人間牧場

〇孫の子守と公民館まつり

 昨日は午前中2時間だけ内孫二人の子守を頼まれました。息子は建築関係のセミナー出席、若嫁は仕事、妻は美容院へパーマとそれぞれがそれぞれの所用があって、結局午前中スケジュールが開いている私に、お鉢が回ってきたのです。仕方なくではなく進んで孫たちの面倒を見ることにしましたが、妻から「孫から目を離さないように」ときつく注意をされていたので、何はともあれ孫たちをしっかり見ておこうと思いました。
 孫と午前中の短い時間にせよ、過ごすのは久しぶりなので、部屋で怪獣ごっこやカルタ取り等をして遊びました。3歳と5歳になった孫は平仮名も読めるようになって、読み手の私より早くカルタを取り、有頂天になっていました。

 やがて地域事務所周辺で開かれている、「公民館まつり」に出かけようということになりました。昨日は寒かったものの天気がよいので、3人で歩いて氏神様である天一稲荷神社にお参りして会場へ行きました。既に餅つきやドン豆、魚屋が賑やかに店開きしていましたが、孫たちの目はおもちゃを売る出店に向いていました。漁協女性部の北風部長さんにじゃこ天を一枚ずつ貰って孫は食べていました。
 その後消防署の展示場でフーセンを貰い、トレセンの中の展示場へ入りました。ここには孫二人の作品が飾られているのです。孫は自分の作品を指差しながら得意げに説明してくれました。爺馬鹿とでもいうのでしょうか、孫の作品はピカソの絵に似てますが、中々の出来栄えに感心しました。

お父さんの似顔絵(奏心作)
運動会の思い出(希心作)

 児童館コーナーで楽器作りに挑戦したりして時を過ごしましたが、財布を持ち合わせていなかったため、多少不満の孫たちを連れて自宅に帰り、既に美容院から帰っていた妻と四人で、今度は車で公民館まつりに出かけました。まず保健センター前でバザーの行列に並んで、うどんとカレーを予め買っていた食券と交換して、テントの下で食べました。うどんもカレーもとても美味しく、孫たちも満足の様子でした。顔見知りの知人たちが出店しているので、ワッフルやジュースを飲んだり、孫の展示を含めて見学して外に出ました。私は春慶塗のお盆と木製の印鑑箱をフリーマーケットで、それぞれ100円で買い求めました。孫たちも300円のくじでプラスチック製の刀をゲットして満足げでした。
 会場広場では大型トラックの荷台を利用したステージも用意され、芸能や発表会が賑やかに行われていました。天気がよくて主催者の皆さんも大満足のようでした。

春慶塗のお盆と木製の印鑑入れ

 

  「孫の守り 頼まれ孫と 久しぶり 会話しながら 楽しく過ごす」

  「公民館 まつり見学 のんびりと 天気もよくて 孫と手つなぎ」

  「フリーマー 春慶塗と 木製の 印鑑箱を 目敏くゲット」

  「孫の絵は まるでピカソと 思うほど 出来栄えよくて 爺馬鹿ぶりを」

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人間牧場

〇松山市から女性の視察団がやって来ました

 このところ少し遠のいていた、視察研修の一行が昨日の午後やって来ました。視察研修を受け入れるパターンは、地域事務所を通じる場合と私に直接依頼される場合、それに漁協女性部などから依頼される場合がありますが、昨日は最初漁協女性部の北風部長さんから打診があり、了解したその後、団体を引率する松山市役所から講師依頼がありました。事前の打ち合わせも殆んどしないまま当日を迎えたものの、多少不安だったので午前中に会場となるシーサイド公園へ出向いて様子を伺い、一旦帰宅して昼食を済ませ、再び10分前にイベントホールへ到着しました。

 視察団体は松山市漁協女性部の一行で、既に上灘漁協女性部手作りの弁当をイベントホールで食べ終わり、私の来るのを待っていました。早速私の話しを始めましたが、私と漁業の関係は①私が生まれたのが下灘という漁村、②私が卒業したのは宇和島水産高校、③私自身も7年間漁師をしていた、④母親が漁協婦人部長だった、⑤役場で水産行政を4年間担当し、下灘漁協魚市場や上灘漁協漁村センター建設に携わった、⑥シーサイド公園や豊田漁港周辺整備事業を行なったことなど、思い出しても思い出せないほど、片手指で数えて余るつながりがあるのです。

