人間牧場

〇いっぷく亭での小噺

 伊予市の商店街の中ほどに空き店舗を利用したいっぷく亭という施設があります。商業協同組合の徳本さんたちの発案で、気軽に立ち寄れれてお喋りができるようにしようと始めたようですが、この二年私は春夏秋冬と一年に四回、小噺を頼まれて出かけているのです。毎回超満員ですっかり顔見知りになった人たちを前に、小噺をするのですが、相手が同じなので毎回テーマを決めて90分聞いてもらっているのです。
 実は昨日、私はいっぷく亭に行くことをすっかり忘れて、人間牧場で農作業をしていました。汗をかいて寒気をもよおしたため、少し早めに自宅へ帰りました。帰るなり愛大付属中学校の副校長先生から、「資料を届けたいので明日の予定は?」と電話が入りました。書斎に置いているスケジュール表を見て「明日の午後2時自宅で」と約束をして、いっぷく亭での講演予定が入っていることに気がつきました。

二年間続いたいっぷく亭での小噺が終わりました
二年間続いたいっぷく亭での小噺が終わりました

 取るものもとりあえず農作業服からスーツに着替え、昼食も取らず車を走らせました。普通は毎回30分前に到着するため、「今日は来るのが遅いねえ」とみんなが噂していた所へ、何とか滑り込みセーフです。午後1時30分からの予定でしたが、5分前には全員が揃ったようなので、小噺を始めました。何の用意もなくそれから90分、口から出任せで喋るのですから私もいい加減な人間です。
 いっぷく亭に来る常連さんに混じって、目の不自由な方がご主人の押す車椅子に乗って毎回やって来て、最前列で熱心に聴いてくれています。これはもう小噺冥利に尽きる喜びで、その人のためにもしっかり話そうと心がけてきましたが、2年間続いたお楽しみ講演会も昨日が最後です。そう思うと妙に後ろ髪を引かれるような気がするのです。

 昨日は世話役の谷岡さんから、「いっぷく亭の歌」というDVDを2枚いただきました。中には「ちょっとおよりんか」と、「ありがとう」という歌が納められていますが、歌:ユッキー、作詞:谷岡和美、補作詞/作曲:冨士井建樹さんが関わってできた労作のようで、講演が始まる前みんなに披露されましたが、中々いい歌です。谷岡さんの娘さんが書いたイラストや墨字も何処となくほのぼのとしていました。
 昨日は帰宅後咳と熱が出て、どうやら風邪を引いてしまったようです。妻は温かい食事や薬を用意してくれ、居間のコタツに潜り込んで少しだけ昼寝をしてしまいました。妻の気配りにはいつものことながら感謝をしています。夕方かかってきた高知県馬路村の木下彰二さんから、「余り無理をしないように」と注意をされ、また木下さんから聞いた電話番号で、高知県の松崎さんにも電話を入れ、電話による交遊を暖めましたが、松崎さんにも同じような注意をされてしまいました。

  「講演を すっかり忘れ 慌てたが 何とか間に合い 事なきを得る」

  「不自由な 体をおして 車椅子 私の小噺 聴きに来てくれ」

  「この二年 あれやこれやを 小噺に 客席埋まり 賑やか笑い」

  「世の中にゃ 堪能な人 いるもので 作詞作曲 軽やかメロディー」

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人間牧場

〇お手玉とまちづくり人武田信之さん

 新居浜に住む私の友人武田信之さんから、日本お手玉の会本部発行の「たまちゃん通信」31号を送ってもらいました。私は武田さんから頼まれてお手玉の会の顧問をしていますが、一度は行って見たいと思いつつ、毎年スケジュールが重なり、お手玉の会の大会にまだ一度も参加したことがなく、心苦しく思っているのです。31号の左隅に【教育新聞】「円卓」という興味あるコラム記事が載っていたので紹介します。

