人間牧場

〇愛媛県高等学校看護科生徒研究発表会記念講演

 先月わが町出身の女性から講演依頼の電話がかかりました。聞けばその方は弟と中学校が同級だったようで、下灘中学校は小さな学校だったゆえ、またその女性のお兄さんにシーサイド公園の初代所長をしてもらって、一緒に働いたこともあるのでよく知っていました。聞けば現在は病院を退職した後帝京第五高等学校看護科の教員をしているようでした。断わる理由もなくスケジュールも年末ゆえ空いていたので快く引き受けました。その後校長先生と担当の先生を伴ってわが家へ、丁寧にもその女性は打ち合わせ方々あいさつに見えられました。

新谷公民館大ホールで開かれた高等学校看護科生徒研究発表会記念講演
新谷公民館大ホールで開かれた高等学校看護科生徒研究発表会記念講演

 講演の相手は愛媛県内にある高等学校看護科の生徒及び教職員180人です。場所は帝京第五高等学校の直ぐ近くにある大洲市新谷公民館で、昨日はその講演の日でした。昨日は朝からみぞれや霰交じりの雨が降るあいにくの天気でしたが、21日はわが家の入り口付近に安置されているお地蔵さんの縁日なので、妻が朝早く起きて炊いたお接待用の小豆ご飯のパック詰めを、10個ばかり車に積み込み、沿線の親類へ順次配りながら行くため、9時過ぎに海岸周りで大洲市へ向かいました。講演は11時10分からなので会場の新谷公民館へは10時30分頃に到着しました。

 2階の控室に案内されお茶をいただきながら、そのうち看護科を有する県内3私立高等学校の校長先生たちも見えられ、世間話に花を咲かせました。講演はい時間余りなので、「青春へのメッセージ」と題して楽しいお話をしたため、高校生たちは眠ることもなく話を聞いてくれました。私は金融広報アドバイザーしていて、高校生には時々お金の話をする機会がありますが、昨日はむしろ生活設計について軸足を置いてお話をさせてもらいました。私が青春時代に手に入れた仲間、主張、ふるさと、感動心、夢という五つの道具や、四つの願望、氷の実験など分かりやすく話をしたつもりですが、はてさて高校生の心に、私のメッセージは響いたでしょうか?。全員に伝わらなくても、たった一人でもいいと気楽な気持ちでいつも臨みますが、幸いなことに昨晩、私のPCに2人の生徒から感想のメールが飛び込んできました。いやはや嬉しい限りです。私は直ぐに昨晩メールを返信しました。昨日はとてもいい一日となりました。

  「霰降る あいにく天気 悪くても ワクワクしつつ 講演向かう」

  「良かったと 感想メール 届きたる ジーンとしつつ 返信送る」

  「世の中は 随分違って いるけれど 思いは一緒 熱弁ふるう」

  「看護科が ある高校は 3つとか 聞いてうなずく 少子化時代」

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人間牧場

〇よもくれ団子づくり

 1ヶ月に一度開かれているまちづくり学校双海人も3年目になったので、高齢化問題、イベントやマルシェ、特産品開発などをテーマに、興味ある人たちが集まってクラブ活動を行なっていますが、私は特産品開発に興味があり、10人ほどのメンバーの一員として参加しています。勿論私が一番高齢でメンバーの中には伊予農校生のような若い子もいて中々面白くやっています。
 このクラブで今年取り組んでいるのは「よもくれ団子」という団子作りです。これまでにも何度か試作を繰り返していますが、中々売れるような商品には程遠く、挫折しそうになりながらもむしろ、ワイワイガヤガヤやることに意味があるとばかりに、毎回楽しくやっています。

団子づくり
団子づくり

 特産品開発クラブFFラボの事務局は、今年から地域おこし協力隊員として双海町にやってきた、女性の川口さんがやってくれていますが、彼女の熱心さに比べると私たちメンバーの熱は今一で、これではいけないと思いながらスケージュールの許す限り参加しているようにしています。
 昨日は大荒れの天気でしたが、シーサイド公園の加工場に10人ほどのメンバーが、午後3時から集まり、団子作りを行ないました。昨日作ったのは白い団子、ヨモギ団子、ヒジキ団子の3種類ですが、元菓子職人に教わったレシピを元に、生地練り、生地蒸し、生地こね、団子作り、串差し作業を、前々回、前回と同じようにやりましたが、前々回、前回に比べるとはるかにスピードアップして、2時間余りで完成させました。

