人間牧場

〇届いた公友会誌第26号

届いた公友会誌第26号表紙
届いた公友会誌第26号表紙

 去年の年末といっても2~3日前、愛媛県公民館連合会から一通の封書が届きました。中を開けてみると22ページほどの薄っぺらい公友会誌第26号が出て来ました。愛媛県内の公民館OBで組織している公友会は、私が3代目の会長を務めていますが、年に1回の勉強会と年に一冊の会誌を出す程度のささやかな団体なのです。

 県公連が愛媛県公民館連絡協議会といわれていた私が若い頃、私は主事部会の部会長を6年間の長きに渡ってやりました。日本一の公民館主事を目指していた公民館時代の私には、今思い出しても10指に余るほど武勇伝がありますが、それはさておき私は公友会誌に、旧中島町の古野セキエさんとともに殆ど毎年原稿を書いているのです。人間牧場構想も10数年前この公友会誌で発表、その後実現しているし、私にとってはマニフェストのようなものなのです。

 さて今回は、会長という職責もあるので、「公民館に関わった人間のやるべきこと」と題して少し長めの原稿を送りました。中身内容はレベルとラベルの話です。人は多かれ少なかれ何かの組織に帰属して生きています。私にとってその際たるものは35年間勤めた役場と、13年間勤めた公民館、それに8年間の青年団活動です。いずれも自分の人生に大きな影響を及ぼした組織なので、組織を退いた後もそのラベルは剥がれないし剥がしたくないのです。

 と同時に3つの組織で育ったことの恩返しをしなければなりません。ゆえに辞めた今もそれぞれの組織と深い関係を保ちつつ、レベルやスキルをアップするよう努力しているのです。人間は得てして例えば公民館に勤めている間は熱を入れてやりますが、他部署へ人事異動で移るとあれほど頑張ったのに、古いものには見向きもしないどころか、陰で色々な悪口雑言を吐いて、まるでクレーマーのような人だっているのです。

 OB会も会員が毎年一つずつ年をとるといういかんともし難い悩みを持っていて、「もう歳だ」とか「そろそろ引退」を口にする人が多いようですが、少なくともかつて公民館人を名乗ったのですから、愛媛の公民館のために何かお役に立ちたいという、生涯現役を貫いて欲しいと思います。妻が私に「いつまでやるの」とよく聞きます。私はその都度「生涯現役、生涯ボランティア、本業ボランティアなので死ぬまで」と答え、妻を呆れさせています。私はやはり根っからの「公民館馬鹿」なのでしょうか?。

  「会長を 私務める 公友会 会誌投稿 送られてくる」

  「巻頭に 私の書いた 原稿が 3ページ載る 汗顔しきり」

  「熱入れた 仲間も今は 音信が 途絶えて寂し 今日この頃」

  「いつまで?と 妻に問われて 死ぬまでと 笑って返す 公民館馬鹿」

公友会誌第26号P.1
公友会誌第26号P.1
公友会誌第26号P.2
公友会誌第26号P.2
公友会誌第26号P.3
公友会誌第26号P.3
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人間牧場

〇年賀状に書いた私の今年の十大ニュース(その2)

 (これより先はアメーバブログ「Shin-1さんの日記」にアクセスして読んでください。)

 6月29日 えひめ地域政策研究センターの助成を受けて製作したスタードームを使った子ども
       キャンプを、廃校になった下灘中学校の体育館で行ないました。  
 9月4日  9月1日に95歳になった親父が要介護1の認定を受け、夕なぎ荘のディサービス
                           に週2回通い始めました。いよいよ老々介護の始まりです。
 8月21日   蜜蜂の蜂蜜採集を行い、5年5升の目標を大幅に上回る20升7合の大収穫で、種蜂
        も2箱残り来年の成果が楽しみです。巣箱も4つ自作しました。

 9月22日   私が会長を務める公友会の総会を今治市吉海町千年松で行いました。
 10月19日   5月25日に植えたサツマイモを、今年は電気柵のお陰で収穫し、盛大に収穫祭を
         行ないました。北海道の観賞カボチャも展示、競り市もしました。
 11月16日     年輪塾第3期目の公開セミナーを川澄哲夫先生を招いて開催しました。サプライ 
         ズで小さな無人島へも上陸しました。次は近江聖人中江藤樹を学びます。
 12月29日   人間牧場に念願の第3給水水槽を設置し、これで水不足が解消されそうです。