たまちゃん通信31号
たまちゃん通信31号

 お手玉遊びは、いま教育・介護・医療など広い分野で注目されているが、その歴史は古代エジプト文明の時代に遡る。ポンペイの遺跡の壁画、トルコのアナトリア文明博物館のネオヒッタイト時代の石のレリーフに、お手玉遊びがある。日本では聖徳太子が使ったとされる水晶のお手玉「石名取玉」が、国立法隆寺博物館にある。日本でお手玉といえば、小豆を布で包んだものが一般的。だが、これらの資料では羊の骨が多い。道具は羊の骨、石など様々だが遊び方は世界共通。
  中でも、日本のお手玉は大きな特徴がある。それは、道具のお手玉が手作りであること。おばあちゃんが日ごろから端切れを蓄えておき、孫のためにお手玉を縫って与えた。そのとき、おばあちゃんが孫に、裁縫の基本を教え、礼儀作法や公衆道徳、昔話などを話して聞かせた。そういう交流がいま見られない。お手玉が注目される理由のひとつに、この世代交流の復活があげられる。
 日本のお手玉には、作った人のぬくもりが込められている。お手玉に触れることで、ぬくもりが手から心に伝わる温かさがある。お手玉遊びは、心と体のバランスをとる運動であり、前頭前野が働き脳の活性化にもつながる。また、テレビゲーム漬けによる脳への弊害の改善につながるといわれる。それらの効果に注目して、介護の場面や高齢者の間で、お手玉が見直され、痴呆症の改善や回想法としても評価が高い。心療内科では、うつ病やパニック障害の治療にお手玉を採用する研究が進んでいる。
 学校教育では、グループでお手玉遊びを一緒に楽しむことで、思いやりの心を育てることに役立っている。また、お手玉遊びは笑顔を伴い、生き生きした表情が見られ、年齢、性別、国境を越えて楽しむことができる。三千年を越える歴史の伝承遊びであり、人類に必要な要素を含んでいるはず。お手玉遊びをいま一度見直していただきたい。

 この記事は、武田信之さんが教育新聞の依頼により書いたもののようです。武田さんは新居浜のお手玉を日本や世界に広く紹介した功労者ですが、おごることなく謙虚にして今もその発展に努力しています。尊敬するまちづくり人の一人として、これまでにも多くのことを学ばせていただきましたが、今年こそは新居浜のお手玉大会を是非この目で見たいと思っています。

  「お手玉に こんな歴史と 効果あり 妻に頼んで 縫ってもらおう」

  「奥深き 文章読んで 極め人 さすがさすがと 顔を浮かべて」

  「お手玉を しながら聞いた わらべ歌 ばあちゃんの顔 思い出される」

  「痴呆気味 俺のリハビリ お手玉を 使って速度 遅らすように」

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人間牧場

〇あれから12年が経ちました

 昨日は忘れられない2月10日でした。12年前の2001年2月10日は私が「昇る夕日でまちづくり」という自著本の、出版記念パーティを南海放送本町会館で開いた日でしたが、たまたまその日、私の母校である愛媛県立宇和島水産高等学校の実習船えひめ丸が、アメリカ海軍の原子力潜水艦と、ハワイ沖で衝突し、500メートルの海深く沈み、尊い9人の命が亡くなったのです。沈んだえひめ丸は4代目の船でしたが、私は初代の愛媛丸に乗って18歳の時、オーストラリア近くの珊瑚海までマグロを追って、遠洋航海に出かけているのです。私の人生には色々な出来事がありましたが、とりわけ実習船愛媛丸での航海や、第10回総理府派遣青年の船で、建国200年のアメリカまで太平洋を渡った航海は、異文化ギャップの中で私の価値観を変えた大きな出来事だっただけに、えひめ丸の沈没は私の心に大きな衝撃を与えた事件だったのです。

 歴史は時代とともに風化するものですが、人はどうであれ私にとって2月10日は忘れることができない特別な日なのです。遺族にとっては忘れようにも忘れることのできない悲しい日でしょうが、私の知る限り私と同じようにこの日を特別な日と思っている人がもう一人います。それは私と同じ初代の愛媛丸に乗って遠洋航海に出かけた経験を持つ、大先輩の玉井恭介さんです。玉井さんは私の自著本を編集してくれた人で、水産高校で唯一今も交流している尊敬する人物です。玉井さんは絵も書けるし文章も書ける、プロデュースもできる、私など足元にも及ばない多芸マルチ人間で、かつて遺族や学校、行政等の間の難しい調整に奔走し、ハワイと宇和島に記念碑を造ったり、その後の慰霊や交流に陰ながら大きな足跡を残しているのです。鎮魂歌「希望海」の作詞も玉井さんの手によるものですが、深みの人と浅みの人とでは思いがかみ合わず、12年経って風化を感じる玉井さんの想いとは裏腹に、この史実が人々の心の中から次第に消えようとしていることは、返す返すも残念なことで、玉井さんの心を思うといつも胸が熱くなるのです。

