人間牧場

○秋はアマギの美味しい季節です

 

秋の味覚銀鱗輝くアマギ

 日中はまだ30度を越す真夏日が続いて残暑が厳しいのですが、さすがに9月も中旬になると、朝晩はしのぎやすく、今朝はひんやりとした風が網戸から吹き込んで、「目にはさやかに見えねども」、変わり行く季節を実感してしています。
 昨日の昼過ぎ下灘漁協の組合長をしている従兄弟の若松利光さんが、アマギという魚を発泡スチロールの白いトロ箱に二つも持って来てくれました。妻は仕事に出かける準備をしていたため、その処理を私に任されてしまったのです。はてさてこの大量のアマギをどう処分するか思案しました。とりあえず一昨日新米ができたからと、一袋かつぎ込んでくれた親友の西岡さんに携帯を入れ、在宅を確認して持って行きました。

 帰宅後外の流し台にまな板と包丁、頭と内臓を入れるバケツにビニール袋を内側に張って準備をしました。秋刀魚が店頭に並ぶこの時期はまだアマギは小ぶりながら、銀鱗を輝かせていかにも美味しそうでした。この時期戸外は上がり蚊がいるので、蚊取り線香を焚き、早速調理に取り掛かりました。アマギの鱗を取り、頭を落として内蔵としっぽを取り除くのです。前もって研いでいた包丁がよく切れたため、作業は順調に進みました。それでもトロ箱一つのアマギを処理するのに約一時間もかかってしまいましたが、綺麗に水洗いしたアマギを氷でしめてパレットに入れ、ラップをかけてひとまず冷蔵庫に納めました。残飯を処分して、ここまでがいつもと変わらない私の仕事なのです。

 夕方4時頃仕事から帰った妻は、綺麗に片付いた様子を見て「ありがとう。助かります」とお礼を言ってくれました。その後妻はアマギを小袋に分けて近所や親類にお裾分けしていましたが、アマギは塩焼きとから揚げが一番なのに、昨日は煮付けにして食卓へ出してくれました。多分今日辺りは塩焼きとから揚げにしてくれることでしょう。
 私は肉食系ではなく魚食系です。そのため肉は殆んど食べず、私のために妻は殆んど毎日魚料理を用意してくれるのです。94歳の親父も魚食系なので、最近は妻もその影響で魚食系です。息子家族は肉食系なので、同じ屋根の下に住みながら別々の食事をするようしているのも、暮らしの知恵なのです。双海町は漁船漁業の盛んな地域なので魚の魚種も多く美味しいため、いい所に住んでいることを実感するのです。

  「昨日午後 アマギどっさり トロ箱で 私の仕事 少々難儀」

  「銀鱗の 輝くアマギ 塩焼きか から揚げ思う 結果は煮付け」

  「そこここに 藁しべ長者の ようにして お裾分けする 喜ばれつつ」

  「魚食系 故にこの町 住みやすい 毎日食卓 魚の料理」

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人間牧場

○路地植えのブルーベリーが豊作でした

 極度な酸性土壌を好むため、露地栽培は難しいといわれているブルーベリーですが、わが家の庭で栽培しているブルーベリーはその言い伝え通り、親友の西岡さんに植えてもらった鉢植えそのものをを並べて栽培していますが、肥料やりや夏場高温期の水やリがそれはもう大変で、これまでにも何度か水を切らし枯らしてしまいそうになりました。もうこの時点でブルーベリーの栽培を断念しようと思いましたが、西岡さんのご好意に報いなければと、今のところまだ頑張っていますが、そろそろ限界のようなのです。
 8鉢あるブルーベリーの1本が今年の梅雨時期から様子がおかしくなり、ついには枯れてしまいました。言いにくいことながらそのことを西岡さんに報告すると、苗があるので差し上げるから植え替えるようにとの助言をいただいていて、これまた引っ込みがつかなくなってしまいました。

名残の夏雲が湧く夕やけこやけライン界隈

 実は人間牧場の斜面を利用して、実験的にホームセンターで買った小さなブルーベリーの苗に加え、玉川町の友人からいただいた苗を10本ほど植えていますが、人間牧場の土質は大まか赤土で酸性と思われることから、露地栽培に適しているのかも知れないとの勝手な思い込みからでした。残念ながらその後の生育は、路地植えゆえ水こそやらないものの、施肥をしたり草を引いたりして少しだけ世話をしていますが、路地栽培はやはり無理かも知れないと思わせるように、中々生育してくれないのです。
 ところが蜂の師匠である井上さんから借りている蜂の巣箱を挟んで植えている2本だけは、どういう訳か勢いがよく順調にその背丈を伸ばし、今年は沢山の実をつけたのです。

