人間牧場

〇代替わり

 私は昭和19年生まれの69歳、息子は昭和48年生まれの41歳です。私は今年誕生日が来ればいよいよ70歳の大台、息子も男の厄年を迎えるいわば大台です。3年前親子の相談がまとまり長男家族と同居を始めましたが、同居生活やこの町での暮らしにもすっかり慣れてきたので、そろそろ代替わりをしようと相談し、来年度からわが家に回ってくる組長という役職を息子夫婦がする相談をしました。少し抵抗すると思いきや息子夫婦は覚悟していたのか、すんなりむしろ喜んで引き受けてくれました。私が親から代替わりしたのは結婚して間もない28歳でしたから、私たちからすると13年も遅いデビューです。

 昔の代替わりは親が子どもに家督を譲って隠居するという意味がありました。今はそんな意味合いも薄れ、それぞれが財布を持って暮らしているため形だけのようで、家の決定権全てはまだまだといったところです。ゆえに冠婚葬祭の付き合いも費用も当分の間は親である私たちが関わりますが、徐々に息子たちの出番を増やして行こうと思っています。
  昨夜は組長の新旧引継ぎ会があって、息子は五色姫復活祭の準備があって出かけたため、若嫁が代理で出席しました。孫が嘔吐下痢になって二階で隔離のようにされていましたが、2人の孫を置いて、私たち夫婦に頼み出かけたようでした。これから一年、組費の徴収やお祭りの神輿担ぎなど、色々と組長としての仕事が待っているようです。

 わが家の決定権はまだ私たち夫婦にあるようです。幾つもの苦労を重ねてきた私たち夫婦から見れば息子たち夫婦は、まだまだ未熟者に見えます。でも老域に達した私たちが一歩二歩手や足を引かなければ、息子たち夫婦の出番はなく成長も見込めません。俺が俺が、まだまだと思う心を少し差し控え、徐々に息子たち夫婦に軸足を置き換えるよう、今年から性根を据えようと思っています。気がつけば私たちももう老域です。昔ならとっくに隠居生活です。今は少ないといいながら年金もあり、息子たちに頼らなくても生きてゆける時代ゆえに、息子たちの自立を遅らせていることも事実です。長年世帯主となってきましたが、いよいよ世帯主の名前を替える時が近づいてきたようです。

  「40年 前に親父と 代替わり いろいろあった いよいよ息子」

  「昔なら とっくに隠居 する歳に なったけれども 若いつもりで」

  「年金で 息子頼らず 生きるから ゆえに息子の 自立を阻害」

  「今年より 息子の名前 第一で 私は隠居 金魚の糞だ」 

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人間牧場

〇アメリカからのメール受信

 昨日の夕方、地元の郵便局から一本の電話がかかってきました。「お宅が送った荷物が相手に届かないので困っています。荷物の内容がみかん類なので多少余裕はありますが生物なので、相手に何らかの方法でご連絡していただきたいのですが・・・・・」とのことでした。
 3日前私は全国の友人宛に10箱余りのデコポンを農家に分けてもらって、郵便局から宅配便で発送しました。中には先月末に北海道のオホーツク寒気団の船木さんと人間牧場や煙会所へ交流研修にやって来た人たちへの贈り物もありました。その人たちは律儀な人が多く、帰郷後色々な品物をお世話になったお礼にと贈ってくれていたのです。

玄関先で荷造りして送ったデコポン
玄関先で荷造りして送ったデコポン

 その中に頌徳大学高等教育研究開発センター准教授芹澤先生がいました。先生は帰郷後木の箱に入った立派で美味しい飛び切りのお肉を送ってくれました。さてどうしたものかと思案した結果今が旬のデコポンでも送ろうと妻と話して送ったのです。
 たった一度の面識なので先生から送られてきたタックシールを頼りに、送り状を書き送ったのではてさて思った結果、先生からメールが届いていたことを思い出し、メールへ問い合わせの返信をしました。すると今朝、先生からメールが入っていて、何と何と先生は渡米しているとのことでした。「ただいまニューヨークにいます。帰りは26日の予定です。家族と郵便局へ連絡して受け取るように手配します。家族はみんな蜜柑類が大好きなので、喜ぶと思います」との返信でした。