自著本「昇る夕日でまちづくり」の一節
自著本「昇る夕日でまちづくり」の一節

 2月10日の前日の2月9日、私は旅先の大阪にいましたが、講演が終わってJR三田駅から大阪に向かう列車の中で、いつも木のカバンに忍ばせている、玉井さんが編集してくれた「昇る夕日でまちづくり」という本を取り出して、感慨深く再読しました。私の自著本の冒頭には若かった水産高校時代の私の顔写真と、初代愛媛丸の写真が載っているのです。私と玉井さんが多分死ぬまで、いや死んだ後も忘れないのは自分たちの旅立ちとなった初代愛媛丸のことなのです。
 玉井さんは私のようなたまにしか学校に訪れない無信心な人間と違って、事ある毎に学校の鎮魂碑を訪れ、周辺の掃除や祈りを欠かさずやっています。また自分が所属するコーラスグループで、「希望海」という歌も歌っているようです。
 玉井さんも私も次第に老いの坂道を下りつつありますが、五代目えひめ丸に長い航跡を引き継いでいる実習船の安全航海と、活躍を心から祈る一日となりました。折りしも昨日はその思い出を忘れないように開いたのか、忘れてしまったのか、8千人の人が参加してえひめマラソンが賑やかに開かれていました。勿論誰の口からもそのことには触れられなかったようで、少し寂しく思いました。

  「一口で 十二年と 言うけれど あの日あの時 ありあり思う」

  「日本に あなたのことを 忘れない 人がいること 忘れないでね」

  「希望海 口ずさみつつ 涙ぐむ 歴史は非情 記憶消しつつ」

  「旅先の 列車の中で 自著本を 取り出し読みつ 大阪向かう」

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人間牧場

〇国際ロータリー第2680地区阪神第3グループの式典に招かれて

 私は色々なところから講演に招かれて出かけますが、ゴングを鳴らしたり歌を歌ったりする会議の進め方が、ロータリーやライオンズ、青年会議所、倫理法人会などは、見まがうほどよく似ていると思うのです。各地のそうした団体の例会に招かれると、普通は卓話と称して短いと30分、長くても50分程度の講話をしますが、普通90分の話をしている私としては、少し短か過ぎて話にくいというのが正直なところです。
 さて今回はロータリークラブながら県外の、しかも幾つかのグループが共同で行なう集会に招かれました。そもそもの発端は昨年の3月24日、香川県小豆島にある無人島の小島で青年を対象にしたライラセミナーという、研修会に招かれたことがきっかけです。無人島といってもロータリークラブが持っている立派な研修施設ですが、近畿・中国・四国地方から多くの青年たちが集まっていました。私はそこで講演を頼まれ、大学の先生たちと同宿して楽しい話をしたのです。その後参加した青年たちからメールや手紙が届いたり、煙会所や人間牧場へも彼らは訪ねて来ました。

 そんなご縁と、運営に携わったロータリーの役員さんが私の話を聞いていて、今回のお声掛けとなったのです。まさに口コミ効果で、今垣さんというお偉い方から打診があり、一も二もなくお引き受けしたのです。前述の通り私はこれまでにもロータリーの集会には何度か出席しているので、いつものように気軽な気持ちでした。
 ところがいざ近づいて、プログラム案などが送られてくるようになると、少しだけ不安になりました。まず会場が兵庫県福知山沿線の三田市と遠い場所にあること、今回は250人程度集まる式典での講演であること、故に何を話せばいいのか少々戸惑どったことなどでした。加えて今年は県外での講演がやたらと多く、前日は会議ながら山口県へ出かけていて準備どころではなかったのです。ネットで三田のことを調べたり、チケットの手配をしたりして何とか間に合うことができました。