 人間は成長とともに遠心力が働き、知らない事、知らない場所、知らない人の領域を広げて進化して行きますが、加齢とともに求心力が強くなってむしろ退化の一途を辿るのです。潮目はいつの頃かと自分の人生を振り返れば、やはり60歳の還暦だったように思います。幸いなことに私は60歳で現職を退いて自由人となり、長年の夢であった人間牧場を手に入れることができました。しかしこのまま遠心力による進化を諦めて求心力だけに頼って退化するわけには行きません。退職後10年を機にもう一度リセットボタンを押して生きてみようと思い始めました。
 そのためにはささやかながら目標を立てなければなりません。1月1日になって目標を立てると1年365日から1日足りない364日になってしまいます。「一年の計は元旦にあり」ではなく、「一年の計は大晦日にあり」と考え、今日はじっくり来年と10年後までの10年間の来し来しに思いを巡らせて見ようと思っています。

  「一年を 振り返りつつ 立ち止まる さてどうするか これから10年」

  「明日では 遅いと思い 今日思う 一年の計 大晦日にあり」

  「とりあえず 思いつくまま 絵に描いて 自分にしっかり 言い聞かせよう」

  「終わりだが 始まる日だと 心決め 思い巡らす 楽しからずや」

今年の私の年賀状
今年の私の年賀状
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〇餅つきと注連縄飾り

 今日は妻と私は午前中二手に分かれ、妻はシーサイド公園の加工場で生活改善グループのメンバーと一緒に餅つき、私は漁師さんに頼んでいた正月用のハマチが届いたので、知人友人兄弟にお裾分けの魚配りで目まぐるしく動きました。1本5キロ程度のブリに近い養殖ハマチを、発泡スチロールに入れて氷詰めしているのですが、息子は仕事関係の人にも差し上げるべく出かけたようです。
 一段落ついて軽四トラックを水洗いしていると12時過ぎに妻も餅つきが終ったようで、軽四トラックに乗り換えて餅を自宅まで運んで帰りました。

わが家の玄関先に飾った注連縄
わが家の玄関先に飾った注連縄

 二人で遅い昼ご飯を食べ妻は買い物、私は一昨日作っていた注連縄にウラジロや五穀をつける準備をして、煙会所で一人その作業をしました。昨日から若嫁の実家に二人だけで泊まりに行っていた孫たちが息子に連れられて帰って来ました。若嫁の実家は喫茶店を経営しています。ゆえに年末はお歳暮用の自家焙煎コーヒーがよく売れるらしく年末は忙しいゆえ、また若嫁のお父さんは写真が趣味で、31日に仕事を終えたら夫婦で県外方面へ遠出して、正月は毎年留守なので早めに孫と過ごしたいという訳です。たった一夜の留守なのに孫がいない昨晩は、まるで灯が消えたようでした。

親父の隠居の注連縄飾り
親父の隠居の注連縄飾り

 午後4時頃注連縄飾りを飾りつけ、お三方に鏡餅を重ね、カブスや小みかん、干し柿、タツクリ、お米などを乗せ、2階の床の間に飾りました。ウラジロをつけたオタマジャクシも仏壇、水神様、トイレ、お風呂、車や孫たちの自転車などに孫希心と一緒に供えて回りました。明日の朝人間牧場の神棚にお餅と注連縄飾りを供えると、やっと私の正月を迎える準備が終るのです。
 妻は今日買出しに出かけ、明日は朝からおせつ料理を作ります。わが家はおせち料理を料理屋さんやデパートに頼んだことがなく、テレビで見るような贅の限りを尽くしたおせちではありませんが、手作りの美味しい、まさにお袋の味です。若嫁は今日と明日は仕事なので、今朝は早く起きて私の掘ったゴボウをキンピラや年越しそばに使うため一生懸命かいていました。泣いても笑っても正月まであと一日となりました。