 いやはや驚き桃の木山椒の木です。それにしてもアナログ人間を自称する私ですが、海の向うにいるデジタル人間の芹澤先生とこうして意思が通じるのですから、世の中は便利になったものです。毎日やり取りするPCメールやfacebook、携帯電話やブログなどなど、20年前の私には想像もつかないほどの進歩ぶりです。
 もうこれ以上の進歩にはついて行けないし、それ以上は望んでもいませんが、最近津波や地震で被災した人たちがタブレット端末を使って安否を確認したり、情報を入手している姿をテレビで見ました。残念ながら私はまだタブレット端末を手に入れていません。指先で画面をなぞる姿を見ながら、私もやってみたいという心境に駆られ、娘婿に相談して手に入れることにしました。はてさて私はタブレット端末を使えるようになるのでしょうか?。

  「デコポンを 送ったけれど 相手先 未だ届かぬ 連絡ありて」

  「メールにて 意思が伝わり 海向こう はるばるアメリカ 連絡ついて」

  「アナログを 自称の私 デジタルな 人に変身 したいけれども」

  「タブレット 端末さえも 使われぬ 時代遅れを 自認の私」

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人間牧場

〇デコポン送り

 私の住んでいる双海町は柑橘類の産地です。瀬戸内海に面しているため温暖な気候が柑橘栽培に適していて、一年中美味しい柑橘類を食べることができるのです。最近は紅まどんなとか甘平などという、新しい高級な品種も次々生まれいますが、この時期はポンカンやデコポンといった雑柑が美味しい季節で、農家の知人友人から沢山の柑橘類が届いて、ビタミンのお陰でしょうか今年は一度も風邪やインフルエンザにかかることもなく、ことのほか寒かった冬を無事乗り切りました。

玄関先でデコポンの箱詰め作業
玄関先で箱詰め作業したデコポンをトラックに積んで

 毎年この時期になると知り合いの農家にムリを言って、デコポンなどの雑柑を購入し、日ごろお世話になっている全国の知人友人に送るのです。先日もデコポンを10箱余り段ボールに積めて、地元の郵便局から宅配しました。今年の第一便は先日北海道オホーツク寒気団の船木さんに連れられて、人間牧場と煙会所へ研修にやって来た面々から、色々な品物が届いているため、その返礼のつもりで送り状に名前をしたためました。

 郵便局は10箱以上をまとめて送ると、送料割引きのサービスがあるので、遠方ゆえできるだけそのサービスで送るようにしているのです。デコポンが届いた近い人は早くも明くる日に、お礼の電話やメールが届きましたが、このところの戻り寒波で雪のちらつく北海道からも、元気な声が届きました。わが家はデコポンなどを作っていませんが、雑甘の最後を飾る少し酸っぱい系の甘夏みかんは、沢山家庭菜園の横の果樹園で作っているので、1ヵ月後にはまた送ってあげようと思っています。

 甘夏みかんは皮の部分を自家でマーマレードに加工できるため、心待ちにしている人も沢山います。昨年は人間牧場で甘夏柑を使ってマーマレードを作る講習会を開き、参加した皆さんから大変喜ばれました。わが家の甘夏柑は無農薬で栽培しているため、特に安心安全で今年も自家の自給率を上げるため、友達を誘って講習会をやろうと思っています。
 退職して9年が終わり、4月からはいよいよ10年目に突入です。無頓着だった食に対する意識も随分変わり、野菜や蜂蜜は勿論のこと、ヒジキ、天草、ワカメ、切り干し大根、梅干し、梅酒、マーマレード、プルーンマーマレード、甘夏柑マーマレード、フキの佃煮、一夜干しなどが加わり、質素ながら最高に贅沢で健康な日々を過ごしています。とても幸せです。

  「農家から デコポン仕入れ 全国の 仲間に発送 喜び届く」

  「デコポンの 次は甘夏 リクエスト マーマレードを 心待ちする」

  「ビタミンの お陰でしょうか 風邪引かず 冬を乗り切り 春を迎える」 

  「コタツにて 荷送り住所 書く作業 顔を思いつ にんまりしつつ」

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〇大分県玖珠町への講演小旅行(その2)