 さて、ロータリークラブといえば奉仕団体とはいえ、自己研鑽を積んだ立派な経営者が多く、その人たちの前でお話をして、感動や共感を与えることは不可能に近く、容易なことではありません。そのことを一番分かっているのは自分のはずなのに、身の程知らず、分相応もわきまえず壇上に立つのですから、何という無神経な人間でしょう。
 今回私が選んだテーマは「新しい発想で生きる」というタイトルでしたが、私は伊丹空港からJR伊丹駅まで出て、JRで三田の駅に降り立ちました。この日はとても肌寒く無料の送迎バスを50分も駅前の駐車場で待つ気にもならず、タクシーで20分ばかりのフラワー・フルーツパークへ向かいました。講演は3時からなので、1時に到着してから何するでもなくゆっくりと、控室でテレビを見ながら休憩しました。そして話しの構想を少し練ってメモをし、たったそれだけで話すのですからいい加減なものです。

 ロータリーで頭に浮かんだのは、私が船乗りの頃、私の持ち船若吉丸には30馬力のヤンマーディーゼルエンジンが座っていました。エンジンの勉強をするため漁師仲間3人で、尼崎にあるヤンマーディーゼル本社に1週間勉強に行きました。その時習ったエンジンはピストンが上下運動しながら吸気・燃焼・排気をくり返し、シャフトを回転させる仕組みを学びました。その後ロータリーエンジンが開発され、今は主流となっていますが、故に吸気や排気の必要性を忘れているような気きがしてならないのです。人間が動くためには食物エネルギーを注入しなければなりませんが、吸気で新しい酸素を送り込み、血液をサラサラにして排気で使ったものを排泄しなければ、健康な活動はできないのです。このことを少しお話ししましたが、さてさて私の真意は伝わったのでしょうか。式典終了後の懇親会で多くの人が、名刺交換に私の席までやって来ました。どうやら私の話は好意的に受け入れられたようでした。私はそれを見届けるように、懇親会を30分で切り上げ、迎えのタクシーで三田駅まで出て大阪に向かいました。

  「講演に 誘われ浅学 省みず 兵庫くんだり ノコノコ出かけ」

  「ロータリー 思い出すのは エンジンで 吸気・燃焼 排気なくんば」

  「別室で 裏紙余白 あれこれと 思いつくまま これで講演」

  「お世辞でも 良かったですと 名刺持ち 多くの人が わが席訪ね」

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人間牧場

〇またしても妻の怪我

 一昨日の夕方、松前幼稚園での金銭教育協議会を終えての帰り、馴染みの散髪屋さんに立ち寄り散髪をし、男前を上げて夕方自宅に帰りました。自宅に通じる細い露地道を車で入ると仕事から帰る途中の妻とばったり出会いました。二人が何時何分に帰ろうなんて相談した訳でもないのに、同じ時間に帰ってきた夫婦ならではの偶然に、思わずお互いが苦笑いしました。
 ところが妻の歩く姿がどうもおかしいのです。聞くと職場で躓いて転んで、先月痛めていたスネを怪我したらしく、顔をゆがめて歩いて帰ったようでした。早速近所のお医者さんに電話して看て貰うように頼み、妻を乗り降りに楽な軽四トラックの助手席に座らせ、早速診察に出かけました。

 医院は目と鼻の先にあるため、受付を済ませて順番を待ちました。季節柄インフルエンザが流行っているようで、子どもや大人が順番を待っていました。また高齢化が進んで腰やスネに痛みがある顔見知りの人たちも何人かいて、軽く会話を交わしました。
 妻はそのうち呼ばれて診察室に入りましたが、レントゲンや内出血の血を抜きヒアルロンサンの注射をしたようで、少し時間ががかりました。それでも何とか自分の足で歩けるようでした。近所の薬局で薬を貰い自宅に帰りましたが、怪我をしても親父や私の食事を作らなければならず、ダイニングに立っていました。悪いと思いつつ、料理のできない私は居間でテレビを見るだけの能力しかないのです。

 (この続きは、これから兵庫県へ出張するため出かけねばならず、明日帰宅後に書きますので悪しからずご容赦下さい)