  「師走とは よく言ったもの 昨日今日 私でさえも あれやこれやと」

  「わが家には わが家しきたり あるゆえに 正月準備 何かと忙し」

  「注連縄を 家の戸口に 飾りつけ 準備万端 整いつつある」

  「妻を見る 休む間もなく 家事をして 挙句の果に 明日はおせちか」

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〇今年最後の五行歌

 松山五行歌会の代表見山あつこさんから、今年最後の五行歌会報告が届きました。私の今年の五行歌づくりは散々で、いつも見山さんから「締め切りが近づいています」と催促のメールが入り、慌ててその場で即興づくりをして送るという慌しさでした。ゆえに駄作が多く、報告書に載った他の人の歌を読む度に、来年は忘れないよう早めに送ろうと自責の念に駆られながら反省していますが、どうなることやらです。
 今月の私の作品は次のとおりです。

  九十五歳の親父
  少し認知症
         六十九歳の私
  少し物忘れ気味
  おぼつかなき老々介護

 選者による講評は次のとおりです。
 ☆齢を重ねると昔のようにはいかないことが増えるでしょう。「老々介護」深刻な言葉ですが、作者とお父様の場合はいい親子関係が築けていると思います。「おぼつかない」でなく、「おぼつかなき」との言い方にまだ余裕が感じられるという評が・・・・・・・。
 言い当てて妙なる講評です。私はこれまで介護は人のことと思っていましたが、気がついてみると親父は既に95歳、介護をしている私も69歳ですから、私たち親子の関係は世に言う立派な老々介護なのです。

 昨日の朝親父が、特老へデイサービスに行くのをぐずりました。寒いし正月前なので行きたくないという、親父の気持ちも理解できますが、妻と若嫁と私が勢をつけて迎えの車に乗せました。帰ってくるなり「風呂が気持ちよかった」と言ってくれて、ホッとしたところです。前日便秘気味なので診療所へ連れて行って欲しいとねだるので連れて行きましたが、看護婦さんが自宅まで来て浣腸処理をしてくれたものの、余り出ませんでした。いよいよ下の世話も視野に入れなければならなくなったようです。

 95歳の親父にとって今年のような厳しい寒さは体に堪えるようです。私たち健常者にとっても寒くて骨身に染みるのですから当然でしょうが、今年も寒い冬を乗り切ってほしいと祈っています。歳を加える度に親父の年齢と私たち夫婦の年齢が気になる今日この頃です。
 私もそろそろ健康寿命を迎えます。私の年齢の健康寿命は大体70歳前後、平均寿命との差の5年程度は介護か要介護が必要だとか、まだまだ負けておられません。今日も一人で6時30分から、孫2人と3人でそれぞれジョギングに出かけました。

  「五行歌を 作って三年 一向に 上達もせず 時を過ごしぬ」

  「要介護 父の面倒 見る私 六十九歳 老々介護」

  「この寒さ 老いた父には 堪えるが 何とか冬を 乗り切るように」

  「早既に 健康寿命を 迎えたる この身鍛えん 孫とジョギング」

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〇冬の味覚寒ブリ

 私の古い親友に宇和島嘉島の宮本正勝さん、愛南町内海の加畑仁一さんがいます。宮本さんは養殖漁師ながら和歌を詠む文化人だし、奥さんは漁協女性部の会長さんをしていましたが、息子さんを亡くし養殖を断念して、今は関連の仕事をしています。加畑さんは真珠養殖業を営み内海村の村長さんを務めた人です。いずれも私が尊敬する立派な方で、もう20年来正月が近づくとカキやハマチを宅配便で届けてくれるのです。

送られてきた5キロの寒ブリ
送られてきた5キロの寒ブリ

 宇和海の魚類養殖業は日本一で、特にハマチは養殖業が確立してブランド化され、高級魚の呼び声高く、私の大好きな食べ物です。前日は宮本さんから先に届いた約5キロもある養殖寒ブリを、大きな出刃包丁で捌きました。私は漁師町で育っているので魚の調理は手際もよくお手のものなのです。特に骨切りの必要な夏の鱧や、寒ブリのような大きな魚は、退職してからこの9年間は、もっぱら私の仕事として位置づけられていて、何の疑いもなく粗調理を一気に引き受けているのです。

