人間牧場

〇愛媛新聞雑誌accrete4月号

 最近は雑誌を読む機会が少し少なくなったような感じがしていますが、それでも市役所や観光施設のロビー等には無料の雑誌が沢山置かれていて、紙ごみになることを承知で、適当に持ち帰って暇な時に読んでいますが、それ以外にも地域づくりにいささか関わって生きていると、定期的にわが家へ雑誌が送られて来ます。

 わが家は愛媛新聞を購読していますが、そのおまけとして毎月1回accreteという比較的薄っぺらい雑誌が送られてきます。3日前4月号Vol.145号が届きました。パラパラとめくって読んでいると、「忠政ひろふみの低山トレッキング」というコーナーで、私の家の前にそびえる本尊山が紹介されていました。リード文に「古い港町風情が残る伊予市双海町上灘の背後に、鋭く突き出すようにそびえたつ本尊山、見るからに険しそうなこの山は、中世城郭・由並本尊城が築かれた山で、言わば地域のシンボル的存在。今回は灘町の歴史に触れるべく、ちょっとハードな低山トレッキングに出かけました」とあり、3枚の写真と付近地図が添えられていました。

 忠政ひろふみさんには一度だけシンポジウムで出会っていますが、文章にお目にかかるのは初めてなので興味を持って読みました。私は殆ど毎年一回は本尊山に登っていますが、書いているとおり、低山なのにイノシシでも登りづらい険しい山で、中世城郭の郭や石積みが残っていたり、山頂からの眺めは素晴らしく、一度登ると病みつきになりそうな山なのです。山頂から見ると私の家も直ぐ下に、まるで飛行機の窓から見たように見えますが、昨日から小学校も春休みになったようなので、近々孫たちと一緒に登ってみようと思っています。

  「目の前に 聳え毎日 見てる山 ルポライターが 書くといいとこ」

  「低いけど 頂上中々 骨折れる イノシシさえも 行く手阻まれ」

  「山頂に 中世城郭 郭あり 石類群も 多く残りて」

  「頂上の 視界良好 海に街 一望できて さすが城郭」img706

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇懐かしきかな私詩「黄金色の道」

 自称「夕日大好き人間」の私は、内心「夕日博士」を自認するほど、若い頃から夕日のことを徹底的に調べ、50項目の質問まで作って、当時は珍しかったご当地検定までやりましたが、第一線を退いたのを機に夕日のことは皆さんに譲り、一歩後ろに下がって見守っていますが、やはり夕日のことは気になるようで、天気がいい日の夕方、町のシンボル本尊山が夕焼けで赤く染まるのを見ると、いても立ってもいられずムズムズしてくるのです。

P1070497P1070496 一昨日人間牧場でブロック積み工事を終えて帰宅途中、本谷付近で西の空に夕日が落ちるのが、軽四トラックのバックミラーやサイドミラーに映るのが見えました。路側帯の歩道に車を止め、行き交う車に注意しながら国道を横切って、海岸に突き出たなげに出てしばし夕日見学と洒落込みました。この時期は中国大陸から黄砂が降って、その影響で夕日は赤味を帯びています。年末には5時頃だった日没も、日脚が長くなったこのころは6時を過ぎています。

 折角だからと海岸の波打ち際に降りて、持っていたタブレットとデジカメで数枚写真を撮りましたが、海面には残照に照らされて黄金色の道が出来ていました。ふともう20年も前に作った「黄金色の道」という自作の詩を思い出しました。懐かしきかな黄金色の道でした。
  黄金色の道
 夕日が沈み始めるころになると
 海の上に黄金色の道ができる
 夏は青島秋は水平線の彼方へと
 道の行く手違えども
 黄金色の道はギラギラと輝いて
 夕日に向って伸びている
 いつか誰かとあの道を歩いてみたい

