人間牧場

〇日本酒は神代の昔から元気の源です

 私が愛媛県立中央病院で胆のう摘出手術をしたのは、今から13年前の2001年でした。その年は私の母校である愛媛県立宇和島水産高校の実習船えひめ丸が、私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティを開いた2月10日に沈んだり、私の誕生日10月3日の明くる4日に、母が80歳で亡くなったりするハプニングが重なり、胆のう摘出手術後の回復が遅れて、一気に13キロも体重が減りました。これはやばいと思った私は、あれ程好きで飲んでいたビールを断腸の思いではなく、堪能(胆のう)した!と周りを笑わせながらきっぱりと酒を断ったのです。
 以来13年間酒を飲む機会も場所も誘いも断わって、一途に酒と縁のない余生を送っているのです。正月といえばお屠蘇がつきものながら、そのお屠蘇さえ飲まない徹底ぶりに一番感心しているのは、やはり一番身近な妻ですが、わが家では家族や親類縁者が集まった正月もお酒を飲む人が一人もいませんでした。

 それでも妻は缶ビール一本程度をたしなむ長男息子と、帰省する次男や三男、それに正月礼にやって来る娘婿のために缶ビールを一箱、それに神様のお供え用と親父用に清酒を一本ずつ買い揃えていました。しかし次男は正月草々勤務している日赤松山病院オペ室の拘束日、警察官をしている三男も宿直勤務、愛媛大学に勤める娘婿も仕事のため車を運転しなければならず、結果的には長男も飲まず、正月だというのにまったく酒のないわが家となったのです。
 親父は若い頃から酒を飲んでいますが、親父が酒に酔った姿を見たことがないほど酒癖の良い方で、たまに悪酔いして醜態をさらした私の姿を見て、随分叱られたものでした。親父は生業が漁師だったため日本酒一辺倒ですが、酒の飲み方は心得ていて、冷酒の美味さや、母が生存中はお燗つけ方まで注文していたようです。
 今朝の新聞に愛媛の酒の広告が載っていましたが、それによるとお燗の温度は次のようです。
  日向燗(ひなたかん)30度
  一肌燗(ひとはだかん)33度
  ぬる燗(ぬるかん)40度
  上燗(じょうかん)45度
  熱燗(あつかん)50度
  飛び切り燗(とびきりかん)55度

 最近は鍋にお湯を沸かして徳利を肩までつけ、お燗したお酒をお酌してもらいながら、お猪口でちびちび飲むといった風流は、すっかり姿を消しました。今は電子レンジでチンして飲むのが主流だし、日本酒より焼酎やビールが好まれ、日本酒はどこか肩身の狭い思いをしているようです。
 わが町にもつい最近まで「島錦」という蔵元がありましたが、廃業に追い込まれ、大きな白塀白壁の蔵のみが往時を物語っているのです。
 私はもう酒を復活して飲もうとは思わないし、息子たちも酒を殆ど飲まないため、酒の上でのトラブルも考えにくいようですが、日本人にとってやはり日本酒は神代の昔から、元気の出る水のように思うのです。私の友人には蔵元が多く、日本文化の源流である日本酒の復活隆盛を心から祈っています。

  「酒断って 早くも十年 余り過ぎ 体内酒の 音沙汰もなく」

  「正月と 言うのにわが家 酒もなく どこか寂しいく 盛り上がらずに」

  「酒のない 国へ行きたや 二日酔い そんな駄洒落を 言いつ昔は」

  「冷酒と 親の意見は 後で効く 親父口癖 何度か聞いた」

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人間牧場

〇配信が続いている新聞スクラップ「ジョン万次郎物語」

 私は人間牧場で開いている私塾「年輪塾」の塾長をしています。塾長といっても他の塾生に比べると、学歴もなく知識も軽薄で、強いて上げれば年齢が他の塾生よりほんの少し?上であることと、人間牧場を自費で造って持っていることくらいで、胸を張るようなことは一つもないのです。そればかりか現代人が武器として使っている、デジタルに関しては比較のしようがないほど劣っているのです。
 時代の変化が早いと思うのは、今から31年前の昭和56年に21世紀えひめニューフロンティアグループというボランティア集団を立ち上げ、21年前の平成3年にフロンティア塾を開始した頃は、パソコンは出回り始めてはいたものの、デジタルの代名詞のようなパソコンも携帯電話も殆ど普及していませんでした。