 そんな話を含めて1時間10分ばかりお話をしましたが、参加者の中には顔馴染みのおばちゃんが沢山いて、楽しい笑いの中でお話を終えました。皆さんは人間牧場へも行きたいリクエストがありましたが、残念ながらバスが大型なため乗り入れすることができず、次の機会ということで今回は諦めてもらいました。話が漁協女性部のあり方についてだったため、皆さんは前もってじゃこ天の注文をされていて、講演が終わるとそのじゃこ天を受け取りに店まで来られ、かなり混雑したようですが、売り上げに貢献できて何よりの成果でした。

 私もお昼前立ち寄った時、かなり立派な女性部手作りの弁当までいただき、また帰りには私の大好物の魚のすり身つみれを、1パックお礼にいただきました。私にとってじゃこ天のお店や上灘漁協女性部の皆さんとは、20年前シーサイド公園を造る時以来、着かず離れずパートナーシップを保ち、退職した今もその関係は続いているのです。女性部が愛媛新聞賞や農林水産大臣賞をいただいたことを思い出しながら、よくぞここまで成長してくれたと感心感謝しています。これからも求めに応じ心を込めて協力したいと思っています。

  「久しぶり 笑顔で声を 掛けあって 和気藹々の 視察受け入れ」

  「そういえば 私と漁業 つながりは 五指に余って あれやこれやと」

  「女性部と 聞けば母親 思い出す 活躍したが 今は天国」

  「夕食に 貰ったつみれ 汁が出る 美味い美味いと 夫婦フーフー」 

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人間牧場

〇お寺での講演会

講演会告知のチラシ

 私はこれまでに高知刑務所や東大など、色々な所へ講演に招かれたことがありますが、最近異色な所としてはお寺さんがあります。お寺さんからお話がある度に、少し躊躇をするのは正直なところです。なぜならばお寺の住職さんは、仏教の中から生まれてきたような人が多く、葬儀や法事など仏事全般において説教に馴れているのです。そんな所で浅学菲才な私が、まるで首実検をされるような真似はできないのですから、自信がないのは当然だと思うのです。それでも私は「呼ばれたら刑務所以外何処へでも行く(実は前述どおりこれまでに高知刑務所へ話に行きました)」を実践しているので、昨日は松前町神崎にある晴光院という曹洞宗のお寺に講演に出かけました。

山門入口にはおこがましくも看板が立っていました

 このお寺の近くに叔父・叔母の家がありますが、その叔父・叔母も2~3年前に亡くなり、仏事の度にこのお寺を訪ねたり住職さんのお話を聞いたり、時にはぶらり一人で叔父・叔母の墓参りをしている、いわば馴染みのお寺なのです。また今年の4月22日にはこのお寺で牡丹茶会という催しがあって、孫を伴い参加をしているのです。
 10時からの講演なのでお約束の30分前きっかりに山門に到着しましたが、山門入口には何と「若松進一さんの講演会」という看板まで立っていてビックリしました。
 牡丹茶会の時に案内された茶室風の部屋に案内され、住職さんや奥さん、それに檀家代表の方などが入れ替わり立ち代りごあいさつに見えられ、その都度会話しながら、出されたお饅頭と抹茶をいただき時を過ごしました。
 やがて時間が来たので本堂へ案内されて入ると既に沢山の方々が座って待っていました。参加者の中には知人や友人も何人かいて、軽く会釈をしましたが、内心知っている人の前では話しにくいと思いましたが、住職さんのあいさつに続いて演台に立つと、それさえも忘れて話し始めました。いつものようにアドリブながら、時には笑いを誘い、楽しく100分近くも話して終いました。

