人間牧場

〇第6回地域教育実践交流集会

 11月30日と12月1日の2日間の日程で行なわれた、第6回地域教育実践交流集会の第1日目は、北九州市へ出張していたため、歓迎ワークショップや13分散会への出席は叶いませんでしたが、19時からの交流会には間に合いました。聞けば参加者は180人ほどにもなり、夜の交流会も100人近くの参加があったようです。交流の家のレストランで開いた懇親会は、美味しい沢山の料理が食べきれないほど並んでいました。私はこの日朝飯と昼飯を食べ損なって、腹ペコで交流の家に辿り着いたため、とりあえず船盛刺身を食べ、野菜サラダや隣近所の席の女性が注ぎ分けて持って来てくれる、おでん等に舌鼓を打ちました。

 中には1年ぶりの再会の人も沢山いるので、酒の飲めない私は多少戸惑いながらも名刺交換や近況報告、世間話に花を咲かせました。特に島根県からやって来た大畑伸幸校長先生とは旧知の間柄なので、その後の取り巻き人間の消息を聞きながら過ごしました。
 やがて恒例のチャリティーオークションになると、交流会の司会で大いに盛り上げてくれた西山博さんと武智理恵さんからマイクを受け取り、私と松本さん、浜田さんの年輪塾トリオでオークションを始めました。酒の力を借り、皆さんが持ち寄ってくれた酒やお菓子、焼き物、お土産類を片っ端からセリにかけました。これは私の得意中の得意な分野なので、辺り構わず売りさばき、お金を集めた松本さんの話によると5万7千円も売り上げがあったというのですから驚きです。

 

松本さんがface bookに投稿したインタビューダイアローグの写真
松本さんがface bookに投稿したインタビューダイアローグの写真
進行役の私と吉見香奈子さん
進行役の私と吉見香奈子さん

 その夜は会場を和室に移した二次会も大いに盛り上がり、12時近くまで飲んでいたようですが、私はこの二日間の旅の疲れもあるし、明くる日の出番もあるので、11時前に自分の部屋に引き上げ、風呂に入って12時に床に就きました。
 昨日の朝はいつものように午前4時に目が覚めましたが、パソコンもないのでブログを書くこともできず、とりあえず日課のハガキを3枚書いて、持参していた童門冬二著中江藤樹を朝読しました。今頃は朝のあけるのが遅く、6時過ぎに少し明るくなり始めましたが、大洲地方特有の濃い霧が立ちこめ、霧雨も降っていました。午前7時に朝の集いに出て早めに食事を済ませ、午前8時からミーティングルームでインタビューダイアローグの打ち合わせをしました。僅か5分の打ち合わせは、一人1回3分以内の発言に押えることだけ登壇者4人に頼みました。

 やがて讃岐先生の開会のあいさつに続き、私と吉見香奈子さんが進行役となり、島根の大畑さん、大分の縄田さん、高知県の池田さん、愛媛県の今井さんを相手に、時には優しく、時にはどぎつく、時には笑いながらインタビューをしました。私と吉見さんの相性も打ち合わせをしていない割には上手く行き、また4人の登壇者にはとてもいい話をしていただきました。「私たちみんな子どもでつながっている」というテーマによくアプローチできたように思います。
 北九州市からトンボ帰りし、交流集会で大切なインタビューダイアローグの進行役までこなす八面六腑の忙しさも、69歳の私には少々きつい日程でしたが、疲れも感じず何とか無事役割を終えました。さあまた次のプログラムが待っています。早速今日は明日の仕込を始めましょうか。

 

  「69 年齢なれど まだ元気 前向き生きる パワー全開」

  「インタビュー ダイアローグも 完璧に 98点 及第点か?」

  「これ何ぼ マイク片手に 競り市を 年輪塾が セリ市仕切る」

  「目を丸く するほど多忙 極めてる 無理は出来ぬが ムリせにゃ出来ぬ」

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人間牧場

〇北九州市への講演小旅行(その2)