脇田さんから配信されているジョン万次郎物語
脇田さんから配信されているジョン万次郎物語

 ところが6年前に年輪塾を立ち上げた時には既にパソコンも携帯電話も広く普及していて、年輪塾の情報手段としてなくてはならないものになっていたのです。フロンティア塾のメンバーは殆どアナログ人間でしたが、年輪塾のメンバーは殆どがデジタル人間で、特に清水塾頭が開設してくれた年輪塾ネットというメーリングリストを利用して、様々な情報がタイムリーに届くだけでなく、メンバーどうしがメーリングリストを使って、近況のやり取りを行なっているのです。アナログ人間を自認する私も、書斎の上に置いたパソコンをまるで三度の食事と同じように毎日開いて、時には誤字脱字を交えながら、楽しみに情報交換しているのですから驚きです。
 12月15日に開いた年輪塾の相前後、ジョン万次郎学習の担当者である愛南町に住む脇田さんから、足繁くメール便に添付した新聞スクラップが届いています。その数はも№.20にも及んでいます。二宮尊徳翁夜話では清水塾頭から一週間おきに、233話届いたことを思うと、№.20など驚くべき数ではありませんが、それでもよく続くものだと感心しながら、毎回届くのを楽しみに拝読しているのです。

 脇田さんは旧内海村の職員で、合併後は愛南町の職員として活躍していますが、旧内海村職員時代にえひめ地域政策研究センターへ出向してまちづくりの勉強をしていたご縁があって、年輪塾のメンバーに名を連ねていますが、デジタル万能青年の活躍に、私も目を見張っているところです。
 人は誰でも若い頃荒削りな部分があって、それは若さの勲章のようなものなのです。夜空に輝く目に見える星はおおよそ三千といわれていますが、月も太陽も星の一種ながら、月と太陽だけには何故か星という名前がついていないのです。星はよく鉛筆で一筆書きをしましたが、星には5つの角があり、月も上弦・下弦の月は二つの角がありますが、満月ともなると丸くなり、太陽の光を受けて夜空に輝くのです。
 私も荒削りながら若い頃のような角が幾分取れて、丸くなったような気がするのですが、塾長や塾頭等上に立って引っ張るべきリーダーは、やはり太陽のように丸くなって、しかも自ら輝いてメンバーを照らしたり道しるべとならなければならないようです。塾生は星、塾長や塾頭は太陽のような存在であれば、年輪塾も発展することでしょう。そのためには私は塾生の何倍も、もっともっと摂生と学びを怠らないようにしなければならないようです。

  「メールにて ジョン万次郎 記事届く 一芸秀で 自立納得」

  「お日様の ようなまん丸 人目指す 中々なれる だけど頑張る」

  「角がある 若さ勲章 俺などは 角さえなくて 引っかからずに」

  「デジタルを 使いこなせる 人目指す 中々なれぬ だけど頑張る」

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人間牧場

〇わが家では戸長の私が正月に雑煮を作ります

 2013年の幕開けです。今年の正月元旦はいつもの年と同じように、わが家では戸長が雑煮を作る習慣となっているので、午前6時に台所へ入って雑煮を作り始めました。雑煮を作るなどと見栄を張って言っていますが、その殆どは前夜に妻が準備してくれているのです。前の晩に作った出汁を小鍋に入れ、そこへ蒲鉾とさいの目に切った豆腐を入れ、煮立ったらお餅を入れます。同時にヤカンでお湯を沸かして仏壇にお茶とをします。
 雑煮が半生程度に煮えたらネギなどの青物を入れて小皿に盛り、神棚と座敷の床の間に雑煮を供え、仏壇に線香、神棚と床の間のローソクに火をつけお光を灯します。今年は同居の孫たち二人と私の3人で、手を叩いて神様にお祈りしました。私は神様に「いつも幸せに過ごさせてもらってありがとうごじます」といった感謝の気持ち程度で、他の人のように「お金持ちになりますように」とか、「幸せになりますように」とかいうあつかましい願い事はしません。神頼みの他力本願人生でなくあくまでも、自力本願を貫こうと思っているのです。
 「悪いことはしません。悪いことをしたら小屋へ行きます」「保育園へ行って友だちと遊びます」など、孫たちも自分の心の戒めを大きな声で願っていました。