 世の中は不思議なご縁があるものです。今回の大分県玖珠町商工会での講演は二つの出来事がご縁でした。まず一つは昨年大分県商工会連合会の招きで、大分県商工会青年部の講演会で講演をしました。その折私の話を指導員さんが聞いていました。もう一つは玖珠町の社会教育委員を兼務している商工会長さんが長崎県で、これも昨年開かれた九州社会教育大会で、私の話を他の11人の委員さんとともに聞いていたのです。会長さんと指導員さんの思いが重なり今回の招聘となったのです。更にこれも偶然でしょうか、昨年末国立大洲青少年交流の家で開かれた社会教育実践交流集会で私がファシリテーターを務めたインタビューダイアローグシンポジュームのパネラーとして登壇した、大分県社会教育総合センターの縄田さんが教員採用されて最初の赴任地が玖珠町だと聞いたから二重三重の驚きでした。

 講演会場である商工会は駅から近い所にありました。控室でお2人の役員さんと少し遅い昼食弁当をいただきながら、のんびりゆっくり雑談に耽りましたが、お2人ともその道のつわものでいい意見交換をすることがで来ました。
 その後短い時間でしたが、念願の機関庫と公園見学に出かけました。先日片岡鶴太郎さんの案内旅番組をたまたま見ていて、一度は見たいと思っていただけに、とても嬉しい見学となりました。立ち入り禁止のため機関庫の中へ入ることはできませんでしたが、同行したお二人の話でその歴史的経緯やこれからの活用方法、さらには将来の夢を存分に聞くことができました。昨年講演のために出かけた門司港の旧大連待合所といい、今回の機関庫といい、九州には沢山の近代化遺産が残っていて、人の思いや手が入れば息を吹き返すだろうと、まちづくりの更なる取り組みや発展を祈りました。

近代化遺産機関庫
近代化遺産機関庫

 講演は2時間に及びました。名刺代わりに持参して上映した私のDVDが、パソコンのつなぎ具合が悪かったのか無声で音が出ず、急遽まるで活弁のような説明をして幕を開けました。私の話はアドリブなのでどんな話をしたか、今となっては思い出せませんが、遠路大分から寸暇を惜しんでわざわざ出席してもらった縄田さんのfacebookにさわりのメモが残されていました。
 昨日はギノー味噌の田中社長に頂いた100gの味噌を2ケースリュックにつめて、重いのに持参しました。裏が味噌の名刺とともに大受けで会場の笑いを誘いました。また相変わらず二宮金次郎さんの銅像も同行したので、リュックの紐が肩に食い込んで、肩が少々こるほどの旅でしたが、久しぶりにいい仕事をしました。

かつての機関庫風景
かつての機関庫風景

 たった1回の私の講演でまちづくりができたり、人のやる気が起こるほどまちづくりはやわいものではありませんが、二宮金次郎の銅像の右足が一歩前へ出ているように、まず一歩踏み出すことが大切です。玖珠町には来留島武彦の児童文学、旧国鉄時代の機関庫跡、自衛隊の駐屯地、古い街並などなど、指折り数えれば世に知れた幾つもの素材が数え切れないほどあり、基幹産業の農業もそれなりに元気で、何もない私の町から見れば実に羨ましい限りです。でもあり過ぎると目移りがして「あり過ぎるから何も出来ない」ものです。そこへ行くと私たちの町は「何もないから何でもできる」のです。
 誰かのキーマンが批判や反対を押し切りながら、10年間続ければ物語が生まれるのですから、頑張って欲しいと願っています。ただしそこに暮らしていると土地の出来事は知っているようで知らないため、コップ磨きと同じように内磨きと外磨きをできるようにしなければならないと締めくくりました。

