人間牧場

〇久しぶりに母校の宇和島水産高校を訪ねました

 昨日、近畿大学水産研究所の宮下所長さんの講演を聞くため、久しぶりに母校の宇和島水産高校を訪ねました。そもそものきっかけは、宇和島水産高校の先輩である玉井恭介さんから、「講演を聞きに行かないか?」とお誘いがあり、運よく午前中の日程が空いていたのでお言葉に甘えての同席となりました。待ち合わせていた学校の玄関先で所長さんと名刺交換した後、えひめ丸事故の慰霊碑に冥福の祈りを捧げました。

えひめ丸の慰霊碑の前で
えひめ丸の慰霊碑の前で
私が乗船した初代愛媛丸の展示模型
私が乗船した初代愛媛丸の展示模型

 玄関入口には宇和島水産高校の歴史を物語るように、初代から五代までの実習船愛媛丸・えひめ丸の模型が展示されていました。その中に私が在校していた時乗船した初代愛媛丸もありました。現在のえひめ丸は500tクラスですが、初代の船は半分にも満たない」214.5tの小さな船でした。この船で赤道を越え南太平洋の彼方珊瑚海まで遠洋航海に約3ヶ月間も出かけたのですから、驚く他はありません。

 この航海で私の価値観は大きく変わりました。それまでは生まれ育った双海町から殆ど出ることのなかった私に、地球が丸いことを実感させたのもこの航海でした。案内された校長室で先生たちと談笑したあと、講堂で宮下所長さんの話を生徒さんとともに1時間余り聞きながら、過ぎ越し人生が昨日のことのように思い出されました。私の原点ともいえるこの学校にもし50年前遊学しなかったら、私の今はなかっただろうとしみじみ思うのです。

 宇和島もこの50年間で大きく様変わりをしました。宇和島湾の奥まった所にある水産高校の周辺のレンコン畑は埋め立てられ、対岸の予科練跡も工場などが立ち並び、学校の直ぐ上を高速道路の高架橋が走っていますが、鬼が城の山並みや鶴島城、九島の見える遠望は昔のままの姿をとどめていました。遠い遠いいつまでも歳をとらない青春の頃の記憶が鮮やかに懐かしく蘇りました。

 

  「何年か ぶりに母校を 訪ねたが 周囲すっかり 様変わりして」

  「玄関に 展示模型の その中に 50年前 乗った船あり」

  「この船で 珊瑚海まで 実習に 青春思い出 昨日のように」

  「もし私 この学校に 遊学を しなくば今の 人生なかった」

 

 

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人間牧場

〇足湯は天国(その4)

 5月23日土曜日、子ども体験塾の第1回目の学習会が人間牧場で行なわれました。41人の子どもたちと30人近くのリーダーやスタッフがそれぞれの活動を楽しくやりましたが、少し曇っていた天気も味方して、最後は降り出した雨の中を少し濡れながら下山したものの、暑くもなく寒くもなしといった状況でした。

気持ちよい足湯を楽しむ子どもたち
気持ちよい足湯を楽しむ子どもたち
足湯をする子どもたちの足
足湯をする子どもたちの足

 今回はジャガイモ堀りとサツマイモのツル植えという農作業をしたため、息子が子どもたちのために足湯のサービスをしてくれました。しかも普通は灯油ボイラーでお湯を沸かすのですが、今回は五右衛門風呂の下から薪を燃やし本格的でした。41人を6班に分けていたので、サツマイモを植えながら各班毎に4~5分の足湯をしてやりました。

 靴下を脱ぎズボンを脛まで捲し上げて車座になって足をつけましたが、みんな「気持ちいい~」を連発していました。昨日別の用件で参加した子どものお母さんから電話が入りましたが、このお母さんが言うのには、「子どもが帰って足湯の話をしてくれました。足湯は気持ちよくてまるで天国へ行ったみたい」と言ったそうです。「天国へ行ったこともないのに」と家族で大笑いをしたそうです。

 通称「ロケ風呂」と呼んでいる五右衛門風呂は、10年も経つと今やすっかり、人間牧場の名物となりました。私も時々息子が沸かしてくれた風呂を楽しみますが、寒い冬もまたよし、暑い夏もまたよし、足湯もまたよしといった感じです。特に沸かしたお湯に体を沈め、眼下に広がる海や漁港を見ながらの入浴は、お金では買えない至福です。近々私もお風呂を楽しみたいと思っています。