 

たわわに実ったブルーベリー

 只今その巣箱には入口に蜂が群がるほどいますが、ひょっとしたらこの蜂たちがブルーベリーの花に群がって自然交配をしたのではないかと、これまた勝手に推測しているのです。今年の夏は例年になく人間牧場へ多くの人が訪れました。その都度自慢するようにブルーベリーの実を、皆さんに収穫してもらい食べてもらいましたが、ブルーベリーの木の直ぐ傍でミツバチがブンブン飛び交っているため、刺されたら大変と思うのか、皆さんは早々に引き上げるのです。それでもサイコーダイガクやまちづくり双海人などの催しの時は、私がボールに摘み取って冷蔵庫で冷やして食べてもらいましたが、美味しいと多いに好評を博しました。

名残の完熟ブルーベリを沢山収穫しました

 一昨日人間牧場周辺の道沿い草刈りをやった折、蜂の巣箱を観察していると、たわわに実ったブルベリーが目に留まり、作業を終えてから摘み取りました。これが何と何とステンレス製ボールに二つもあったのです。妻の手土産に持ち帰りましたが、わが家の鉢植えはもうとっくに収穫を終えているため少し驚き、時ならぬ思わぬブルーベリーのプレゼントに大喜びでした。早速洗ってつまみ食いをしていたようでしたが、食べ切れなくて、半分以上を冷凍保存しました。妻は今年ブルーベリーを使ってジャムを沢山作ってくれていて、毎朝の食卓でアントシアニンの濃い紫色のジャムを、目にいいと思い込みながら、パンにつけて食べているのです。わが家のブルーベリーもそろそろ鉢植えから、路地植えに変えるべき時期に来ているようです。

  「路地植えは 無理だと聞きつ 天邪鬼 ミツバチ味方? 順調育つ」

  「紫の アントシアニン 目にいいと 言うからパンに 塗って食べてる」

  「この三年 水やり欠かさず したものの そろそろ限界 妙案ないか」

  「完熟の ブルーベリーを 頬張って 美味い美味いと 妻と二人で」

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人間牧場

○私の9月の自画像

 先日行きつけの散髪屋さんに男前を上げに出かけました。定期ではなく不定期ですが、私の場合は髪型が短いタイプの散髪なので、髪が少し伸びると耳にかかって煩わしいし醜いので、大体月に一回程度は散髪をしています。最近は省エネ散髪というのがあって、千円そこそこで散髪をするお店が隣の街にはあるようで、小遣いが少なくなった退職組は、出かけたついでに利用しているようですが、私は慣れ親しんだ地元の散髪屋で、慣れ親しんだ髪型にしてもらっています。私が「散髪に行く」と言えば家族全員が私の頭を見て、「どこを刈るの」と笑われますが、それでも一回の散髪料が3400円と、省エネ散髪に比べれば3倍ものお金を払って、男前に磨きをかけているのです。

 散髪くらい気持ちのいいものはないのでしょうか、私は日ごろの疲れもあるのか、僅か50分くらいの短い時間なのに、殆んど毎回ついウトウトと浅い眠気が襲うのです。「すみません。つい眠くなって」と断わるのですが、散髪屋の大将に聞くと殆んどの人が、私と同じような行動をするというので少しばかり安心し、同じ事を繰り返しているのです。
 散髪屋さんのリグライニング椅子に座り正面の鏡を見ながら、大将の鋏さばきを見ながらする世間話も、中々面白い私の知らない話が多く、昔から散髪屋と風呂屋は色々な人情話や世間話に花が咲くというのは、どうやら本当の話のようです。髪を切るのは大将、顔を剃ったり洗ったりするのは奥さんで、二人の息もピッタリです。

これが私の今月の自画像です

 散髪が終わりをむかえるころ大将が、「若松さん、あなたは白髪が少ないですね」と誉めてくれました。その言葉に促されて鏡を見ると、確かに私の髪は時々「染めているの?」言われるほど、歳の割には白髪が少ないのです。もうこの歳になると白髪や禿が目立つものですが、まだ禿た部分も見当たらず、大将に「顔が悪いのですからせめて髪の毛ぐらいはよくないと」といって、多いに笑わせました。
 最近はストレス社会とでもいうのでしょうか、若い人でも髪の悩みを持った人が多く、また「娘脱毛母育毛」とか、「日本人だが何故茶髪」と笑い話があるように、髪の話題は留まるところを知らないのです。まあ若い頃は別として歳をとったらそれなりに、白髪になりそれなりに禿てくるのですから、そのままを受け入れて、それなりに生きればいいと思うのです。