 下関滞在1時間ほどの私は再び唐戸市場から連絡船に乗って、門司港まで帰りました。この日は前日の寒さがまったく嘘のような穏やかな日和で、妻が風邪を引かないようにと持たせてくれたダウンのコートも、手袋も恥をかくほどでした。船着場の待合所に張られていたパンフレットを頭に入れ、海岸近くの運河のような水辺周辺や、レトロな門司の街をそぞろ歩きしながら、堪能することができました。合併以来50年が経ち、人口も100万人弱に膨れ上がった北九州市は、ややもすると博多の陰に隠れたような感じも否めませんが、小倉にせよ門司にせよ温故知新とでもいうべき胎動のような息吹を感じさせる、落ち着いたいい街でした。

 街中を歩いていると、私を招聘してくれた北九州市門司区役所のコミュニティ活動支援課の担当者から、何時に到着するかという、問い合わせの携帯電話が入りました。もう既に到着している旨を告げると、驚いた様子でしたが、私は構うことなく散策を続け、会場の開門が9時ということを聞いていたので、5分前に会場となっている旧大連航路上屋に歩いて到着しました。周辺には戦時中この場所から、200万人もの将兵や多くの軍馬が出征したそうですが、200万人の内の100万人は望郷の念に駆られながらも、祖国の土を踏むことはなかったようです。勿論牛馬も殆ど帰らなかったようですが。最後に牛馬の飲んだであろう水飲み場の後を示す記念碑や、説明版も興味深く見学することが出来ました。

 旧大連航路上屋というのは戦前や戦時中、満州大連に向かう人が乗船する待合室だった所ですが、戦争時代の遺物ゆえ荒れるに任せていたもの、を市が復旧復元耐震工事を行い見事に蘇っていました。当時は日本で最も活気のある日本最先端の街だった所ですから、中にはこれまで日本の海で活躍したであろう商船の見事なまでの模型や、海事品がきちんと展示されていました。
 部屋の一角には昭和を飾った映画に関する映写機やポスター、雑誌などがきちんと整理をされて展示されていました。この品々のすべては松永武さんという人が個人で収集展示したものを、1997年に一括市に寄付されたそうで、その名に因み松下文庫と名付けて無料公開されていました。いやはやその数は膨大なもので、いつまで見ても飽きないほどで、中には先日文化勲章を受章した高倉健さんや渥美清さんと松永さんの珍しい交遊記録も残っているのです。

 この日はラッキーにも松永武さんに出会わせてもらい、名刺交換やつーショットの記念写真まで撮らせていただきました。普通であれば紙ごみのように思われがちなポスター類や図書類はまさにこれこそソフトな近代化遺産のような気がしました。当時僅か50円や100円の入場券の半券もきっちりと残されれている徹底ぶりに、世の中には人知れず凄い達人がいるものだと感心させられました。
 私は隣の広い部屋を講師控室に使わせてもらいましたが、入れ替わり立ち代り関係者の人がごあいさつに見えられ、恐縮してしまいました。下関の近さといい、門司のレトロな街歩きといい、はたまた旧大連航路上屋といい、さらには松下映画文庫といい、今まで知らなかった門司の街の魅力に触れただけでも、朝早起きしてよかったとしみじみ思いました。

 

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人間牧場

〇今日から出張です

 早いもので、明日になると今年も後一ヶ月の師走です。師走のその名を先取りするように、今日から12月1日まで家を留守にします。留守ったって家住民長いなくなる訳でもなく、私一人が旅に出るだけのことです。毎日ブログに近況を書いていると、世の中には結構暇な人や興味を持つ人がいて、私のブログの記事を読むのが日課なんて人も何人か入るのです。
 たまに少し長めの出張で家を空け、ブログをかかないと「どこか具合が悪いのでは?」何てまるで落語のネタになりそうな話になるので、最近は時候見舞のつもりで「しばらくの間留守にします」と書いて出かけるようにしています。そんなこと書いたら空き巣に入られるかもと心配する向きもありますが、わが家は人の大家族で家の中のそこら辺に人間様がゴロゴロしているので、どうぞご安心下さい。
 ということで、私だけ今晩から家を留守にします。ブログにてのお目見えは日曜日夕方になります。ご自愛下さい。

