人間牧場

〇朱子学と陽明学

 私は戦後間もない田舎の漁村に生まれ育ちました。ゆえに保育園もなく小学校6年間、中学校3年間の義務教育9年間ををふるさとの学校で学びました。高校は宇和島水産高校に進学したため、ふるさとと親元を離れて学びましたが、大学へは行かず12年間で学業を終え、最終学歴は高卒なのです。ゆえに大した出世もせず、知識も大したこともなく69歳を迎えています。もし人間の値打ちや知識が学歴で決るのなら、私は20代までのつまずきで一生を終えなければならないのでしょうが、そこが世の中の面白いところで、どうやら学歴よりも学習歴が人生を決めるようだったと、今になって過去を述懐するのです。

 私は若い頃体調を崩して病気になりました。活発だった青年活動が縁で役場に雇われましたが、最初に配属された部署が教育委員会だったことが幸いし、社会教育の現場で沢山の教育関係者と出会うことができました。吉川英治の「人みなわが師」を心に決めてへりくだり、どれ程の人に教えを請うてきたこことでしょう。またどれ程の本を読んできたことでしょう。またどれほどこの目で見てきたことでしょう。この実学は私の今を形作っているし、読んだら書く、聞いたら喋る、見たら実践するという知行合一を今なお実践しているのも、学習のお陰なのです。

 人は学ぶと必ず知らないことにぶつかります。知らないことを恥とせず、知ったかぶりせず、知らないことを知るように努力すれば、何倍もの知識と知恵が転がり込んできます。私が主宰している年輪塾でこれから近江聖人中江藤樹を学びますが、中江藤樹を紐解くと必ず「大学」という本が出てきます。大学を学び始めると朱子学と陽明学にぶつかります。朱子学は、大学の教えは「人間社会の全ては権威に従い、永久不変で変えられないもの」というです。ところが同じ大学を、「権威に盲目に従うのではなく、己の責任をもって行動する心」だと王陽明は陽明学で説いているのです。

 どちらも正しくどちらも間違いではありませんが、どちらを信じるかは社会や組織それぞれ、また人それぞれなのです。忠義か孝行か二者択一ではなくどちらもよき方に理解して生きなければなりません。「人は逢えば逢うほど逢いたくなり、学べば学ぶほど学びたくなる」これは私が「昇る夕日でまちづくり」とう本を著した時、巻末に書いた私の造語です。これからも私は余命いくばくもない人生を、多くの学習歴を積み重ねながら生きて行きたいと思っています。いやはや学問とは奥が深いものです。学べば学ぶほど問いが多くなるのも学問のようですね。

  「大学を 学べば更に その奥に 朱子学ありて 陽明学あり」

  「学べども 山々山の 向こうには 山また山の 学ぶことあり」 

  「学校で 学んだことは 基礎知識 社会で学ぶ ことが多くて」

  「さあ今日も 学びの心 大事して 謙虚に人に 社会に学ぶ」

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人間牧場

〇今年最後の愛媛海区漁業調整委員会

 この2日間、私は愛媛海区漁業調整委員会の委員をしているので、松山市にある水産会館で開かれた委員会に出席しました。普通は2ヶ月か3ヶ月に一回、半日程度を費やす会議なのですが、今回は10年に1回の共同漁業権、区画漁業権と、5年に1回の定置漁業権、特定区画漁業権合計910件もの、県知事から諮問のあった免許内容の事前決定が議題なので、事前に送られてきた資料に基づいて事前に目を通し、慎重な審議が行なわれました。委員に就任して6年目になりますが、漁業のことについてはそれなりに知っているつもりでも、まだまだ分らないことが多く、ましてや漁業権免許となると始めての経験なので、少し右往左往してしまいました。