 氷詰めされた丸々太った寒ブリはまず頭を切り落とします。そして腹を開けて内臓を取り除き、綺麗に水洗いします。頭はまるで手術のように出刃包丁を入れて半分に割り、鰓の部分を取り除きます。この時出るカマと称する部分は、塩焼きにすると最高なので、綺麗に取っておくのです。その後胴体を3枚におろし、身からヒハラの部分を取り除きます。このヒハラがいわゆるマグロでいうとトロの部分なので、これも刺身用に確保します。骨は煮物用に小切りします。

 それらを部位毎にタッパーに入れてラップをかけ、まな板や包丁、流し場をタワシを使って綺麗に水洗いし、ゴミ出しをして一件落着、私の仕事を終えるのです。妻はそれを急いで冷蔵庫に終い夕食時刺身とブリ大根を作ってくれました。刺身のツマも自家野菜である大根の千切りを使います。刺身は生姜のすりおろし、ブリ大根は生姜の千切りを入れて煮付けているので、臭みもなく美味しくて、白いご飯をお替りするほど食欲が進むのです。昨日は加畑さんから高級魚カンパチが届いたようです。今晩はまた私の腕でしっかりと調理して、その味をせいぜい楽しみたいと思っています。

  「正月を 前に寒ブリ 届きたる 宅配便が 来る度ニヤリ」

  「出刃包丁 用意周到 寒ブリを 三枚おろし 妻に手渡す」

  「食卓に ブリ大根の 煮物添え 刺身並んで 至福夕食」

  「田舎ゆえ こんな贅沢 今晩は カンパチ刺身 たまらんたまらん」

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〇進化の一方で(佐那河内村その4)

 「10年一昔」という言葉がありますが、流れの早い現代は「1年一昔」という方がぴったりするようです。のんびりゆっくりの時代に育った時代遅れな昭和生まれの私は、時代の波に完全に乗り遅れ、パソコンはおろか流行語さえも理解できず、何かにつけて「それ何?」とか「私は誰?ここはどこ?」「うそ~」って感じなのです。その現象は加齢とともに酷くなっていくようですが、これも時代の流れ、歳のせいと諦めながら少しだけ抵抗して生きているようです。

P1060159 この10年、日本の観光も随分様変わりをして来ました。観光とは無縁と思われた私たちの町でもその気になってやれば人が来るようになりましたが、逆にこれまで観光地だと胸を張っていた所でも、国民の飽き易さで思わぬ苦戦を強いられている場所もかなり多いようです。
 一昨日徳島県佐那河内村へ講演に行きました。その折何げなくトイレ休憩のためにパーキングエリア阿波に立ち寄りました。トイレ休憩を終えて一服していると小さな看板が目に付きました。「土柱まで歩いて10分、こちらから」と書いているのです。

 P1060168「高速道路から歩いて出られる?」と不思議に思い、陽気に誘われてコートを着て外に出て土柱見学と洒落込みました。今は合併して阿波市になっていますが、旧阿波町といえば役場に井原まゆみさんという女性がいて、バーベナテネラで一世を風靡していました。まちづくりの仕事で一緒になり親友として多くの出会いを深めましたが、その頃は脇町のうだつの街並ととも国の特別天然記念物の土柱は多くの観光客を集めていました。私もエプロン会議のおばちゃんたちを連れて見学に来たことがあるのです。

 その思い出を辿るように坂を登って行きました。土産物屋として賑わっていたお店の殆どはシーズンオフもあって灯が消え、人影もなく散閑としていました。土柱までの道は整備されていましたが、土柱そのものも気象条件の変化のせいでしょうか、侵食が激しいようでした。
 土柱のよく見える場所で巻尺を持った市役所商工観光課の課長補佐さんに偶然にも出会い、名刺交換したり観光について話し合ったりすることができましたが、土柱という観光資源だけで観光は成り立たないことを直感しました。

 日本は東京オリンピックの誘致に成功し、7年後に向けて外国人観光客の来訪に大きな期待が寄せられていますが、東京や京都など名だたる観光地のみに目が行き、田舎のこうした観光資源は進化どころか退化の一途を辿っているのです。市町村合併でコアが大きくなり過ぎ、折からの財政事情もあってこうした所へ目を向けるような余裕はないようです。
 土柱はこのまま放置されると、風化が更に進み、国民の目さえも風化してしまうのです。土柱は国の特別天然記念物ですから、もっと対極的な立場で国民の財産として守らねばならないのではと首をかしげながら、再びパーキングエリアまで引き返し、佐那河内村へ向かって走りました。