  「ロケ風呂を 沸かして子ども 足湯する 気持ちがいいと みんな連発」 

  「天国へ 行ったみたいと 言う子ども 行ったことない 癖にと難癖」

  「風呂に入り 瀬戸内眺望 楽しめる ロケ風呂息子 設計してくれ」

  「春夏も 寒い秋冬 また良しと 風呂を楽しむ 贅沢極み」

 

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〇コンニャク作り(その2)

 私はどういう訳か子どものころから、コンニャクとコーヒーが大嫌いです。勿論今でもコーヒーは飲まないし、コンニャクも食べるのは食べますが、自分から進んで食べようとはしません。なのに何故か人間牧場では小さな畑を耕してコンニャク芋を作り、時折その芋でコンニャク作りをして楽しんでいるのですから可笑しな話です。

こんにゃく1 こんにゃく2こんにゃく3 昨日の子ども体験塾ではコンニャク作りが今年初めてメニューに加わりました。私が手塩にかけて育てた、丸々太ったコンニャク芋を提供し、その芋を使って親友西岡栄一さんにコンニャク作りの指導を頼み、色々と準備をして事に当たりました。西岡さんはグリーンツーリズこんにゃく4こんにゃく5ムでコンニャク作りを日常的にやっているので、コンニャク作りに必要な七つ道具を全て軽四トラックに積んでやって来ました。

 この日は子ども体験塾に参加した4年生以上の高学年を相手に、芋茹で、皮剝きなどはみんなでやりましたが、ミキサーにかけたり、凝固剤を入れて練ったり、型枠に入れて形を整えてから再び湯がく作業は、みんなでワイワイガヤガヤと楽しくやりました。運悪く不安定な机からミキサーを落下させ割ってしまいましたが、幸い私の持っているミキサーを代役にして、何とか作ることができました。出来上がった熱々のコンニャクを薄く切って醤油と山葵で食べると、山河豚といわれる食感のようで、みんな「美味い、美味い」と喜んで食べていました。

 子どもたちには自分たちで作ったコンニャクを一個ずつナイロン袋に入れて、ジャガイモと一緒にお土産に差し上げました。今晩わが家でもお土産に貰ったコンニャクを食卓に並べ妻は美味しそうに食べていました。
 今年も三ヶ所の狭い畑にコンニャクの種芋を沢山植えました。今年の秋口には掘りあげる予定ですが、そろそろ来年は自分でコンニャクを作る技術を、西岡さんに教わってできるようにしたいと思っています。

 

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〇天気が気になる朝

 私は青年団に入団して社会活動を始めた18歳から、正確には青年団長になった23歳頃から、各種の屋外イベントの主催に関わって来ました。屋外イベントにつきものはお天気の心配です。こればかりは自分の力ではどうしようもないのに、天気が悪いと自分の日ごろの行いが悪いからだと勝手に思い込み、自責の念に駆られてきました。

 私はポジティブ人間を自称しているので、「自称晴れ男」です。公民館に13年勤めた時も、まちづくりに20年余りかかわった時も、一度や二度は天気に痛い目に合わされたことはありましたが、まあまあ天気を味方にした方だと振り返るのです。最近は昔に比べ天気予報の精度が格段に上がり、またその情報をいち早く入手することができるようになり、早目早目の対応ができるようになり随分助かるようになりました。

 今日は人間牧場を会場に今年最初の子ども体験塾が行なわれます。農場でのジャガイモ掘り、掘ったジャガイモを使ったカレーづくり、サツマイモの苗植え付けなどなど、盛り沢山のイベントが組まれています。これまで雨男を自称していた赤石主事さんが異動し、替わって隅田主事さんが担当することになりました。隅田主事さんが晴れ男かどうかはまだ分りません。お天気が晴れ男の私に傾くか否か、確実に天気は下り坂のようですが、何とか天気が持って欲しいと祈って、朝の空を見上げています。

  「よくもまあ 空を見上げて 50年 天気気にして 生きてきたもの」

  「決めている 私は自称 晴れ男 雨が降るのは 気象庁のせい」

  「思っても お天気だけは 動かせぬ いかに対応 出来るか勝負」

  「もう終わり したいけれども まだ終わり 来ないよ多分 これから先も」 

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人間牧場

〇上灘八十八ヵ所巡礼(その2-私設公民館煙会所でのお接待)

