人間牧場

〇名もなき花
 春が近づくとあちらこちらに野の花が咲くようになってきました。牧野富太郎でもなく植物に疎い私なので、全ての花の名前を憶えている訳ではありませんが、最近庭や隣近所の空き地に、菜の花とともに可憐な花が群生して咲くようになりました。

 わが家の家紋が「ケンカタバミ」なので、ピンクのカタバミの花はよく知っていますが、カタバミの葉っぱによく似た植物で、花が菜の花と同じ黄色い少し小型の花が、ウォーキングする途中の道沿いに咲いていていて、今朝は手持ちのスマホで撮ってみましたが、残念ながらこの花は夜花弁を閉じて寝るらしく、そっぽを向かれました。

 咲いている時は背の少し高い菜の花と、少し背の低いこの花が見事にマッチして、一面黄色い菜の花畑のようで、目と心を奪われました。しゃがみ込んでみていると、早朝ラジオ体操から帰りのご婦人が、「そこで何をしているの?」と声をかけてくれました。綺麗な花なのに名前が分りません。教えてください」と頼みましたが、残念ながらその人花の名前を知りませんでした。

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人間牧場

〇立小便や野糞
 臭くて不潔な話ですが、私たちが小さい頃は野山をフィールドに遊んでいました。ゆえに野山へ出かけた時などは近くにトイレもないので、そこら辺の草むらで小便や大便をして、紙を持っていない時などは大きな葉っぱを見つけて使っていました。下品で不潔で恥ずかしい行為でした。

 先日子どもたちが子ども体験塾で下灘コミセンを出発し山道を約40~50分歩いて人間牧場までやってくる途中、低学年の子どもが急に小便がしたくなりました。先導としているスタッフが、「そこら辺にするよう」勧めたものの、人前で立小便などしたことがなく恥ずかしくてできないと思い、我慢して歩き続けたものの、結果的にはお漏らしをしてしまいました。

 立ち小便よりお漏らしの方がはるかに気持ちが悪いし恥ずかしいのに、立小便などしない、出来ない今の子どもたちは少し可哀想な気もしました。昔日本の江戸の街は下水道も上水道もできていないのに世界中で一番美しいと言われていました。人間の汚物を下水道で流す習慣のあった外国と違い、日本は汚物を便所槽に溜め、それらは農業用の肥料として使っていました。

 今でいう循環型の生活でしょうが、能登半島地震で被災した人たちが今なお苦労を強いられているのは水が使えず当然水洗トイレも使えないという現状です。そんなに遠くない私が子どもの頃は、学校の便槽の汚物は自分たちがコエタゴを担ぎ実習田に撒いていた、今の人には信じ難いことをやっていました。時代は変わりこれからも変わることでしょうが、考えさせられる一場面でした。

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人間牧場

〇サンデー毎日のはずなのに・・・
 平成の大合併で1市2町が合併したのを機に、現職を退いてから20年目の春を迎えています。自分のわがままを通し、再就職もせずに晴れて自由人となりました。役場では教育委員会、産業課、企画調整室、地域振興課と渡り歩き、最後は教育長を務めましたが、35年間の役場生活は不自由ながら、割と自由に何でもやりました。

 しかしいざ自由人になると、あれこれ不自由なことも多く、歳を重ねる度にあれこれやるのが面倒くさくなり、確定申告や諸々の集会に出るのがついつい重りになり、一つ一つ役職を退いていますが、まだ自分には重過ぎる役職も残っていて、何とかもっと自由にならないものかと考えています。

 この時期は、年度末ゆえあれこれ集会が連日あって、サンデー毎日のはずなのに、楽しみにしていた「晴耕雨読」や、人間牧場の木陰で背もたれ椅子にもたれて昼寝をする願望も叶わず、自由が束縛され続けています。妻からは「もうそろそろ私を何処かへ連れてって」と言われ続けていますが、身近な所へ日帰り程度でお茶を濁しています。