 

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人間牧場

〇曳き坂の草刈り

 私は教育長現職時代から今日まで、10年を越えて双海町子ども教室の実行委員長をしています。普通実行委員長という冠は飾りのようなもので、開催日にあいさつをする程度のものですが、こと私に限っては事務局である公民館主事さんも、何かにつけて企画や準備の相談をしてくれるので、その気になって一生懸命知恵を出し、その気になってお手伝いをしています。勿論他の実行委員会のメンバーもプログラム毎に担当を決めて、否応なしに関わらせるようにしているので、実行委員会がとても活発で出席率もいいようです。

曳き坂草刈り隊のメンバー
曳き坂草刈り隊のメンバー

 昨日は12月14日に迫った、曳き坂登りコースの草刈りをする旨の相談がまとまり、私と担当の西岡さん、宮栄館長さん、館長さんの友人の宮田さん、それに赤石主事さんの4人で朝9時に車で出かけました。私は前もってグラインダーで木切鎌をよく切れるように研ぎ澄まし、持って行きました。
 東峰の曳き坂終点まで行き、そこから道刈りを始める算段です。曳き坂は昔の往還道ですが、車の普及で使われなくなり、子どもの通学路でしたがそれも子どもの数の減少で使われなくなり、茨雑草に覆われて人間の進入を拒んでいるように見えました。

曳き坂の頂上付近
曳き坂の頂上付近

 「赤石さんが絡むと何でこうなるの?」と皆が大笑いするほど、赤石さんは雨男です。昨日は時ならぬ寒波に見舞われ、松山では初雪が降ったようですが、曳き坂で草刈り作業を始めようとすると、霰交じりの雪が降り始めました。西岡さんなどはそれを想定してか、合羽を着て早速宮栄さんと宮田さんも加わり、草刈機で下へ向かってどんどん刈り進みました。私と赤石さんは刈った草を、長柄鎌で道の両側へ片付ける役目ですが、百姓仕事で馴れた3人のスピードと仕事量は相当なもので、雪が降る寒い気温ながら、汗が出るほどでした。昔は晴れ着を着た人も行商をする人も、はたまた通学する子どもたちも、この道を行き来したのかと思うと感慨深く、道を踏みしめながら作業しました。

小鳥の巣の中ではネズミ赤ちゃんが6匹育っていました
小鳥の巣の中ではネズミ赤ちゃんが6匹育っていました

 作業は思ったより早く2時間弱で通れるような道を確保しました。これで12月14日の曳き坂登りはOKです。私はこの日人間牧場で餅つきと年輪塾の学習会があるので、参加することが叶わなず少し残念な気もしますが、仕方がないと諦め前もって了解を得ています。
 曳き坂という地名は平家の落人伝説に由来し、山吹御前を笹舟に乗せて引き上げ、中山町佐礼谷の山吹神社付近に葬ったというのです。今回の曳き坂登りの目的地はその山吹神社なのです。曳き坂は高速道路松山道の整備で途中を寸断されましたが、道路公団の手によって高速道路の上に東峰橋が架けられています。この日は距離実測のため赤石さんと二人で山吹神社を訪ねましたが、中々立派な神社で、特に本殿は長州大工の作と伝えられる見事さに度肝を抜かれました。

 

中山町佐礼谷の山吹神社
中山町佐礼谷の山吹神社

 山里に雪のちらつく冬がやって来ました。曳き坂から見える山々は紅葉の美しい時期を迎えていますが、その美しさを愛でる人も殆どなく、間もなく葉を落とし冬の眠りにつくことでしょう。時代の進展が進む中、山里の暮らしはむしろ人を遠ざけ、縮んで行くようにも見えます。長年人々が守り続けた曳き坂や曳き坂の伝説も、もう往時に戻ることはないものと思われますが、最後に近い瞬間に立ち会っただけでもかけがえのないいい体験の一日でした。