  「散髪屋 大きな鏡 映る俺 歳相応と 自分納得」

  「そういえば 白髪少ない 気もするが 白髪増えても 染める気もなし」

  「顔悪い せめて頭は 人並みと 笑いながらも 散髪進む」

  「この顔で 六十七年 生きてきた これから先も この顔宜しく」

 追伸 数年前からブログにて自分の顔を月一程度記録することを始めています。「何て馬鹿なことを」と思うでしょうが、実は自分くらい自分を知らない人間はいないことに気がつきました。そこで折々に自分の顔写真をデジカメの自動シャッターを使って撮っています。こうしておけばいつ死んでも、遺影が間に合う手はずです。(大笑い)「自分で自分の写真を撮る人なんて聞いたことがない」と、妻の口をして呆れさせています。

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人間牧場

○とさ旅セミナーin仁淀川番外編に招かれて

とさ旅セミナーin仁淀川番外編のチラシ

 講師派遣申請に左のような案内状が添付されたメールが私の元に届きました。口つきは年輪塾の塾生である高知県地域観光課の依光香代子さんと、7月18日に高知県仁淀川地域観光協議会主催の講演会で私の話を聞かれた、同じ地域観光課の竹崎由美さんからの依頼でした。
 高速道路のなかった昔は、高知へ行く場合は全て三坂峠を越え、久万町経由の一般国道33号線を約3時間車で走って高知入りしていましたが、高速道路ができてからは、距離的に遠いはずの松山道路と高知道路を川之江ジャンクション経由で行った方が時間的に約1時間も近いのですから驚きです。
 でも古いタイプの人間である私には、馴染みの深い知人友人のいる久万街道や、山道を縫うように走る土佐街道をのんびり走る方が性に合っていて、少し時間の余裕があれば、時々33号線を利用するのです。

 昨日も砥部町と久万高原町の友だちにお裾分けの魚を途中で下ろす言い訳を作って、少し早めの6時30分にわが家を出て、国道33号線を走ることを思いつきました。言い訳どおり砥部町と久万高原町で友人と出会って荷物を降ろし、この春開通した久万道路の恩恵を受けて、目的地である高知県日高村を目指しました。久万高原町、仁淀川町、越知町、佐川町と進むに連れて雨が降り始め、日高村に入るとその雨はさらに激しくなりました。
 竹崎さんから送ってもらっていた付近の地図を頼りに、近くの特産市に立ち寄り、店番のおばちゃんに酒蔵の場所を聞きながら、早速講演の前振りで使うネタを仕入れました。こういったお店のおばちゃんは結構地ネタを持った物知りの方が多く、何とまあおぼろげながら、私のことを知っていたのには驚きでした。
 何も買わないのは悪いと思い、妻の土産に一袋100円の新ショウガを5袋買い求めました。高知は南国らしくショウガの一大産地で、愛媛で買うと300円は下らないショウガが、3分の1の値段で買えたのですから、妻へのいい土産となりました。

日高村の酒蔵ホール
酒蔵での講演会

 目印の松岡酒店のすぐ裏に造り酒屋を思わせる古くて高い煙突が見え、下の道沿い空き地に車を止めて坂を登って行きました。門の中へ入ると古い建物の壁に文化庁の有形文化財の登録を示す表示が見えました。1時間も前の9時過ぎに到着したため酒蔵ホールはまだガランとしていましたが、間もなく竹崎さんがやって来て受け付けの準備をしていました。
 一番乗りで来られた黒潮町にある土佐佐賀温泉こぶしの里のマネジャー隅田深雪さんと、支配人の森田俊彦さんを交えて懐かしい話に花を咲かせました。隅田さんは今も松野町目黒に住んでいて、毎日1時間半の道程を職場まで往復しているそうですが、かつて森の国ホテルに勤めていたこともあって、私が若い頃は心を許して一緒に仕事をした懐かしい間柄なのです。
 そのうち仁淀川地域観光協議会の國嶋龍二さんや依光香代子さんも見えられ、素敵な酒蔵ホールでの講演は始まりました。私はこの日どうしても松山で開かれる予定の会議があって、13時30分までに到着しなければならず、無理を言って10分ばかり早く切り上げさせてもらいましたが、熱心な参加者に助けられて無事役目を果たすことができました。