 昨日は私が先達を務め、まちづくり学校双海人のメンバー8人で、地四国上灘八十八ヶ所の巡礼を始めました。先達といいながら試験踏査で1回しか回ったことのない私の心もとない案内ですから、時間的な読みも計画も殆どなく、「まあ歩けるところまで歩こう」程度でしたが、区切りがいいことに午前中、双海中学校横の23番石仏まで巡拝を終えて少し疲れが見えてきたようなので、わが家の敷地内にある私設公民館煙会所で昼食を兼ねたお接待をすることになりました。

お接待1 お接待2浜田さんを除けばみんなわが家の煙会所はみんな初めてとあって、海の資料館海舟館も見学したりして食事の準備をしました。途中リタイアした津島さんが自宅で急遽ちらし寿司を作ってくれ、地域おこし協力隊の本多さんにお願いして取りに行ってもらい、賑やかで楽しい昼食お接待となりました。皆さんは煙会所や海舟館の存在や内容にすっかり驚いた様子でしたが、和やかな会話に八十八ヵ所のことなどすっかり忘れたかのように、しばらくの間世間話に花を咲かせました。

 地四国八十八ヵ所を巡拝するにはトイレ休憩や、お接待をどうするかまず考えなければなりません。そのことについても話し合いましたが、幸いコースには幾つもの自治公民館があって、これらを活用すれば地四国巡拝をイベントにできるのではないかという結論に達しました。勿論その途中にあるわが家の煙会所も私個人持ち物ながら、トイレや休憩所などお接待の条件を揃えていて候補の一つのようでした。
 島津さんの作ってくれたちらし寿司はとても美味しく、妻が用意してくれたお漬物や冷えた甘夏柑のデザートも加えて、すっかりのんびり過ごすことができ、みんな大満足の手合いでした。

  「地四国を 歩いて巡拝 昼休み わが家昼食 接待所なる」

  「囲炉裏部屋 急遽届いた ちらし寿司 ワイワイ言いつ 口にほおばる」

  「遍路には トイレと休憩 お接待 さてどうするか 知恵を出し合う」

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人間牧場

〇捨てきれない帽子を捨てる

 今日の夕方松山に住む娘家族のマンションへ妻と二人で出かけました。今日は外に出かけていたので、とりあえずお気に入りの野球帽を被ったままの姿でした。娘のマンションへ入るなり娘に、「お父さん、もうその帽子は捨てたら?」と言われました。私にとってこの帽子は妻と二人で退職記念に出かけた、カナダで買ってきたものだけに、気に入ってずっと使っているのです。

 娘に言われて被っている帽子を見れば、帽子の生地はこの10年間ですっかり色あせて、少しみすぼらしくも感じました。農作業の時には日焼け対策として麦藁帽子を被りますが、日常的に被っている帽子もかなりくたびれていて、それを捨てて、今日被っていたカナダで買った帽子を作業用にしようと思いましたが、これも娘に反対されあっけなく廃棄処分にされゴミ箱行きとなりました。

 替わりに少し格好いい帽子をいただいて帰りましたが、たかが帽子、されど帽子で、帽子一つでも随分顔のイメージが変わるものだと実感しました。私の場合帽子は日除け以上に頭の防護に役立っています。屋外で農作業をする時やアウトドアー活動で、木の枝や横木をくぐる時、急いでいればなお更、頭を打つ回数が多く、その都度帽子が頭や顔の打撲や切り傷から守ってくれるのです。

 今日娘から貰った帽子はこれからも大切にして被りたいと思っていますが、娘に捨てられた帽子と同じく、いつも被っている作業用の帽子も明日の朝ゴミ出しの袋の中へ入れて捨てようと思っています。何かにつけて身辺整理が必要な年齢になってきましたが、勿体ない世代に生まれ育った私は、まだまだ踏ん切りが付かないのが正直なところです。「捨てる?」「捨てない?」「捨てる?」「捨てない?」うーんどうしよう?。

  「思い出の 詰まった帽子 くたびれて 捨てよと娘 言うけど何故か?」

  「わが娘 帽子あっさり ゴミ箱へ 捨てた帽子に 今も未練が」

  「勿体ない そんな世代に 生まれ生き 歳を重ねる 度に頑固に」

  「捨てるべき 捨てないべきか 迷ったが 有無を言わせず 娘あっさり」

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〇代役参観日

 昨日は同居している若嫁に頼まれて、小学校二年生の孫希心の参観日に出かけました。若嫁は何かにつけて子ども優先の暮らしをしてくれていますが、昨日は父親亡き後開店して、まだ一ヶ月も経たない喫茶店の仕事が立て込んでいて、どうしても穴を開けることができず、止む無く私に代役参観を頼んだのです。