 

 

 

 

 

  「往還道 かつては人が 行き来した 足跡苔や 草に埋もれて」

  「成長が 進む一方 田舎では 縮んで行くよな 錯覚さえする」

  「もうこれが 最後の道刈り かも知れる 歴史の証人 なりえただけでも」

  「雪が降る 向うの山の 紅葉は 見る人もなく 冬の足音」

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人間牧場

〇コンニャク芋の収穫は(その2)

 この二日間、人間牧場の段々畑の小さな畑だけど、たった一人で孤軍奮闘し、コンニャク芋の収穫とはいいながら、まるで開墾のような労働をやりました。石ころを丹念に三つ鍬で堀り起こして畑の隅に手箕で持って行き、石垣のように積み上げて行きました。最初は軽やかだった体も、昼休みを返上してまで2日間続けると、腰や背中に異常なほど負担がかかり、昨日は折から降り出した突風を伴ったかなり激しい雨で、周りが薄暗くなるまで働いたせいか、自宅に着いたころには若嫁が、「お父さん腰が痛いの?、歩き方が変よ!!」と言われました。これは大変とばかりに夕食を食べながら風呂に少し熱めのお湯を張り、孫たちと一緒に少し長めの風呂に入って、汗が噴出すほど温めました。腰が悪い時は温めるのがいいのか冷やすのがいいのかも分らず、とりあえずの対応でした。

 風呂から上がってコタツで少し横になっていると、妻が「お父さん、腰の具合が悪いようだったらあんま機にかかって、少し揉んだら楽になるかも?」と勧めてくれたので、10分ばかり背中の首筋から腰にかけて揉み解しました。昨日は年輪塾の清水塾頭から童門冬二著の小説「中江藤樹」という、上・下巻2冊の本が届いていたので少し読み始め、11時頃に床に入りました。設計の仕事をしている息子の帰宅が12時頃だったので目を覚ましましたが、腰の具合は今一のようでした。今朝はいつものように午前3時50分に目覚め、着替えて無理をせぬよう恐る恐るエクササイズを始めましたが、驚いたことに体は少し違和感があるものの回復して、いつもやっているメニューを全てこなしました。この分だと今日予定している子ども体験塾の曳き坂草刈りにも参加できそうだと思っています。

こんなデッカイ芋もありました
こんなデッカイ芋もありました

 さてさて話が横道にそれましたが、肝心のコンニャク芋の収穫成果は中の上って感じです。この3年間で植えた場所を示す竹杭は殆どなくなっていて、何処に芋があるのかも分からず、幾つかの芋に桑を打ち込み台無しにしてしまいましたが、それでも中には赤ちゃんの顔ほどもある大きな芋もあって、とりあえずは12月3日のカルチャースクールコンニャク作り体験活動は、支障もなくやれそうです。
 中程度と小程度の芋は種芋にして、畝を立てて植えようと思っています。多分種芋は追加しなくても確保できたようです。私はコンニャクが子どものころから余り好きではなく、今も余程のことがない限り食べませんが、人間牧場のメニューとしてどうしても必要なため、二ヶ所に植えています。もう一ヶ所は昨年堀上て植え返しているので、近々に掘ろうと思っていますし、もう一ヶ所も増やすべく、畑の準備をしています。
 この際アルカリ食品のコンニャクを好きになろうかとも思ったりしています。

  「コンニャクを 掘って足腰 痛くなる 幸いケアー 大事至らず」

  「風呂に入り あんま機ケアー したお陰 今日の作業は 参加できそう」

  「コンニャクを 食べない男 何故作る? 大切メニュー 加えたいから」

  「赤ちゃんの 頭ほどある 芋もある 中の上だと 出来栄え思う」

季節はずれの青々としたコンニャク芋の葉と茎
季節はずれの青々としたコンニャク芋の葉と茎

 