  「高速を 走らずあえて 地道行く そこそこ初秋 風を感じて」

  「店番の おばちゃん何と 俺のこと 知っていたには 驚き隠せず」

  「安いなあ 思いつショウガ 買い求め 妻の土産は これで十分」

  「この道を 何度も通った 酒倉の 煙突あるを 知らず今まで」

依光香代子さんから明くる日送られてきた講演会の写真
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人間牧場

○久しぶりの金比羅さん参り

 金比羅さんの愛称で親しまれている、香川県金毘羅宮の玉垣と源太石の石柱調査という、何ともアカデミックな案内が、私も会員になっている双海史談会から届きました。予定表を見るとスケジュールは昼間空いているようなので、思い切って参加の返信を事務局の中尾先生宛に出しました。
 一行13人は午前7時30分に双海地域事務所の前に集合し、中尾先生と米湊さんの少し大きめの車2台に分乗し出発しました。昨日の朝はまずまずの天気の中を高速道路を順調に2時間余り走り、善通寺インターで降りて、参道脇のみやげ物屋兼食事処へ車を駐車し、早速竹の杖を借りて一行揃って長い長い石段を一歩ずつ、汗をかきつつ世間話をしながら登って行きました。

参道での玉垣調査

 

参道に堂々と立つ源太石の石柱

 史談会のメンバーの中には既に高齢者の人もいるので、道中が心配でしたがみんな元気な健脚ぶりを見せ、金毘羅宮の参道石段の両側に寄進設置している玉垣に、掘り込んだ寄進者の名前や金額に驚きながら立派な山門をくぐり、いよいよ見えてきた「大洲上灘」とか、「大洲串村」とか掘り込んだ名前の玉垣を探しながら歩きました。郷土の人が寄進した年代は江戸末期のため、刻まれた文字はかなり風化していて、一目見て判断するのが難しいほど苔むしているものもありましたが、この時期庶民には名字が許されておらず、また当時私たちの住んでいる地域は、大洲藩だったことから「大洲大瀧屋守兵衛」とか、「大洲串村塩屋弥太郎」等と屋号で書かれていました。それらの周りには上灘や串村といった、現双海町の人たちの寄進者名が沢山刻まれていました。

歴史的に価値の高い旭社
金毘羅宮本殿

 金毘羅宮中腹にある総欅造りの旭社について、居合わせたガイドさんの話を空耳で聞きました。金毘羅宮で一番最初に陽が当るのが旭社だそうで、二人の兄弟宮大工が40年もの時間をかけて造ったという建物は、世界遺産の日光東照宮の猿の彫刻で有名な、左甚五郎の作と伝えられる立派なものでした。その旭社から程近い所、お手水場の手前に、「伊豫洲浮穴郡上灘村・・・・・」と書かれた調査対象の巨大な源太石の石柱が2本堂々と立っていました。リフトやクレーン、トラック等なかった時代に、上灘翠校下の山奥からこの地まで、どういう方法でこの重い石柱を運び建立したのか、まさに信仰心が生んだミステリアスな物語なのです。史談会には古文書の読める人が何人もいて、読めない私はその話に聞き入りながら掘り込んだ文字を、感心しつつ目でなぞらえる程度でしたが、お陰様でいい勉強ができました。

讃岐富士の遠望

 その後700段を超える急な石段を汗をかきながら本殿まで登りました。私は財布から15円取り出し、つまり「十分ご縁がありますように」と賽銭箱に投入れ手をたたきました。讃岐富士や琴平の遠望を楽しみながら下りの道をゆっくり降りて、出発した店へ辿り着きました。
 ここで香川名物のうどんを、それぞれが注文して昼食です。私はザルうどん大盛り700円を食べました。うどんのコシも強くて美味しくいただきましたが、私は今回の旅で使ったお金は土産を買うこともなかったので、賽銭とうどんで僅か715円しか使いませんでした。食事が終ったころから雨が降り始めましたが、調査やお参りは運の強さや、金毘羅さんのご利益で濡れずにすみました。弾丸研修とでもいうべき強行軍のツアーは、約1時間も早くわが町に帰って着ました。楽しい旅でした。

 

  「玉垣や 源太石造 石柱を 調査目的 ツアーに参加」

  「三メーター 有に超すよな 石柱を どう運んだのか まるでミステリー」

  「全国に 知れた金毘羅 参道に ふるさとの人 石柱寄進」

  「調査より うどん楽しみ いい加減 こんな男が いるのですから」

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人間牧場

○気になる梅干しの塩分

 私は殆んど毎日梅干しを一個食べていますが、「そんなに食べて塩分の取り過ぎじゃないの?」と時々言われます。確かに普通の梅干しは20パーセントの塩分を含んでいて、小さな一個の梅干しでも2グラムの塩分があるのですから、やはり気になるのは当たり前です。梅干しに塩分が必要なのは、塩分の浸透圧によって青梅を成熟させてくさらせてしまう酵素を失活させ、腐敗を防ぐのです。塩分を少なくすると、その腐敗防止の役割が低下してカビが生えてくるため、昔から梅干しは長い間20パーセントというのが常識だったようです。