 昨晩は1年に一度の委員による親睦会が、関係者や県職員も招いて国際ホテルで開かれました。隣に座った委員長の佐々木さんは戸島ハマチ、委員の武田さんは久良ハマチの産地出身なので、最近の浜での話題などについて興味深い話を沢山聞かせてもらいました。赤字の漁協があったり、後継者不足に悩む地域があったり、また浜のお母さんたちが宇和島市内にレストランを出店したり、明暗悲喜こもごもの話でしたが、全体的には漁業も右肩下がりのような感じを受けました。ふともし私が26歳で転職して役場職員にならずに漁業を続けていたら今頃どうなっていたのだろうと、思いを巡らせました。

 私は漁業が嫌で転職したのではなく、体調を崩して断念しただけなので、今でも幾らか漁業には未練があるのです。35年間の役場職員生活の中、4年間水産行政を担当して、漁業構造改善事業の推進に情熱を燃やし、水産物荷捌き所や漁村センターを造ったのも、多分そんな思いがさせたのではないかと思っています。人間は幾ら未練があっても過去に戻ることはできないので、これ以上は深入りしませんが、松山の大木組合長がいつも口癖のように言っている、「漁師の意識の変革なしに漁業の発展はありえない」のであれば、「もし私だったらこんなことをしてみたい」という夢の部分を何とか実践し、明るい漁村作りの手伝いをすることだってできるのではないかと思ったりしました。

  「10年と 5年に一度の 免許ゆえ いつも以上に 慎重審議」

  「親睦会 悲喜こもごもの 話聞く 右肩下がり 否めないかな」

  「もし私 あのまま漁業 続けたら 今頃何を しているだろう?」

  「人間は 後に戻れぬ ものなので 悔やんでみても 後の祭りだ」

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人間牧場

〇山茶花の花が咲き始めました

 わが家の敷地内には春先5月に咲く100本もの皐月を始め、季節を告げる花木があちらこちらに植えられています。柿やスモモ、ミカン、梅などの花木は果実を収穫する副産物ですが、花を楽しむだけの皐月や椿、山茶花に加え、この時期は赤い実をつける南天やクロガネモチを捨て難い味があって、小鳥たちがやって来て啄ばんでいる姿は何ともほほえましいものです。

裏庭の山茶花
裏庭の山茶花

 わがダイニングから見える裏庭に、少し大きめで長く横に枝を伸ばしている山茶花の木があります。親父が丹精こめて育てている一本ですが、このところの寒さで可憐な真っ赤な花を咲かせ始めました。殆どの花木が春に花を咲かせるのに、百日紅は夏、山茶花や椿は何故か寒い冬を選んで咲くのです。昨年の冬も寒くて、一度だけ白い雪が山茶花の木に降り積もり、真っ赤な山茶花の花が一際美しかった姿を思い出していますが、今年の冬も寒いので大寒の頃にその再来を期待しています。

満開の山茶花の花
満開の山茶花の花

 冬の花は派手さこそありませんが侘びや寂を感じるような捨て難い味があって、「思わず一句」とか、古い話ですが大川栄作が歌って大ヒットした、「さざんかの宿」という歌を口ずさみたくなるよう心境になります。3年前息子家族と同居するためわが台所を息子たちの明け渡し、私の書斎だったところを改造して、私たち夫婦の台所を作ってから、私たち夫婦はこn山茶花や裏山の光景を毎日見ながら食事ができるのです。妻は思わぬ副産物に喜び、私も結構気に入って暮らしているのです。

 山茶花の花は一見ツバキの花に似ていますが、椿が首折れして縁起が悪いと言われるのに対し、山茶花は花びらを散らすので、上品な花のように言われ茶花として植えられてています。サザンかも赤や白、しぼりなど色々な花がありますが、わが家の山茶花はありふれた赤が主流のようです。
 このところ忙しくて花を愛でる気にもなれませんでしたが、これからは歳相応にそんな余裕を持ちたいものだと、昨日はデジカメに収めました。花を見ていると日々俗世の煩わしさを忘れるようです。