  「軽四の トラックミラー 夕日見え 海岸降りて 一人観賞」

  「日脚伸び 黄砂に赤く 夕日焼け 昨日と違う 表情刻々」

  「若い頃 作った私詩を 思い出す 黄金色の道 今もありあり」

  「ああ今日も いい日だったと 息をつく 夕日に両手 合わせて感謝」 

 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇私の愉快な仲間たち

 私は自分ではまともな人間だと思っていますが、私の仲間に少し毛並みの変わった人が多くいることから推し量ると、自分自身も人から見れば少し変わったように見えるのかも知れないと、仲間に接しながら少しだけ納得しています。
 昨日は偶然にも近畿大学出身のお二人が私の所へやって来ました。一人は最近「近大マグロ」でとみに有名になっている、水産学科出身の玉井恭介さんです。玉井さんは私の母校宇和島水産高校の先輩で、広告代理店セーラー広告の部長時代、私が自費出版した「昇る夕日でまちづくり」という本のお世話を、アトラス出版とともに手助けしてくれた恩人です。「街道をゆく」の作家司馬遼太郎さんの奥さんとも親交があり、まあ歌は歌うわ、文章は画わ、絵を書いたり陶芸はしたりするなど、何にでも興味を示す多芸に富んだ人なのです。玉井さんは昨日奥さんと娘さんを伴って人間牧場へやって来ましたが、奥さんも娘さんも人間牧場は初めてとあって、道中の道の狭さや急峻な地形、見事な眺望にすっかり驚いた様子でした。

人間牧場を訪ねた玉井さんご一家
人間牧場を訪ねた玉井さんご一家

 一方もう一人の近畿大学農学部農芸化学科出身は、八幡浜市日土の清水和繁さんです。清水さんはJA農協職員ですが、えひめ地域政策研究センターへ5年間出向してまちづくりに携わっていた頃知り合いました。その後意気投合して人間牧場で開塾した、年輪塾の塾頭をお願いしたところ快く引き受けてもらい、以後伊予市役所の松本宏小番頭とともに、年輪塾の運営を中心的にやってくれている人です。パソコンや歴史にも造詣が深く、特に年輪塾二期目の二宮金次郎では「尊徳翁夜話」二百三十二話を読み解いて解説し、ネットで塾生に全てを配信して自己学習をいざなってくれました。
 清水さんは既に役職定年を迎えて一度退職していますが、再雇用に見切りをつけ今年度いっぱいで40年余りの農協生活にピリオドを打つのだそうで、もう1週間もすれば私と同じ自由人、サンデー毎日になるので、昨日はあいさつに来られ、魚吉で昼食を食べながら、先輩自由人として助言をしました。

JAを退職して自由人になる清水さん
JAを退職して自由人になる清水さん

 私は35年間役場に勤め、毎日のように先輩、同僚、後輩と机を並べて仕事をしてきました。しかし職場を退職すると、先輩や同僚とはむしろ疎遠になり、今現職の後輩とも出会いや付き合いは殆どないのですから、不思議といえば不思議です。ところが玉井さんや清水さんとは仕事ではない個人的な付き合いながら、兄弟姉妹以上に気心が知れて、何でも相談し色々な活動を一緒にしています。多分これから先もその親密な関係は続くものと思われますが、人間関係はだから面白いのかも知れません。
 人は現職のころ役職肩書きがついたり名刺を持てますが、肩書きも名刺もなくなり自由人になると、何かにつけて不自由が待っています。退職して10年、「自由は不自由」が私の正直な実感です。でも、肩書きも名刺もなくなった時何が残るかで、人の値打ちは決まるのです。値打ちは自分で決めるものではなく、人が決めるものだから、人に必要とされるような値打ちを持つよう、これからも努力したいものです。

  「私には 変った仲間 多くいる ゆえに私も 変っているかも?」

  「近大の 水産学科 今マグロ 有名になり 多少戸惑う」

  「JAに 40年間 勤めてた 農協マンも この春自由」

  「自由人 誰しもみんな 憧れる まもなく不自由 なると思うと」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇人間牧場のスモモの花が満開です

 人間牧場の梅の花もすっかり散って寂しくなりましたが、今度は梅の花に替わって、スモモの花が咲き始めました。3日前にはまだちらほらでしたが、このところの陽気に誘われて早くも満開に近い八分咲きです。梅の淡い薄ピンク色と違いスモモの花は、真っ白で、小さい花が無数に咲くので梅にはない美しさも圧巻です。