 わが家で一番の痛手は妻が病気になることです。妻がいないと私など殆ど生きて行けないのではないかと思うほどで、さ(裁縫)・し(仕事)す(炊事)・せ(洗濯)・そ(掃除)は言うに及ばず、毎日コマネズミのように働いてくれているのです。勿論わが家の会計も一手に引き受け、安月給で火の車のわが家を、倒産することもなくしっかりと経営しているのです。
 歳をとるとただでさえヒザや腰が悪くなるのですが、今度で2度目の怪我は大したことがないよう祈っています。それにしても人間はいつ何時どんなことがあるか分かりません。無意識の内に一瞬の出来事で不幸が起こるのです。私も怪我のないよう注意をして、幸せに生きたいと思います。

  「私より 妻の力が 必要と 家族誰もが 認識しつつ」

  「ちょっとした 時間のズレで 怪我をする スネ・ヒザ故障 これから大変」

  「ちょっとだけ ずれていたなら こんなこと 起こらないのに 不幸突然」

  「知っている 注意一秒 標語だが 怪我が一生 ならなきゃいいが」

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人間牧場

〇今日は山口県柳井市、明日は兵庫県三田市へ出かけます

 今朝は寒さがぶり返して寒い朝です。山口県柳井へ行くため、防予汽船でわが町の沖を通るのですが、少し北西の季節風が強く吹いていて、船が揺れるかも知れませんが、元船乗りなのでこの程度の波はどういうことはありません。帰りは夕方遅くになりそうです。

 そう書き込んだものの、今日は相手方である山口県の配慮で、会議が早く終ったため、夕方6時には自宅へ帰ることができました。実は明日9日、兵庫県三田市へ講演に出かける予定があり、二日続きの県外出張なので、あれやこれやと準備もあって随分助かりました。
 今日は皆さんと一緒の会議だったので、木になるカバン一つで準備もなく出かけ、どういうことはなかったのですが、明日の午後からは少し頑張って講演をしなければならないので、夕食でも終れば準備をしようと思っています。そういいつつはてさて何の準備をすればいいのか、いつもの事ながら結果的には大した準備もなく出かけてしまうのです。

 私が旅に出る時やることは、どういうルートで行くか決めることから始まります。幸い私にはパソコンという優れものの味方があって、出発か到着か時間を入力すると瞬時に、賢明な時刻表が画面に表示されるのです。最初は中々使いこなすことができませんでしたが、今ではプリントアウトして手元に持って、かなり重宝して使っているのです。お陰様で日本全国の旅先で殆ど迷うことなく旅ができるようになりました。
 次に着替えですが、冬の寒この時期にコートや手袋を欠かすことができないので、リュックタイプのナップサックに入れて、両手が使えるようにしています。その中には最近私と同行二人を決め込んでいる、愛大の名誉教授である讃岐先生からいただいた、二宮金次郎のブロンズ像を重たくても忍ばせているのです。両手に手袋をはめ、片手に木になるカバンを提げた姿は、どう見てもカントリーボーイの風貌で、格好いいシティボーイには程遠いものです。

 さて、明日もこのような姿で大阪の飛行場に降り立ち、三田の駅を経由して会場まで出かける予定です。多分明日の夜は大阪辺りで一泊し、明くる日の午前中の便で帰ろうと思っていますが、明日もまた新しい人や訪ねた街で新しい出会いと発見があることでしょう。
 まるでフーテンの寅さんのように、意の向くまま気の向くまま、楽しい旅が明日も続きますように祈っています。
 北陸では春一番が吹いた喜びも束の間、北西の季節風が吹き荒れているようです。明日の大阪までの道中、雪や風に合うこともなく目的地へ到着して、無事仕事が終るよう心から願っています。

 明日は一日留守をします。

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人間牧場

〇大根の首切り

 動植物は気温や太陽が昇ったり、沈んだりする時間によってその営みを変化させます。私たち人間も気温の低い厳寒の今頃は、日没も夜明けも遅いので、夏に比べ睡眠の時間が多いようですが、植物たちはさすがに季節に敏感で、事の他寒かった今年の年末年始から一転し、このところの春の到来を思わせるような温かさで一気に目覚めたのか、目覚めの早い植物である畑のブルーベリーなどは、頻繁に降る早春の雨を一杯吸い込んで、新芽を大きく膨らませているのです。
 私たちの地方では、「伊予路に春を呼ぶのは椿さん」と言われていて、その椿神社の祭礼はまだ10日もしないと来ないため、もう2~3は回厳しいい寒波がやって来るだろうと思っていますが、閏住の菜の花は水仙からバトンタッチをされたように、黄色い花を咲かせ始めているようです。