  「二十年 前に訪ねた 土柱見る 昔の姿 今いずこかな!!」

  「記念物 風化スピード 早いよう 何とかせねば 消えてなくなる」

  「東京にゃ オリンピックで 人が来る 一方田舎 じわりじわりと」

  「この国は どうなっている 思うけど 大臣でもない 私どうにも」 

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〇今年最後の講演会(佐那河内村その2)

 昨日は地域活性化と役場職員のやる気創造をテーマに徳島県佐那河内村へ日帰りで出かけ、お話をしました。何の用意をするでもなく会場の雰囲気を推し量りながら2時間ばかり持ち前の持論を展開しました。私もかつて双海町の職員として10年年前まで35年間役場に勤めていたことがあるので、おおよそ役場職員のレベルとスキルは分っているつもりゆえの想いでした。
 私がまず話したのは私のこれまでの経歴で、しがらみで何もできないと思っている役場職員でもこれだけのことができるという証なのです。

佐那河内村での職員研修風景
佐那河内村での職員研修風景

①漁師として7年間地盤産業である漁業をやりました。
 ②青年団活動を8年間やり仲間・主張・ふるさと・感動・夢という五つの道具を手に入れました。
 ③公民館主事として13年間日本一の公民館主事を目指して頑張りました。
 ④生活改善の一環として結婚披露宴の司会を537組やりました。
 ⑤町の広報「ふたみ」を月2回10年間で240号発刊しました。勿論広報マン日本一です。
 ⑥夕焼けコンサートを皮切りに夕日のまちづくりを20年間やりました。
 ⑦20年間で200人の人を海外等に派遣し育てました。
 ⑧20年間で200人近い子どもやリーダーを無人島等に運び感動の涙を流しました。
 ⑨双海町東越の廃屋で10年間で40回のフロンティア塾をやりました。
 ⑩えひめ地域づくり研究会議の代表を20年間務め全県的な地域づくり活動をやりました。

 ⑪松山工業高校のPTA会長を6年間やりました。
 ⑫役場に35年間勤め地域振興課長(課長以外部下なし)・教育長を最後に一線を退きました。
 ⑬国土交通省の観光カリスマ百選に選ばれました。
 ⑭12年間毎日朝5時から3時間シーサイド公園の掃除をしました。
 ⑮毎日3枚のハガキを20年間、毎日2本のブログを9年間、今も書いています。
 ⑯自著本町に吹く風・昇る夕日でまちづくり・夕日徒然草・ミレニアム2000年その日私は出版。
 ⑰自宅横に活動拠点私設公民館煙会所、海の資料館海舟館を30年前に設置して利用。
 ⑱木になるカバンを提げて25年間全国行脚中。
 ⑲資金1千万円を貯め人間牧場を建設して年輪塾や子ども体験塾などに利用して活動中。
 ⑳愛大非常勤講師や客員教授をして大学の教壇に立ちました。

 波乱に富んだ自分の経歴を喋りながら、いやはや色々なことに手を出したものだと自分ながらに驚いています。さて私のこうした活動を生んできたのは紛れもなく読む・聞く・見るという学習で、潜在能力顕在化したからです。私にどれ程の潜在能力が残っているのか、知る良しもありませんが、顕在化したこれらが10パーセントであるなら、私にはまだ90パーセントもの潜在能力が残されている計算になります。今が過去になる前にもう一度自分のリセットボタンで再起動させて、未知の分野に挑戦しようと思っています。
 はてさて参加していた役場職員の心に私の話はどう響いたのでしょうか?。思うに1万人以下の町や村の活性化のカギは、何といっても役場職員のやる気にかかっているのです。