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〇人間牧場

〇自分を基準にハイアンドロー
 歳を重ねると色々なことがこんがらがって、出会う人がマスクと帽子を被っていると「はて?声をかけられたが誰だっけ?」という珍事はしょっちゅうです。マスクを取れば名前はどうにか思い出せるものの、「はて?あの人は幾つ」となるとてんでダメな私です。

 人に年齢を訪ねる場合は「失礼ながら」という枕詞をつけなければなりません。特に年齢を気にする中年以上の女性には、やんわりソフトな物言いをしないと「まあ失礼」とゆがめられて受け取られるので、滅多には聞けません。

 年齢は自分を基準にします。自分より上(ハイ)の人は高齢者、自分より下の人は中年者です。それでも最近は自分より上でもかくしゃくとしている人も沢山います。逆に自分より年下(ロー)でも杖をついて歩いていたりする人もいてまちまちです。

 昨日ある人に、「ところで若松さん年齢は?」と尋ねられました。とっさに「60過ぎです」とおどけて答えると、「えっ?」と驚かれました。すかさず満年齢は79歳ですが、アバウトな表現だと「60歳も70歳も80歳も全て60過ぎ」なのです。すかさず、「なあ~んだ」と一笑に付されましたが、「年齢にしてはお若いですね」とお世辞を言われました。やはり私も歳相応です。

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人間牧場

〇今日は何の日?
 何気なく今朝書斎の板壁に吊り下げて毎日破る日めくりカレンダーを見ました。今日は2月29日、4年に一度巡って来る閏年なので、いつもの年にはない特別な日なのです。

 

  今日は一日24時間を得した気分で迎えました。年齢を重ねると毎日同じスピードで動いているはずの日々が、あっという間に過ぎるような感じがします。今日も昨日と同じように朝4時に起きてスタートし、「今日も良い一日だった」と思えるように動いたつもりですが、朝から雨が降ってやらねばならないことが思うようにできませんでした。

 せっかくの特別な日なので、今日しかできないことをと思い、一昨年人間牧場のシンボルであるヤマモモの樹がある日半分突然倒れ、その倒木を持ち帰り天狗の面を創る予定だったことをすっかり忘れていたことを思い出し、彫刻を始めました。

 不器用ゆえ出来るかどうかは分かりませんが、今年中には彫り上げて、人間牧場の水平線の家に飾ろうと思っています。乾燥したヤマモモの木はとてつもなく硬く素人の私には難題ですが、悔いを残さないよう少しずつ想像を現実に替えたいと思っています。 

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人間牧場

〇今年の切り干し大根づくりは大失敗
 毎日外干しをする洗濯物もそうですが、天気に左右されるため、妻は毎日天気予報を見ながらやっています。私も畑仕事や草刈り作業などは週間天気予報を頭に入れ、スケジュールの合間を縫って組み立てています。

 特に一年一度のこの時期にしかできない大根切り干し作りは、お天気が頼りで冬場太陽が除かないわが家では北西の季節風が吹く日を選ばなければなりません。ところが今年はその目論見が大きく外れ、この1週間は菜種梅雨と呼ばれる前線が日本列島に横たわり、連日の雨で、真っ白な大根短冊が少し変色して満足のいく結果が出ず、大失敗に終わりました。

 天気を見て外に出したり東屋に入れたり、忙しく世話をしたものの水の泡です。それでも昨年の夏から秋にかけて少雨状態で水不足が心配されていたので、水量確保にはいい雨でした。あちらを立てればことらが立たずです。

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人間牧場

〇赤いジャガイモの植え付け
 新居浜の親友後藤田さんから、赤いジャガイモが送られてきました。どんな味がするのか食べてみたい気もしましたが、折角だからこのジャガイモを種芋にして育ててみたいと思いました。

 私は毎年男爵とメークイン、それにキタアカリという3種類のジャガイモを作っていますが、男爵とメークインは北海道鵡川町の親友菅原さんが毎年秋に晩生くれたのを大事に保管して種芋にして育てています。