 昨晩の内に家族それぞれの雑煮の餅数を聞いていたので、妻2個、長男3個、帰省した次男3個、若嫁2個、孫1個ずつ、私は神棚と床の間の雑煮のお下がりプラス1個の3個と、合計15個を入れました。居間のコタツ台の上に田作り、煮豆・栗煮、お煮しめ、数の子など、妻が昨日一日をかけ丹精込めて作ったおせち料理を所狭しと並べ、お酒はないものの賑やかな宴となりました。そのうち年賀状が山のように届き、長男と次男はそれぞれのあて先に分類して渡したようですが、私の元へも沢山の年賀状が届いているようで、じっくり見るのは明日・明後日の配達分が届いてからにしようと思っています。
 わが家は若松家の本家筋なので、昔は沢山の親類が正月礼に集まり、朝から晩まで賑やかに酒盛りが行なわれていましたが、今はそれもなく近所に住む姉や妹、弟の家族が来るくらいで、私が酒を飲まなくなったこともあって、お茶を飲んで話す程度で帰って行きました。

天一稲荷神社にて
天一稲荷神社にて
三島神社で
三島神社で

私はこの2~3年、一日に1万歩を歩く目標を立てているので、私がウォーキングパラダイスと名付けている、裏山の農道へ散歩に出かけました。そのお陰で私の携帯電話についている歩数計履歴だと、年末で忙しく過ごした昨日は、16407歩も歩いているのです。今日も何もする予定がないので、とりあえず朝の散歩で6500歩程をカウントしたようで、大晦日から始めた今年の目標も一日目草々順調に目標を達成しました。
 息子たち家族が若嫁の実家へ出かけたので、帰省中の次男に留守番を頼み、妻を誘って近所の氏神様である天一稲荷神社と三島神社へ初詣に出かけました。曇ってはいるものの昨日の荒れた天気とは打って変わった、無風の穏やかな天気だったため、両方の神社とも顔見知りの人たちが初詣に次々訪れていました。
 看護師をしている次男は明日は拘束日なので昼ご飯を食べると帰り、替わって警察官をしている三男が仕事を終え帰省しました。次男も三男も仕事が忙しいことを理由にまだ独身なので、妻はそのことを話題にしながら迫っていました。次男も三男も帰省すると必ず94歳の親父の隠居へ顔を出してくれます。勿論私の兄弟姉妹やその子どもたちも必ず親父にあいさつに来てくれます。親父はこれが何より嬉しいようです。
 妻は親父のためにおせち料理を運び、家族全員で親父の長寿を喜んでいます。

  「わが家では 戸長の私 正月に 雑煮を作る 風習ありて」

  「喧騒の 一夜が明けて お正月 予定もなくて のんびり過ごす」

  「神様に 手合わせ祈る 幸せを 今年も元気 過ごす決意を」

  「親類が 親父の長寿 喜んで 訪ねてくれる 有難きかな」

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人間牧場

〇息子と二人で注連縄飾りを飾りました

 大晦日の昨日はあいにく雨の一日でした。その雨の中合羽も着ずに早朝7時、下灘で漁師をしている伯父さんに頼んでおいた、ブリを受け取りに出かけました。丸々太ったいかにも美味しそうなブリは、多少異なりましたが5キロ級で、発泡スチロールの白いトロ箱に氷とともに入れられていました。途中の従兄弟や兄弟の家に、親父からのお歳暮だと伝えて送り届け、一端自宅へ帰って長男息子と合流、つり道具屋ジャンプの自動販売機で小売を買い求め、松前や松山の知人友人宅まで手渡しで届け、自宅へ帰ったのは11時近くになっていました。

 妻も昨日から仕事休みで、餅つきという大仕事が待っているため、私がブリの調理作業をしている間に餅つきの準備をして、そそくさと出かけて行きました。低気圧と前線の影響で雨は一向に止む気配はなく、私も注連縄に使う裏白シダを確保していないため、天を仰いで様子を伺っていましたが、少し小降りの雨の中を、傘を差して裏山へ入りました。ぬかるんだシダ山は長靴を履いているものの、足を滑らせそうで心もとない感じがしましたが、僅かの時間で50枚ほどのウラジロを採集し、玄関を飾る注連縄用の小さな青竹も確保しました。

お鏡餅
カブスを乗せたお鏡餅

 そのうち妻から、餅がつき上がったから取りに来るよう携帯が入り、取って帰った餅と田作り、イワシと米粒を奉書で包み、赤白の水引で格好良く結びました。五穀豊穣と家内安全を願って作った、奉書包みとウラジロやカブスを注連縄とともに結びつけ、長男息子と一緒に玄関先や水神様、神棚、トイレや風呂場、車、煙会所、海舟館などに餅と一緒に供えました。
 妻が準備してくれたオサンボウについたばかりのお鏡餅を乗せ、田作り、吊るし柿、勝栗などの縁起物を加えて、2階の床の間に飾り正月飾りは夕方頃全て整いました。