 最近スーパーや通販で8パーセントとか中には4パーセントという、信じられないほど減塩が売り物の、梅干しを売っていますが、これは20パーセントで漬け込んだ白干し梅を塩抜きして、調味し直したもののようです。減塩処理は塩だけでなく、水に溶ける成分が全て塩と一緒に抜けてしまいます。梅のエキスに多く含まれるクエン酸や身体にいい成分が失われた梅干しは保存が利きにくいため、保存料を加えなければならないため、脱塩によっていい物が失われ、不用なものが増えいるということを、知っておかなければなりません。もうひとつ、梅には本来カリウムが豊富に含まれていて、余分な塩分を身体から排泄する働きがあるのですが、これも水溶性のため塩と一緒に抜けてしまうのです。つまり梅干しを食べて体に残る塩分をプラスマイナスすると、数字で見るほど脱塩の効果はないことになるのです。

 わが家でも減塩梅干し作りに取り組んでいます。わが家では祖母の時代には25パーセントの梅干しを作っていました。さすがにこれは塩辛いので、17パーセントから18パーセントの塩に漬け込み、その分漬け込んだ梅にカビ防止用として、ホワイトリカーのアルコールを振りかけて、ナイロン袋で密封します。お陰様で少しだけではありますが減塩気味な梅干しが、昨年に続いて今年も出来上がりました。梅干しは紫蘇という天延色素を持った紫紫蘇を使うと、仕上がりが一段と綺麗です。菜園に植えた紫蘇を刈り取って塩揉みすることはさすがになくなり、今は塩揉みした紫蘇を仙波青果で買い求めて使いますが、この紫蘇を刻んでご飯に混ぜたゆかりのおにぎりは美味しくて、食欲をそそるのです。

 先日テレビを見ていたら、梅干しを食べる人は食べない人に比べ、ガンになりにくいという実証実験の結果が報告されていました。人は誰でも手前味噌な考えになるもので、この話を聞けば梅干しを食べている私のような人間は喜ぶし、塩分の取り過ぎがとやかく言われる成人病の人は、梅干しを仇のように言う人もいます。まあ程々が丁度良いのかも知れませんが、私は梅干し推進派なので今朝も梅干しを一個食べました。
 昔アルミでできた弁当箱にご飯を詰め、その真ん中に梅干しを入れたものを日の丸弁当と呼んでいました。長年同じ場所に梅干しを入れた弁当箱の蓋は、梅干しの酸で溶かされて、穴が開いた正統派の愛妻弁当箱をよく見かけたものですが、それも古きよき時代の思い出となってしまったようです。

  「梅干しは 身体にいいと ばあちゃんが 言ってた言葉 今も忘れず」

  「一日に 一個梅干し 俺食べる 自分と妻で 手作り梅干し」

  「減塩の 梅干し確かに 口当たり いいのだけれど 防腐剤入り」

  「孫二人 俺に似たのか 梅干しを 食べる習慣 直すべきかも」

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○夕焼け村からのハガキ

 9月4日の消印で、2枚の夕日の写真絵葉書がわが家に届きました。見覚えのある夕日の写真絵葉書ハガキは、地域振興課長と観光協会事務局長を兼務していた頃、私が手掛けて作った絵葉書なので、少し驚き少し懐かしい気持ちになりました。そしてそのハガキの差出人が、通学合宿「夕焼け村」に参加している子どもたちからであることは容易に想像できました。
 一枚は94歳の親父に「お元気ですか、私は元気です。今日はビンゴをします。欲しいものが当るといいな。またパンと煮豆を持って行くけんね。待っとってね。」でした。

吉永有希ちゃんからのハガキ

 私へのハガキには、「先日は夕日の話をしていただき、ありがとうございました。夕焼け村最後の金曜日(7日)に、お別れパーティにバーベキューをしますので、午後6時までに夕焼け村までおこしください。」と書かれていました。この日は夕方県外から仲間がわが家に来ていて、あいにく予定が塞がっていましたが、折角のご好意なので、わが家からほんの5分ほどの潮風ふれあい公園なので、単車に木になるカバンを積んで出かけました。昨日は午後3時頃から短時間ではありましたが、雷がバリバリと近くで鳴るかなり激しい雷雨があって、野外での開催が危ぶまれましたが、ハガキの案内どおり午後6時に公園へ出かけて見ると、雨上がりの爽やかで心地よい風が吹く中、潮風ふれあいの館横の広場では、早くも焼肉パーティーが始まっていました。