  「ダイニング 窓越し見える 裏庭に 真っ赤山茶花 凛として咲く」

  「花を愛で 朝昼ご飯 食べれるは これぞ幸せ 思えば至福」

  「山茶花の 花咲く姿 眺めつつ もう師走かと 時の早さを」

  「モズ一羽 山茶花蜜を 吸いに来る 窓越われら 夫婦を見てる」

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人間牧場

〇遅ればせながら11月の五行歌

 このところ忙しいゆえブログに書くことが多過ぎて、松山五行歌会の主催者見山あつこさんからの11月のお便りを、すっかりそのままにしていました。年末になるとそろそろ年賀状を書かねばならないシーズンです。昨日車の中でカーラジオを聞いていると、私などまだ年賀状に手をつけていないというのに、早くも年賀状の受付が昨日始まったと報じていました。やばいと思いつつ机の上を少し片付けようと思いながら文書の山をひっくり返していて、見山さんからの風を切って読んだはずの封書を見つけました。

 私の11月作品は次の歌でした。
  十年前 
  還暦の同級会
  今年は古希の集い
  十年後は傘寿か
  歳はとりたくない

 後付けとして次のような講評が書かれていました。
 ☆五行目の一言に「そうですね。」という思いと、「歳をとる楽しみもあるんじゃないか。」という両方の感想が・・・・・・。歳はとりたくないと言いながら、作者の頭にはもう10年先のことが浮かんでいる。つまるところ前向きな方だとお察し致しました。何かを目標に気力を維持することも大事ですよね。傘寿の同窓会に元気で出られますようにと祈ります。

 傘寿は八を十の冠に乗せると傘という字に見えることに因んでいます。その前にあと7年すれば喜寿です。喜ぶという古い文字が七と七があるので、そう読まれているのかも知れません。古希を過ぎると、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、白寿(99歳)、百寿(100歳)と続くようですが、せめてあと10年後の傘寿くらいまでは、元気で生きねばと思うこの頃です。五行歌に書いた言葉を反芻しながら人生の短さをしみじみ思う今日この頃です。

  「あと何年 自分の余命 あるのだろ せめて傘寿は 迎えたいもの」

  「五行歌に 何げないように 書いたけど これから10年 生きるは大変」

  「上向きの 孫の姿に 発奮し 下向き人生 軌道修正」

  「さあ次は とりあえずだが 喜寿目指す あっという間に 人生終る」

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人間牧場

〇かまどご飯と味噌汁(その2)

 今ではすっかり人間牧場の定番メニューとなったかまどご飯と味噌汁を、昨日の餅つき大会にも振舞うことになりました。餅つきがメインなので、かまどをセイロ蒸に占領されているため、12時まではご飯も味噌汁も炊くことができませんでした。昨日はセイロ蒸の補助お湯沸しとして、自宅にある移動式かまどを用意して、常時熱いお湯を沸かしていたお陰で、セイロ蒸も餅つきが間に合わないほど順調に進みました。
 餅つきが終わりに近づいてお湯の必要がなくなった頃を見計らい、移動式かまどでまずひと鍋味噌汁を作り始めました。味噌汁の具材は妻が用意した鱧の切り身、しいたけ、エノキダケ、豆腐、ネギのシンプルなものを、次々に入れて行き、最後はギノー味噌からいただいた麦味噌で味付けして仕上げるのです。

 最後のセイロが終るといよいよかまどご飯です。昨日は総勢30人近くなので3升の米を妻に研いで用意してもらっていました。昨日は食通の青木晴美さんと気配りの浜田久男さんが私のアシスタントについてくれたお陰で、水加減や味加減も造作なく、私は火加減に専念できたため、味噌汁もご飯もセイロ蒸の合間を使って急いでやった割には完璧で、いい炊き具合となりました。
 かまどご飯2釜と味噌汁2鍋を中心に置き、車座になってみんなが食器に注ぎ分けて食べるのですが、これがまた美味しくて、おかずは妻が用意してくれた漬物だけなのに、少し大目に炊いたご飯を除けばすべて完食でした。作る側にしてみれば折角作ったものを喜んで美味い美味いと言って食べてもらえることは何よりの喜びなのです。

