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〇尾籠な話で恐縮です

 昨日一年生の内孫希心が1階トイレで、「おじいちゃんウンチに何やら黒いものがあるから見て!!」と唐突に言うのです。孫のウンチゆえ気恥ずかしくもなく便器の中を覗いてみると、健康体を示すような大きなウンチが便器内の水溜りに鎮座していました。よく見ると孫希心が言うように、ウンチの中に黒い粒のようなものが2~3個見えました。それがスイカの種であることは容易に知ることができましたが、それを孫に分りやすく説明してやらなければならないのです。

 夏休みになるとNHKラジオで、「子ども科学何でも相談室」という番組がありますが、「スイカの種は食べるとどうしてウンチに混じって出てくるのですか?」みたいな質問です。早速孫希心とウンチ談義になりました。私「希心君僕は昨日スイカを食べたかい」。希心「食べたよ」。私「種は出して食べたかい」。希心「出して食べた」。私「多分スイカを食べた時知らない間にスイカの種も食べたんじゃないかな。その種がウンチに混じって出てきたんだよ」。希心「食べた白いご飯はご飯のままウンチになって出てこないのに、何でスイカの種はそのまま出てくるの?」。

 私「食べるものにはお腹に中で壊れるものと壊れにくいものがあるんだ。スイカの種は硬いので壊れずにお腹のトンネルを通ってウンチに混じって出てきたんだと思うよ」。希心「じゃあスイカの種を食べた小鳥もウンチになって種は出てくるの」。私「そうだよ。小鳥は色々な種を食べるけど、種の入ったウンチをあちらこちらにして、そのウンチから植物の芽が出るんだよ」。希心「ふーん、じゃあ僕のウンチも畑ですると、スイカの種から芽が出てスイカができるかも知れん。きたねえ」。私「スイカの種についたウンチはお日様や雨水で消毒されて綺麗になるから大丈夫。だからスイカは真っ赤で美味しいんだよ」。希心「ふーん」。~てな感じでした。

 孫の質問に爺が答えるウンチ問答は中々骨が折れました。60歳以上も歳の差のある孫に、分りやすい言葉で話をしてやなければならないのです。結末は「スイカ=汚い」で終ると、スイカ嫌いな子になってしまうから厄介です。孫は何事もなかったように昨日も色々な果物を食べていましたが、私もスイカ大好き人間で、毎日のようにスイカを食べています。私も今朝自分のウンチの中にスイカの種を発見しました。そのウンチは水とともに流れ合併浄化槽へ運ばれたようですが、その後のスイカの種の運命は知る由もありません。朝から臭い尾籠な話ですみませんでした。

  「おじいちゃん ウンチに黒い ものがある 孫の観察 大したものだ」

  「どうしてと 次から次へ 質問を されてたじたじ 大人の私」

  「わがウンチ 孫と同じく スイカ種 まざまざ見つめ 水に流して」

  「スイカ種 自分腸内 一巡り 消化もされず この世出現」

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人間牧場

〇悲しい広島の土砂災害

 3日前の夜、まちづくり学校双海人の会合から帰って自宅に着き、車を車庫に入れて北の空を見ると、雷の閃光が30秒間隔くらいで怪しく連続的に光っていました。「おやっ」と思った程度で家の中へ入り、風呂に入ったりテレビを見て床に就きましたが、明くる日の朝いつものように4時に起床して、ブログを書き終えてパソコンでニュースを見ると、広島市で3時間に200mmを越える雨が降り、被害が出始めているようでした。広島は愛媛の対岸ゆえ知人友人も多く、他人事とは思えずテレビの画面に流れる被害状況を伝えるテロップを、食い入るように見つめていました

広島の惨状を伝えるニュース写真
広島の惨状を伝えるニュース写真

 死者39人の中には幼い子どももいて悲しみは一層深くなりましたが、最初7人だった行方不明者の数はその後大幅に増え、今朝の新聞によると安否不明者は51人になっていました。広島へは何度も出かけていて、その度に山の頂まで住宅開発されている様子を見ているだけに、今回の集中豪雨による大災害との因果関係も、分かるような気もしますが、行方不明者の捜索に3000人の人が投入され、夜を徹した捜索活動が行われているようで、一刻も早い救出が望まれます。わが家でも裏山が急峻なため、これまでに2度も土砂崩れに遭っているだけに、他人事とは思えず胸が痛むのです。