 試食をしたり、焼いてみたりと様々な試行錯誤を繰り返していますが、昨日作った団子を今日の軽トラック市で小西さんが、23日の空からサンタがやって来るというイベントでは川口さんが伊予農校生の協力を得て販売するようです。
 一つの売れる特産品を作るのにはかなりの苦労が必要なことは、この世界に長く関わってきた私には痛いほどよく分ります。良いこととできることは違うし、いい物を作ってもお客さんに買ってもらえなければ何の意味もないのです。また商品開発には損益分岐点もあって、投資を回収して収益も上げねばなりません。もう少しみんなで耐えながら団子にこだわろうと、話をしながら作業をしました。私的には楽しかったです。

試作中の団子
試作中の団子

「よもくれと いう名の団子 三種類 ワイワイガヤガヤ 言いつつ作る」

「前回と 前々回を 比べれば スピードアップ 発見色々」

「製品を 商品にする 首かしげ色々思考 錯誤しながら」

「失敗を せねば成功 味わえぬこのプロセスを 大事にしよう」

 

 

 

 

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〇少なくなった日めくりカレンダー今日の言葉

 わが書斎の板壁に吊るしてある日めぐりカレンダーも、毎日一枚ずつ破って今朝一枚引きちぎった結果、もう今日20日を含めて12枚しか残ってなく、少々寂しくなってきました。今日のカレンダーの言葉には「あまり長すぎる休息はかえって苦痛である」と書かれていました。私は60歳の還暦を機に現職を退職しましたが、「退職したらのんびり過ごしたい」と思っていたのにこの9年余りは、休息どころか現職当時よりはるかに忙しく、今も適当な間隔で様々なやることを見つけ、また請われるままに講演等に出かけ、楽しい余生を送っています。友人からは「お前が羨ましい」と言われていますが、友人たちはさしたるやることも見つけれず、奥さんから疎んじられて日々を過ごしていて、「長すぎる休息はかえって苦痛である」を身を持って感じているようです。

残り少なくなった書斎板壁に吊るした日めくりカレンダー
残り少なくなった書斎板壁に吊るした日めくりカレンダー

 その友人から「お前のように活き活きと輝いて生きるためには、どうしたらいいか教えてくれ・・・」とよく言われるし、間もなく退職する人からも「退職後の生き方によきアドバイスを・・・」と聞かれますが、私がいつも言っていることは、生活設計の必要性です。アドバイスを求める人たちに「何歳まで生きたいの?。」「何歳で何をどのようにしたいの?。」「やりたいことにどのくらいお金が必要なの?。」と問いかけても、明確な返答が返ってこないのです。まさに五里霧中、「私の行く場所と行く道を教えてください」と言っているようなものなのです。
 私は85歳まで生きようと心に決め、60歳で人間牧場を造りたいという夢を持ち、そのために50代で1千万円の資金を貯めました。お陰様で退職後の人生はバラ色ほどではありませんが、心豊かに生きることができているのです。

 「夢はドリームではなくターゲットである」という言葉も私が好んで使っていますが、人生は「暇ができたら」「お金ができたら」何て考えでは、夢の実現はできる訳がないのです。私には長すぎる休息はなく休息の苦痛はありません。むしろやりたいことが多過ぎるくらいです。毎日ブログを2本書き、毎日三枚のハガキを書き、毎日3人以上の人と会う、たったこれだけでも強い意志と行動力がなければ続かないのです。孫2人と早朝マラソンを始めて10日ほどになりました。上り坂の孫に下り坂の私とは何とも奇妙な組み合わせですが、続けることに意味があると、今朝も強風が吹く中を元気に走りました。最初はぐずっていた孫も習慣化して上手く走れるようになり、私も孫について走れるようになりました。「お正月までマラソンを続ける」という孫との約束はささやかですが、何としても続けたいと思っています。ただし私は暇があるから走るのではなく、健康維持のために走っているのです。