 参観時間は9時20分からの2時限目からなので、8時50分に自宅を出て学校に到着すると、どうやら私が一番乗りのようで、学校評議員をしていることもあって、校長室に通され校長先生に美味しいお茶を入れてもらい、世間話をさせてもらいました。そのうち2時限目のチャイムが鳴ったので2階の教室に上がり、早速授業参観をしました。昨日の授業は国語の漢字について、電子黒板を使って様々な漢字の組み合わせを習っていました。

 10人ほどの小さな学級だし、孫希心がいつもわが家に連れて来て遊んでいる顔見知りの子どもたちばかりなので、参観もアットホーム的な温かさで、何かと賑やかで楽しい授業でした。孫希心も茶目っ気たっぷりで、私の存在を意識して手を挙げたものの答えが思い浮かばず、「忘れました」などと少し顔を赤らめ戸惑う部分もありましたが、まああんなものと納得しました。

 昨日は孫奏心の6歳の誕生日でした。前日に小学校2年生の外孫尚樹も誕生日を迎えていて、妻はお祝いに大忙しのようでしたが、夕方のお迎えはこのところ若嫁の仕事の都合で、私が代役を務めることが多くなっています。孫もそのことを承知で単車や軽四トラックに乗せてもらうのを楽しみにしていて、当分は育爺たる私も孫育てに一役買わなければならないようです。

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〇カエルの鳴き声が賑やかです

 家の周りの田圃に水が張られ、田植えの季節がやって来ました。わが家には田圃がないので農作業の大変さは分りませんが、最近の田植えは傍で見ていると、「早い」というのが実感です。俳句で田植えという季語は6月と教わりましたが、今は早い所では5月のゴールデンウィークころから始まっていますが、近くの田圃は今が最盛期といった感じです。

 「早い」といえば何といっても早いのは田植えの作業です。田起し、代掻きなどはトラクターに乗ってあっという間だし、苗もまるで箱入り娘のような綺麗な苗を、苗屋さんから持ち帰り、田植え機に乗せられ機械が綺麗に植えて行くのです。その早業はあっという間で終りますが、農家はトラクターや田植え機、さらに稲刈りコンバインなど、とてつもなく高い「早い」農作業のための農機具に、否応なしに投資をしなければならないのです。

 近くの田圃に不耕作地が目立ち始めました。理由は作り手の高齢化と、高い農機具代について行けなくなったからのようです。不耕作地はそのままにしていると美観を損ねるだけでなく、害虫の温床にもなり近所の田圃は嫌がりますが、農地を受委託して他の人に作ってもらう場所も広がりましたが、実情は中々厳しいようで、先が思いやられるようです。

 田圃に水が張られると、カエルの鳴き声が急に賑やかになります。水を得たカエルの喜びの声に聞こえますが、カエルの鳴き声は長閑な山村のイメージにピッタリで、孫たちは虫箱や虫網を持って、カエルを追い掛け回して遊んでいるようですが、青カエルは時々車に引かれたりもして、カエルにとっては手放しで鳴いてばかりはいられないようです。それにしてもカエルの鳴き声はどこか郷愁があって癒されるものです。

  「早いなあ 感心しつつ 見ているが 五月半ばに 田植えは終る」

  「早いなあ 感心しつつ 見ているが 田植えの作業 あっという間に」

  「水張ると 急にカエルが 騒ぎ出す ゲロゲロゲロと 何を思って」

  「カエル鳴く 田舎の風情 郷愁を 感じて声を 心ゆくまで」

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〇店先や道端での会話

 「1日に10人の人と出会い、10人の人と会話する」ことを目標に掲げていますが、今の私は準現役ってな感じで、毎日外を出歩いているので、この目標は十分達成できています。人と出会い人と会話することが嫌いではない、私のそんな生き方が体の表に出ているのか、昨日も妻の買い物に付き合って、妻が買い物をしている間隣のホームセンターの野菜苗売り場で、買うでもなくブラブラしていると、あるおじいさんが私に話しかけてきました。「オクラの苗を毎年買って売れるのじゃが、どういう訳か根付いたためしがない」というのです。