スモモの花2 スモモの花1人間牧場には梅やブルーベリーなど、実のなる木が植沢山えられています。中でもスモモは晩生や早生など違った品種を、やって来る子どもたちに楽しんでもらうため、10本ほど植えていますが、毎年沢山の実をつけ子どもたちを喜ばせていますが、春休みにも入っていないので、花を楽しむのは毎年私だけの特権になっています。

 それでも何とかこの花を誰かに見せて自慢してやろうと、3日前の連休の日に妻を誘ってやりました。まだ4~5分咲きでしたが、妻も大いに喜んでくれました。花の命は短いものです。今週末に花散らしの雨が降り風が吹くと、あっという間に姿を消すので、せめて明日終業式が終る孫だけでも誘って、満開のスモモの花を見せてやりたいと思っています。花のつき具合から推察すると、今年もスモモは豊作の予感で、6月初旬の実りの季節が楽しみです。今年は野鳥に食べられないよう網を掛けたいと思っています。

  「このところ 陽気誘われ 真っ白い スモモの花が 満開迎え」

  「ああ綺麗 一人スモモの 花の下 至福の時を しばし過ごしぬ」

  「この花を 孫にも見せて やりたいと ささやか思う 花咲か爺さん」

  「六月の 実りの季節 楽しみだ 今年も豊作 予感ウキウキ」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇私は一体何?

 凡人である私の頭の中では、明確な区別や説明は出来ませんが、世の中にはエッセイスト、コラムニスト、小説家、ライターなどという文筆業に携さわっている人がいます。小説家は小説を書く人特別な人なので論外ですが、文筆で飯を食べてる人の中には随筆を書くエッセイストやコラムを書くコラムニスト、取材をして文章にするライターを名乗っていてる人などまちまちです。エッセイとコラムの違いも分らぬまま、最近ではネットを利用してブログを書くブロガーまで登場して、活字の世界もアナログ、デジタルが入り混じり益々混乱しているようです。

 私は毎日ブログを10年間も書いています。文筆でお金を儲けたりしていないため、いずれの呼び名にも該当しませんが、先日講演を頼まれ出かけた研修会の講師紹介で、「若松さんは名ブログリストです」と、講師紹介をされてしまい、一瞬「えっ」と思ってしまいました。確かに私は毎日2本のブログをこの10年間書いているし、えひめ地域政策研究センターが発行している「舞たうん」という雑誌にも、特選ブログ「shin-1さんの日記」という連載記事を30回も書いていますが、「ブログリスト」とは「書いたブログの一覧表」のことであり、ピアニストと同じような意味合いで勘違いして言っているようでした。しかし本当の意味「ブロガー」も「ブロガー」=「ブローカー」みたいで後味の悪い響きを感じます。

 「ブログを書く人は『ブログリスト』ではなく、『ブロガー』ですと帰り際そっと伝えましたが、私のブログは他の人のように特別な記事は書かず、むしろ日常の暮らしをテーマにする日記風です。毎日国内外で起こる様々なニュースは新聞やテレビが記録してくれますが、田舎の出来事や私のような凡人の今を記録する人は誰もいないのです。膨大な記録を残している民俗学者宮本常一がそうであったように、庶民の今の暮らしそのものが、時が経てば貴重な資料となるのですから、私の書いているブログも多少は意味があるようです。さあ今日もくだらない下々の戯言を書き残しましょう

 「エッセーや コラム・ブログを 書いてるが 飯食うためじゃ ないんでござる」

 「ブロガーと 紹介されて 首? 私はサンデー 毎日ですよ」

 「ああ今日も 日々の暮らしを 書きました 何げないこと 何げない風」

 「下々の 戯言ゆえに 意味もなく 自己満足の 域さえ越えず」

 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇ほどほどの幸せ

 昨日夫婦で立ち寄ったとあるうどん屋の障子に、「海に住んでいる魚が海に住んでいることを知らないように、幸せに暮らしている人間は幸せ暮らしていることに気がついていない」と、意味ありげな言葉が書かれていました。二人で顔を見合わせながら、注文したうどんが出て来るまで、そのことについて話し合いました。平凡すぎるほど平凡な私たち夫婦はそれほど不幸でもなく、かといってそれほど幸せでもありませんが、障子に書かれた言葉の最後に、「幸せは今の暮らしの中にある」を読んで納得してしまいました。