講演前の本堂の様子

 講演終了後控室に通されて奥さん手作りの昼食をご馳走になりましたが、具沢山のバラ寿司も、添えの揚げ物も美味しくて完食してしまいました。食事には遠路西条市丹原町から来られた竹細工の方と同席しましたが、丹原町に住む私の友人たちととても深いご縁があると聞いて、話は多いに盛り上がりました。
 私はその後所用があってお暇しましたが、今日も忘れられない思い出となりました。これも仏様の導きかも知れません。
 自宅に帰ってから夕方、あいさつもせずに帰ったものですから、参加してくれていた従兄弟夫婦にお礼の電話をかけました。

 

 

 

 

 

 

 

  「本尊の 鎮座見守る 本堂で こともあろうか 私が講演」

  「山門に 看板花を 添えられて おこがましくも 私の名前」

  「あの人も この人も笑顔 会釈する 知り人多く 少し尻込み」

  「気がつくと 全て終わりて 恥をかく 諦めながら 山門を出る」

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人間牧場

〇只今野菜作りに熱中しています

 これまで親父に任せきりだった家庭菜園での野菜作りは、94歳の寄る年波には勝てず親父が少しずつ撤退し始め、その比重が私に移りつつあります。今年は春先から今日まで、そのことを認識させられた一年でした。私は土いじりが嫌いではありませんが、家庭菜園での野菜作りは雑草と害虫と病気との闘いです。ほおっておくとこれら3悪人に乗っ取られてしまうのです。野菜作りの基本は安心と安全ですから、手間を惜しんで除草剤で済ませたり、病害虫対策として農薬を散布することは、極力止めなければなりません。全て難敵なので少し対応が遅れると、余計な労力がかかってそれらの餌食になり、私たち家族の口に入ることができないのです。

 

草引きを終えたホウレンソウ畑

 昨日はホウレンソウの中の草引きをしました。最近は素人ながら市販で買った野菜の種を、ずらし蒔きする術を覚えたので、ホウレンソウも春菊もカブ菜も、2回に分けて播種しましたが、早く蒔いたホウレンソウはハコベ草が沢山生えて、草に埋もれるような状態になったので、草引きに挑戦しました。ホウレンソウの新芽に柔らかいハコベ草が絡みつき、注意をしないと折角生えたホウレンソウを一緒に引き抜いてしまうのです。打ち鉤のような草引き専用の道具を使い、中腰で引き抜くのですが、これが結構ひざや腰に負担がかかり、6畝の草を引くのに3時間もかかってしまいましたが、何とか綺麗になりました。ずらし播きしたもう一方のホウレンソウは、鍬で根寄せしたり中興して草を抑えましたが、いやはや大変です。

 草引きをしていると妻が電話だと呼びに来たり、ポケットに忍ばせた電話が鳴ったりするものですから、その度に作業を中断しなければならず、汚れた手を首に巻いたタオルで拭いて対応しました。今朝は昨日草を引いた畑を見に行きましたが、中々綺麗に手入れができていて、ホッとしました。
 このところの穏やかな陽気に誘われて、キャベツに青虫が発生しているようで、緑色の葉っぱと保護色の青虫は、よく目を凝らして見ないと見つからないのです。昨日は20匹も見つけて取り除きました。今になって親父の苦労が垣間見えますが、昨日は親父も鍬で周囲の草を削ってくれていました。水戸黄門などの時代劇を見るのが楽しみな親父は、3時半になるとさっさと引き上げてしまうのです。
 昨日は私の作った春菊やチンゲンサイが、食卓を彩ってくれました。近所や親類への野菜のお裾分けも始まりました。

  「草と虫 それに病気は 三悪人 家庭菜園 骨が折れます」

  「虫食いは 虫が食うから 安全と 勝手な解釈 しながら食べる」

  「草引きは 腰・膝痛く 堪えます 手入れ正直 野菜豊作」

  「年老いた 親父の苦労 垣間見る 私にゃとても 真似ができぬと」

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人間牧場

〇今日は散髪に行きました

 私はどちらかというと、頭は丸刈りなショートカットのため、大体1ヶ月に一回程度馴染みの理髪店へ散髪をしに出かけます。もうこの歳ですからそんなに小まめにやらなくても、人に迷惑をかける訳でもないので、たいがいでいいと自分では思うのですが、まだこの歳になっても講演等に出かける機会が多いので、相手に不快な思いをさせないように、せめて散髪くらいはした方がいいと、妻が勧めてくれるものですから、それもそうだと自分自身が納得して出かけるのです。
 今日は朝一番に散髪に行こうと昨夜から決めていたので、田舎の散髪屋は朝から混んでいないだろうと鷹を食って、いつもの通り予約もなしに午前8時30分に理髪店に入りました。この店のお客になったのはアメリカから帰った明くる年の昭和52年ですから、もうかれこれ35年になりますが、大将の髪が薄くなったり、奥さんが少し歳をとったくらいで、店の設えも散髪の仕方もまったく変わっていないのです。