 こうした災害が起こるとテレビや新聞といったマスコミは、いち早くその様子を伝えてくれますが、と同時に原因究明や対応の責任についても手厳しく迫っています。雨が降り始めたのが未明頃からだったし、たとえ避難指示や避難勧告が出されたとしても、人々が避難でき得たかどうかは疑問の残るところですが、住民の安心安全を守らなければならない立場を考えると、39人の死者を出し51人の安否不明者を出した対応の遅れは、被災した人たちの深い悲しみを思えば、責められても仕方のないことのようにも思われるのです。

 広島は原爆投下による大きな惨事を経験し、街並は見事に復旧したものの、今もその後遺症に悩まされています。何年か前同じような風水害で大きな被害も受けています。戦争は平和への願いを、風水害は安心安全への願いを固く心に誓わせますが、慢心な人間はいつかその教訓や願いをを忘れてしまうのです。原爆や度重なる自然災害に遭っている地域だけに、もう二度と広島にだけはこのようなことがないようないようにしてあげたい、そう思った悲しい朝でした。

  「前の晩 広島辺りで 閃光が 大雨予感 悲しく的中」

  「3時間 200mm越す 大雨が 降って土石の 大なる被害」

  「またしても 広島被害 対岸の ことゆえことさら 心が痛む」

  「あの人は 大丈夫かと 顔浮かぶ 電話連絡 無事を確認」

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〇良いことは直ぐやる

 昨日は昼まで間近かに迫った講演会2件のレジメ提出を頼まれていたので、その対応に追われました。私はレジメを作り、そのレジメに沿って話すのが大の苦手です。ゆえに余程のことがなければレジメを作ることはしないし、学歴とレジメを求める所へは極力行かないことにしています。理由は色々ありますが、例えば行政関係の会合などに出席した人の中には、居眠りしてメモを取らなくても復命書に、レジメを「別紙のとおり」と添付してお茶を濁す不届き者が沢山いるからです。

印象的な夕日に照らされた二人(自宅の前庭にて)
印象的な夕日に照らされた二人(自宅の前庭にて)

 一昨日文教会館で行なわれた講演会もそんなことがあって、レジメを用意しませんでした。故でしょうか、それとも参加した人たちの意識が高かったせいでしょうか、いつになくメモを取る人が多かったように壇上からは見て取れました。中でも一番前に座っていた人などは相槌を打ったりして真剣にメモを取りながら聞いてもらい、講演後の質問にも手を挙げ意見を述べてくれました。さらに講演後控室まで訪ねてきて持参した分厚い資料までいただいて帰りました。

 昨日はレジメの提出も無事終ったので、午後畑に出て草取りをしているとポケットの携帯電話が鳴りました。宇和島市役所の親友森田さんからでした。前日一番前に座って聞いてくれた信藤さんからいただいた資料の中に、森田さんの名前が載っていることを思い出し、懐かしく話していると、何と信藤さんが電話口に出て驚きました。色々話して電話を切った数分後、「これから会えないか?」と尋ねられました。宇和島から車を飛ばせば午後5時頃には到着すると、熱のこもった懇願に圧倒され受諾しました。

 昨日は孫を学童クラブと保育園へ迎えに行く手はずだったので、迎えに行くとグッドタイミングで信藤さんは到着しました。ゲストハウス煙会所に案内し、一時間ばかりお話をしましたが、学校の先生らしく座布団に正座してメモを取りながらの面談となりました。いやはや驚きです。私の元へは年間を通じて沢山の人がやって来ます。浅学菲才な私ゆえ、大した指導や助言もできないのに、私の感動セールスでやる気を起こす人も中にはいるようです。信藤さんの心に私はどんな希望の火を与えたのか、心もとない気もしますが、とにもかくにも宇和島からわざわざ会いに来てくれた信藤さんの、勇気ある行動に大きな拍手を送ります。ドキドキ・ワクワク・ジーンでした。

  「会えないか これから行くと 矢継ぎ早 遠い宇和島 車走らせ」

  「煙会所 囲炉裏囲んで 対面す 火の気はないが 心に火の気」

  「若い頃 人に逢いたい 衝動に 駆られ出歩き 多く学んだ」

  「ポジティブに 生きればこんな 世の中も どこか陽の差す ドキドキ感が」

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〇愛教研福利厚生夏季研修会

 愛媛県内小中学校の先生で組織する愛教研(愛媛県教育研究協議会)では、毎年この時期に福利厚生夏季研修会を開いているようで、今年は私が講師として招かれました。前双海中学校の校長だった畑中靖祥先生を通じてのご依頼だし、断わる理由もなく快く引き受けました。畑中先生の実家は人間牧場の目と鼻の先だし、畑中先生の結婚披露宴の司会をした経緯もあり、また畑中先生が双海中学校在職中は学校評議員をしたりしていて、何かとつながりの深い先生なのです。畑中先生は真面目実直な人で、今回の講演依頼後も度々わが家へ足を運んでもらいすっかり恐縮してしまいました。