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人間牧場

〇二日目のコンニャク芋掘り(その1)

 私の日課は、12時ころに就寝して、午前4時に起きます。したがって寝る時間は1日4時間程度なのですが、妻が言うには、「そんなに寝なかったら今に寝たっきりになる」そうで、「そんなことはない」と突っぱねていますが、昨日は少し疲れ気味なので少し早めに寝ようと思い、妻が妹から貰ったという赤玉ポートワインという果実酒を、寝る前に少し飲んで床に入りました。酒を飲んでるころはこの程度のものはお茶代わりくらいでしたが、今はお酒をまったく飲まないため果実酒が効いたのか、午前6時のミュージックサイレンで気がついて起きるという、私にしては珍しい久々の深寝となりました。多分2~3日前のコンニャク芋掘りの疲れが残っていたものと思われるのです。

畑から出土した石
畑から出土した石

 若いころは労働をして疲れると明くる日疲労を感じていたのに、歳をとったこのころは2~3日して疲れが出るのです。それでも遣り残した作業をしなければならないため、朝起きると妻に弁当を作って欲しいと頼みましたが、残念ながらご飯の残りがないため、カップラーメンと果物、それにお菓子と温かいお茶をポットに入れてもらい出かけました。
 今日はかなり強い南西の風が吹いて、漁師さんも朝出漁したものの、海が時化ているため早々と引き上げて来る船もいたほどでした。人間牧場は北向きで山を背にしているため南の風は殆ど無風状態で、仕事がはかどりました。

すっかり綺麗になったコンニャク畑
すっかり綺麗になったコンニャク畑

 お昼のチャイムが鳴ったので、水平線の家に入ってガスでお湯を沸かし、カップラーメンを作りました。最近のカップラーメンは中々の味で、美味しく食べました。今日中に作業を終えたいので昼休みも少し短くして、再びコンニャク芋を掘り始めましたが、石の多さは先日と変わらず腰に堪えました。以前だとこの後ぎっくり腰になってしまうのですが、毎朝腰痛体操をやっているお陰でしょうか、それほどの痛みはないようで、今のところほっとしていますが、週末には北九州へ出張したり大事な集会が予定されているので、少し休みながら作業を進めました。午後4時頃になってやっと一段落しました。コンニャク芋を倉庫まで運び上げ片付けましたが、この3年でかなり大きな芋に成長していました。

 

 

 

  「芋よりも 石ころばかり 腰堪え ぎっくり腰に ならねばいいが」

  「南西の 風心地よく 頬撫でる コンニャク芋を 傷つけぬよう」

  「来週は この芋使い コンニャクを 作る体験 カルチャースクール」

  「ポケットの 携帯時々 音が出る その度作業 中断余儀なく」

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人間牧場

〇人生は砂時計とも蚊取り線香とも・・・

 人生を物に例えることの多い昨今ですが、私は人生を砂時計に例えています。砂時計は温泉に行った時など、サウナの中に5分計や10分計が板壁に備え付けられていて、早く入った人がひっくり返して目安にするのです。遅く入った人はその権利がないので人のひっくり返した砂時計で、おおよその目安を立てながら汗の出具合を推し量るのです。砂時計はひっくり返す度に新しい砂を下に落としますが、人生は一度落とした砂、即ち過去は永久に戻らないのです。

砂時計
砂時計

 私は自分の人生を85年と決めていますが、それを12年計の砂時計にして再起動を繰り返しながら、生きていこうと実践してきました。最初の12年は小学校時代、つまり子ども時代で、親の比翼の中で生きてきました。2回目の12年は中学校・高校、そして青年期で、24歳まで実習船で遠洋航海したり、青年団に入団してNHK青年の主張の県代表になったり、様々な夢を膨らませました。3回目の12年は冒険の時代で、転職して公務員になったり、青年の船でアメリカへ行ったり、また仲間と21世紀えひめニューフロンティアグループを作って無人島キャンプを始めたりして36歳を迎えました。4回目の12年は青天の霹靂とでもいうべき町名変更問題に巻き込まれて、憔悴しきりながらも夕日によるまちづくりに取り組み、将来が見えてきた48歳までした。