 畑の冬野菜もそろそろ終わりに近づき、家庭菜園のあちこちでは、引き抜かれた野菜の跡がまるで歯抜けのようになって、少し見苦しく感じています。今年は冬野菜が大豊作で、特に白菜と春菊、高菜などは毎日の食卓が野菜を使った妻の手料理で埋め尽くされ、堪能するほど食べました。お陰で元気モリモリといった感じがするのです。
 今年は大根が大活躍の冬でした。妻は沢庵を3度にわたって漬け込み、今は2回目の沢庵を食べていますが、3度目に漬けた沢庵も順調に水揚げができたようで、その出来具合を楽しみにしています。妻は近所の人に教わった大根の浅漬けに凝っていて、真っ白い短冊切りの大根にユズと鷹の爪を入れて作った浅漬けはお茶請けとしても、かなりの存在感を見せています。大根の白、ユズの黄色、鷹の爪の赤が見事なほど美しく感じられ、食欲をそそるのです。

 その畑の大根にそろそろ異変が起ころうとしています。種保存の原理でこのままほおって置くと、トウが立って花を咲かせて食べれなくなるのです。早速今日にでも大根の首切りを始めなければなりません。首切りといえば何か縁起が悪いような感じがしますが、これも大切な春の仕事なのです。大根を引きぬかず、みどりの葉っぱを切り取るのです。こうすれば4月頃まで瑞々しいままの大根を食べることができるのです。
 大根はおでんに似たり、漬物にしたり、切り干し大根にしたりと、脇役ながら食卓には欠かせない野菜で、最近凝っている大根サラダやすり大根として、生のままでも美味しく食べられますが、冬野菜の旬も大根の首切りで終わりに近づいてきました。畑のハコベ草も日に日に緑を増して、いよいよ春の到来です。冬の寒さが厳しかった分、春を待つ気持ちが強くなってきました。♯春よ来い、早く来い♭・・・・。♭もうすぐ春ですね、ちょっと気取ってみませんか♯・・・・・・ですね。

  「縁起でも ないと言われつ 大根の 首切り揃え 畑仲良く」

  「三度目の 沢庵漬けて お茶漬けが 楽しみ俺も かなり歳だな」

  「植物は 夜昼長さ 知っていて 春来る準備 早くも始め」

  「この時期が 来れば早くも 畑仕事 頭の中で 予定を立てる」

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人間牧場

〇街中の人間牧場移動塾の講義終る

 一昨年松山と西予で開かれた、ものづくり文明機構のシンポジウムがご縁で開講することになった、愛媛新聞カルチャースクール、「街中の人間牧場移動塾」という一風変わった講座も、早いもので開講以来一年が経ち、昨日は愛媛新聞社での最後の講義となりました。
 私の一年間のスケジュール統計で最も空いているのは火曜日の10時から12時だと、自分勝手に決めて募集をしたものの、「そんな時間に受講生が集まるはずはない」と妻が言うように、案の定蓋を開けてみると、受講申し込みはたった2人だけでした。普通は最低でも5人くらいが開講の条件なのでしょうが、愛媛新聞のカルチャースクールは、例え1人でも申し込みがあれば開講するという内規どおり、昨年の4月3日に開講したのです。その後2人が3人になり4人になりと微増して、3回目から6人になり、何とか体面を保つことができたことは嬉しいことでした。

 最初に申し込んだ永山さんは、松山市役所で私の話を聞いた余韻で弟兵頭さんを誘い、親友浜田さんが友人明神さんを誘い、新聞社の浅野さんの紹介で新崎さん、そして宇和島から脇谷さんも加わって、バラエティに富んだ布陣となりました。受講生はそれぞれしっかりした信念を持って生きている人ばかりで、こちらもその気で講義をしてきましたが、1回2時間の講義を12ヶ月続けるということは、喋る私も聞く受講生もとても力が要るのです。
 最初は私の忙しさもあって、レジメなど用意する暇もなく、テキストに選んだ「夕日徒然草・水の書・火の書・風の書・空の書」という私の自著本4冊を買ってもらい、読みながら説明を加えようと思いましたが、前回何処まで読んだかも忘れがちで、結局後半は「笑いの力」「生きる力」「選ぶ力」など「力」をキーワードに、思いつくまま前日レジメを作ってお話をしました。

