴったりする大きな池の周辺は県や町によって整備と管理が行き届き、幾つもの立派な老健施設やスポーツ施設があり、穏やかないい町だと直感しました。

 講演会は午後7時から中央公民館で行われる予定なので、少しくつろぎ午後6時からホテルのレストランで季節の料理をいただきましたが、昼食を食いっぱくれていただけに、とても美味しくいただきました。ホテルも夏のシーズンが終わりかけた平日とあって宿泊客も少なく、落ち着いた静かな夕暮れでした。
 講演会場の公民館はホテルと目と鼻の先にあり、荷物があるので車で出かけました。参加者は20人ほどの小さな集会でしたが、9月の分科会に関わる人たちもいて、熱心に私の話を聞いていただきました。またセンターの福田京子さんもわざわざ駆けつけてくれました。
 講演が終わり宿舎に戻って温泉に浸かりましたがいいお湯で、安否を気遣って電話を入れてくれた妻を羨ましがらせました。

  「鳥取と ご縁深まる 一方で 指折り数え 行き場所なぞる」

  「何年か 前に泊まった ホテルにて 旅の一夜を のんびり過ごす」

  「鳥取に 何とハワイが あるという アロハの兄ちゃん 聞けば職員」

  「お湯と梨 特産ゆえに 町の名を 湯梨浜町と 付けた名案」

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人間牧場

○人間牧場へサイコーダイガクの受講生がやって来ました

 「独立行政法人中小企業基盤整備機構四国本部」という非常に長ったらしい名前の役所から、一通の講師依頼が8月22日に届きました。8月27日にサイコーダイガクの受講生を人間牧場へ連れて行くので、1時間ほど話をして欲しいと言うのです。
 依頼事項、つまり話の内容は、「地域ビジネスを事業化する上で重要な理念に関する講義」と、これまたいかにもお役所らしい長ったらしい演題がついていました。サイコーダイガクについては昨年双海町が事業採択されて一年間取り組んだ事業であり、私もそのメンバーとして加わっていたし、この講義をするよう地域事務所の松本さんから、事前に日程調整の話ががあったので、日程だけは空けておきましたが、直前いただいた文書の演題を見てさてどうしようかと思案しました。

人間牧場を訪れたサイコーダイガクの皆さん

 まあいいかと思いつつ、少しは早めの15時に家を出て人間牧場へ出かけました。ここのところ人間牧場へやって来る人たちが多く、特に土曜日はモニターツアーの人たちが20人ほど、日曜日は愛媛大学の集中講義で学生が35人ほどやって来て、昨日の人数25人を合わせると3日間で70人もの人が、人間牧場へ研修目的でやって来たのですから、この対応はもう尋常ではないのです。
 昨日は沖縄を通過した大型台風の影響でこちらでも蒸し暑い風が吹き、沖合いには台風接近に対応した大型船が何隻も見えました。南風の影響で空気が浄化されたのか、昨日の眺望はすこぶるビッグで、まるで水墨画を見ているような雰囲気で、来訪したサイコーダイガクの面々は一応に感嘆の声を上げていました。

 講義は思いつくまま「夕日を地域資源にした地域ビジネス」について、40分ばかり話をして残りの時間を対話しましたが、参加者の意識は高くいい反応を見せてくれました。
 昨日一行はふたみ潮風ふれあいの館に宿泊し、午後7時からまちづくり双海人の面々と交流会をするので、私も誘われて出かけ2時間ばかり酒を交えた楽しい交流会を行ないました。呑むほどに酔うほどにいい交流会となりました。私の名刺も人気が高く、30枚の名刺が全て売り切れました。私は明くる日鳥取県湯梨浜町へ出かける予定があるので、早々に切り上げましたが、地域おこし協力隊の富田さんやまちづくり双海人の浜田さんたちは一緒に泊まって遅くまで交友を深めたようでした。

  「この三日 次から次と 牧場へ 多くの人が 訪ね学習」

  「飯を炊き 風呂を準備し 話する さすがの私 お疲れモード」

  「この三日 天気恵まれ それぞれが 思い出土産 それぞれ帰る」

  「一箱の 名刺少なく なりにけり 名刺次なる 出会いを予感」

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人間牧場

○地域マネジメントスキル修得講座

 昨日は人間牧場で、愛媛大学の地域マネジメントスキル修得講座があり、30人ほどの社会人学生が授業のためやって来ました。朝8時30分に下灘コミセン前で待ち合わせした一行は、車に分乗して人間牧場を目指し、私の軽四トラックについて山道を登りましたが、車の台数が多いため人間牧場への乗り入れができず、市道横に駐車をして歩いてもらいました。県内各地から集まった社会人学生の中には、顔見知りの人も何人かいましたが、社会人になってもこうして向学心を持って生きる姿はとても立派だと思いました。

座学
座学

 私の講義は午前中3時間、昼食を挟んで午後4時間の集中講義です。幾ら馴れていても話す方も聞く方も、夏の暑い時期なので、大変だろうと思いましたが、眠りこける人もなく熱心に授業が行なわれました。テーマは「地域活性化論」で、普通はレジメなど用意しない私ですが、この日はパワーポイント用に作成して大学に送っていた資料を、笠松先生にお願いしてコピーしたものを使いながら話しました。
 講義は人間牧場水平線の家の板間に座っての座学です。机も座布団も用意しない荒い学習なので、多分みんな疲れることだろうと思いつつ、極力分かり易く話すことを心がけました。