 5回目の12年は仕事の仕上げともいう年代で、夕日によるまちづくりから派生したシーサイド公園や潮風ふれあい公園、しもなだ運動公園等を手掛けると同時に、課長以外部下のいない小さい地域振興課の課長として今日の礎を造り、2年間は教育長に赴き60歳の還暦と合併と定年を迎えました。
 その後6回目の12年は只今9年目で、人間牧場を造って活動したり、大学と関わったり、はたまた全国へ講演活動をするなど元気に活動し、後3年分砂は残っていますが、多分6回だけは健康にも恵まれて何とか砂を落としきれるのではないかと思われます。

蚊取り線香
蚊取り線香

 さて老前といわれる第7回目の砂時計は84歳という年齢までですが、果たしてどんな人生が待ち受けているのでしょう。せめて7回目の再起動も無難に健康的に生きていたいものです。
 人生は蚊取り線香という話ですが、蚊取り線香は渦巻きになっています。外の端に火をつけると一蹴するのにかなりの時間を要します、これは自分の若い頃にそっくりです。ところが時間をかけて燃え続けると最後は一周する時間がとても早いのです。つまり歳をとると一年があっという間に過ぎるというのはこの現象によく似ているということです。85周巻の蚊取り線香も既に69周を燃え尽きました。後16周をどう燃え続けれるか、これが蚊取り線香に似ている人生の所以です。

 

 

  「砂時計 12年毎に 裏返し 早6回も ひっくり返す」

  「予定だと もう1回は 砂がある さてさてどんな 落ち方するか」

  「渦巻きの 蚊取り線香 今頃は 一年早く 感じてならぬ」

  「懸命に 生きてはいるが 思うよう ならぬものだと しみじみ思う」  

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人間牧場

〇そろそろ始めたい老い仕度

 仕度という言葉には色々な言葉があります。冬支度、嫁入り仕度、旅仕度、死に仕度などなど、それぞれの場面に応じた準備をいうのでしょうが、仕度には身の回りのことは勿論のこと、支度金も必要なのです。私は42年前の昭和46年、妻と見合い結婚をしました。その時は漁師から役場職員に転職してまだ1年ということもあって、結婚の支度金といわれる結納金は、結婚指輪も含め全て母親が用意をしてくれました。妻がその結納金をどう使って、嫁入り仕度をしたかは定かではありませんが、嫁入りの時持って来たタンスやその中身は、今も妻の手によって大切に守られ、日々の暮らしに使われているのです。多分息子や娘の嫁入り嫁取りも同じように親の財布が使われたようです。

 私は私の年齢にしてはダントツに多く、年中全国を旅しています。現代は旅する巨人といわれる民俗学者宮本常一のような、歩いて旅をする時代でもないので、もっぱら飛行機や列車、バス、船、乗用車を乗り継いで旅をしているので、動いた距離は宮本常一など足元にも及ばない距離で、先日も自宅~広島~博多~長崎~尾道~今治~自宅を動いた、たった1泊2日の講演小旅行でさえ、かなりの距離数となるのです。
 旅に出る時妻は私の旅支度をしてくれます。漢字で書くと「支度」と「仕度」という二つが言葉がありますが、どの場面でどう使い分けるかは自分でも分らないものの、嫁入仕度は仕度を、支度金は支度をと使い分ける程度の浅はかさです。
 妻は愛用のカバンに当面必要なお金を入れた財布と、下着やワイシャツ、靴下、洗面道具などを旅の日数によって計算し、入れてくれるのです。寒くなったこの時期は風邪を引かないようにと厚手の物を少し多目に入れるものですから、同行二人の二宮金次郎の銅像が衣類に埋まっている感じです。