 昨日のレジメは次のレジメのとおりです。

講義レジメP1
講義レジメP1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

講義レジメP2
講義レジメP2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このレジメを元に2時間お話をして、最後は受講生に感想を述べてもらいました。いやはや私にとっても勉強になるとてもいいカルチャースクールでした。次回の閉講は人間牧場のピザ釜でピザを焼いたり、こんにゃく作りの体験をしたりして総括しようと思っています。
 帰り際と帰ってから愛媛新聞社から、来年もこの講座を開講して欲しいとの要望が出されました。少し考えさせて欲しいと即答を避けましたが、はてさてどうしたものか、新たな火種が持ち込まれた最終日でした。

  「ある部分 カルチャー馬鹿に していたが 私のカルチャー 少しショックを」

  「早いもの 月に一度の 講義終え また年齢を 重ねて涼し」

  「四冊の 夕日徒然 自著本を テキストにして 街中話す」

  「やっとこさ 終って肩の 荷を降ろし 軽くなったが 新たな荷物」 

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人間牧場

〇何がどうなっているのやら

 年末から年始にかけて県内のあちこちで、首長や市町議会の議員選挙が行なわれています。この状態は4月の統一地方選挙や夏の参議院議員選挙まで続くようですが、遠い雲の上のような存在の国会議員選挙もあれば、身近なわが市内の選挙まで、実に多くの選挙戦が繰り広げられるのです。選挙の度に知人や友人が出馬し、当選したり落選したりする姿をもう何十年も見てきました。当選すればそれなりの地位と栄光を手にし、選挙に使ったお金も戻ってきますが、落選すればそれはもう惨めで、世間の冷たい目と仕打ちが待っていて、使ったお金は全てどぶ川に捨てたと同じように帰ってこないのです。にもかかわらずまるで博打のような掛けに出る気持ちは、この国この町をよくしたいと思う純粋な気持ちも読み取れますが、当選した人たちのその後の行動を見ると、必ずしもそういう人ばかりではなく、地位と名誉が目当てだったような人もいのです。

 年末の衆議院解散後の選挙で大勝したのは自民党でした。安倍総理が就任後、たった一ヶ月でアベノミクスという言葉だけで、経済実態が変わった訳でもなく、何もしていないのに日本円は下がって1ドル91円になり、株価も1万2千円に跳ね上がったのですから、何がどう経済を動かしているのか、為替や株に縁遠い私たち庶民にはまったく理解ができないのです。「通貨の供給量を増やす。インフレターゲットを作る」政府がいった言葉はただそれだけなのに・・・・・。
 結局お金を沢山持っている少数の個人投資家と、人を束ねる大企業、それに無策な政治家がいつの時代も世の中を動かしているのだと思うと、そんな選挙の茶番劇に付き合うほど自分の人生は暇ではないと思うのです。そして残された人生をいかに自分流に生きるべきかを考え、今の自分の生き方が間違っていないことを確信するのです。

 私の町も合併して8年、そのことの検証もしないまま選挙になろうとしていますが、私の願いは、私の住んでいる町を景気も不景気も関係なく少しでもいい町にしたい、そして住んでいる人たちが幸せだと思って暮らせるようにしたい、また未来を背負う子どもたちや若者がしっかりと未来に向かって羽ばたけるようにしたいということです。勿論自分の残された人生もいい人生だったと思うような生き方がしたいのです。
 私がなけなしの財布をはたいて造った私設公民館煙会所も、海の資料館海舟館も、また人間牧場も全てその一点に凝縮した仕掛けなのですから、これからも大いにこれらの仕掛けを活用して活動したいものだと思っています。