  「日めくりも 残り少なく なりにけり 今日の言葉を 読みつブログに」

  「生き方を 見せびらかして 生きている 活き活き生きる 姿どうだと」

  「退職後 退職前に 思いつつ 計画立てねば 遅きに失す」

  「人生は 思い通りに ならないと 言う人いるが 思い通りに」

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人間牧場

〇朱子学と陽明学

 私は戦後間もない田舎の漁村に生まれ育ちました。ゆえに保育園もなく小学校6年間、中学校3年間の義務教育9年間ををふるさとの学校で学びました。高校は宇和島水産高校に進学したため、ふるさとと親元を離れて学びましたが、大学へは行かず12年間で学業を終え、最終学歴は高卒なのです。ゆえに大した出世もせず、知識も大したこともなく69歳を迎えています。もし人間の値打ちや知識が学歴で決るのなら、私は20代までのつまずきで一生を終えなければならないのでしょうが、そこが世の中の面白いところで、どうやら学歴よりも学習歴が人生を決めるようだったと、今になって過去を述懐するのです。

 私は若い頃体調を崩して病気になりました。活発だった青年活動が縁で役場に雇われましたが、最初に配属された部署が教育委員会だったことが幸いし、社会教育の現場で沢山の教育関係者と出会うことができました。吉川英治の「人みなわが師」を心に決めてへりくだり、どれ程の人に教えを請うてきたこことでしょう。またどれ程の本を読んできたことでしょう。またどれほどこの目で見てきたことでしょう。この実学は私の今を形作っているし、読んだら書く、聞いたら喋る、見たら実践するという知行合一を今なお実践しているのも、学習のお陰なのです。

 人は学ぶと必ず知らないことにぶつかります。知らないことを恥とせず、知ったかぶりせず、知らないことを知るように努力すれば、何倍もの知識と知恵が転がり込んできます。私が主宰している年輪塾でこれから近江聖人中江藤樹を学びますが、中江藤樹を紐解くと必ず「大学」という本が出てきます。大学を学び始めると朱子学と陽明学にぶつかります。朱子学は、大学の教えは「人間社会の全ては権威に従い、永久不変で変えられないもの」というです。ところが同じ大学を、「権威に盲目に従うのではなく、己の責任をもって行動する心」だと王陽明は陽明学で説いているのです。

 どちらも正しくどちらも間違いではありませんが、どちらを信じるかは社会や組織それぞれ、また人それぞれなのです。忠義か孝行か二者択一ではなくどちらもよき方に理解して生きなければなりません。「人は逢えば逢うほど逢いたくなり、学べば学ぶほど学びたくなる」これは私が「昇る夕日でまちづくり」とう本を著した時、巻末に書いた私の造語です。これからも私は余命いくばくもない人生を、多くの学習歴を積み重ねながら生きて行きたいと思っています。いやはや学問とは奥が深いものです。学べば学ぶほど問いが多くなるのも学問のようですね。

  「大学を 学べば更に その奥に 朱子学ありて 陽明学あり」

  「学べども 山々山の 向こうには 山また山の 学ぶことあり」 

  「学校で 学んだことは 基礎知識 社会で学ぶ ことが多くて」

  「さあ今日も 学びの心 大事して 謙虚に人に 社会に学ぶ」

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人間牧場

〇今年最後の愛媛海区漁業調整委員会

 この2日間、私は愛媛海区漁業調整委員会の委員をしているので、松山市にある水産会館で開かれた委員会に出席しました。普通は2ヶ月か3ヶ月に一回、半日程度を費やす会議なのですが、今回は10年に1回の共同漁業権、区画漁業権と、5年に1回の定置漁業権、特定区画漁業権合計910件もの、県知事から諮問のあった免許内容の事前決定が議題なので、事前に送られてきた資料に基づいて事前に目を通し、慎重な審議が行なわれました。委員に就任して6年目になりますが、漁業のことについてはそれなりに知っているつもりでも、まだまだ分らないことが多く、ましてや漁業権免許となると始めての経験なので、少し右往左往してしまいました。

 昨晩は1年に一度の委員による親睦会が、関係者や県職員も招いて国際ホテルで開かれました。隣に座った委員長の佐々木さんは戸島ハマチ、委員の武田さんは久良ハマチの産地出身なので、最近の浜での話題などについて興味深い話を沢山聞かせてもらいました。赤字の漁協があったり、後継者不足に悩む地域があったり、また浜のお母さんたちが宇和島市内にレストランを出店したり、明暗悲喜こもごもの話でしたが、全体的には漁業も右肩下がりのような感じを受けました。ふともし私が26歳で転職して役場職員にならずに漁業を続けていたら今頃どうなっていたのだろうと、思いを巡らせました。