車座になって楽しい食事会
車座になって楽しい食事会

人間牧場には30人の食が賄える取り皿と茶碗、コップが収納箱に入れられ用意されています。使い捨てでないこれらの食器は、昔21世紀えひめニューフロンティアグループが無人島キャンプに使っていたものを貰い受けたものです。清潔感もあっていつも使っていますが、便利な食器を手に入れたものだとみんなで喜んでいます。昨日に間に合わせるように整備した水槽のお陰で昨日は洗い水にも事欠くこともなく無事後片付けができました。
 来年は人間牧場ができてから早いもので10周年を迎えます。10周年記念事業として何かやりたいと思っていますが、とりあえず年が開けたら外壁の防腐剤塗りもやらなければなりません。来年の秋には私も70歳を迎えます。あと10年が勝負といったところでしょうか。

  「かまど飯 味噌汁添えて 車座に なって美味いと 言いつつ食べる」

  「かまど飯 味噌汁ともに 炊くコツを すっかり覚え 失敗もせず」

  「飯を炊く 味噌汁を炊く その都度に 妻の財布と 手を煩わせ」

  「今回も ギノー味噌から 麦味噌を いただき美味い 味噌汁できた」

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人間牧場

〇年輪塾恒例の餅つき大会(そに1)

餅つき(松本さん撮影)
餅つき(松本さん撮影)

 12月の第2土曜日は年輪塾恒例の餅つき大会です。餅つきは準備が大変で、まずもち米を手に入れなければなりません。親友の西岡栄一さんに相談したところ、昨年に引き続き快くもち米を一袋(30kg=2斗)いただきました。勿論大洲市田処の亀本幸三さんももち米1斗とヨモギ持参です。餡子は浜田さん、みかんは清水さん、餅とり粉やパックは松本さんとそれぞれの役割に沿って準備を進めましたが、わが家の役割は何といっても大きく、西岡さんからいただいたもち米2斗を、冬のことゆえ前々日に妻が冷たい水で洗い、バケツにかしてくれました。私はセイロやモロブタを家の倉庫から取り出し、綺麗に水洗いして陰干ししました。

 餅つきは二重ねセイロを二つ用意し、ポリ容器3つに飲料水を入れ、もち米とモロブタ、それに昼食にかまどご飯と味噌汁を炊くので、その準備品も妻に用意してもらい、自宅を8時に出発しました。餅つきは段取りが肝心で、みんなが集まるまでにかまどに火を入れ、室内とはいいながらこのところの寒波の襲来で寒いため、薪ストーブにも火を入れなければなりません。杉葉のお陰でマッチ4本で移動式かまどを含めた4ヶ所に火をつけ、お湯を沸かし始めました。今日は息子が所属する建築士会のメンバー6人も参加したため子どもを含めると30人近くになり、息子も少し早く人間牧場に到着し二人で所準備を整えました。

 

かまどでセイロ蒸
かまどでセイロ蒸

 そのうち田処組や松山組が相次いでやって来たころにはもち米も勢いよく蒸気を上げて蒸せ、早速高知県西土佐から貰った臼と杵で威勢よくつき始めました。普通の年だと私が手臼をするのですが、去年と今年は元学校の校長である水本先生が主にやってくれ、米屋の兵頭さんも手伝ってくれたので、私は何の造作もせず、かまどの差配と、お湯足しに專念することが出来ました。餅は白餅を主流として、ミカン餅、梅餅、ヨモギ餅全部で15臼つきました。室内では女性軍が中心になってもちを丸めたり餡子を入れたり、またもち帰り用のパックに詰めたりしていましたが、息子嫁も孫たちと一緒に参加し、パック詰めを手伝ってくれて大助かりでした。今日は松本さんも歩き始めた子どもさんを連れて来ていて、子どもの成長の早さにみんな驚いていました。

 