 

息子と二人正月飾り
息子と二人正月飾り

 正月飾りを息子とつくりながら色々な話をしました。私はサンデー毎日といいながら、年中県内外を忙しく出歩いているし、たまに家にいても煙会所や人間牧場へ訪ねて来る人たちの対応で家を開けることが多く、設計事務所に勤める息子も40歳になって仕事も忙しそうで、仕事を終えて家に帰る時間は殆ど毎日、夜9時から10時くらいになり、たまの休みも所属している建築士会の活動や、伊予市のまちづくりに関わっているため、同居していても中々まともに顔を合わせて話すことが少ないのです。「来年は僕が注連縄を作ろうか」と、殊勝なことを言ってくれましたが、遅きに失した注連縄作りを、来年こそは息子に伝授したいと思っています。

 

 

  「雨の中 正月飾りを 親子にて 世間話を しながら作る」

  「田舎では まだまだ古い 慣習を 親から子ども 子から孫へと」

  「気がつけば 私も歳は 若くない 早くしないと 伝えきれない」

  「嗚呼今日で 辰年終わり 巳年なる 時の流れの 早さ驚く」

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人間牧場

〇人間牧場の大掃除

 人間牧場が完成したのは今から7年余り前の2005年(平成17年)でした。以来多くの人が、道も狭くてまるで隠れ家のような人間牧場へ、遊びや研修に足を運んでくれました。芳名録に名前を書いてもらったりカウントこそしていませんが、少なくとも5年前に発行した落伍ネタ本「夕日徒然草・地の書」が一年で千部完売したところを見ると、年間千人もの人が足を運んでいる計算になるのですから、これはもう予想をはるかに超える大きな大きな驚きです。
 たまに私の留守中にやって来る人もいますが、私は来客のその都度人間牧場へやって行き、対応に追われるのですが、自宅から約10キロ、しかも殆どが山道とあって、どんなに近道をして急いでも15分、広い道をゆっくり迂回すると20分かかるので、往復小1時間といったところです。私は人間牧場を造ったのを機に4WDの軽四トラックを妻に頼んで購入してもらいました。4WDのトラックだと滅多に降ることのない少々の雪やぬかるんだ山道でも平気で走ることができ、何かにつけて便利です。

黙々と窓拭き掃除をする浜田さん
黙々と窓拭き掃除をする浜田さん

昨日は年輪塾生1号と呼んでいる浜田久男さんから、「年末なので人間牧場の大掃除をしよう」と、有難い申し出がありました。浜田さんは人間牧場ができてからおこがましくも私の門下生となり、以来殆ど毎年少なくとも年に2回は、私たち二人が「修行」と呼んでいる掃除にやって来るのです。故に浜田さんは人間牧場、特に水平線の家の掃除を、何処に掃除道具やワックスがあって、何処を掃除したらいいのか熟知していて、私と阿吽の呼吸なのです。
 昨日は倉庫と板間の掃除、それに倉庫に積んである「夕日徒然草の整理をしました。特に自著本の整理はしっかりやっておかないと、本の販売収益で電気代や汲み取り料、草刈り費用などを賄わなければならないし、販売の収益が次の自著本出版の原資となるので、粗方の残部を調べたり、取り出しやすいよう念入りに整理をしました。

 

掃除が終って二人仲良く記念撮影
掃除が終って二人仲良く記念撮影

 その後二手に分かれて窓拭きです。浜田さんはメインのスライド窓を、私はかまど小屋の窓を手分けして拭きました。お陰様ですっかり今年の汚れを落とし綺麗になりました。床の掃除や片づけをして4時過ぎに掃除を終わり下山、わが家で妻の入れてくれたお茶を飲みながら解散しました。
 私と浜田さんが「修行」と呼んでいる掃除は修行の基本中の基本です。掃除も1万時間の法則で毎日やればその道を極めることができるのです。これは私がシーサイド公園の砂浜や水族館の水槽を毎日3時間、12年間続けた実践からの学びで実証済みなのです。掃除は自分のためにすることは勿論ですが、目に見えないやがて来る人のためでもあるし、折角造った有形の物を大事に長く遣うことでもあるのです。来年はどんな人がどんな思いで人間牧場へ訪ねてくるのでしょう。今からワクワクします。
 今日は注連縄とお鏡を神棚に供えに再び人間牧場へ行き、今年一年の総括と感謝の祈りを捧げ、締めくくりたいと思っています。