 私は漁業が嫌で転職したのではなく、体調を崩して断念しただけなので、今でも幾らか漁業には未練があるのです。35年間の役場職員生活の中、4年間水産行政を担当して、漁業構造改善事業の推進に情熱を燃やし、水産物荷捌き所や漁村センターを造ったのも、多分そんな思いがさせたのではないかと思っています。人間は幾ら未練があっても過去に戻ることはできないので、これ以上は深入りしませんが、松山の大木組合長がいつも口癖のように言っている、「漁師の意識の変革なしに漁業の発展はありえない」のであれば、「もし私だったらこんなことをしてみたい」という夢の部分を何とか実践し、明るい漁村作りの手伝いをすることだってできるのではないかと思ったりしました。

  「10年と 5年に一度の 免許ゆえ いつも以上に 慎重審議」

  「親睦会 悲喜こもごもの 話聞く 右肩下がり 否めないかな」

  「もし私 あのまま漁業 続けたら 今頃何を しているだろう?」

  「人間は 後に戻れぬ ものなので 悔やんでみても 後の祭りだ」

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人間牧場

〇山茶花の花が咲き始めました

 わが家の敷地内には春先5月に咲く100本もの皐月を始め、季節を告げる花木があちらこちらに植えられています。柿やスモモ、ミカン、梅などの花木は果実を収穫する副産物ですが、花を楽しむだけの皐月や椿、山茶花に加え、この時期は赤い実をつける南天やクロガネモチを捨て難い味があって、小鳥たちがやって来て啄ばんでいる姿は何ともほほえましいものです。

裏庭の山茶花
裏庭の山茶花

 わがダイニングから見える裏庭に、少し大きめで長く横に枝を伸ばしている山茶花の木があります。親父が丹精こめて育てている一本ですが、このところの寒さで可憐な真っ赤な花を咲かせ始めました。殆どの花木が春に花を咲かせるのに、百日紅は夏、山茶花や椿は何故か寒い冬を選んで咲くのです。昨年の冬も寒くて、一度だけ白い雪が山茶花の木に降り積もり、真っ赤な山茶花の花が一際美しかった姿を思い出していますが、今年の冬も寒いので大寒の頃にその再来を期待しています。

満開の山茶花の花
満開の山茶花の花

 冬の花は派手さこそありませんが侘びや寂を感じるような捨て難い味があって、「思わず一句」とか、古い話ですが大川栄作が歌って大ヒットした、「さざんかの宿」という歌を口ずさみたくなるよう心境になります。3年前息子家族と同居するためわが台所を息子たちの明け渡し、私の書斎だったところを改造して、私たち夫婦の台所を作ってから、私たち夫婦はこn山茶花や裏山の光景を毎日見ながら食事ができるのです。妻は思わぬ副産物に喜び、私も結構気に入って暮らしているのです。

 山茶花の花は一見ツバキの花に似ていますが、椿が首折れして縁起が悪いと言われるのに対し、山茶花は花びらを散らすので、上品な花のように言われ茶花として植えられてています。サザンかも赤や白、しぼりなど色々な花がありますが、わが家の山茶花はありふれた赤が主流のようです。
 このところ忙しくて花を愛でる気にもなれませんでしたが、これからは歳相応にそんな余裕を持ちたいものだと、昨日はデジカメに収めました。花を見ていると日々俗世の煩わしさを忘れるようです。

  「ダイニング 窓越し見える 裏庭に 真っ赤山茶花 凛として咲く」

  「花を愛で 朝昼ご飯 食べれるは これぞ幸せ 思えば至福」

  「山茶花の 花咲く姿 眺めつつ もう師走かと 時の早さを」

  「モズ一羽 山茶花蜜を 吸いに来る 窓越われら 夫婦を見てる」

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〇遅ればせながら11月の五行歌

 このところ忙しいゆえブログに書くことが多過ぎて、松山五行歌会の主催者見山あつこさんからの11月のお便りを、すっかりそのままにしていました。年末になるとそろそろ年賀状を書かねばならないシーズンです。昨日車の中でカーラジオを聞いていると、私などまだ年賀状に手をつけていないというのに、早くも年賀状の受付が昨日始まったと報じていました。やばいと思いつつ机の上を少し片付けようと思いながら文書の山をひっくり返していて、見山さんからの風を切って読んだはずの封書を見つけました。