  「色々な ご縁重なり 招かれる 九州中ほど 童謡の里」

  「近代化 遺産を前に 固唾飲む 荒れてはいても 威風堂々」

  「あり過ぎて 何をすべきか 分らない 俺の町なの 何もないから」

  「内磨き だけでは町は 輝かぬ 外の汚れを 綺麗にせねば」

 私の話の様子は、一番前の席で聞いてくれた縄田さんが、自分のface bookで下の写真を添えて紹介してくれました。

縄田さんがfacebookにアップしてくれた私の講演様子
縄田さんがfacebookにアップしてくれた私の講演様子
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人間牧場

〇今日はこれから大分県玖珠町へ出かけます

 今朝はいつもより30分も早い3時半に起きました。歳をとったせいでしょうか、目覚まし時計に頼らずに自分の思った時間に起きれるようになりました。早速今朝もいつもどおりノルマのブログを一本書きましたが、ワードプレスのこのブログは、時間がないのでこの程度でお茶を濁して出発します。
 今日の行程はこれから国道378号夕やけこやけラインを走り、ゴゼヶ峠のトンネルを抜けて国道197号潮風メロディーラインを伊方町三崎港まで行きます。三崎港に車を置いてフェリーで大分県佐賀関まで渡り、バスや列車を乗り継いで、大分県のJR豊後森駅まで行きます。午後には玖珠町の会場に着き講演をする予定です。講演が終わるのが午後6時頃なので、その後は列車で大分を目指し、明くる日の予定が立て込んでいるので、できるだけ愛媛に近い場所まで帰って一泊し、明くる日の一番の船で帰りたいと思っています。帰りは明日になります。急ぎの御用のある方は私の携帯までご連絡をお願いします。

 さあ出かけます。安全運転で・・・・・。今日は裏が味噌のギノー味噌をリュックに入れ、少々重い手土産が一緒です。

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人間牧場

〇下手糞ながら私の一芸

 私はピアノも弾けず、字を書いても釘折れ字で下手、何をやっても人様が驚くような特技を持っていないのです。ゆえにこれまでピアノが弾けたり字が綺麗な人を見て、歌の文句ではありませんが「もしもピアノが弾けたなら」、「もしもあのように綺麗な文字が書けたなら」、どんなに素晴らしい人生になるだろうと、羨ましく思ったものでした。
 しかし六十路を過ぎるころになると、自分の人生ではいくら頑張ってもそれはムリな算段だと腹をくくると、妙に自分の肩の荷物が軽くなり、人に笑われようと私にしかできないものをやって、少しでも自信を持って生きた方が得策だと思うようになりました。

私の一芸ハーモニカ
私の一芸ハーモニカ

 その一つがハーモニカです。今は学校でハーモニカを習わなくなったため、ハーモニカを見たり音色を聞いたりすることが日常的には滅法減りました。幸い私は息子のお下がりのハーモニカを頂いたのを機に、ハーモニカの練習を始めました。もとより音楽は子どものころから大の苦手でしたが、一日5分の反復練習をしたり、妻がテレビショッピングで2本のハーモニカを買ってくれたお陰で、下手糞のそしりを免れませんが、200曲を越る曲を吹けるようになったのですからいやはや驚きです。このことに味を占め、行く先々でハーモニカを吹くと、それが話題になって今ではリクエストが出る程になりました。今も時々書斎で、あるいは人間牧場で人知れずハーモニカをこっそり吹いて一人楽しんでいます。

 一芸は時として大きな反響を呼びます。私が大洲市田処で講演の折ハーモニカを吹いたことがきっかけで、何人かがハーモニカを買った話や、こともあろうか300人の記念講演で吹いたペギー葉山の「南国土佐を後にして」を、参加者全員が大合唱した話は、忘れられない思い出です。そのことが縁である篤志家から、ケースに入った4本の立派なミヤタハーモニカをいただきました。これは人間牧場専用の門外不出の楽器として、今も大切に落伍の演目に使っているのです。私は生まれつきがさつな人間で、高尚なクラッシック音楽等分りません。ハーモニカで吹く歌も艶歌や童謡、民謡といった日本的なものが殆どです。でも青春時代に口ずさんだ流行歌などを吹く度に、青春の思い出が鮮やかに蘇ってきます。人はどうであれ、自分流に生きれるきっかけを作ってくれた一本のハーモニカは、下手糞ながら今では私の一芸なのです。