  「沢山の 人それぞれが やって来て 今年も盛況 顔々浮かぶ」

  「修行だと 勝手に決めて 大掃除 友と二人で 一年の垢」

  「押入れに 積んだ自著本 積み直し 今年もこれで 勝負をかける」

  「拭き掃除 窓の向うは 冬景色 二人しみじみ 記念撮影」

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人間牧場

〇来年のカレンダー

 来年といっても後3日もすればやって来る、2013年(平成24年)は、一体どんな年になるのだろうと、手元に届いたWriting  Carendar に、既に決まっているスケジュール予定を、真新しいページに黒いボールペンで書き込みながら、めくってみました。ちなみに赤い数字の日曜日52日と祭日15日、それに土曜日51日を合わせると、普通のサラリーマンは118日も休みがあるのです。一年365日なので、日・祭日+土曜日を合わせた118日に正月休み2日、年末休み3日を足して差し引くと、実質働く日数は242日で、おおよそ3分の1、つまり3日に2日働いて1日休みという、夢のような日々が待っているのですから、サラリーマンや公務員は不景気風で給料が安いと不平不満を言うことを、少し慎まなければならないようです。

あと三枚となった書斎の日めくりカレンダー
あと三枚となった書斎の日めくりカレンダー

私は35年間地方公務員をやって来ましたが、晩年は少し給料が上がったものの、その殆どは安月給に甘んじてきました。それでも親父から教わった「お金は入るを計りで出るを考えよ」を実践し、例え安月給であっても生活設計に基づいて家を建て、4人の子育てをそれなりにやって来ました。故に貯金残高はそれ程ないものの、借金もなく老後を迎えることが出来たのです。
 私は仕事柄退職後も色々な場所で講演などを頼まれ出かけますが、経歴がそうするのか役場や市役所の職員研修などが多いようで、その度に親方日の丸、護送船団とでもいうべき居眠り研修をする淀んだ空気に活を入れるため、「あなたの時給はなんぼ?」という問いかけをします。殆どの人にその意識はなく戸惑うばかりです。例えば25万円の給料を貰っている人は1ヶ月20日働くとすれば日給は1万2千5百円となります。これを1日8時間労働で時給換算すると、時給は1千5百62.5円となるのです。これには昼食時間も煙草やお茶を飲んでいる休息時間も含まれているのですから、これはもう天国です。厚生労働省が毎年決める最低賃金からすれば倍の値段ですから、これは頭に鉢巻を締め腕をまくって、もっと働かなければならないのです。

 来年のカレンダーの話がとんでもない方向に行ってしまいましたが、この年末も色々な方から息子と私に、色々なカレンダーをいただきました。その中からお気に入りのものを選び、それぞれの部屋に今日にでも飾ろうと思っていますが、今年は残念ながら毎年使ってきた大きな日めくりカレンダーは届かなかったので、小さい日めくりで我慢しようと思っています。
 加齢ゆえもうそろそろ講演依頼などないだろうと鷹を食っていましたが、早くも県内外から講演依頼が目白押しで、来年も忙しい日々が続きそうです。既に行きたかったものの行ったこともない、長崎県壱岐での講演予定も組み込まれ、六十代最後の年もいい予感が立ち込めようとしています。

  「あと三日 日めくり薄く なりにけり カレンダー見つ 思い巡らす」

  「来年は いいことありそう 思いつつ 休み日数え 何処へ行こうか」

  「今年も いい年だった ありがとう 役目を終えた カレンダー外す」

  「一年の 三分の二は お休みか いやいや俺は サンデー毎日」 

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人間牧場

〇注連飾り作り

「もう幾つ寝るとお正月・・・・・」と指折り数えて正月の来るのを待った少年の頃と違い、「もう幾つ寝るとまた一つ歳をとるのか・・・・・」と、「正月は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」の初老を迎えています。それでも正月は年間を通じ私たちの暮らしの中では年初めの行事として主役を務める、大事な大事な節目なのです。
 さて田舎に住んでいるわが家では、遅ればせながら正月を迎える準備が妻の手によって着々と進んでいます。その最たるものは何といっても大掃除と餅つきとおせち料理作り、それに注連飾り作りです。大掃除はさて置いて、最近は餅つき、おせち料理、注連飾りの三つを自分の家で作らず、売っているものを買って済ませる家庭が増えてきました。お餅もおせちも自宅で造るとなると手間で厄介なものです。特に餅つきとなるともち米や餅つき道具(蒸し器・臼・杵・もろぶた)などが必要なため、まず現代人の暮らしでは望むべきもないのです。それらの道具を持っているわが家でさえ、この10年ほどは生活改善グループに入って活動している妻の友人と一緒に、シーサイド公園の加工場へもち米を持ち込んで、妻が共同でついてもらっているのです。