 

散髪して男前を上げた私の似顔

 奥さんに促されて3席の真ん中へ座ると、切った髪の毛が付着しないようマントのようなカバーがかけられ、髪をぬれタオルで拭き、直ぐに大将にバトンタッチして、頭の下半分を電気バリカンで切り落とし、その後はハサミと櫛で刈って行くのです。椅子の前の大きな鏡に写る、自分の姿が変容していく姿を眺めながら、大将と世間話をするのですが、いつものことながら日ごろの疲れが出るのか、ついウトウトしてしまうのです。
 やがて頭を刈り終わると奥さんが髪の毛を払い落として片付け、マントを取って顔剃りに入りました。自分の妻でもこんなに頭や顔を撫でたりさすったりしてくれないのに、奥さんはしっかりとケアーしてくれるのです。洗髪を終えドライヤーで髪を乾かし、香料を振りかけて一丁上がり、50分で3400円の散髪料を支払い、お礼を言って理髪店を出ました。

 昼に家に帰った妻は、私の凛々しい姿に目を細めて、「お父さん、男前が上がったね。これで松山でも東京でも、何処へでも行けるね」と冷やかされました。最近は伊予市街の理髪店の中には1100円という超格安のお店もあるようで、知人は「年金暮らしなので格安の散髪屋に替えた」などと自慢をしていますが、その癖呑みに行ったりゴルフに行ったりしているのです。
 私は少々高くても散髪屋を替えるつもりはありません。散髪屋は地域の情報源といわれるように、様々なことを教えてくれるのです。それらの話題に対する対価だと思うと安いものなのです。さて男前が上がったところで、明日は隣町のお寺さんへお話を頼まれているので出かけます。お寺から講演の依頼がある度に、妻は「説教が仕事のお坊さんの前で何を話すの?」と不思議がられますが、話す私でさえ不思議なのですから、妻が不思議がっても不思議ではないのです。

  「散髪屋 月に一度の 散財で 男前上げ 鼻を高々」

  「散髪を すると頭が 軽くなる 僅かな重さ だのに不思議だ」

  「今頃は 安く散髪 する店も 出来たが俺は 義理があるので」

  「明日お寺 もしも衣を 着たならば 坊さんですか? 訪ねられそう」

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人間牧場

〇愉快な仲間たち

 私には青年時代の仲間、公民館に勤めていたころの仲間、現職のころ培った地域づくりの仲間、ボランティア活動を志した仲間に加え、退職後自分自身の意志で造った人間牧場につながる仲間など、人も羨むほど沢山の仲間がいます。それらの仲間は今も陰陽に私を支え続けてくれていますが、中でも退職後の私の生きがいともなっている人間牧場つながりの年輪塾というグループは、私が塾長をしているだけに、心許して夢を語れる愉快な仲間たちなのです。
 私塾年輪塾は5年前に立ち上がりました。私が代表を務めている21世紀えひめニューフロンティアグループが私の肝入りで、双海町東越の廃屋を借りて始めたのは、平成3年5月11日でした。春は青春塾、夏は朱夏塾、秋は白秋塾、冬は玄冬塾と称し、1年に4回、10年で40回を目指して開塾したフロンティア塾とは少し違っている年輪塾は、今のところ不定期ながら先人に学ぶことを塾是として、2年1期でこれまで2期を終えました。1期目は民俗学者宮本常一、2期目は二宮金次郎(尊徳)、3期目の現在はジョン万次郎をテーマに学習を続けているのです。