  「人前じゃ 恥ずかしいから 吹けないと 言いつつホラと 一緒に吹いて」

  「ハーモニカ 今では200を 越えた曲 吹けるのですから 大したものだ」

  「ハーモニカ 童謡吹くと 孫たちが 集まり一緒に 歌ってくれる」

  「一芸が わが身を助け 大合唱 今も忘れぬ 感動場面」 

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人間牧場

〇切り干し大根が綺麗にできました

 家の横にある家庭菜園に手広く植えている冬野菜が、いよいよ最終章となりました。既に幾つかの野菜は役割を終えて引き抜かれ、中耕されてジャガイモ等の次の作物にバトンタッチされていますが、白菜類も大根類も菜の花を咲かせていて、近々に引き抜いて処分しようと思っています。そんなこともあって、わが家の食卓は野菜を使った様々な料理が沢山並んでいます。
 朝は妻がトウの立った小松菜の葉っぱを摘んで来て、ジューサーミキサーでそれは見事な緑濃いジュースを作ってくれます。リンゴやみかんも入ったミックスジュースは、味も香りも抜群で、ジュースを飲むとどことなくポパイのように、元気になった気分になるから不思議です。

 お正月についたお餅を水につけて保存し、この2ヶ月余りは朝は餅を焼いて食べました。私も妻もお餅は大好物なので、醤油やきな粉で食べますが、時にはおろし大根でみぞれ味も楽しみます。そろそろパンが恋しくなり、昨日は松山に出かけた帰り食パンを買ったので、今朝は私と息子が精製した蜂蜜をつけて楽しもうと思っています。
 昨晩は野菜をふんだんに入れたポークカレーを作ってもらい食べましたが、ブロッコリーやカリフラワーもゴマダレで食べ、田処の亀本さんから届いた豆腐とイノシシの肉の珍しいハムも添えられ、多少満腹を越えるほど食べました。

立派にできた切り干し大根
立派にできた切り干し大根

 私は昨年に引き続き今年も大根を2回に渡って千切にし、切り干し大根を作りました。サナ2つに2回干した切り干し大根も、このところの恵みの日当たりのお陰で殆ど乾燥が終わり、あとは仕上げの乾燥を待つだけです。乾燥が甘いと湿気てカビが生えるので、注意をしなければなりませんが、乾燥した切り干し大根はビニール袋に入れ、さらに一斗缶に入れて倉庫に保存食として保存するのです。これでわが家の自給率はまた高まりました。今年は自分が汗をかいて掘った芋坪のお陰で、サツマイモの保存にも成功し、週に2回程度素焼きの芋焼き器で焼き芋をして妻と二人で楽しんでいます。冬を越したサツマイモは甘みも増してと、ても美味しく食べています。さあ今日は寸暇を惜しんでヒジキの素干しに挑戦してみたいと思っています。

  「冬野菜 いよいよ終わり 残された 味を毎日 食べて楽しむ」

  「大根を 千切りサナに 並べ干す 切り干し大根 自給が増える」

  「芋坪の お陰で芋を 焼いて食べ 美味い美味いと 妻と二人で」

  「さあ次は 何をしようか 毎日が サンデーゆえに 次の一手を」

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人間牧場

〇親友の送別会

目出度く退職を迎える高岡さん(手前)
目出度く退職を迎える高岡さん(手前)

 私は25年前県庁職員と市町村職員の交流を目的に結成した「夢工房」という小さなグループに所属しています。25年の時の流れはあっという間で、あの頃若かったメンバーも既に大半は退職して自由人となっていますが、それでも毎年時々集まって近況を報告したり、過ぎ越し人生を懐かしんでいます。
 昨日は私とともにグループ結成当時の発案者である親友高岡さんの送別会を、伊予鉄会館で午後5時から行ないました。集まったのは19人ですが、中には遠く旧三崎町や松野町、西予市といった南予勢もはせ参じて賑やかな送別会となりました。