孫奏心も餅をつかせてもらいご満悦
孫奏心も餅をつかせてもらいご満悦

 餅つきの目途がついたところで、ご飯と味噌汁を作りました。まかないは青木晴美さんと浜田さんが手伝ってくれたので、餅つきが12時より少しずれ込みましたが、ご飯も味噌汁もすこぶる美味しくできました。餅を試食したというのに、餅つきという労働をしたからでしょうか、ご飯も味噌汁も美味しい美味しいを連発して沢山食べていただきました。田処の山崎さんから届いた豆腐も冷奴で食べましたが最高でした。
 年輪塾を終えて帰り際にみんなに2パックずつのお餅をお土産にとって帰っていただきました。またギノー味噌さんからいただいていたお味噌も配りました。私は残ったお餅を人間牧場の近所や知人友人に20個以上も配りました。セイロやモロブタなど使った器具類をタワシで水洗いして夕観所に干し、やっと忙しかった持ちつきたいかを終えることができました。少し疲れましたが心地よい疲れでした。

  「餅つきは 準備に加え 段取りが 八分仕切るは 私の役目」

  「十五臼 ペッタンペッタン ペッタンコ 交代しつつ 二時間余り」

  「お土産に 二パックずつ 持ち帰る 残りを近所 私が配る」

  「小道具を タワシで洗い 陰に干す やっと一日 少々疲れ」

若嫁たちの手によって並べられたお持ち帰り用と配布用の大量のお餅
若嫁たちの手によって並べられたお持ち帰り用と配布用の大量のお餅

 

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人間牧場

〇中江藤樹を学ぶ前に(その2)

 中江藤樹は他の人のように功をなした人ではありません。学校を造り村人に黙々と地道に人の道を教えていました。ところがあるきっかけで藤樹は無名の存在から見出されて世に知られる存在となりました。

 一人の青年が師と仰ぐべき聖人を求めて岡山を旅立ちました。近江の国に来て一夜の宿を過ごしていると、隣の部屋で話す二人の会話に青年はひきつけられました。主君の命で首府に上り数百両の金を託されて帰る途中だった。その金を肌身離さず所持していたがこの村に入った日のこと、財布をその日の午後雇った馬の鞍に結びつけておいたことを忘れ、孫と一緒にその馬を返してしまった。大変な忘れ物をしたことに気付いたが、馬子の名も知らず、探し出すのは不可能で、例え探し出したとしてもその金を馬子が使ってしまっていたらどうなるだろう。弁解の余地もなく途方に暮れ、一通は家老、もう一通は親族に詫びの手紙をしたため最後を迎える決意を固めた。苦境に陥った真夜中遅くになって、誰か宿の戸を叩く者があった。やがて人夫の身なりをした男が私に面会を求めていることを知らされた。その男はその日の午後馬に私を乗せた馬子馬子本人だったのだ。男はすぐさま言った。「お侍さん、鞍に大事なものを忘れていませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返ししようと思い戻ってまいりました。これでございます」。そう言って孫は私の前に財布を置いた。「あなたは私の命の恩人である。命の助かった代償として、この四分の一を受け取られたい。命の親と言ってよい」。しかしも語は聞き入れなかった。「私はさようなものを受け取る資格はありません。財布はあなたのものです。あなたが持っているのが当然です」と言って前に置かれた金に触れようとしなかった。その後十五両、五両、二両、最後に一両を渡そうとしたが無駄だった。ついに馬子は言った。「私は貧乏人です。このことで家から四里の道をやって来たので、わらじ代として四文だけお願いすることにしましょう」。私がその男に渡すことができた金は二百文だった。立ち去ろうとする男を引き止めて尋ねた。「どうしてそれほど無欲で正直で誠実なのか、そのわけを聞かせて欲しい、このご時世にこれほどの正直者に出会うとは思いもよらなかった。