 最近「老い仕度」という言葉がよく使われるようになりました。死に仕度の一歩手前といったところでしょうが、老域を迎えた私もこの言葉を聞く度に「老い仕度」の意味を少し考えるようになってきました。自分の書斎という限られた空間を見渡しただけでも、「これじゃいかん!!」と思うほど乱雑で、これまで遠心力的に広げていた様々な仕事や暮らしを、求心力的に片付けなければなるまいと強く思うのです。
 老いの支度金は目下のところ財布を持っている妻に委ねられています。妻にもしものこと等考えてもいないので、そのことだけは考えもせず、何の疑いもなく暮らして行けるだけでも、老い仕度はちゃんと整っているようです。
 煙会所奥の小さな部屋に、暇ができたら片付けようと思って押し込んでいる資料の数々も、息子にそろそろ片付けるよう指摘されているし、書いたもの書きたいものも世に出したいと思うし、思えども今の仕事が多過ぎて〇×▲□・・・・といった今日この頃ろです。

  「仕度には 色々ありて とりあえず そろそろやろう 老いの仕度を」

  「老い仕度 まず一番は 財布だが 妻に任せて 考えもせず」

  「指折って 老いの年数 数えると 人生はかなく 暗い気持ちに」

  「まず今日を 楽しく生きる 老い仕度 オッペケペーと 笑って暮らす」

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人間牧場

〇人間牧場に秋がやって来ました

 このところの時ならぬ寒波がやって来て、気候は一気に冬モードとなり、気の早いせっかちな街中には、クリスマスツリーやイルミネーションが飾られているようですが、私たちの周りの景色は紅葉も進んでおらず、秋はまだまだこれからでも十分楽しむことができるのです。
 昨日人間牧場で小さな秋を2つ見つけました。その一つはブルーベリーの目の覚めるような紅葉です。年限牧場には20本ほどブルーベリーを植えていますが、強酸性を好むブルーベリーを露地で栽培するのは難しいようで、早く大きくなって欲しいと思う心とは裏腹に、中々育ってくれないのです。人間にも育ちがいい人と悪い人があるように、ブルべりーにも時にはその土地に順応して育つ木もあるようで、蜜蜂の巣箱を置いている直ぐ脇の一本は、もう私の背をしのぐ勢いで伸び続け、今年も有に3kgの大粒の実をつけ、家族を大いに喜ばせてくれました。

ブルーベリーの紅葉
ブルーベリーの紅葉

 この木の葉っぱがこのところの冷え込みで色づき始め、綺麗に紅葉しているのです。双海町は冬場北西の季節風が強い地域なので、間もなくその風で葉っぱを落とすのでしょうが、昨日の時点では見応えのある美しさでした。人間牧場には周囲にかなり大きなハゼの木があって、毎年見事な紅葉を見せてくれますが、ハゼの紅葉はまだ3分程度の色づきなので、今年も私だけのとっておきの紅葉として、大いに楽しみたいと思っています。
 もう一つはススキです。9年前この地に人間牧場を造ることを思いついた時には沢山のススキの株立ちがありましたが、邪魔だったので全て撤去したものの、一株だけは下に見えるお墓を少し隠す意味で残しておきました。この株は春が来る頃草刈機で丸坊主に刈り込むのですが、その後新芽が出て夏の緑を作り、やがて秋が始まる頃になるとススキの穂が沢山出て、丁度名月の頃秋を見事に演出してくれるのです。これから秋が深まればススキは次第に枯れますが、枯れススキの風情もまた一趣なのです。