楽しい語らい
楽しい語らい

 記憶が定かでない年齢となったため、何時どこでという詳しいことは思い出せませんが、松山地方裁判所前の交差点で酒に酔った高岡さんと八十島さんと私の3人で立ち話をして夢工房を作ろうと発案したことは今も鮮明に覚えているのです。その後メンバーの出入りもありましたが、多い時は2ヶ月に1回のハイペースで、松山駅前の露地にある居酒屋四十雀を根城に集結し、多くのゲストスピーカーを招いて学習会とも呑み会とも分らぬ集まりを繰り返しました。流石に最近はそうした学習意欲も懐具合もなくなって、狸が石を投げるほどに減りましたが、それでも気心知れた仲間との語らいは今も私の楽しみの一つなのです。

 昨日送別会をした高岡さんはこの春目出度く38年間の県庁生活を終えるようです。最後は部長職である愛媛県立医療大学の事務局長として、大学院設置に奔走する等立派その仕事を務められました。昨日は幹事をした山本さんから頼まれ私が開会の挨拶をしました。また高岡さん本人も思い出話を交えながらお礼の挨拶をしました。高岡さんの凄さは謙虚さと冒険心を併せ持った人です。偉ぶらず誰とでも接してきたし、私も高岡さんから多くのことを学ばせてもらいました。京大出身のエリートらしく読書家で、読んだ本のお裾分けをどれ程貰ったことでしょう。多分これからも私たち二人の就かず離れずの良い関係は続くものと思われます。

 高岡さんがお礼の挨拶の中で述べた、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が特に心に残りました。いい言葉です。人生も置かれている立場も人それぞれなれど、その立場立場をわきまえて生きることこそ肝要です。老いや退化のブレーキをかける、進化の気概を持つ、そんな生き方を、皆さんに9年前送別会をしてもらって以来この9年間してきました。今までの生き方がこれからを決めるのではなく、これからの生き方が人生を決めるのだから、うかうかのんびりなどしていられないのです。部長職なので天下りでもなく地すべり的に新しい任地が決っているようですが、お元気で頑張って下さい。

  「親友の 送別会で 開会の 挨拶述べる 光栄浴す」

  「そういえば 酒酔い3人 交差点 やろうと決めた 昔懐かし」

  「ごくろうさん 自分で採った 蜂蜜を 小瓶に入れて ささやかながら」

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人間牧場

〇一日中地震の話

 昨日の未明午前2時6分に伊予灘西部を震源として発生した地震は、目には見えませんが私の心に相当なショックを与えたようです。ゆえでしょうか昨晩は前夜地震発生で眠れなかったせいもあって眠気をもよおし、早目の10時頃に床に就きました。ところが今朝は昨夜の地震発生時間と同じような午前2時に目が覚め、寝ようと思っても目が冴えて中々寝付かれませんでした。こんな時は起きるのが一番と早起きして書斎に入り、ストーブの前で本を読んだりブログを書いたりして過ごしていますが、昨日は先日仲間とともに人間牧場へ研修にやって来た、北海道佐呂間の船木さん一行や馬路村の木下さんからも、メールや電話で地震見舞いが入り、またFacebookでもリンクしている私のブログ記事への書き込みもあって、地震の話題中心の忙しい一日となりました。

今朝の愛媛新聞一面記事
今朝の愛媛新聞一面記事

 和歌山に住む弟からも久しぶりに携帯電話が入りました。用件は三つのようでした。一つは地震見舞いで、生まれた実家のことは年齢が幾つになっても気になるようで、何の被害もなかったことを喜んでくれました。二つ目は年老いた親父の様子でした。今年95歳の親父は流石に最近衰えが目立つようになり、週に二回のデイサービスも四苦八苦といったところです。しっかりした日もあるのですが、夜と昼を間違えたり時には少し体調不調を訴え、診療所の先生や看護婦さんに往診に来てもらったりして対応していますが、遠隔地ゆえ顔見せや見舞いもままならず、長男であり跡取りの私への面倒委任を頼んでいました。