  「立ったまま 2時間ばかり 早口で 喋ってみたが 反応いかに?」

  「職員は やらないことを やれないと 言い訳するが それは間違い」

  「一割を 顕在化した まだ潜在 9割残り やること多し」

  「往復に 要した距離は 500キロ それでも日帰り まだまだ元気」

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人間牧場

〇冬の季節の人間牧場からの眺望を楽しむ

 瀬戸内海に面して地中海気候のようだと形容されていますが、人間牧場の冬は北西の季節風が吹きつけ、薪ストーブが恋しいほど寒いのです。こんな時には水平線の家の板間の中ほどに切っている、囲炉裏の蓋を開けて火を入れ、ストーブに火を焚き温かくして、鍋でもつつきたくなるような心境ですが、あれやこれやと忙がしく、やらねばならないことが多いのです。それでも人間牧場を造ったもう一つの目的は、流行語を借りるなら「今でしょう」という「季節を楽しむ」ことですから、ふと我に返って辺りの風景を見つめ直すのです。

遥か向うに見える松山周辺市街
遥か向うに見える松山周辺市街

 冬は空気が澄んでいて、人間牧場のウッドデッキから見える松山周辺市街や、沖合いに浮かぶ周防大島、それに芸予諸島の島々が、冬の日差しをまるでスポットライトのように浴びて見えました。まさに絶景で、大空を風に乗って忙しく西から東へ流れる雲の形も絵になる光景でした。
 周りの雑木の木々はこのところの時化た風雨で、完全に葉を落とし枯れ木のようになっていますが、この冬枯れの風情もまた趣があります。畑のあちこちではミカン摘みや雑柑類に袋かけをする人の気配がそこここに感じられ、農家の人も忙しそうです。

沖合いに見える芸予の島々
沖合いに見える芸予の島々

 眼下に見える豊田漁港も昨日は火曜日で漁が休みのようで、漁船が行儀よく係留されていました。今年は時化が続いたため12月の出漁回数は3回だけで、正月前だというのに懐が寒いと猟師さんが嘆いていました。海の色は冬の空を映すため多少沈んだ青色ですが、風紋も飛び交うカモメの白い群れ姿もやはり冬ならではの光景です。
 これから年が明けても1月・2月は寒い日が続き、立春の声が聞こえるころまでこの町は深い眠りに着くのです。それでも梅畑の梅の木には早くも梅の花が蕾を膨らませて新春間近を告げていました。

  「冬景色 凛としていて 私好き 風の音にも 心動かす」

  「あの船は 何処を目指して 進むのか? 思うだけでも 心ときめく」

  「忙しげに 西から東 空走る 雲の行方も 気になりながら」

  「梅林の つぼみ膨らみ 新春も 間近なりけり 瀬戸内長閑」 

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人間牧場

〇やってくれました悪ガキ孫3人

 昨日シーサイド公園での餅つき大会が終わり、自宅へ帰ってみると、外の裏庭に何やら大根のような物がうず高く積まれていました。妻に「これどうしたの?」と聞くと、「実は・・・・」と妻が話し始めました。実は6歳の孫2人と4歳の孫の3人が、頼みもしないのに家庭菜園に入り、片っ端から大根を引っ張り抜いて悪ふざけをしたようです。妻から「おじいちゃんが帰ったら叱られて小屋へつれて行かれる!!」と脅されていたので、私の顔を見るなり「おじいちゃんごめんなさい」と真顔で断わるものですから、怒るに怒れず結局のところ許してしまいました。

孫3人がふざけて引き抜いた畑の大根
孫3人がふざけて引き抜いた畑の大根

 畑は先日の雨でまだ多少ぬかるんでいたようです。ズボンもドロドロにしたようで、寒かったのか鼻水も出始めていたようでした。孫たちを着替えさせたついでに妻は大根を洗ったようでしたが、私は畑に入りもう10本ほど引き抜いて、少し冷たく感じる水で大根を洗い、倉庫からビニール紐を取り出して5~6本ずつ束ね、菜園のイノシシ除けのために張り巡らせている、金網柵に引っ掛けて干しました。こうすれば4~5日間で寒風によって漬物用の干し大根が出来上がるのです。既に漬物用の調合糠も買って来ているので、孫の悪ふざけのお陰で漬物作りの準備が整ったのです。