文教会館で開かれた講演会
講演会前休憩の会場

 

 かつては今回研修会の会場となった文教会館に足繁く通っていましたが、そういえば少し遠のいていたようで、懐かしい感じがしました。少し早めに到着したためロビーで右往左往していると、顔見知りの田鍋修理事長さんと出会い、久しぶりに理事長室で色々な世間話に花を咲かせました。私が公民館主事をしていた若い頃派遣社会教育主事だった田鍋先生とは出会いましたが、今も讃岐先生たちと愛媛県社会教育実践集会の実行委員として、一緒に活動しているのです。
 文教会館といえば私が深く関わっていたえひめ地域づくり研究会議の旗上げとなった雪の集会や、何度かの結婚披露宴の司会など忘れられない思い出がいっぱいあります。

 中でも私が公民館主事として駆け出しの頃、「連帯を育む愛媛の教育」という分厚い本の出版計画が持ち上がり、その中で3人の鼎談内容が盛り込まれることになりました。鼎談は小中学校校長会長と、愛媛大学教育学部長、それにこともあろうか公民館主事の名もなき私が選ばれたのです。初めて出会った教育学部長さんから私に「先生はどこの学府をご卒業ですか?」と唐突に訪ねられました。高校しか出ていない私は「先生」と言われ多少戸惑いましたが、「私は公民館大学に在学しています」と答えてしまいました。学部長さんは怪訝な顔をして、「そんな大学どこにありますか?」と聞き返すので、「公民館大学は日本全国どこにでもありますよ!!」とやり返しました。多分学府を聞くこの先生は、人の値打ちをどこの大学を出たかという学歴で判断しているのだと思った私の、ささやかな抵抗だったようです。

 鼎談が終わり帰ろうとする私を呼び止めた学部長さんは、「先ほどは大変失礼なことを申し上げました。私は職業病として相手の学歴を聞く癖があります」と平謝りに謝られました。その場を離れた私は「よくぞ公民館大学などと学歴詐称を言ったものだ」と冷や汗をかきましたが、公民館で沢山の講師の話を聞いたことによって、学歴ではない学習歴は負けないくらいあると、少し胸を張り胸を熱くしたものでした。あれからどれ程の時が経ったことでしょう。学歴がない私がこうして学歴のある人たちの前で頼まれて話をするのも奇妙な話です。
 昨日は退職を目前に控えた人なども含め50人余りが参加していました。「心豊かに生きるためのライフプラン」についてお話をしました。会場には知り人も沢山いて、一番前で聞いていた宇和島の信藤明秀さんは講演会終了後わざわざ控室まで訪ねてきてくれ、分厚い資料までいただきました。

  「学歴の ないに等しい 私でも 学習歴の お陰で話す」

  「反骨の 若い昔が 懐かしい 今はそれ程 角取れ丸く」

  「懐かしい みなのお陰で 生かされて 生きる喜び 感謝を込めて」

  「ああ今日も かくてありなん 人前で 恥をかくよな 話に終始」 
 

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〇鋳物のガスコンロ

 田舎では様々な火を使う機会があります。例えば春の筍湯がきとか、ヒジキを湯がいたりワカメの湯通しにも火は欠かせないのです。また正月前の餅つきセイロを使って餅米を蒸すのにも使います。大小のかまどとはがま・大鍋さえあれば、田舎ですからエネルギー源となる薪類はそこら辺にゴロゴロしていて、お金を使わず労働で賄うことができるのです。しかし雨の日やどうしても寒くて室内でやらなければならないこともあり、その場合は鋳物でできた火力の強いガスコンロが威力を発揮するのです。