三つ目は自分の嫁である義妹が最近軽い脳梗塞で救急車で病院へ運ばれ、入院しているという話でした。聞く所によると数日前二人で夕食を取り終わったころ、言葉が縺れるようになって異常を訴えたようです。幸い発見と対応が早かったため大事に至らず、一週間ほどの入院で間もなく退院するそうですが、気がつけば私たち夫婦と同じように弟夫婦も歳を重ねていて、健康が気になる老後を生きているようでした。遠隔地のため見舞いにも行けず気になりますが、兄弟5人のうち私を含め4人までが双海町ないに住む幸運に恵まれているものの、異卿地で暮らす弟のことはやはり気になっています。
 妻が間もなく退職したら高野山へ八十八ヵ所参りのお礼参りに出かけようと思っていますが、その折弟の住む和歌山県古座川まで立ち寄ろうと思っています。地震は電話やメールながら近況を寄せ合う思わぬ有難い出会いの機会となりました。

  「大丈夫? メールや電話 一日中 昨日何かと 近況報告」

  「新聞じゃ わが町震度 3という 5強果たして どんな揺れだか」

  「どうだった? 会う人ごって 朝地震 話題に上り 一日終る」

  「この国は 自然災害 多いけど 人を気遣う 優しい国だ」

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人間牧場

〇幸せは皆身にあり

 先日仲間5~6人と「将来どんな暮らしがしたいか?」という話で盛り上がりました。私は現職をリタイアして9年間が過ぎていますが、仲間たちも既に再雇用の時期も終わり、リタイアしている人が多いため、これはといった夢や目標を持たず日々を何となく暮らしている人が意外と多いことに驚きました。中でも特異だったのは一番若いAさんで、昨年60歳の定年を迎えたばかりですが、親も既に他界し子どもがいないため、自由の身とあって彼の夢は、東南アジアのどこかの温かい国に行ってマンションを買い、メイドを雇ってのんびり好きなゴルフや旅行を、奥さんと二人でやりたいそうです。実現すれば羨ましい限りですが、人の幸せには夢であっても茶々を入れることが好きなBさんが、テレビで見た海外移住の知られざる謎について質問を投げかけていました。

 その質問はおおよそ次の5つでした。
 ①東南アジアの国々は物価が日本の3分の1か5分の1のようだが、歳をとって外国の食べ物
  は好みに合わず、健康を害する元になる。日本料理の食材は外国では日本以上に高い。
 ②病気になった時日本のような手厚い医療が受けられるかどうか疑問である。
 ③夫婦が一緒に死ぬことはできない、一人残された時どうするのか。
 ④人生の終わりを異国で迎え、異国のお墓にほうむられることを考えたことがあるか。
 ⑤友だちがいない、言葉が通じない人生は淋しい。
 ~とまあ色々な話が出ました。ある外国人が「日本人の妻を娶り、日本料理を食べ、穏やかな日本の四季の中で暮らすことが夢」と言っていたことも話題に上りました。

 私たちは貧乏な時代に生まれ育ちました。お米のご飯を腹いっぱい食べたい、電気製品や車など文化的製品に囲まれて、一戸建てかマンションに住みたいなどと、時代時代の流行の中上昇志向で、気がつけばそれらをことごとく手に入れて生きているのです。この上メイドを雇い外国で誰にも束縛されず暮らしたいという、少し思い上がったAさんの願望に、疑義を述べていたBさんの考えももっとものような気がするのです。
 「幸せって何だ?」と尋ねられたら、多分私たちは気がついていないだけで、もう十分幸せ過ぎるのではないかと思うのです。亡くなった尊敬していた元町長さんが結婚式の祝辞で、「幸せは『みなみ』にあり」と言っていました。「みなみ」とは方角の南ではなく皆身、つまり自分の心の中にあるようです。
 最近Aさんのような夢を抱いて東南アジアへ移住した人の中には、「こんなはずではなかった」と夢破れて日本に帰り、蓄財やふるさとまでなくして生活保護を受けて暮らしているというショッキングな話も聞きました。私もその話を聞いてもう十分幸せであることを実感した次第です。

  「Aさんが 俺の夢はと いう話 東南アジアで セレブな暮らし」

  「Bさんが、その夢待った 茶々入れる どっちに軍配 あなたはどっち」

  「穏やかな 日本で余生 暮らしたい 家族とともに 仲間とともに」

  「幸せは 皆身なんだと その昔 町長さんが 結婚式で」

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