今年も立派な注連縄ができました
今年も立派な注連縄ができました

 昨日は天気は良かったものの今年一番の冷え込みで、車のフロントガラスの前面が凍るほどの寒さでしたが、妻は少し風邪気味ながらもち米を30キロ近くも冷水で洗い、ポリバケツにかしていました。私も妻から頼まれていたもろぶたを水で洗い、外の東屋へ陰干ししたり、玄米もち米を農協のコイン精米所で白米にしたりと、それなりの手助けをしました。
 昨日の私の大仕事は注連縄作りでした。親父が前日にそぐってくれていた稲藁を煙会所へ持ち込み、ストーブで暖を取りながら一人黙々作りました。私は子どものころ親父から注連縄の作り方を教えてもらっているので、わが家がこの地に引っ越して来た30歳の頃からずっと、下手糞ながらもう40年近くも作り続けているのです。私が作る注連縄は4種類です。オタマジャクシと呼ぶ小さな注連縄飾りは仏様や水神様、倉庫や車などに備えるため15個作ります。オタマジャクシで縄ないの感を取り戻すと、隠居玄関用の少し大きめなオタマジャクシを作り、本宅玄関用の暖簾型注連縄、それに神様棚用のエビを作るのです。

 注連縄を作りながら、はてさてこの技術は次の世代にどう伝えればいいのか、心配になりました。男の子3人が小さい頃は遊び半分で一緒に作っていましたが、技を伝授するまでには至らず、子どもが成人してからは子どもたちも忙しく、それどころではないようで、息子と同居をし始めたこの機会に伝授しようと思っていますが、残念ながら私一代で終りそうな雲行きです。
 注連縄作り作業は約2時間ほどで終りました。今年も私の労作はもろぶたに納めて煙会所に借り置きしています。一夜飾りにならぬよう30日には裏山に取りに行くウラジロや青竹、カブスなどを使って正月飾りをしたいと思っていますが、私の大仕事と思っていた注連縄作りも無事終ってほっと一息つきました。
 今日はウラジロを取りに行こうと思っていましたが、早くも朝からあいにくの雨のようで、明日に延期となりました。正月まで今日を含めて後4日です。子どものころのように指折り数えはしませんが、今年の余韻を楽しみながら大掃除をして正月を待ちたいと思います。

  「わが家では 注連縄飾り 今もなお 私手作り 縁起担いで」

  「注連縄を 作る技術も 息子には 伝授すべなし 私一代」

  「隣住む おじさん今は 注連縄を ホームセンター 買ってそれでも」

  「注連縄を 自分で作る 故なのか 今年も縁起 悪くなかった」

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人間牧場

〇いただいた小さなカードからの学び

 このところ毎週日曜日、きちんとした身なりの紳士淑女が3~4人、連れだって街中を歩いている姿を見かけます。最初は「はて、見知らぬ人だが何をする人たちだろう?」と首を傾げていましたが、その人たちがわが家のチャイムを鳴らし、「お話を聞いて下さい」と言われて納得しました。私はキリスト教信者でもないし、わが町にはキリスト教教会もないので、「エホバ」と言われてもまったくその実態は知らないのですが、訪問した人たちは「エホバの証人」と名乗って薄っぺらい雑誌を私に手渡し、「少し話を聞いて下さい」と言われました。いささか教育に関心のある私は、立ち話のような形でじっと聞いていましたが、言うことにも一利あって少し納得しました。その人たちは私が興味を示したと勘違いしたのか、「又来ます」と言って帰えられました。