 私の11月作品は次の歌でした。
  十年前 
  還暦の同級会
  今年は古希の集い
  十年後は傘寿か
  歳はとりたくない

 後付けとして次のような講評が書かれていました。
 ☆五行目の一言に「そうですね。」という思いと、「歳をとる楽しみもあるんじゃないか。」という両方の感想が・・・・・・。歳はとりたくないと言いながら、作者の頭にはもう10年先のことが浮かんでいる。つまるところ前向きな方だとお察し致しました。何かを目標に気力を維持することも大事ですよね。傘寿の同窓会に元気で出られますようにと祈ります。

 傘寿は八を十の冠に乗せると傘という字に見えることに因んでいます。その前にあと7年すれば喜寿です。喜ぶという古い文字が七と七があるので、そう読まれているのかも知れません。古希を過ぎると、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、白寿(99歳)、百寿(100歳)と続くようですが、せめてあと10年後の傘寿くらいまでは、元気で生きねばと思うこの頃です。五行歌に書いた言葉を反芻しながら人生の短さをしみじみ思う今日この頃です。

  「あと何年 自分の余命 あるのだろ せめて傘寿は 迎えたいもの」

  「五行歌に 何げないように 書いたけど これから10年 生きるは大変」

  「上向きの 孫の姿に 発奮し 下向き人生 軌道修正」

  「さあ次は とりあえずだが 喜寿目指す あっという間に 人生終る」

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人間牧場

〇かまどご飯と味噌汁(その2)

 今ではすっかり人間牧場の定番メニューとなったかまどご飯と味噌汁を、昨日の餅つき大会にも振舞うことになりました。餅つきがメインなので、かまどをセイロ蒸に占領されているため、12時まではご飯も味噌汁も炊くことができませんでした。昨日はセイロ蒸の補助お湯沸しとして、自宅にある移動式かまどを用意して、常時熱いお湯を沸かしていたお陰で、セイロ蒸も餅つきが間に合わないほど順調に進みました。
 餅つきが終わりに近づいてお湯の必要がなくなった頃を見計らい、移動式かまどでまずひと鍋味噌汁を作り始めました。味噌汁の具材は妻が用意した鱧の切り身、しいたけ、エノキダケ、豆腐、ネギのシンプルなものを、次々に入れて行き、最後はギノー味噌からいただいた麦味噌で味付けして仕上げるのです。

 最後のセイロが終るといよいよかまどご飯です。昨日は総勢30人近くなので3升の米を妻に研いで用意してもらっていました。昨日は食通の青木晴美さんと気配りの浜田久男さんが私のアシスタントについてくれたお陰で、水加減や味加減も造作なく、私は火加減に専念できたため、味噌汁もご飯もセイロ蒸の合間を使って急いでやった割には完璧で、いい炊き具合となりました。
 かまどご飯2釜と味噌汁2鍋を中心に置き、車座になってみんなが食器に注ぎ分けて食べるのですが、これがまた美味しくて、おかずは妻が用意してくれた漬物だけなのに、少し大目に炊いたご飯を除けばすべて完食でした。作る側にしてみれば折角作ったものを喜んで美味い美味いと言って食べてもらえることは何よりの喜びなのです。

車座になって楽しい食事会
車座になって楽しい食事会

人間牧場には30人の食が賄える取り皿と茶碗、コップが収納箱に入れられ用意されています。使い捨てでないこれらの食器は、昔21世紀えひめニューフロンティアグループが無人島キャンプに使っていたものを貰い受けたものです。清潔感もあっていつも使っていますが、便利な食器を手に入れたものだとみんなで喜んでいます。昨日に間に合わせるように整備した水槽のお陰で昨日は洗い水にも事欠くこともなく無事後片付けができました。
 来年は人間牧場ができてから早いもので10周年を迎えます。10周年記念事業として何かやりたいと思っていますが、とりあえず年が開けたら外壁の防腐剤塗りもやらなければなりません。来年の秋には私も70歳を迎えます。あと10年が勝負といったところでしょうか。