 それにしても子どもたちの悪ガキぶりにはつくづく驚かされるものだと、妻は感心しきりでした。裏庭の奥に大洲市田処の亀本幸三さんからいただいたシイタケの原木を置いていますが、今年の冬はよく雨が降るからでしょうか、例年になくシイタケが沢山出て、孫たちが時々キノコ狩りと称して、息子に連れられシイタケの収穫を楽しんでいますが、昨日はまだドンコにも満たない小さなシイタケまで3人が根こそぎ収穫したようです。怒るの怒れないものの、こんな小さなうちに収穫しては駄目だと、教育的指導も行ないました。この3人の孫のうち希心と尚樹は来年の4月には、ピカピカの一年生になる予定ですが、大根引きにせよシイタケ狩りにせよ、田舎だからできる悪ふざけです。丸大ハムのかつてのCMではありませんが、「腕白でもいい、大きく育って欲しい」と願う、つじつまの合わない一日でした。

  「菜園に 入り孫たち 3人が 片っ端から 大根引き抜く」

  「ドンコにも 満たないシイタケ 全て取る 孫の悪戯 極限達し」

  「田舎ゆえ こうした腕白 できるゆえ むしろこれから もっとやらせる」

  「来年は 二人の孫が ピカピカの 一年生なる 楽しみ楽しみ」

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人間牧場

〇ささやかなボーナス

 役場に勤めていたころは、安月給ながら夏と冬にはボーナスが支給されていました。私たちの時代は今のように給料やボーナスを、振り込みで貰わず直接手渡しだったので、ボーナスを貰う日は自分も妻も特別な日で、しっかりと仕事の予定を外して自宅へ一目散で帰っていました。妻はおもむろにそのボーナス袋を神棚に供え、感謝の祈りを捧げた後開封して、額の少なさに少し落胆しながら、それでも少し喜んで使い道をしっかりと考えて使っていました。私も少しばかりの小遣いを言い訳を作って貰いましたが、家のローンや子どもの教育でボーナスは右から左の手合いでした。それでもつつましい生活ながらローンも全て返済し、無借金で定年を迎えることが出来たのは、妻のお陰と給料やボーナスのお陰でした。

 わがままを妻に言って、60歳の定年年齢と市町村合併を機に再就職をすることもなく自由人となって、給料とボーナスの道を断たれましたが、その時私の提案で大きな缶詰のような貯金箱を買い求め、時々いただく講師料や原稿料等の一部を半強制的に入れ、年に一度クリスマスの日に二人で貯金箱を缶切りで開けてそれをボーナスとして、お歳暮やお正月の費用に当てることを思い立ちました。最初は中々身につきませんでしたが、そのうちその作戦も上手くできるようになり、今ではすっかり私たち夫婦の年に一度の楽しみとなっているのです。気の早い妻はお歳暮のシーズンでもあるので、クリスマスを待たず先日開けようと私にねだり、先日二人で開缶しました。中身の金額は夫婦だけの秘密ですが、年金暮らしとなって10年、初老の域に達している私たち夫婦にとっては、ささやかながらの喜びなのです。

生き方の道しるべとしている双魚図
生き方の道しるべとしている双魚図
私のイメージは上下図
私のイメージは上下図

 妻は早速この一年間お世話になった方々へ、お歳暮を送ってくれました。貯金箱ボーナスもお歳暮送りもいつまで続くか分りませんが、元気に暮らせることへの感謝を込めて、もう少し続けようと妻と話していて、そろそろ百円ショップダイソーへ缶詰タイプの貯金箱を買い求めに行こうと妻と話をしています。
 高杉晋作が「面白きこともなき世を面白く、すみなすものは心なりけり」と辞世の句を残しています。考えてみればいつの間にか歳をとり、私たち夫婦の砂時計はもう落ちる砂さえ余り残っていませんし、将来への不安も付きまといますが、世の中や人生をネガティブに捉えると「面白きこともなき世」となります。でもポジティブに捉えて生きると、「面白きこともなき世を面白く」生きれるのです。やはり「すみなすものは心なりけり」ですから、これからも双魚図に見習い、まだ半分は楽しみがあることを信じて生きて行こうと思っています。

  「ボーナスが なくなり早くも 10年が 過ぎたけれども 工夫ボーナス」

  「缶切りで 貯金箱なる 缶詰を 開ける夫婦の 嬉しそうな顔」

  「世の中を 悲観したって つまらない ポジティブ生きる ゆえに楽しい」

  「来年は どんな夢持ち 生きようか あれこれ思い 夫婦楽しく」

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