夢を語れる愉快な仲間たち

 宮本常一から学んだ「歩く・聞く・見る」も、二宮尊徳から学んだ「経済と道徳の融合」も、私たちには全て新鮮で、1期毎に開く公開セミナーもノンフィクション作家佐野眞一さんや、二宮尊徳七代目子孫の中桐万里子さんから多くのことを学びましたが、3期目はジョン万次郎を研究している高知県土佐市の青野博さんを講師に迎え、第一歩を踏み出していますが、今回はジョン万次郎の生誕地に近い四国南西部に住んでいる塾生が中心になって、運営に深く関わっているものの、それぞれが県境を越えた遠隔地なため、メールや電話でのやり取りしかできず、打ち合わせは塾長の私と清水和繁塾頭、米湊誠二大番頭、松本宏小番頭、浜妥久男塾生第一号、真鍋幸一運営委員、永井誠一運営委員がその都度打ち合わせと称して集まり、他愛のない話を織り交ぜながら楽しくやっているのです。

 昨日も大番頭行きつけの「ふじ」という松山市駅裏の居酒屋で、夕方6時30分から始めました。この店の特徴は料理がビッグで美味しく、とにかく安いのです。会費3千500円2時間飲み放題ですから、いつも「これで儲けるの?」と首をかしげますが、薄利多売とでもいうのでしょうか、いつもお客さんが絶えない普段着で行けるお店なのです。
 昨日は12月15日に迫った年輪塾の打ち合わせと、今後の進め方にについての議題でしたが、それぞれがそれぞれの思いを持っていて、今後の展開が中々楽しみになってきました。人間は楽しく日々を暮らすことも大切ですが、明日に夢を持ってきることはもっと大切です。気がつけば愉快な仲間たちは退職組と現職組に色分けされていますが、どうやら人生の生き方や目指すものは同じ方向のようです。

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人間牧場

〇中国地方800キロの旅(その4・三原市シルバーセンター30周年記念講演)

 何度か講演に来ている三原市中央公民館ですが、この日はかつて中央公民館長を勤めていた安森さんが理事長を務めている、三原市シルバー人材センターの30周年記念式典の記念講演でした。安森さんは10年も社会教育をした大ベテランで、退職してから請われてこの役職に赴いたようでした。10年も前に私が話したことをよく覚えていて、懐かしい再会となりました。
 この日中央公民館の内外では生涯学習フェスティバルが賑やかに開かれていて、大ホールの高齢者作品展は、応接室で出会った市長さんが自慢するだけあって、かなりレベルの高い作品が所狭しと並べられ、多くの市民が訪れて賑やかでした。

 公民館の中庭ではテント村が作られ、また屋外ステージではキッズたちの素晴らしい活き活きとした創作ダンスがビートの効いた音楽に乗って踊られていました。今の子どもたちは私たちの子どものころとはまったく違い、想像もつかない演技力でいいものを見せていただきました。
 レストランで役員さんんと一緒に昼食をいただき、用意された応接控室で記念式典の終るのを待ちましたが、表彰が長引き、私の話は10分ばかり短縮すなければならなくなりました。主催者は時間を延ばしても結構だといわれましたが、私は終る時間ぐらいは守ろうと、予定されていた15時きっかりに話を終えましたが、殆んど満席の参加者は午後の一番眠い時間にもかかわらず、眠る人もなく大爆笑をしながら熱心に私の話を聞いてくれました。

記念講演会場

 この日の参加者は来賓や一部の人を除けば殆んどの人が、65歳以上の高齢者なので、私はこの日ばかりは少し話すスピードを落とし、ゆっくりとした口調で話すことを心がけたため、自分の感触としてもいい状態でした。どんないい話でも相手の心の扉を開けなければ届かないし、ましてや眠ってしまうと元の木阿弥なのです。この日私は手持ちのハーモニカで井沢八郎の「ああ上野駅」と、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」の2曲を吹きました。すると会場の中から何処からともなく口ずさむ声が聞こえ、やがてその声はかなり大きなハーモニーとなって会場を包み込みました。
 講演が終わって帰り際、参加者の何人かに玄関口で出会いましたが、「私涙が出た」とか、「いい講演だった。ありがとう」「又来てください」と声をかけていただきました。いやあ講演冥利につきました。