潮風ふれあい公園から見えた昨日の夕日

 早速促されて群れの中に加わりましたが、私が夕日の話しにやって来たのは一週間前でしたが、この一週間で仲間作りもでき、リーダーたちとのコミュニケーションもよくできて、わき相々でした。いわゆる寝食を共にする集団宿泊訓練の効果は抜群で、子どもたちもこの一週間で親離れができて、すっかり逞しくなったような印象を受けました。
 この日も少々高沈みの感じはするものの、諦めかけていた綺麗な夕日が雲間から顔を覗かせ、子どもたちから歓声が上がりました。今年は全てがにわか雨にたたられながら、夕焼けコンサートといい、一週間前と昨日の夕焼け村といい、夕日は私にほほ笑んで、とてもハッピーでラッキーな気持ちになりました。

バーベキューを楽しむ子どもたち

 パーティの最中、人のいないふれあいの館ホールに入ると、谷川俊太郎の朝のリレーという詩の周りに、色々な詩の貼り紙が貼ってありました。担当の赤石主事さんに私が電話で少しアドバイスをしただけで、坂村臣民さんの詩等が手書き文字のようなタッチで、プリントされて貼られたのです。これらの言葉は子どもたちへの心のメッセージとなるはずです。できれば来年は子どもたちに俳句や短歌、詩、言葉などを作らせて、貼ってやると心のささやきがメッセージになるに違いないのです。
 子どもから親や知人へ、親から子へとハガキを出し合う作戦は、元はといえば私が無人島キャンプで石や流木に文字を書き、「無人島からの便り」として使った作戦を、夕焼け村にもアドバイスして始めたものです。夕焼け村の進化のお役に立つために、もっともっと多くのアイディアを出さなければと思いながら、来客を待たせていたので1時間ばかり過ごした後、公園を後にしました。

 

  「有希ちゃんと いう女の子から ハガキ来る 嬉しくなりて のこのこ出かけ」

  「今年は 全てラッキー 夕日見え 心に残し 写真に収め」

  「寝食を 一週間も ともにする まるで兄弟 親子のようだ」

  「ちょっとした ことを電話で アドバイス 直ぐに実行 見上げたものだ」 

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○昭和は古くなりにけり(写真が語る昭和史③)

 私たちが子どものころは戦後間もないこともあって、子どもの数がとても多く、私は昭和19年生まれですが、19年と一つ歳下の昭和20年生まれとは子どもの数が少ないものの、いわゆる団塊の世代といわれるその後の人たちは、小さな下灘村であっても同級生が3クラスもあるほどでした。私の家のある10軒組内には孝子さん、照子さん、満子さん、孝ちゃん、徹ちゃん、コズエさん、憲義ちゃん、それに私と8人も同級生がいたのですから驚きです。学校も賑やかでしたが、学校外でも同級生とは工夫した遊び道具で多いに遊びました。男の子は小枝の先を細く削って地面に投げて突き刺すネンガリとか、ビー玉、パッチン、凧揚げ、馬乗り、かくれんぼ、陣取り合戦、キビチ、海に向かって石投げなど、今の子ども世界とは程遠い遊びをしていました。

今は懐かしい紙芝居風景

子ども会も各集落に合って、土曜日は近くの公民館に集まり勉強をしたり、色々な取り決めをして遊んでいました。運動会が近づくと分団リレーの学年毎の出場者を決め、砂浜に出てバトンの渡し方の練習もしましたが、私の所属する下浜は、隣の上浜といつも競り合って、運動会には親どおしがその結果で喧嘩する一幕もあるほどだったので、みんな真剣そのものでした。
 子どもたちにとってお節句、お盆、亥の子は特別の日でした。お節句が近づくと仲間が集まり山の薮の中の適当な場所に、隠れ家のような陣地を作りに何日か出かけました。お節句には巻き寿司やおかずの入った重箱弁当を持ってその場所に出かけ、多いに楽しみました。節句・盆・正月は子どもたちにとって、日常は麦飯やイリコ、コンコでしたが、おご馳走が食べられる特別な日だったのです。お節句の二日目も残り物を入れてもらい陣地で一日中過ごしました。

 