 貧しい男は答えた。「私のところの小川村に、中江藤樹という人が住んでいまして、私どもにそういうことを教えて下さっているのです。先生は利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは正直で正しい道、人の道に従うことであるとおっしゃいます。私ども村人一同先生について、その教えに従って暮らしているだけでございます。この話を聞いた青年は、「この人こそ私が捜し求めていた聖人だ、明日の朝にも訪ねて下男なり門弟にしていただこう。次の日青年はただちに小川村に行き聖人を訪ねて会いました。青年は来意を告げ頭を低く下げ弟子にしてくれるよう心から懇願しました。藤樹は驚きながら、「私は村の教師にしか過ぎません。遠方から来た立派な人に頼まれるほどの人間ではない」と頼みを断わりました。藤樹の謙虚に打ち克つ決意をして、家の玄関の傍に外衣を広げ姿勢をただし両刀をかたわらに膝に両手をついて座り、日に晒され雨露に打たれ、道行く人々の噂にもなって座り続けました。三日三晩の間の懇願を察した母親の意見を聞き入れ弟子になりました。

 この人こそのちの岡山藩の役人となって敏腕をふるった熊沢蕃山でした。蕃山にまつわる岡山藩主池田光政公との逸話などは、中江藤樹の人となりをよく表しているようです。

  「誰決める? 自分の値打ち やはり人 俺は偉いと 思うは大馬鹿」

  「馬子馬に くくった財布 届けたる 正直これぞ 藤樹の教え」

  「まず自分 人に迷惑 かけぬよう さらに磨いて 人に影響」

  「四十で この世去ってる 藤樹だが いやはや偉い 足元及ばず」 

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人間牧場

〇中江藤樹を学ぶ前に(その1)

 「人間は誰から何を学び何のために生きるのか!!」、これは私にとって今までも今も、多分余命残り少ないこれからも、自分自身に問いかけている向学の心です。私の精神の基を作ってくれた一番の恩人は何と言っても両親ですが、余りにも身近にいるゆえ両親が、一番の恩人であることには最近まで気付きませんでした。でも嘘をつくな、命や人や物やお金を大事にしろ、あいさつをしろなど、おおよそ10くらいな戒めの6つぐらいは、日常の暮らしの中で親自身も実践しながら、口癖のように言われて育ったことが、私の精神を作り上げているのですから、これはもう千金に値することなのです。親から教えてもらった「受けた恩を返す」という言葉の意味も、愚かな私の心には余り響いていませんでしたが、二宮尊徳の教えが「ギブアンドテークではなくテークアンドギブである」と知って納得してからは、大恩ある年老いた親への接し方や在宅介護の仕方も、随分変わったように思えるのです。

 数多くの先生から様々な知識を教わりましたが、親から教わったことに比べると生きるための知恵は2程度、その後の先人の学びからは2程度でしかないのですが、今はその後の先人からの学びの2に、比重を置いて一生懸命学んでいます。
 民俗学者宮本常一、600ものまちやむらを蘇らせた復興の祖二宮尊徳、数奇な運命を辿った日本維新の功績者ジョン万次郎からこの6年間、年輪塾で様々なことを学びましたが、今回は人間牧場で開いている年輪塾で、近江聖人中江藤樹を学ぶことにしました。早速読書から始めようと、内村鑑三著「代表的日本人」を素読し、童門冬二著小説「中江藤樹上・下」読み始めていますが、まだその半分にも至っていません。
 中江藤樹に最も影響を与えた書物は孔子の「大学」でした。11歳にして早くも大学を熟読し、大志を立てたというのですから凄いことです。

松岡所長さんが彫ってくれた知行合一の言葉
松岡所長さんが彫ってくれた知行合一の言葉

 大学を読んで中江藤樹の目に留まった言葉は「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある」でした。そして聖人にならんとすることを心に誓ったのです。近江に残した母親のことを案じながら、四書を手に入れ身近に置いて学問を怠りませんでした。母親を呼び寄せて大洲の地で録をいただくことが叶わなくなり、録米・家屋敷・家財を後に残したまま一路母親の元へ帰り、貧乏ながら慎ましやかな親子の暮らしを楽しみました。中江藤樹の全道徳体系は子としての義務、「孝」を中心としているのです。28歳の時村に学校を開きます。孔子像を自宅教室の正面に掛け香を焚き、中国の古典、歴史、作詩、書道を教えました。中江藤樹は「積善」について、「大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす」と説いています。
 いやはや味のある教えです。国立大洲青少年交流の家の松岡所長さんに彫って貰った中江藤樹の言葉「知行合一」という板切れが妙に気になるこの頃です。