 いただいたクリスマスカードのような小さなカードには、次のような言葉が書かれていました。
 人生が短いように思えるのはなぜですか。150年生きるカメもいれば、樹齢3000年という木もあります。それに比べると、人間の寿命は非常に短いと思います。それでも人間の命は、カメや樹木の命よりはるかに有意義なものとなり得ます。神は人間を音楽やスポーツ、食事、学習、旅行、人と会うことなどを楽しむ能力のある者として創造し、人間の心に、いつまでも生きていたいという欲求を置かれました。
 「神はすべてのものをその時にかなって美しく造られた。定めのない時をさえ彼らの心に置き、まことの神の行なわれた業を、人間が始めから終わりまで決して見いだすことができないようにされた。」
                                                                                                                           伝道の書3:11

 私は凡人なので最後の神についての話の真実は分かりませんが、カードに書いている「人生とは」、「動植物の寿命と人間の寿命の違いとは」、人間の生きる意味とは」などについては、まったく同感だと納得し、特定の宗教は関わっていませんが、私の心の中には「宗教心」のようなものがあることを、ほんの少しだけ感じました。
 わが人間牧場の水平線の家に、高知県馬路村産魚梁瀬杉の切り株が置かれています。千本山で150年も年輪を刻んで生き続けてきた切り株を見る度に、人間の寿命は長生きしても、たかだか100年なのにと思い、短いが故にしっかり生きねばと決意を新たにするのです。
 たった一枚のカードにも生きるヒントはあるし、偶然出会った人や、いつも一緒に暮らしている家族にだって、悩める老い羊は色々な気付きをさせられて日々を生きているのです。私はこれからも「楽しむ能力」を更に研きたいと思っています。

  「三~四人 連れだちわが家 訪問す 立ち話にて カード渡され」

  「人間は たかだか百年 しか生きぬ 短い故に 生き方問われ」

  「百分の 六十八を 生きてきた 残った余命 三十二年」

  「人生を 楽しむ能力 磨きつつ 残った寿命 楽しく生きる」 

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人間牧場

〇若いっていいねえ

 私は若い駆け出しのころ、地元の双海町中央公民館に13年間も勤務しました。私は青年団と漁師という過激な活動と労働で体調を崩し、25歳で地方公務員になった変わり者です。故に出世等端から思わず、どうせなら社会教育を一生の仕事にしたいと真剣に思い、更にどうせなら日本一の公民館主事になりたいと、情熱を傾けて仕事をしました。
 当時は私のような公民館馬鹿、社会教育馬鹿が県内外には沢山いて、お互いが切磋琢磨したり同志の会を立ち上げて、夢や希望を語り合ったものでした。長浜の菊地さん、内子の亀田さんたちと私は「煙仲間」という主事集団をつくり、大いに気を吐きましたが、相次いで県内には宇和島に麦集団、越智今治に海武士集団ができ、静岡や埼玉と交流する等暴れまくっていました。

 そんな活動が認められて私は、愛媛県公民館連絡協議会の主事部会長になり、今は亡き長浜の菊地さんとともにタッグをみ、6年間も県公連の運営に関わり、今も続いて発行いる機関紙伊予路の改革等に取り組んできたのです。しかしあれ程固く誓った刎頚の契りも時が経つと色あせ、多くの仲間は異動や退職という人生の転換期を上手く乗り切れず、埋もれ木のような余生を送っている姿は、何とも哀れな感じさえするのです。
 人はどうであれ、私にとって煙仲間や刎頚の契りは、しっかりと心の中に息づいていて、地域社会や公民館への恩返しとして今も、多分死ぬまで社会教育活動をやろうと心に決めて生きているのです。
 2年前私たちがかつて燃えたような、気心を持った公民館主事さんたちに出会いました。そもそもの発端は3・11東日本大震災時に起こった福島第一原発事故で、放射能汚染されて苦しむ福島の子どもたちを、何とか安全な愛媛へ連れて来て遊ばせたいという軽い乗りだったようですが、その夢は次第に現実味を帯びてきたのです。

子どもたちの交流風景
子どもたちの交流風景

 何人かの公民館主事さんたちが、「福島キッズ絆プロジェクト」を立ち上げ、昨年福島から子どもたちを招き大きな感動を与えました。今年も続けようという話になりましたが、熱しやすく覚めやすい社会風潮は彼らの行く手を大きく阻みました。それでも「やりたい」「続けたい」という思いが上回り、今年も3日前から双海町も30人の子どもを受け入れ、ボランティアや心ある人たちの支援を受けて、プログラムが進行しているのです。
 昨日は児童数20人の小さな翠小学校、で福島キッズとの交流会が持たれました。あいにく寒い一日でしたが、体育館での交流会やオープンホールでの給食食事交流などに楽しいひと時を過ごしていました。何よりも嬉しかったのは、伊予市の教育長さんが参加して激励のあいさつをしてくれたこと、冬休み間近な終業式の日なのに、快く交流を受け入れてくれた校長先生など、プロジェクト推進メンバーたちの心に大きな勇気を与えてくれたのです。