 お盆は子ども連中が食材を持ち寄り海岸に石でかまどを作り、盆飯を炊いて食べました。悪ガキが海に潜るとサザエやアワビが沢山獲れ、つぼ焼きにしたりして贅沢にも腹を満たしました。晩秋から初冬にかけて亥の日に行なう亥の子は、上級生が元帥や大将などと呼ばれ、低学年は重い大きな石製の亥の子に、自宅から持ち寄ったマイ縄を何本もくくりつけ、各家々の軒先を回って、「亥の子餅をついて、一に笑顔を振り撒いて、二でにっこり笑って、三で盃作って、四つ世の中酔うように、五ついつもの如くなり・・・・などと、訳も分からない掛け声をかけながら、夜遅くまで家々を回って軒先に大きな穴を開けて進みました。各々の家では祝儀を貰うので、最後の決算日は元帥の家がお宿となって、イカ飯を炊いてご馳走してもらい、祝儀袋を開けて紙にその結果を書き込み、分配を決めましたが、元帥と大将が殆んどを分け取りしてしまい、下級生は言い訳程度の分け前でしたが、大きくなったら元帥や大将になれるのだからと、羨ましいながらも我慢しました。

 今は子どもの数そのものが減って、子ども会等できず廃れていますが、子どもの自治組織は上が下の面倒を見て、いじめ等殆んど無い地域の立組織として大きな役割を果たしていたのです。子ども自身の組織も恒例行事も、また創作遊びも私たちの周りから完全に姿を消してしまいましたが、そんな少年時代の経験や思い出を持っている私たちは、幸せとしかいいようがないのです。
 今の子どもは子どものころから塾に通い、遊びも室内でゲームや既成の遊びしかしないのです。群れて屋外で遊びたくても子どもがいないのですから仕方がありません。わが家には5歳と3歳の2人の孫がいますが、保育園に朝連れて行き夕方帰ると隣近所に遊び相手がいないため、人数の少ない保育園が唯一の子ども社会なのです。
 子どもは子ども同士や遊びの中から様々な社会ルールを学びますが、今の子どもたちが社会のモラルを知らないのはひょっとしたら、ここに原因があるのかも知れません。私たちの暮らしは豊かになりましたが、気付かない内に、何か大きな音のしない落し物をしているようです。

  「町中に 子どもの笑顔 あったっけ いつの間にやら 年寄りだけに」

  「年経ても 子どものころの 思い出は 思わずウフフと 笑いたくなる」

  「あの人も 先にあの世へ 旅立った 遊び仲間も 今はちりじり」

  「子ども居ず 遊びたくても 遊べない 日本の将来 どうなるのだろう」

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○俳誌「花信」9月号に載る

 愛媛新聞カルチャースクールで、「街中の人間牧場移動塾」という講座を始めて6ヶ月半年が経ちました。愛媛新聞から開講のお誘いを受けた時、毎月一回にしろスケジュールが上手く合うだろうか、またこんな講座を開いても果たして人が来るだろうかと、半信半疑で随分迷いましたが、根がお人好しでポジティブな性格なので、自分の引き出しにどれほどの知識や智恵があるのか、自分を試すいい機会だと思い、後先も考えずに引き受けてしまいました。
 いざ蓋を開けてみると案の定、私の心配は的中しました。私のスケジュールは毎月第一火曜日10時から12時までとあって、まるでエアーポケットのように何とか確保できたのですが、肝心の受講生が最初2人しか集まらず、予想をしていたこととはいえ、このまま没になるだろう思いきや、愛媛新聞のカルチャースクールは、たった一人でも申し込みがあれば開くそうなので、とりあえず見切り発車となったのです。

 だいたい平日火曜日の10時から12時まで、空いている人などいるものではないのですから、むしろ2人の人は余程暇か物好きだと思いきや、お姉さんが弟を誘うといった兄弟ペアーでした。その後友人の浜田さんや3人も加わり、今では法托実践の宜しきを得て受講生も6人となり、それなりの設えで講座は多いに盛り上がっているようで、とりあえずホッと一息といった感じです。
 3ヶ月前宇和島から、パワフルな脇谷梨花さんという女性が加わりました。脇谷さんは片道2時間かかる距離をバスで通ってくれています。何よりも愛猫家と自認する動物愛護家、それに花信という俳誌の同人として活躍する俳人なのです。インターネットで検索すると、宇和島のコミュニティFMの俳句コーナーで、毎週パーソナリティもやっている、とても元気な明るい方なのです。

 