まるで花瓶に差したような見事なススキ
まるで花瓶に差したような見事なススキ

 日本は四季の国です。にもかかわらず日々の暮らしにあくせくとして、ややもするとこんなに身近にある四季の彩を感じぬまま、明日や明後日を夢見て暮らすのです。人はどうであれ老域を迎えつつある私は、四季の「今」という一瞬の移ろいを感じたり、それを記録に留めたいと思っています。
 ススキが風になびく姿も風情があります。肌を撫でる秋風は冷たいと感じる程度ですが、風になびくススキはまさに花鳥風月で、そこに夕日が沈んだりすると、ハーモニカでも吹きたくなる心境なのです。
 太陽の光も少し弱々しくなって、日陰は少し肌寒い感じがします。でも昨日は戸外で農作業をしたお陰で存分に汗をかきました。

 

 

 

 

 

 

  「そこここに 小さいけれど 秋見つけ 一人楽しむ 少し余裕か」

  「晩秋は どこか寂しい 気もするが 冬の準備で どこか忙しく」

  「暑い夏 沢山つけた 実を食べて 秋は紅葉 二度も楽しむ」

  「背もたれに 寝そべり青い 空を見る 行く雲長閑 ついウトウト」 

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人間牧場

〇今年は果物が美味しい

 今朝6時後58分、ブログを一本かき終わってホッと一息ついたところへ、近所に住む親父の妹叔母さんが、「お食べんか」と立派な富有柿をナイロン袋に入れて持って来てくれました。向う三軒両隣のような場所に親父の妹が二人住んでいて、私はわが家のお地蔵さんの縁日である21日に、妻が炊いてくれるお赤飯を配ってあげています。ゆえに二人の叔母は勿論のこと、下灘に住む二人の叔母と従兄弟の家にも配るので、今では恒例となりすっかり心待ちにされているのです。歳を重ねるとそんな私たち夫婦のやっていることが嬉しいのか、時々色々な物を届けてくれるのです。昨日は製材業を営む従兄弟からお礼にと、お米10kg袋と親父にお酒が届き、今朝もこうして富有柿が届いたのです。

今朝叔母が届けてくれた内子特産の富有柿
今朝叔母が届けてくれた内子特産の富有柿

 伯母の家の若嫁は富有柿の産地である内子町の出身なので、毎年この時期になると通称「はねもの」といわれる、少々外傷のついた柿が届くらしく、このようにお裾分けされるのです。私も妻も柿といわずブドウやミカン等果物が大好きで、毎日何かの果物を年中食べていますが、妻は私よりさらに沢山食べています。果物は加糖食品なので、食べ過ぎると糖分の取り過ぎで肥満の元凶だといわれていますが、食べた分運動すれば何の問題もないのです。私の友人の清水さんや大河内さんは、朝フルと称して朝は新鮮な果物だけで過ごすと、果物を腹いっぱい食べても痩せるのだそうで、朝フル運動を提唱しているようです。私も毎朝リンキャベ、つまりリンゴとキャベツをかなり腹いっぱい食べていますが、太ることもなく元気で暮らしています。

 今年の夏は雨が降らず渇水気味だったためでしょうか、知人友人からまるでわらしべ長者のようにいただいたブドウや桃やかんきつ類はどれを食べても甘くて美味しく、田舎に住むことの特権を存分に享受して暮らしています。今年はわが家の1本しかない極早生ミカンも、たった1本の樹で20kgキャリーに2箱半も収穫することが出来、毎日5~6個づつ妻と二人で舌鼓を打っています。
 先日は県下有数の柿の産地旧丹原の親友佐伯さんから、富有柿が一箱送られて来ました。今朝叔母にもらった柿もそうですが、適地適作とでも言うのでしょうか、産地といわれる所の果物は格別の味がするのです。さあ今朝も折角届いた柿を早速ご賞味しましょうか。

  「日照り年 今年の果物 美味しくて ついつい食べ過ぎ 余分に運動」

  「貰ったり 差し上げたりと 交流が これも田舎の 嬉し付き合い」

  「適地にて 適作された 果物は 風土に加え 匠の技が」

  「窓越しに おばが届けて くれた柿 美味い美味いと 言いつ頬張る」

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