 見ず知らずの人なので、聞こえない風もできますが、折角なので聞いてあげました。このおじいさんが言うのには、買ったオクラのポット苗を家に帰ると根をほぐして植えているようでした。私は知ったかぶりで、「オクラは根をほぐして植えたら絶対根付きません。ポットの苗は畑に穴を掘りそのままそっと植えるのがコツです」と、私の失敗談を交えて話すと、「そんなことは誰も教えてくれず知らなんだ。そうかそうか、今日はいい事を聞いた。にいちゃんありがとう」と、お礼に持っていたオクラのポット苗をひとつ頂いてしまいました。

 私も何年か前同じような失敗をした経験があって、「無知によって生ずる不幸は知ることによって避けられる」そのままに、今は人に教えるまでになっている自分が、少し恥ずかしくなりました。
 昨日散歩をしていると、少し離れた隣のおばあさんに出会いました。脛や腰が悪いそのおばあさんは野菜作りの達人で、キャベツもサラダ菜も全て種を播いて苗を育てています。「キャベツやサラダ菜の苗が余っているので植えませんか?」と、レタス苗10本、サラダ菜苗5本、キャベツ苗10本に、細ネギの苗を100本もいただきました。難点はそのおばあさんは話好きで話が長く、「まあお座りや」とキャリーの椅子を勧められ、30分近くも話を聞く羽目となりました。

 このおばあさんに教えてもらった、人参の種の播き方、ホウレンソウの種の播き方は今も大いに役に立って、今年は人参もホウレンソウも立派に育って大助かりでした。田舎に住む人は人恋しいのでしょうか、「早い話が~」と早くもない話を沢山聞かされます。また噂話が好きで、まるで人の不幸が自分の幸せとばかりに、あることないこと喋りまくるのです。多分私もそんな会話のまな板に乗せられていることでしょうが、これも田舎の風物だと思えば、結構楽しいものです。今朝はもう10人以上の人に出会って会話しているので、目標達成です。

  「店先で オクラの苗が 付かないと じいさん話す 私教える」

  「まあ座り 早い話が いう癖に 30分も 話し聞かされ」  

  「苗貰い 満席畑 ちょっとした 隙間選んで 苗植え終わる」

  「腰曲がり 下見て暮らす おばあさん 苗を沢山 いただき帰る」 

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〇備中高梁吹屋ふるさと村界隈(その2)

 広兼邸を後にした私たちは、吹屋ふるさと村の街中を散策して歩きました。昨日は贅沢にも地域おこし協力隊の佐藤さんに車を運転してもらい、吹屋ふるさと村村長のガイド付きでした。戸田村長さんは昔学校の先生をしていたらしく、とても博学で感心しながら説明に聞き入りました。私が一番関心を寄せていたのは、わが町にも木造の翠小学校があることから、吹屋小学校の木造校舎でした。

img729img730 吹屋小学校の校舎は明治33年から42年にかけて建築されたもので、使用している木造校舎として日本一古いものといわれていましたが、2年前から使われなくなっているようで、ほぼ一世紀子どもたちを見守ってきました。昨日は近々始まるある映画のロケに使われるそうで、沢山のスタッフの人が時代考証をしながらかいがいしく働いていました。またエキストラを演じる大学背も沢山集まっていて、異様な雰囲気でした。

 学校は「木に交わって学ぶ」と書きます。私の子どものころの小学校は全て木造校舎でしたが、いつの間にか鉄筋コンクリート造の校舎になり、木に交わって学ぶことも殆どなくなり、映画のロケでの再現のみとなったようです。吹屋は伝建地区に指定されたノスタルジックな町並みといい、古い木造校舎といい、また銅山やベンガラなどの産業遺産といい、歴史的にも日本的などこか懐かしいいい地域です。

 地域おこし協力隊の佐藤さんは水産高校出身で、愛媛大学農学部出身という、私にとっても深いご縁を感じつつ、車の中でこれからの人生の生き方について色々なことをお話しました。佐藤さん夫婦はふるさと村の戸田村長さんのお家を借りて暮らしていますが、この建物もいい古民家のようで、仲間からは大いに羨ましがられているようです。地域おこし協力隊のエドウィンさんたちも含めた、よそ者であり若者である彼らに幸多かれと祈っています。

  「村長の ガイドで街並 散策す あちらこちらに 歴史の重み」

  「木造の 小学校は 廃校と なって映画の モデルになりぬ」

  「水産校 愛媛大学 出身と 聞いて何かと 気になる生き方」 

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