私の帰りを出迎えてくれた瀬戸内の夕日(北条辺りでの夕日を車窓から)

 この一週間は忙しかったため、あっという間に終ってしまいましたが、高校生から一般成人、高齢者に至るまで、様々な年齢層の方々に、幸せと感じて日々楽しく田舎で生きている私の思いを、お話をするという手段でお裾分けをすることが出来ました。
 世の中が不景気なため、GNPなどと経済成長ばかりに目が行っている昨今ですが、私はむしろブータン王国の国王が述べた幸福感こそ、今の日本に欲しいものではないかと思うのです。経済成長は1~3パーセントで満足できるような暮らしをしつつ、むしろ自分の人間力成長に重きを置いて生きたいものです。今回の旅はそんなことを考えさせられる旅でした。

  「ハーモニカ 吹けばみんなが 口ずさむ 涙が出たと 握手求めに」

  「経済の 成長よりも 幸福を 感じるような 成長したい」

  「10年も 前の私の 講演を 覚えていると 内容披瀝」

  「2日間 出歩きわが家 帰ったが やはり落ち着く 家族いるから」

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人間牧場

〇往復800キロの旅(その3)

 今日は二日間800キロという旅の疲れを少々感じているため、このワード・プレスブログの原稿記事を書く意欲が湧かないので、この続きは明くる日にして、少しテレビを見ながら休憩したいと思います。お休みなさい。

 昨日の夜はこんな書き込みをしてから、日ごろより少し遅い夕食を、旅の話を妻に聞かせながら食べました。そして孫たちと久しぶりの風呂を楽しんだ後、テレビを見ながらコタツの中で横になりでウトウトしました。妻に促されて布団の中へ入りましたが、やはり少し疲れていたのか、昨夜はぐっすり寝込んで朝を迎えました。
 今朝は疲労もすっかり回復して、気分爽快な朝をいつものように迎え、朝4時に起床しました。それにしても昨日で終わった先週は、月曜日・宇和島市(宇和島市少年補導委員研修会)、水曜日・四国中央市(土居高校講演会)、木曜日・松山市(四国高校教頭研修会)、金曜日・双海町(伊予市民生委員役員研修会)、土曜日・鳥取県岩美町(まちづくり講演会)、日曜日・広島県三原市(シルバーセンター30周年記念講演会)と、つい最近にない超ハードなスケジュールをこなしました。妻が感心して言うように、よくも行く所があるものです。

 

船着場近くにあるヤッサ踊りのモニュメント

 

戦後引き上げ船として活躍しここで解体された興安丸の錨のモニュメント

 昨日は宿泊先の岡山市内のホテルを少し早めに発って、高速道路を乗り継ぎ尾道から、国道2号線バイパスを走り三原市へ向かいました。この道も何度か通っているのですっかり見慣れた光景を三原市内へと入りました。会場となっている三原市中央公民館が近くなるにつれて、生涯学習フェスティバルや健康祭りの開催を告げる何本かの幟が、小雨に濡れてはためいていました。この日の講演会は午後1時からなので、それまで新幹線の窓越しに時折見えていた三原浮城城址を一目見ようと思っていたので、新幹線と在来線が同居する駅前の有料駐車場に車を入れて、軽装のままで歩き始めました。三原城址はまるで三原駅構内に戦国時代のジオラマのようにあるのです。国の史跡ともなっているのに、これらの文化財を壊してまで「ひかりは西へ」という高度成長時代の合言葉を信じて、新幹線を引き込んでいるのです。

三原駅の構内に隣接する三原城跡台
城跡にある珍しいチリメンウバメガシの木

 私は若い頃、新幹線で東京へ行く時は、当時松山観光港から三原港まで水中翼船が走っていて、宇品港から新幹線の乗り場までの距離が遠い広島市内に比べ、港と新幹線の乗り口が目と鼻の先で便利だったため、よく利用した思い出の場所なのです。さすがに港も駅もすっかり様変わりしていますが、三原城址は当時のままでした。駅構内から城址台に登りました。午前中でしかも夜来の雨で濡れていたため、私以外人の気配は感じられませんでしたが、時折高速スピードで通過する新幹線列車の風圧で地面が揺れるのを感じ、百日紅の紅葉をゆっくり眺めながら散策しました。城址はその昔小早川隆景が小島を使って城を築き、それが満潮になるとあたかも浮き島に似ていることから、浮城と呼ばれていたそうです。そのことを示すように城跡には何本かのウバメガシの老木がありました。しかもそのウバメガシはチリメンウバメガシという珍しいもので、葉が突然変異でちじれているのです。他にも珍しい始めて見る木々もありました。