 公民館には①始める活動、②続ける活動、③高める活動、④止める活動がありますが、今年の絆プロジェクトは②の続ける活動であると同時に、③の高める活動でもあるのです。目的や目標を達成すれば、④終る活動へと導かなければなりませんが、絆プロジェクトを立ち上げた公民館主事さんたちの「志」だけは、止める活動に導いて欲しくなく、むしろつながった「志」を一生の宝物として、大いに今後の活動に生かして欲しいと願っています。

  「若い頃 公民館に 生涯を かけよう思った 今も脈々」

  「さて次は どのようにする 戦術を 立て直しつつ スキルアップを」

  「校長や 教育長まで 巻き込んで 大きなうねり しっかり受け止め」

  「活動と 運動違う そのことを わきまえながら これから先も」

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人間牧場

〇妻と二人でデート

 私は子どものころ初めて飲んだコーヒが苦くて不味かったため、それ以来コーヒーを飲みません。「今時コーヒーが飲めないなんて信じられない」「コーヒーはガンに効くというのに?」などと妻からも不思議がられていますが、それでも訳も分からず嫌いなものは嫌いで、根っからの緑茶党を名乗っているのです。
 先日講演先の北海道で知り合った北見市に住む市川恵子さんから、幾種類もの沢山のハーブティが送られてきましたが、最近は妻に頼んでホームセンターで買ってきてもらった耐熱ガラスのお洒落な茶器で、ストーブの上に置いた加湿用のステンレスヤカンのお湯を注ぎ、いただいたハーブティから好みのものを取り出し、気晴らし気休めのティータイムを一人楽しんでいますが、時には紅茶も楽しむものの、相変わらずコーヒーはそのメニューに入っていないのです。

シーサイドのロマンチッククリスマス
シーサイドのロマンチッククリスマス

昨日の夜、急な思いつきで、シーサイド公園イベントホールで開かれているロマンチッククリスマスカフェへ、妻を誘って出かけました。ブライダル業界で仕事をしている戸田さんがクリスマスの二日間だけ臨時に開いているカフェですが、私たちが訪ねた午後7時過ぎには既に若いカップルで満席状態でした。水屋の近くに陣取り、クリスマスツリーや窓に映るイルミネーションの幻想に酔い知れながら、妻はコーヒー、私は紅茶を飲みました。
 もう15年も前にこの総ガラス張りのイベントホール、大きな箱に見立ててリボンをつけたり、山から桧の木を切り出してツリーを飾ったりした時のことを思い出しました。今でこそクリスマスツリーも広く普及していますが、当時は珍しさもあって話題となり大勢の若いカップルが訪れたものでした。

 

クリスマスツリー
クリスマスツリー

 

クリスマスツリーの前で
クリスマスツリーの前で

 私がコーヒーを飲まないため、妻と二人で喫茶店に入った記憶は殆どありません。故に妻にとってはそのことが少々不満らしく、クリスマスカフェに誘うと一も二もなく喜んでくれました。20分ばかり雑談した後外に出ましたが、通路には様々な電飾が施され、道行くカップルも手を組んだりつないだりしていました。妻がいきなり腕を組もうと言い出しました。私は暗闇とは言いながら地元の目もあるし、「恥ずかしいので嫌だ」と言いましたが、妻はかまわず腕を組み駐車場までの200m程の道を歩きました。私は古い時代の人間なので、男女が手をつないだり組んだりすることにはかなりの抵抗があり、躊躇しましたが、妻もこの歳になると大胆だと、年甲斐もなく少しときめきました。
 「若松の進ちゃん夫婦が昨日の夜、シーサイド公園で手を組んで歩きよった」と、噂話が立ちそうな田舎の、犬も食わないクリスマスイブの出来事でした。

  「クリスマス イブは二人で 過ごすもの あやかりカフェで 雑談語る」

  「お父さん 手を組み歩こう いきなりと 顔を赤らめ 悪い気はせぬ」

  「コーヒーも 飲めぬ私は デートなど できぬと諦め 今の今まで」

  「クリスマス ツリー点滅 する光 ガラスに映り まるで幻想」 

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