  「かまど飯 味噌汁添えて 車座に なって美味いと 言いつつ食べる」

  「かまど飯 味噌汁ともに 炊くコツを すっかり覚え 失敗もせず」

  「飯を炊く 味噌汁を炊く その都度に 妻の財布と 手を煩わせ」

  「今回も ギノー味噌から 麦味噌を いただき美味い 味噌汁できた」

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人間牧場

〇年輪塾恒例の餅つき大会(そに1)

餅つき(松本さん撮影)
餅つき(松本さん撮影)

 12月の第2土曜日は年輪塾恒例の餅つき大会です。餅つきは準備が大変で、まずもち米を手に入れなければなりません。親友の西岡栄一さんに相談したところ、昨年に引き続き快くもち米を一袋(30kg=2斗)いただきました。勿論大洲市田処の亀本幸三さんももち米1斗とヨモギ持参です。餡子は浜田さん、みかんは清水さん、餅とり粉やパックは松本さんとそれぞれの役割に沿って準備を進めましたが、わが家の役割は何といっても大きく、西岡さんからいただいたもち米2斗を、冬のことゆえ前々日に妻が冷たい水で洗い、バケツにかしてくれました。私はセイロやモロブタを家の倉庫から取り出し、綺麗に水洗いして陰干ししました。

 餅つきは二重ねセイロを二つ用意し、ポリ容器3つに飲料水を入れ、もち米とモロブタ、それに昼食にかまどご飯と味噌汁を炊くので、その準備品も妻に用意してもらい、自宅を8時に出発しました。餅つきは段取りが肝心で、みんなが集まるまでにかまどに火を入れ、室内とはいいながらこのところの寒波の襲来で寒いため、薪ストーブにも火を入れなければなりません。杉葉のお陰でマッチ4本で移動式かまどを含めた4ヶ所に火をつけ、お湯を沸かし始めました。今日は息子が所属する建築士会のメンバー6人も参加したため子どもを含めると30人近くになり、息子も少し早く人間牧場に到着し二人で所準備を整えました。

 

かまどでセイロ蒸
かまどでセイロ蒸

 そのうち田処組や松山組が相次いでやって来たころにはもち米も勢いよく蒸気を上げて蒸せ、早速高知県西土佐から貰った臼と杵で威勢よくつき始めました。普通の年だと私が手臼をするのですが、去年と今年は元学校の校長である水本先生が主にやってくれ、米屋の兵頭さんも手伝ってくれたので、私は何の造作もせず、かまどの差配と、お湯足しに專念することが出来ました。餅は白餅を主流として、ミカン餅、梅餅、ヨモギ餅全部で15臼つきました。室内では女性軍が中心になってもちを丸めたり餡子を入れたり、またもち帰り用のパックに詰めたりしていましたが、息子嫁も孫たちと一緒に参加し、パック詰めを手伝ってくれて大助かりでした。今日は松本さんも歩き始めた子どもさんを連れて来ていて、子どもの成長の早さにみんな驚いていました。

 

孫奏心も餅をつかせてもらいご満悦
孫奏心も餅をつかせてもらいご満悦

 餅つきの目途がついたところで、ご飯と味噌汁を作りました。まかないは青木晴美さんと浜田さんが手伝ってくれたので、餅つきが12時より少しずれ込みましたが、ご飯も味噌汁もすこぶる美味しくできました。餅を試食したというのに、餅つきという労働をしたからでしょうか、ご飯も味噌汁も美味しい美味しいを連発して沢山食べていただきました。田処の山崎さんから届いた豆腐も冷奴で食べましたが最高でした。
 年輪塾を終えて帰り際にみんなに2パックずつのお餅をお土産にとって帰っていただきました。またギノー味噌さんからいただいていたお味噌も配りました。私は残ったお餅を人間牧場の近所や知人友人に20個以上も配りました。セイロやモロブタなど使った器具類をタワシで水洗いして夕観所に干し、やっと忙しかった持ちつきたいかを終えることができました。少し疲れましたが心地よい疲れでした。