  「2日間 中国地方を 旅をする さすがに疲れ 眠りの床に」

  「若い頃 水中翼船 利用して 三原の港 乗り降りしたっけ」

  「駅構内 城の石垣 あるという 世にも不思議な 光景見つつ」

  「浮城と 言う別名は なるほどと チリメンウバメ 身ながら思う」

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人間牧場

〇地元で話すのは・・・・

 昨日は双海町にある潮風ふれあいの館という宿泊研修施設で、伊予市民生委員会の研修会が開かれ、日本銀行松山支店内にある愛媛県金融広報委員会から、講演を依頼されていたので出かけました。研修会での私の講演予定は午後3時からでしたが、少し早めに行く私の癖が功を奏し、「全員集まっているので早速始めましょうか」というアバウトさも手伝って、20分も前に開会しました。
 会長さんのあいさつの後直ぐに私の講演です。会場に集まった人は伊予市民生委員会の役員さんで、よく見ると半分以上の人の顔を私は知っていて、相手も私のことを殆んどの人が知っているようでした。見ず知らずの人の前で話すのは馴れていますが、顔を知っている地元の人の前で話すのは、何とも気恥ずかしいもので、こちらもいい話をしようと身構えるため、最初は歯車がかみ合いにくく感じましたが、話し始めて5分もすると普通どおりのペースに戻っていました。

 私は民生委員になった経験はありませんが、双海町時代におおよそのことは知っているし、私の妻も双海町時代に5期15年の長きに渡って、民生委員や役員を務めた経験があるので、内情も分かったつもりで話をさせてもらいました。「心豊かに生きる」というタイトルで、2時間近くお話をさせてもらいましたが、お疲れな時間帯にもかかわらず眠る人もなく、熱心に聞き入って貰い感心しました。
 数日前地元双海町の世話役である西下さんから、「講演会終了後の懇親会にも残って欲しい」と頼まれ出席をすることにしていたので、ギノー味噌さんからいただいた味噌を配って、「裏が味噌」の名刺と共にPRをさせてもらいました。

 この日集まった人の中には、「双海といえば夕日」と思われている人が多く、時間帯を夕日の沈むころに設定していたため、みんな楽しみにしていましたが、残念ながら西の空が曇って自慢の夕日を見てもらうことはできませんでした。それでも雲間から海を照らす夕日がチラッと見えたり、茜色の夕焼けが見えましたが、関心はもっぱら懇親会に目と心が行き、鑑賞する人はいなかったのが何よりの救いでした。
 私は夕方から来客がある予定を組んでいたため、1時間弱で早々に引き上げて帰りましたが、皆さんは迎えのタクシーが来るまで、たっぷり2時間食談飲み会を続けたようでした。「名刺をください」「今度人間牧場を訪ねたい」「うちでも今日のような講演を計画したいのでその時は宜しく」などという、言葉を交わしながら話した民生委員さんの顔を思い出しながら、昨日のことを今朝早く記録にとどめました。

 私はこれから早い朝食を済ませ、兵庫県境にある鳥取県岩美町へ瀬戸大橋を渡り出かけます。午後から夕方にかけて岩美町で講演したあと岡山まで戻って一泊し、明日午後は広島県三原市で講演が予定されているので、帰りは明日の夜になる予定です。今週は月曜日の宇和島市からずっと出ずっぱりの少々ハードなスケジュールが続くため、妻は旅先での安全と私の健康のことを案じているようですが、私は今回もプラスワンを何処にするか少しワクワクしながら、今日のノルマのブログを2本書き終え朝を迎えています。
 たった今4時45分小さな地震があったようで、書斎の椅子にその振動が伝わりました。東日本大震災以来、私も地震に少し敏感になっているようです。