出来上がったガスコンロ入れの木箱
出来上がったガスコンロ入れの木箱
木箱に入ったガスコンロ
木箱に入ったガスコンロ

 人間牧場にはかまど小屋とピザ釜、それに大小の移動式かまどがありますが、室内用の大きなタイプのガスコンロがなく、いつか手に入れたいと思っていましたが、昨日偶然にもごみ出し途中で隣りの叔父に使わなくなって、不燃物ゴミに出すというガスコンロを頂いて帰りました。早速それを入れる箱の製作に取り掛かりました。製材からもらって倉庫に終っている端材板を取り出し縦・横・高さを採寸し、鋸で切ってガスコンロが入る箱を作りました。ものの一時間ほどで不器用な私ゆえそれ程立派なものではありませんが、それなりの箱が出来上がりました。

 中へガスコンロを入れるとバッチリでした。早速出来上がった箱ごと軽四トラックに積み込み人間牧場まで出かけ、かまど小屋の作業台の下に収納することができました。そのうちガスボンベは家に余分があるので充填して運んでおこうと思っています。人間牧場では今コンニャクイモが、草に埋もれて育っています。このコンニャクイモを使ってコンニャク作りをするプログラムも今年は是非自前でやろうと思っていますが、その折は晩秋から初冬の時期なので外でイモを茹でたりすることが叶わない時は、この鋳物のガスコンロが大いに威力を発揮することでしょう。

  「ゴミ出しの 途中貰った ガスコンロ 木箱を作り 大事に保管」

  「秋や冬 威力を発揮 するものと 思い巡らせ 今から準備」

  「コンニャクを 作る道具が あれやこれ 揃ったゆえに 今年は自力」

  「またひとつ 思い叶って そろい踏み 道具大事に 使いこなそう」

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〇青年たちとの出会い

 私が地域づくりに関わったのは青年団に入団した18歳の時からですから、もうかれこれ50年になります。その間青年団活動で手に入れた①仲間、②ふるさと、③主張、④感動、⑤夢という五つの道具を磨ぎながら今日を迎えています。この五つの道具は、70歳を間近に控えた今でもしっかりと使えているしこれからも使えるのですから、青年団に感謝しなければならず、恩返しもしなければなりません。

 青年団は残念ながら潰れてしまいましたが、昨日出かけたKnock R0llという青少年団体の 研修会には大勢の若者が参加していて、久しぶりに心がときめくのを覚えました。行政には教育にしろ産業にしろ福祉にしろ、青少年担当なるものが存在します。にもかかわらずそれらを担当する部署では人が集まらないことを理由に、何の手立てもせず放置されているのです。昨日の研修会を見る限り若者は今も存在していて、やる気のある若者だって沢山いるのです。

 私は「青春とは心の若さである」と常日頃から自認しているので、69歳になった今も何の違和感もなく若者の輪の中へ入って行き、気軽に話しかけ求めに応じて様々な手助けをしています。時には若者が人間牧場や私設公民館煙会所へ訪ねて来るし、人間牧場では若者を育てるプログラムも開いていますが、今一度青年の時期に、私の手に入れた五つの道具を手に入れて欲しいものだと願っています。

 昨日まで国立大洲青少年交流の家で開かれた研修会で出会った2~3人の青年から、早速嬉しいメールが届きました。私の話を聞いての感想と、人間牧場へ近いうちに是非お邪魔したいと書いてくれていました。出会った若者から沢山の名刺もいただいているので、いい予感がしています。何もしないと失敗はしないし波風も立ちません。しかし何かをしなければ何も始まらないのです。「もう歳だから」と言い訳をせず、積極的に生きようと思えただけでも、この2日間の成果は大いにありました。

  「お盆だと いうのにあえて 研修会 出かけて逆に パワーいただく」

  「集まらない それはやらない 人が言う 逃げの一手と 思いめぐらす」

  「青春は 年齢じゃない 気の持ちよう 私にだって 今が青春」

  「見渡せば 私一番 お年寄り いつの間にやら 時代は変わり」

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人間牧場

〇たった10分の出番のために一泊二日(その2)

 Knockn Rollの研修会は第一日目は朝8時30分~深夜まで、第二日目は朝8時30分~午後18時までと超ロングランです。私は親類のご主人が亡くなった仏事やお盆の行事が重なっていて、1日目の午後6時から、二日目の10時までの参加となりました。それでも様々な出来事が重なり神経を使ったせいでしょうか。はたまた夕方帰宅して直ぐの親類の漁師さんから鱧をトロ箱一杯ただいたため、その処理に追われ、全てが終わったのが午後9時近くになって、ワードプレスの書き込みを始めた午後9時頃には少々お疲れモードとなって、思考回路がストップしてしまいました。ゆえに今日はこの程度で、お休みなさいをすることにしたいと思います。お休みなさい。
 そうそう、前田さんが私の写った写真をfacebookで紹介してくれました。