 「幸せとは何か?」と訪ねられたら、人はどう答えるでしょう。ある人は名誉や財産やお金だと言う人もあるでしょう。また健康だと答える人もあって、幸せは人それぞれ違うようですが、幸せには「人にしてもらう幸せ」「自分でできる幸せ」「人にしてあげる幸せ」の三つがあると、私は講演等で人に説いています。かく言う今の私にはこの三つともあるのですから分相応に幸せだと思うのです。
 何といっても幸せは、親父・私たち夫婦・息子たち夫婦と孫二人の四世代が、同じ敷地内に住んで仲良く笑顔で暮らしていることです。

 私たち夫婦も今はそれなりに歳をとって老域に達しつつあるものの、これといった病気もせず健康であることも大きな喜びです。健康の源である快食は妻の気配りですから、感謝しなければなりませんが、それに応えるべく私自身も体と心の健康バランスに注意しながら日々努力しています。有り難いことに年金暮らしも退職以来すっかり板につき、決して豊かではありませんが、つつましながら経済的に安定していることも幸せには大いに役立っています。さあこれから先も余り高望みせず、無理をせず、しっかりと生きて行きましょうか。障子に書かれた最後の言葉、「幸せは今の暮らしの中にある」ことを実感し、ほどほどの幸せで満足しながら・・・。

  「幸せは 今の暮らしの 中にある 幸せほどほど つつましやかに」

  「大家族 同じ敷地で 暮らしてる これも幸せ 孫にパワーを」

  「今のとこ 夫婦揃って 病気せず これも幸せ 妻のお蔭だ」

  「年金も 決して多くは ないけれど 慎ましやかに 暮らせ幸せ」 

 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇イノシシの悪態嘆き節

 人間牧場に通じる農道周辺は、イノシシの格好の散歩コースや運動場となっているため、畦畔は何度も何度も壊され、その都度「×××・・・・」という滅入った気持ちで一人後片付けに追われています。この農道は人間牧場下の墓地に通じているため、彼岸になるとお墓参りに来る人もいるので、少し掃除をしようとスコップと熊手を持ち出して始めました。土と落ち葉と雑草の入り混じった土砂をスコップで、畦畔の上目がけてほおり投げるのですが、この作業はかなりの重労働で、大汗をかいてしまいました。

大汗かいてイノシシ悪態後始末の大掃除
大汗かいてイノシシ悪態後始末の大掃除

 まあこれも天が私に与えた修業だと割り切って、坂の頂上付近から下に向って作業を進めていると、山里にスコップの鈍い音が響き続けたため、近所の畑で作業をしていた地元のお百姓さんが「何事か?」と覗きに来て、「いつもご苦労なことじゃなあ」と慰労の言葉をかけてくれました。しばらくの間立ち話で色々な世間話をしましたが、ここらの地区もご多聞に漏れず高齢化が進み、自然災害や野獣災害は為すすべもなく、手間のかかる端々の農地は、手が行き届かずに放置せざるを得ないと、相変わらず嘆き節を聞きました。

 自分の造ったこの人間牧場も、やがてはこのお百姓さんの嘆き節のようになるのでは?とふと不安が過ぎりました。六十歳から始まる第二の人生を楽しく過ごそうと思い、あらん限りの知恵と汗を出して造ってこの10年、目論みどおり使って楽しんでいますが、私が人間牧場へ通えるのは、車に乗れる年数10年ほどで、つまりこれまでの10年と同じ年数なのです。勿論それ以降はこの施設を設計してくれた息子に委ねることになりますが、草刈とて満足に出来ない息子のことを思うと、多少不安になります。でもお百姓さんのような「嘆き節」は吐くまいと意気込んではいますが、やはり心配の種は尽きぬようです。