 昨日私の従兄弟で下灘漁業組合の組合長が、久しぶりにわが家へやって来ました。私が23歳の時作った生活設計には、40歳で下灘漁業組合の組合長になると書いていただけに、彼の生き方に興味を持っているのです。私は体調を崩し役場職員に転職したためその夢は叶いませんでしたが、その後役場で4年間水産行政を担当し、今も愛媛海区漁業調整委員をしていて、多少なりとも漁業と関係を持っているので、漁業について大いに語りました。下灘漁協も漁船の数が往時の半分にまで激減、漁獲・魚価ともに厳しいようです。それでも私が関わった水産物荷捌き施設整備事業以来の大事業である、製氷施設が間もなく完成する朗報もあるようで、組合長の言葉も少し弾んでいるように聞こえました。

  「何語かな アベノミクスと いう言葉 ただこれだけで 為替や株価」

  「少数の 投資家たちの 手の平で 日本経済 翻弄される」

  「株・為替 関係も無く 暮らす俺 社会の隅で ひっそり生きる」

  「今の俺 宮沢賢治の 世界にて 満天仰ぎ 夢見て生きる」

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人間牧場

〇わが家のガーデニング

 わが家は家の横にある家庭菜園を含めると、敷地面積が広い広い660坪もあって、庭のそこここに植木や花木を植えていますが、特に菜園の畦200mに植えたツツジは見事で、4月の終わりから綺麗な花を咲かせ、見る人を楽しませてくれています。これ以外にも花の好きな妻は、プランターや植木鉢を使って庭のそこここに置き、季節の花を楽しんでいますが、近所の歯科医院に勤めていて、日曜祭日しか休みがないため、余り世話が行き届いていないのです。それでも妻は忙しい仕事や家事の合間を縫って、水遣りや花柄を取ってそれなりに楽しんでいるようです。

すっかり綺麗になったプランター
すっかり綺麗になったプランター

 数日前妻は外出した折、パンジーの苗を20本ばかり買って帰りました。車庫の横に置いて2~3日経ちましたが、昨日は日曜日なのに友だちグループの新年会とかで、朝からさっさと出かけて行きました。昨日はブルーベリーの植え替えをするため家にいたので、ブルーベリの植え替えが終って一区切りついたため、プランターの土をコンクリートの土間に移し、丹念に雑草を抜き取って、新しい土を2袋加え平スコップで切り替えして、プランターに入れ直しました。ブルーベリーの植え替えが予想以上に足腰にくるほどきつかったため、中腰の作業は少し腰の張りを覚えるほどでしたが、それでも1時間ほどで全てのプランターに土を入れ替え、妻が買っていたパンジーの苗を行儀よく、一鉢3本ずつ植え終えました。

 プランターの中にはラベンダーのように、枯れているように見えても枯れていない永年植物もあって、また自然に種を落とした桜草が、早くも花を咲かせ始めて、春の訪れが間近であることを告げているのです。
 少し遅めの夕方5時頃妻は、「楽しかった。久しぶりにリラックスした。」と上機嫌で帰って来ました。気になっていたパンジーの植え替えを、私が何の前ぶれもなくしてくれたことに驚いた様子で、大いに喜んでくれました。昨日はブルーベリーとパンジーの植え替えで、妻が外出時に用意してくれていた昼ごはんを、食べることすらすっかり忘れるほど熱中してしまいましたが、まあ穏やかなのんびりしたいい一日でした。

わが家の庭に咲く山茶花の花
わが家の庭に咲く山茶花の花

 わが家の玄関先には、年末に水口マリ子さんからいただいたプランター植えの、葉牡丹が置かれています。昨日はその水口マリ子さんが、黒豆の炊いたのを自宅までわざわざ届けてくれました。また金曜日に松山市教頭会の講演で出会った和田教頭先生も、自宅へ見えられました。夜は節分の豆まきを家族で行い、すっかりお馴染みとなった恵方巻の巻寿司を、吉の方向に向かって食べました。わが家にも、わが家の庭にも今年の寒さが厳しかったゆえ、待ち遠しい春がもうそこまで来ています。庭のサザンかも名残の花を咲かせ、蜜を吸うメジロや種蜂も、春の足音を感じて動き始めているようです。「春よ来い。早く来い」です。

  「パンジーの 苗を植えたい そのために 土を作りて プランター入れ」

  「これまでは 妻の仕事と 思ってた ガーデニングも 私加わる」

  「植え終えた プランター見て ありがとう 妻の弾んだ 声を喜ぶ」

  「寒かった 故に春来る 待ち遠しい そこここ春の 息吹感じる」 

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