プレゼンステージ1
プレゼンステージ

ノックン3

 

 

 

 

 

 

 

 

プレゼンする私
プレゼンする私
久しぶりに兼頭一司さんと一緒でした
久しぶりに兼頭一司さんと一緒でした

 

 

 

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〇私たち夫婦は戦後とともに

 今年は太平洋戦争が終って69年目です。私たち夫婦は私が昭和19年、妻が昭和20年生まれなので、私も妻も自分の年齢イコール戦後の年数でもあるので覚えやすく、特別な感じで毎年戦後や戦争にまつわる諸行事を迎えています。「69年目の広島や長崎の原爆平和記念日」や「69回目の終戦記念日」には、その時報とともに自宅で直立不動で一分間の黙祷を行い、犠牲になった人の冥福を祈りました。

 69回とは私たち夫婦も69歳という歳になったということを意味します。妻は終戦の日から数えて27日後の昭和20年9月12日に生まれ、私は敗戦色濃い8ヶ月前の昭和19年10月3日に生まれています。ゆえに戦争の体験こそないものの、物資の少ない貧しい時代に育っています。日本が貧しい時代を脱して高度成長や安定成長をした昭和という激動の時代を生き抜き、ある意味成長と混迷を合わせ持った平成を生きていますが、頻発する事件や事故を思う度、これらの日本社会に生きなければならない不安も垣間見えるのです。

 戦争は誰が考えても最大の社会悪で、平和を願わない人は一人もいないはずなのに、アフガニスタンやイスラエルに見られる戦争は、終息するどころか混迷の度を深めています。69年経った今も終戦記念日に靖国神社へ参拝に行った行かないで、隣国中国や韓国とギクシャクしている姿を見て、戦争の残した爪あとがいかに大きいか垣間見ることができるのですが、日本は平和ゆえに事件や事故が頻発し、成熟社会の心の傷も広がりつつあるようです。

 遠い都会の出来事と思っていた強盗事件が3日前松山市で2件発生、わが伊予市でも市営住宅で殺人事件が発生し全国ニュースになるなど、「どうなっているの?」と首を傾げたくなるような昨今です。わが町だけは、自分だけはと蚊帳の外を考えても、蚊帳の中すらこのような有様です。もう一度自分や自分の回りに目をむけ、共存や共生の意味をじっくり考えたいものです。かく言う私もいよいよ2ヵ月後には70回目の誕生日を向かえ70歳となるのです。

  「69 この数字には 私たち 夫婦が生きた 思い出数々」

  「平和だと いうが決して そうじゃない 頻繁起こる 事件事故見て」

  「蚊帳の外 思っていたが 蚊帳の内 あちらこちらに 歪生じて」

  「70の 大台間近か 夫婦とも これから先も 元気一番」

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人間牧場

〇人間の目に見えない世界

 今日は8月15日お盆です。お盆になると日本中で民族の大移動とでもいうべき珍現象が起こります。多くの人がふるさとを求めて西に東に北に南に動くのです。時にはそのことで道は大渋滞を起こしますが、これも一年に二度ある(お盆とお正月)想定内の出来事と納得しているようで、ある部分同情もしますが、先祖のお墓参り等はせず国外の観光に出かけて、バカンスを楽しんでいる人も多く、時代の変化を強く感じる今日この頃です。

 わが家は昨日の朝家族が玄関先へみんな出て、妻の用意した麻殻をへし折って迎え火を焚き、先祖の霊を迎えました。この風習は長年続いてきたわが家の伝統行事で、長男の嫁である妻は朝早く起きてお料具膳を作り、茶果とともに仏壇に供えていました。今朝も2日目のお料具膳を朝早くから作っていたようですが、今夕には送り火を焚いてご先祖様ご一行をお見送りするのです。たった一泊二日の出来事ですが、亡くなって久しい今は、亡き祖母や母の思い出に浸るのも、正直な話1年に一度になってしまいました。

 順番から行くと私たち夫婦が亡くなったら、この風習は当然長男の嫁である若嫁に引き継がれる予定ですが、傍でじっと見ている若嫁にもうそろそろ伝授しなければならない日も近いようです。息子たち夫婦のダイニングに仏壇も神様棚も備え付けています。ゆえに若嫁は毎日お茶とを欠かさず、仏様のシキビや神棚のサカキが枯れそうになると、「お父さん、シキビとサカキをお願いします」と頼まれます。私はその都度人間牧場や菜園に出て、シキビとヒサカキを切って来て若嫁に渡すのです。