  「イノシシに 畦畔壊され ただ一人 黙々掃除 大汗かいて」

  「スコップの 音を聞きつけ やって来た お百姓さん 嘆き節言う」

  「あと十年 これまで十年 同じだと 思えば少し 寂しい気もする」

  「嘆き節 言うの止めよう 前向きに 生きてやるぞと 腕をまくりて」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇人事異動の季節

 春は人事異動の季節です。私も26歳から60歳まで35年間、地元の役場に勤めていたので、内示の出るこの頃になると職場でもそのことが話題になり、何となくソワソワしたものでした。私は自分で変わりたいと思ったことは一度もなく、自己申告書に「今のまま」と書くことを貫きました。それでも社会教育から13年目に産業課へ、4年目に企画調整室へ、9年目に地域振興課へ異動して10年間勤めて退職し、最後2年間は特別職の教育長で、合併を機に35年間の地方公務員生活を終えました。

 特別職を除けば私の人事異動は僅か3回で、4つの職場しか経験したことがないのですから驚きです。まあ田舎の役場は異動で外に出ることも殆どないので、1階から2階とか、隣の部屋への異動だし、他課といっても気心の知れた人ばかりなので、異動しても直ぐに職場に馴れて、昔からいるような顔つきで仕事をこなしていたようです。
 しかし職員の中には1年とか2年で頻繁に異動させられる人もいて、やれ栄転だの左遷だのとありもしない噂話をあれやこれやと言い合っていたようです。ほんの少しの間人事異動の原案を作る課にいて、原案を作ったことがありますが、田舎の役場は首長が変わると人事にまでそのことが色濃く反映されるのですから、あおりで異動させられた職員はたまったものではありません。

 異動は一人の人間の人生まで変えてしまうほど重要なものです。いくら優秀な人材でも、異動は昨日まで大工さんだった人が明くる日から、左官さんをしなければならなくなるほどの大きな変化です。その仕事が肌に合わずこなせないと、駄目職員のレッテルを貼られてしまうのですから可哀想で、そのしがらみに耐えられなくなり、思い悩んで心の病にかかる人も少なくないのです。
 人事は短期異動と中期異動、それに長期異動がありますが、最近では概ね3年位での異動が多いようです。私は4年間の産業課を除けば社会教育13年、企画調整9年、まちづくり10年とかなり長く同じ仕事をさせてもらったことで、能力以上の成果を挙げることができました。適材適所だったかどうかは今も不明ですが、異動を新たなチャレンジへのチャンスだと思えば、意味のあることです。首長に雇われているのではなく、市民や県民に雇われていることをしっかり肝に、頑張って欲しいものです。

  「昨日今日 あちらこちらの 職場では 内示出たよと そっと連絡」

  「栄転や 左遷は人が 決めること 異動したなら 思い直して」

  「楽しみに していた異動 空振りで 栄転もなく 沈む人あり」

  「新聞の 人事異動の 末尾見る ひっそり退職 名前見つけて」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇春は霧の出る季節です

霧のかかった本尊山周辺
霧のかかった本尊山周辺

 このところ春の訪れを予感させるように好天が長続きせず、足繁く雨が降っています。今朝もいつものようにブログ記事を一本書き終え、すっかり暖かくなったため、薄着でジョギングに出発しました。保育園~憩いの家~川向こうの道~双海中学と順調に走っていると、団地付近で急に大粒の雨が降り出し、ジョギングからウォーキングに変える途中の道でジョギングを断念し、急いで自宅へ走り帰りました。僅かな時間の僅かの距離ながらすっかり濡れてしまい、かいた汗とともにシャツを脱いで洗濯機へ入れましたが、今日はこのままだと一日一万歩の目標を達成することが難しいようなので、小ぶりになったら傘を差して出かけようと思っています。