  「餅つきは 準備に加え 段取りが 八分仕切るは 私の役目」

  「十五臼 ペッタンペッタン ペッタンコ 交代しつつ 二時間余り」

  「お土産に 二パックずつ 持ち帰る 残りを近所 私が配る」

  「小道具を タワシで洗い 陰に干す やっと一日 少々疲れ」

若嫁たちの手によって並べられたお持ち帰り用と配布用の大量のお餅
若嫁たちの手によって並べられたお持ち帰り用と配布用の大量のお餅

 

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〇中江藤樹を学ぶ前に(その2)

 中江藤樹は他の人のように功をなした人ではありません。学校を造り村人に黙々と地道に人の道を教えていました。ところがあるきっかけで藤樹は無名の存在から見出されて世に知られる存在となりました。

 一人の青年が師と仰ぐべき聖人を求めて岡山を旅立ちました。近江の国に来て一夜の宿を過ごしていると、隣の部屋で話す二人の会話に青年はひきつけられました。主君の命で首府に上り数百両の金を託されて帰る途中だった。その金を肌身離さず所持していたがこの村に入った日のこと、財布をその日の午後雇った馬の鞍に結びつけておいたことを忘れ、孫と一緒にその馬を返してしまった。大変な忘れ物をしたことに気付いたが、馬子の名も知らず、探し出すのは不可能で、例え探し出したとしてもその金を馬子が使ってしまっていたらどうなるだろう。弁解の余地もなく途方に暮れ、一通は家老、もう一通は親族に詫びの手紙をしたため最後を迎える決意を固めた。苦境に陥った真夜中遅くになって、誰か宿の戸を叩く者があった。やがて人夫の身なりをした男が私に面会を求めていることを知らされた。その男はその日の午後馬に私を乗せた馬子馬子本人だったのだ。男はすぐさま言った。「お侍さん、鞍に大事なものを忘れていませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返ししようと思い戻ってまいりました。これでございます」。そう言って孫は私の前に財布を置いた。「あなたは私の命の恩人である。命の助かった代償として、この四分の一を受け取られたい。命の親と言ってよい」。しかしも語は聞き入れなかった。「私はさようなものを受け取る資格はありません。財布はあなたのものです。あなたが持っているのが当然です」と言って前に置かれた金に触れようとしなかった。その後十五両、五両、二両、最後に一両を渡そうとしたが無駄だった。ついに馬子は言った。「私は貧乏人です。このことで家から四里の道をやって来たので、わらじ代として四文だけお願いすることにしましょう」。私がその男に渡すことができた金は二百文だった。立ち去ろうとする男を引き止めて尋ねた。「どうしてそれほど無欲で正直で誠実なのか、そのわけを聞かせて欲しい、このご時世にこれほどの正直者に出会うとは思いもよらなかった。

 貧しい男は答えた。「私のところの小川村に、中江藤樹という人が住んでいまして、私どもにそういうことを教えて下さっているのです。先生は利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは正直で正しい道、人の道に従うことであるとおっしゃいます。私ども村人一同先生について、その教えに従って暮らしているだけでございます。この話を聞いた青年は、「この人こそ私が捜し求めていた聖人だ、明日の朝にも訪ねて下男なり門弟にしていただこう。次の日青年はただちに小川村に行き聖人を訪ねて会いました。青年は来意を告げ頭を低く下げ弟子にしてくれるよう心から懇願しました。藤樹は驚きながら、「私は村の教師にしか過ぎません。遠方から来た立派な人に頼まれるほどの人間ではない」と頼みを断わりました。藤樹の謙虚に打ち克つ決意をして、家の玄関の傍に外衣を広げ姿勢をただし両刀をかたわらに膝に両手をついて座り、日に晒され雨露に打たれ、道行く人々の噂にもなって座り続けました。三日三晩の間の懇願を察した母親の意見を聞き入れ弟子になりました。

 この人こそのちの岡山藩の役人となって敏腕をふるった熊沢蕃山でした。蕃山にまつわる岡山藩主池田光政公との逸話などは、中江藤樹の人となりをよく表しているようです。

  「誰決める? 自分の値打ち やはり人 俺は偉いと 思うは大馬鹿」

  「馬子馬に くくった財布 届けたる 正直これぞ 藤樹の教え」

  「まず自分 人に迷惑 かけぬよう さらに磨いて 人に影響」

  「四十で この世去ってる 藤樹だが いやはや偉い 足元及ばず」 

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