  「第一の 恩人誰?と 問われたら 両親という 今頃気付く」

  「ギブアンド テークではなく まずテーク 尊徳・藤樹 同じ思想だ」

  「残り二の 学びおさおさ 怠らず しっかり学べ 自分に言いつ」

  「木に彫し 知行合一 カバン要れ 普及するには 己磨かん」

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人間牧場

〇地域づくり12月号別冊に寄稿

 先日face bookで、友人の松本宏さんが地域活性化センター発行の、平成25年度地域づくり団体活動事例集の紹介と、私が書いている原稿について書いてくれていました。「地域づくりを担う人材の発掘と育成」がテーマのこの事例集には副基調論文として、私も頼まれて8千字余りの少し長めの文章を書き、7枚の写真とともに6ページに渡って巻末に載っているのです。
 私の今回の原稿は、①私という「地域づくり人」はどのようにして育ったのかという回顧の追跡と、②私が始めた人づくり、それに③ゼロに戻って再起動した人間牧場、④地域を担う人財三者について違った視点で書きました。その全容を記録のつもりでスキャンして掲載紹介します。

地域づくり12月号別冊表紙
地域づくり12月号別冊表紙

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  「拙文の そしり覚悟で 書いた文 活字になると それなり見栄え」

  「この雑誌 全国配布 されるそう 早くも読んだ 一報届く」

  「友人が face bookで 紹介し 書き込み画面 あれやこれやと」

  「人材の 発掘育成 大事だと 誰もが言うが 育てただろうか」

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人間牧場

〇旅の思い出写真

 私は10日前、北九州市の招きで講演に出かけました。その時少し早く現地に到着したので、少し重い荷物を両手に提げながら、門司港界隈を少しだけ散歩しました。しかしその後忙しい日々が続いたため、手持ちのデジカメの中に残っている写真を見ることもなく過ごしていました。昨日やっとその急がしさから開放されたので、デジカメのメモリーカードを取り出して、パソコンに差込み再生してみました。私はこれまで何度も門司港へは行っていて知ってるつもり、見たつもり 、記憶に残っているつもりなのに、始めて見たような気がして、とても新鮮に感じました。

 そこで旅の思い出として何枚かの写真をブログにアップして、記録に残そうと思いましたが時既に遅しで、この写真が一体何処の何という建物や風景だったのかは思い出すことが出来ず、記憶の曖昧さと遅きに失した記録に腹立たしさを感じているところです。それでも写真はしっかりと撮れているので、このままパソコンの中のお蔵入りにはしたくないと思い、訪ねた場所、記憶に残っている風景を4~5枚アップしておこうと思いました。ランダムに取った写真を見ながら、門司港界隈は素敵な街だと思い、いつの日か近い時機を見て、妻を案内してやりたいと思っています。(思っているだけで実現しないかも・・・・。)

対象ロマン漂う門司港駅
大正ロマン漂う門司港駅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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木になるカバンと門司港界隈
木になるカバンと門司港界隈
珍しい小さな開閉式勝鬨橋
珍しい小さな開閉式勝鬨橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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珍しい向うの風景が見えるビルディング
珍しい向うの風景が見えるビルディング

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帆船の模型展
帆船の模型展
咸臨丸
咸臨丸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  「写真見て 記憶の糸を 手繰り寄せ 首をかしげつ 思い出しつつ」

  「近いうち 妻を誘って 門司港へ 行って見たいと 写真見ながら」

  「デジカメの メモリーカード 一杯に なってしまった 保存の準備」

  「偶然か 咸臨丸の 模型見る 一週間前 ジョン万語る」

 

 

 

 

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