  「地元では 話しにくいと 思いつつ 始めたけれど 何のことなし」

  「西の空 少し曇って 雲隠れ これもまた良し 今度に期待」

  「人の世話 する人たちは 何となく 穏やか心 見え隠れする」

  「出発だ 兵庫県境 岩美町 どんなドラマが 待っているのか」

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人間牧場

〇四国内の教頭・副校長先生たちの前で講演しました

 昨日は「四国高等学校教頭・副校長会」という団体から、第27回研究協議会での講演を頼まれ、会場となっている松山市道後の「にぎたつ会館」へ出かけました。松山は私のホームグランドのようなもので、殆んど毎日出かけていますし、「にぎたつ会館」もよく会合に使われる学校共済施設なので、到着時間や講演開始時間を逆算し、少し早めに自宅を出て、ギノー味噌と愛媛新聞社、それにえひめ地域政策研究センターへ立ち寄りました。ギノー味噌では100gの味噌を200個受け取り、愛媛新聞社では事業局の浅野女史を訪ねてカルチャースクールの打ち合わせを行い、えひめ地域政策研究センターでは河野研究員を訪ねて、週末の明日出かける鳥取県岩美町の知人から預かったという名刺をいただき、少し雑談して所用を済ませ会場入りしました。

講師席から見た講演前の会場の雰囲気

 昨日の日中は風もなく穏やかな秋晴れの好天に恵まれ、道後界隈は秋の行楽シーズンに入ったからでしょうか、平日ながら観光客も少し多いような気がしました。研修会が始まる20分前に玄関先に入ると、150人近くの参加者が受付をしている最中とあって、少し混雑していましたが、講師なので専用の小さな控室へ通され、担当の女性がお茶を差し出してくれたりしました。聞き及べばこの女性は私が現職の時代に私の話を聞いたことがあるそうで、その当時話したことをリアルに覚えていて、内容を話してくれ驚いてしまいました。
 その後も年輪塾の仲間である宇和島南高校の近藤教頭先生も控室へ顔を出してくれて、すっかりリラックスしました。四国中の教頭先生や副校長先生が集まる研修会なので、余り私のことは知らないだろうと思いきや、どうしてどうして沢山の顔々を知っていて、少しやばいと思いましたが時既に遅しでした。

 講演は13時30分から始まる予定でしたが、開会行事のあいさつが長引いて、10分ばかり遅く始まりました。この分だと私の話を90分すると、ボタンの掛け違えの連鎖反応が起こるので、時計を予定通り元に戻して15時には終ろうと決意して壇上へ上がりました。会場は150人の満席で迫力を感じながら、いつものようにアドリブで「新らしい発想で生きる」と題して、まあ淀みなく話をさせてもらいました。
 謝辞は副会長で私が学校評議員として関わっている、松山工業高校の別府教頭先生なので、私の話を上手くまとめられて話してくれました。講演が終わってから誘いを受けた教育懇談会と称する懇親会が始まる午後6時までは、3時間も待ち時間があるので、会場の近くにある娘のマンションへ行き、孫二人を誘って近くの道後温泉椿の湯へ出かけ、3人でのんびり温泉を楽しみました。

 30分前再び会場へ戻り懇親会に出席しましたが、高砂の席とでも言うべき上席をおこがましくも与えられ、沢山のオードブル料理が円卓に並ぶ会場で1時間弱、入れ替わり立ち代りやって来る馴染みの人や懐かしい人、私の話に食いついた人などと名刺交換をして、別の会場で予定されている仲間内との打ち合わせ会に参加するため、少し早めにお暇しました。私の誕生日に高知県大月町の堀光恵さんから届いた手紙で予告されていた、高知県大月分校の教頭先生にも出会い、またわが妻の知人である八幡浜工業高校の内藤教頭先生にも出会い、持って行った名刺が恥をかくほどの交遊でした。

  「知り人も いないと思い 鷹を食う ところがどうして 顔々知りて」

  「講演の 開始時間が 遅れたが 元に戻して 連鎖を断ちぬ」

  「集まりし 人の中から 校長が やがて誕生 するのか思う」

  「またやった アドリブ話 教育と いうお堅い場所 わきまえもせず」

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