俳誌「花信」9月号

 先月は講座の休憩時間に参加者全員が、脇谷さんの指導で一句作りました。何と何とその句が100ページに及ぶ「花信」という俳誌9月号に、脇谷さんの配慮で掲載して貰ったのです。9月4日の講座日にその俳誌をみんなにいただきましたが、私の一句等お恥ずかしい次第です。ちなみに105ページに載った私の句は「手をつなぐ孫と私の残暑かな」でした。
 私は毎日、私が勝手に決めた「笑売啖呵」という31文字の短歌風歌を、ブログ記事の後に4首載せています。即興で何の臆目もなく思いつくまま書いていますが、一日4首×2ブログ記事ですから、一日8首も作っていて、これは一ヶ月で240首にもなり、一年で2880首ですから驚きの数字なのです。

 脇谷さんとの出会いは、俳句という思わぬ出会いになりました。既に見山あつこさんが主宰する松山五行歌に友人に誘われ入会して、毎月一歌ながらメールで送っていて、俳句の世界に進出するような能力も暇もないのですが、俳句もまたそれなりの味があると思うようになりました。
 脇谷さんからいただいた100ページを超える分厚い俳誌を、思いつくままページをめくっていますが、俳句王国愛媛らしく、世の中には何と大勢のアカデミックな生き方をしている人が多いのでしょう。私などまだまだ修行が足らないとしみじみ思いました。
 カルチャースクールで出会った脇谷さんからいただいた名刺に、虫眼鏡でしか見えない小さなメールアドレスが書かれていました。私は虫眼鏡で見ながら書き写して、恋人に恋文を出すような気持ちで、3句したためメールを送りました。添削して一句返信が届きました。その結果は一ヵ月後に・・・・・。

  「俳人に 出会い俳句を 勧められ 作った一句 俳誌に載りて」

  「『手をつなぐ 私と孫の 残暑かな』 こんな一句も 俳句だろうか?」

  「講義する 私に講義の 受講生 俳句薀蓄 反面教師」

  「ポジティブに 生きれば転び またそこで 何かつかめる だから楽しい」 

 

 

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○昭和は古くなりにけり(写真が語る昭和史②)

 古い写真は時代を語る語り部だとしみじみ思います。今のようにカメラが普及していなかった子どものころは、どの家も貧乏でカメラ等なく、私たちが日常的に写真に写ることも殆んどなく、学校の記念写真に納まる程度でした。私がカメラを持ったのは水産高校時代、それも親類の叔父さんから譲ってもらった一眼レフの古いカメラで、そのカメラを持って実習船愛媛丸に乗船し、南太平洋へ遠洋航海にでかけましたが、残念ながらその時の写真は手元に僅か一枚しか残っていないのです。

 

昭和30年当時の3丁目の浜から見たお旅の松

 先日史談会で「えひめ、昭和の街かど」という講演を聞きました。その折スライドで紹介された双海町上灘付近の風景写真の一枚が目に留まりました。
 この写真は現ふたみシーサイド公園辺りから撮影されたものですが、まだ港も整備されておらず、道も県道だったため商店街を通っていました。砂浜には生簀という魚を活かす竹で作った大きな籠が引き上げられていて、ひっくり返された船も係留されている船も全て木造船なのです。

 最も目を引くのは天一稲荷神社の前にこんもりとした松が見えることです。この場所はお宮の前だったことから宮崎(宮先き)とかお旅と呼ばれていましたが、そこには大きな松の木が何本かあって広い緑陰でした。そこには昭和10年頃寿座という回り舞台や花道まである常小屋があり、戦後は海栄座と改称されたそうですが、娯楽とて殆んど無かった時代なので多いに繁盛していたようです。県道が国道に昇格し、国道のバイパス工事や松くい虫の被害で松の木は全てが跡形もなく無くなりましたが、上灘駅界隈の桜並木とともに風情のある海岸線だったようです。

宮崎劇団の演劇上演風景

 この写真は当時五丁目の人たちが宮崎劇団という劇団を作って常小屋で公演をしている様子です。その後演劇は映画に変わりましたが、東峰や高岸の人はテーラーで引っ張る台車にムシロを敷いて乗り合わせ、見にやって来たそうです。
 いずれも古きよき時代の思い出でしょうが、長閑な中にも文化の薫りを感じさせてくれるのです。その映画もテレビの普及によって姿を消してしまいました。

 

 

 

  「風景も 人の暮らしも 一変し 僅かな記憶 写真しかなく」

  「松の木や 桜並木が 風景を つくった昔 今はいずこぞ」

  「悲しいが 時代は後に 戻れない 残し伝える せめて写真で」

  「語る人 次第に数が 減って行く 記録留める これぞ史談か」 

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