海の資料館に展示されている珍しいフォグフォーン
海の資料館に展示されている珍しいフォグフォーン

 このところ雨とともに、春特有の霧が出始めています。陸地は霧の影響で瀬戸大橋や瀬戸内海に面した四国の高速道路が通行止めになったり、また視界が悪いため飛行機も欠航するなど交通機関に影響が出ていますが、一番怖いのは海上の霧のようです。私は若い頃船乗りだったので霧の怖さはよく知っています。小さな船でさえ船尾と船首の見分けがつかないほど視界が悪くなることがあります。こんな場合は航行禁止令が出るのですが、先を急ぐ船乗りの心がはやるのか、禁止令を無視しレーダーに頼って航行するのです。これまでにも霧の中で海難事故が幾度となく繰り返されてきました。ご存知多くの修学旅行生が亡くなった紫雲丸事故も霧が原因でした。

 わが家の敷地内にある海の資料館「海舟館」の展示物に、「フォグフォーン」という、一風変わった展示品が置かれています。「霧警笛」と訳せるこの道具は、霧の中で自分の船の位置を相手の船に知らせる道具で、ふいごのような格好をしています。両手で空気袋を広げて強く押すと、鈍い「ブォーン」という音が出る仕組みになっていますが、昔の人はよく考えてこんな道具を作ったものだと感心しきりです。
 今はレーダーの普及によって、霧の中でも相手の船の位置が分り、ある程度の航行は可能になりましたが、レーダーを過信するととんでもない重大事故を引き起こすのです。「五里霧中」という言葉があります。人間も心や頭に霧が垂れ込めたような時がたまにはあるものです。そんな時は自分の思い込みを過信せず、じっくり身構えて心の霧の晴れるのを待つのも大事な生き方です。

  「春の霧 思い出すのは 紫雲丸 尊い命 霧に奪われ」

  「資料館 展示の品の その中に 何故かフォグフォーン 警鐘のよう」

  「レーダーを 過信し過ぎちゃ 事故起こる 船は道なき 航路を走る」

  「五里霧中 時には心 霧垂れる そんな時こそ じっくり構え」 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇今年度最後のまちづくり学校双海人

蚊取り線香
蚊取り線香

 「一年の過ぎる早さに驚くのは歳をとった証拠」だと、それを蚊取り線香に例えて説明をします。未使用の蚊取り線香は円周が長いため、燃えるのにかなりの時間がかかりますが、最後になると円周は短く一週回るのがあっという間だからです。さしずめ私などはもう残り火すら追々細りといった感じさえするのです。私は行き掛かり上、双海町内の有志が集まり、毎月第3火曜日に開催される例会は余程のことがない限り参加して楽しく学習をしています。

 昨日の夜は今年度最後の例会なので、役員改選やこれからの進め方を話し合った後、食べ物や飲み物を持ち寄った謝恩会が開かれました。役員は留年、定例会日もこれまでどおりでシャンシャンでした。謝恩会は会費500円ワンコインでしたが、皆さんの持ち寄り食べ物が豊富で、私は自宅で夕食を済ませて参加したことを後悔してしまいました。それでも浜田校長先生が用意してくれていたノンアルコールの缶ビールを、1本も飲んで、ノンアルコールと言えど少し酔った気分になり大いに話し込みました。

いただいた皆勤賞の賞状
いただいた皆勤賞の賞状
可愛らしいお雛様寿司
可愛らしいお雛様寿司

 途中皆勤賞の発表があり、6人の人が一日も休まなかったそうで、何と何と私もその皆勤賞を頂きました。皆勤賞といえば誰でも貰えそうですが、私のように何が忙しいのか分らないけど、一年中忙しくしている人間にとっはこれが案外難しいのです。参加は最大の貢献であるなら、私の貢献度は凄いものです。これからも初心に帰ってメンバーの足手まといにならないよう参加したいと思っていますが、そろそろお払い箱かも知れません。

 昨日メンバーで私の横の席に座って毎回馬鹿話をしている小西千鶴子さんがひな祭り寿司の作り方を披露していました。バラ寿司で参画おむすびを作り、十二一重は錦糸卵、顔は鶉の卵を使い起用にも可愛らしく作っていて驚きました。食べるのが勿体ないので、私はバラ寿司のおにぎりを創ってもらい食べました。昨晩は皆さん一品を持ち寄ってパーティだったので、珍しい食べ物を堪能することができました。

 

[ この記事をシェアする ]