 仏壇も神棚も目に見えますが、「何のために」と言われれば、それは精神的なもので目には見えない世界です。ゆえに言葉での説明は中々できにくいものです。でも私たちは目に見えない何かで先祖とつながり、先祖の庇護の基に生きています。祖母や母が存命中何かにつけ言っていた生き方言葉は、何かに躓いた時蘇り、私たち夫婦を誡めています。私たち夫婦はまだ未熟でそんな言葉も持ち合わせていませんが、何年か先鬼門に入れば、折に触れ息子たち夫婦の他愛のない話を、笑い話の中で思い出してくれるのかも知れません。毎年お盆が来る度に「人生とは何ぞや」「人間とは何ぞや」と考えさせられます。

  「今年も お盆が来たと 迎え火を 焚いて先祖の 霊を迎える」

  「目に見えぬ 先祖の霊に 手を合わせ ご加護を祈る 弱き人間」

  「長男の 嫁は何かと 忙しい お料具膳を 炊いて歓迎」

  「人生や 人間何ぞや 考える お盆の度に 毎年毎年」

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〇スイカの切り方

 私は自他共に認めるスイカが大好物な人間です。ゆえに夏の初めの7月中旬から8月中旬までの1ヶ月間は、殆ど毎日三度三度の食事の後は、そのことを心得た妻によって、デザートとしてスイカを食べさせてくれるのです。スイカは90%以上が水分なので、熱中症が気になるこの時期は水分補給に最適で、私につられて毎回スイカを食べる妻は、肥り気味な下腹を見て、「スイカのせいだ」と言っていますが、それは言いがかりというものです。

スイカは私の夏のエネルギー源です
スイカは私の夏のエネルギー源です

 妻は酒を飲まなくなった私のために夏は2~3回、東峰の農家へ出向き、美味しいスイカを仕込んできて、冷蔵庫に冷やして食べさせてくれるのですが、わが家ではスイカの身だけを包丁で切って皿に盛ってくれます。ゆえにスイカの皮付きにかぶりつく豪快な食べ方はせず、小さめのフォークで種を除けながら、上品宜しく食べています。昨日友人の家に立ち寄ると、お茶代わりに切ったスイカが出てきてすっかりご馳走になりましたが、その家ではスイカを縞模様の緑濃い皮がついたまま出してくれました。この方法だと最初に芯の部分の甘い所を食べますが、最後は皮の部分に近づくため、後味が悪いと心の中で妻のやり方に軍配を挙げました。

 スイカの切り方は諸説がありますが、わが家では水洗いしたスイカのツル部分と、底部分をまるで蓋を開けるように切ります。この時点でスイカの照れ具合が想像できるのです。その後半分に、さらに半分に切って四つ切りラップをかけて冷蔵庫へ入れます。半日も冷やすと今の冷蔵庫は性能が良いので、たちまち冷やしスイカの出来上がりです。四半分に切ったスイカを中心が頂点になるようザン切りにすればどのスイカも平等に甘い部分が振り分けられるのです。最近は家族の数が少なくなり、大きなスイカは冷蔵庫に入りにくいこともあって大玉より小玉が好まれるようです。

 デパート等では処分の厄介なスイカの皮を取って、実だけにしてフルーツ感覚で販売したり、半月に薄く切ってラップをかけて売っていますが、わが家ではそんなものは買わないようです。祖母や母が存命中はスイカの皮さえ無駄にせず、縞模様の硬い皮を包丁で取り、塩を振って浅漬けにして食べていましたが、今はそんなことをする家庭もないようです。
 お盆のこの時期になるとそろそろスイカも終わりに近づいて、スイカ愛好者としては寂しい気もしますが、今年はスイカ作りに初挑戦し、まずまずの成果を得たので、来年はもっと上手に自給率が上がるようにしたいものです。

  「この私 スイカが大の 好物で 毎日三度 食後デザート」

  「食べた後 体が冷えて 熱中症 ならずに夏を 快適過ごす」

  「皮付きの スイカもやはり 風情あり わが家は上品 フォークで食べる」

  「残念だ スイカの季節 早終る 食後デザート 何にしようか」 

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