人間牧場から見えた昨日の風景

 昨日は沖縄に最大級の台風が接近中とあって、その影響が心配されましたが、残暑は厳しかったものの穏やかな天気で、水平線の家から見える伊予灘の海や島影の遠望は、台風を避けて非難している数隻の船も停泊していて抜群でした。私の発想の源や、人間牧場の自慢はこのオーシャンビューなので、学生たちはいささかなりとも心を動かしてくれたのではないかと、勝手に推測するのです。
 それにしても一日7時間喋りっぱなしの授業は、馬路村産魚梁瀬杉の木の高座に座ってするものの、長時間なのでさすがに少し疲れましたが、まあ心地よい疲れといったところです。

 昨日は講義が終って、私の落伍ネタ本「夕日徒然草」を何冊か紹介し、お土産に買っていただきました。中にはサインペンまで持参して、私にサインをせがむ人もいましたが、いつもの事ながら字の不味い私には、何とも厄介な注文で汗顔の至りでした。昨日は私が大好きな言葉である「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」と、今は亡き広島府中市上下町の森岡まさ子さんからいただいた、「逢う人も逢う人もまた福の神」という言葉をしたためました。私と小番頭の松本さんがいつも来訪者にお願いして、買ってもらうよう勧めるだけでも「夕日徒然草」は何冊かづつでも売れて、自主管理の小さな味噌樽に資金が溜まりつつあります。もう一分張り頑張って、手前味噌ながら「夕日徒然草」を販売したいと思っています。

  今年も スキルアップの 人たちが 牧場訪ね 座額楽しむ」

  「休日を 返上学習 する姿 どこか昔の 自分ダブらせ」

  「座布団も 机もなしの 板間にて さぞお疲れと 心情察す」

  「自著本に サインをしてと せがまれて 汗顔しつつ 筆を走らす」

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人間牧場

○灘町地区の盆踊り

 私の暮らしている灘町地区では、毎年うら盆に当る8月24日に盆踊りを行なっています。盆踊りの由来は新盆を迎えた人の霊を慰めるため始まったようですが、戦後はどちらかというとお国のために亡くなった戦没者の慰霊が主目的になったようで、盆踊りに先立って夕方公民館に祭壇が組まれ、戦没者や新盆を迎えた人の遺影が飾られた場所に、お寺の住職さんが招かれて読経をしてもらって、しめやかな慰霊祭が行なわれるのです。
 私も7年前退職すると直ぐに区長に選任され、2年間慰霊祭や盆踊りの主催者となり奔走しましたが、盆踊りもその頃から年々さびれ、「やる意味があるのだろうか」と疑問を投げかけていましたが、やはり今年も踊り子が少ない寂しい盆踊りとなりました。

今年も寂しき盆踊り

 私もかつて区長だったこともあるので、踊りについては不器用ながら毎年盆踊りには参加して、踊りの輪に加わっていますが、私が踊れる曲は炭坑節、双海音頭、神輿音頭くらいなもので、地元の古い手踊りは下灘出身ということもあって、肌に会わず、もっぱら布長椅子に座って、かき氷を食べながら観戦するのです。踊り子の人数の割にはやぐらは立派で、組み立て式のやぐらは組長さんたちが朝から総出で組まれ、四方に張り巡らせたちょうちんに裸電球が点けられ、夕闇迫る午後7時から音楽が鳴り始め、誰とはなく踊り始めると、いつの間にか踊りの輪ができるのです。
 盆踊りは一年に一度の地区民の社交場となっていて、懐かしいお年寄りの姿も見受けられ、ふるさとの訛り懐かしく安否を確認していました。またこの日を楽しみに帰ってきて踊る人の姿も見受けられました。

 私たちが若い頃は、盆踊りを仕切っていたのは青年団でした。そして盆踊りは青年たちの社交場でもあったのです。私は18歳から26歳まで青年団活動をしました。その頃は青年団員も多くいて、町内のあちこちで行なわれる盆踊りに加勢するため、仲間を誘って連日連夜浴衣を着て出かけました。盆踊りはどっちかに向いていて、むしろ盆踊りに集まった男女の出会いが楽しみで、酒やビールを飲みながら深夜まで過ごしました。特に浴衣を着た若い女性の首筋にじんわり滲む汗や安物の香水の香りに、心をときめかせたものでした。
 今は町内で盆踊りをしているのは池久保と下浜、それに灘町くらいなもので、これもいつまで続くかといった風前の灯火のようで、華やかだった頃を知っているだけに心が痛むのです。

 盆踊りの衰退は時の流れなのかも知れません。でも戦没者や新盆を迎えた人たちの霊を慰めるという目的はとても優しい日本的・平和的心で、私としてはいつまでも続けて欲しいと願っています。特に戦後67年経った戦争という忌まわしい過去を語り継ぎ、平和の尊さを考えるには最良の催事だと思うのです。
 私の家でも戦没者ではない戦没者が2人います。親父の妹2人が徴用先の大阪の軍需工場で戦災に遭い、焼け死んでいるのです。亡くなった祖母の生存中の一番の悲しみは、先に逝った2人の子どものことのようで、折に触れ涙を流しながら話していました。その祖母も亡くなり親父も既に93歳の老域に達して、2人の叔母の話は消えようとしていますが、せめてわが家の跡取りを自認する私だけでも、語り継ぎその霊を慰めなければと思っています。
 8月24日の夜は、空に三日月が印象的に見えた夜でした。

  「細々と 今年もうら盆 盆踊り 輪の中入り 手足動かす」

  「若い頃 うなじ流れる 汗を見て 心ときめく 楽し思い出」

  「うら盆は 空襲死んだ 叔母二人 思い出しつつ 平和の誓い」

  「寂れ行く 盆の踊りを どうするか みんな言うけど いつもそのまま」

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