 後藤田さんから送られて来た赤いジャガイモを植えようと1週間前から思っていたものの、スケジュールが立て込み、加えて菜種梅雨のような雨にたたられ、時機を逸してしまいましたが、まだ遅くはないと思い昨日植えました。

 種芋を植えた上に黒いビニールマルチをかけたので、間もなくわが家の菜園にも太陽が照り始めたので、挽回して育ってくれるものと期待をしています。季節は冬から春へと動き始め、草の地下茎も活発になりました。春はそこまで来ています。

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人間牧場

〇忘れられない1974年2月26日という日
 年齢を重ねるとこれまで生きてきた79年の過去年齢の諸々の記憶が曖昧になり、特に数字と出来事が一致せず、体内の勘ピューターで思い出そうとしますが、かなり時間がかかるようになりました。

 それでも1974年2月26日のことは忘れることはできません。この日妻の実家である八幡浜の義母から電話が掛かってきました。妻は自分の出身地の八幡浜市立病院にお産のために入院していましたが、この日無事女の子を出産したとの知らせでした。

 教育委員会で社会教育をしていて忙しく、あいにくお産には立ち会えませんでしたが、義母の電話によると「元気な女の子の赤ちゃん」だったようです。「早速考えていた名前を、役場職員で懇意な達筆な人に頼み、墨字で奉書に「命名 若松一子 昭和47年2月26日生」と3枚書いてもらい、一枚は家の神棚に、一枚は妻の実家に、そして一枚は妻の入院している八幡浜市立病院病室の妻に渡しました。

 「もっと女の子のような可愛らしい名前が良かった」と、多少いぶかしい顔をして文句を言われましたが、「これで役場に届けて籍を入れる」とわがままを通しました。以来幾星霜、保育所、小学校、中学校、伊予高校を経て、県立医療技術短期大学、徳島大学と進み、晴れて看護師と助産婦の資格を得て県立中央病院助産師となり、働きながら結婚、2人の子の出産育児を経て現在に至っています。

 今日の朝妻が「誕生日おめでとう」と電話で祝意を伝えていましたが、長女も52歳になりました。若かった私たち夫婦も5人の孫からはおじいちゃん、おばんあちゃんと言われる年齢となりましたが、それなり、そこそこの幸せを感じながら田舎で穏やかに生きています。忘れかけていましたが、私たち夫婦にとって1972年2月26日は忘れられない思い出の日なのです。

 

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人間牧場

〇ベンチこぼれ話(その1)
 双海町ジュニアリーダー会が造り始めたベンチが9個出来上がり、やっと昨日みんなが集まり念願の設置が出来ました。このプロジェクトで造ったベンチの中でもとりわけ出来のいいベンチを、シーサイド公園・夕日のミュージアムの屋上へ置いたらどうかという話になりました。

 シーサイド公園には幸福の鐘の前に置く白いベンチと合わせて2個になりました。屋上に設置した素敵なベンチのハート形のくり抜きからは恋人岬のモニュメントが見えるように設置しましたが、昨日スマホ内蔵のカメラで撮った写真をよ~く見ると、ハートが人の顔のように見えました。
 離岸堤が眉毛、モニュメントが鼻のようにも見える新しい発見でした。ベンチは色々な人が色々な思いを巡らせて座ります。スマホの普及した現代なので、こんな遊び心で楽しいことが拡散するといいですね。楽しみが増えました。

 

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人間牧場

〇久しぶりに兄夫婦を訪ねる(その④)
 妻の実家は八幡浜の港近くにあります。長兄夫婦がなくなり長男も東京で働いているので実家は空き家なのですが、同じ敷地に次兄夫婦が住んでいるので、墓参りや時々立ち寄ります。

 昨日も三崎半島を巡る所用で出かけたついでに立ち寄りました。私より3歳年上の次兄もそれなりに元気ですが先年車の運転免許証を返納したので、遠出することもなくのんびりと過ごしています。

 次兄の嫁である姉は昨年レクバレーに参加していた折、腰から転んで骨折してしまったそうで、やっとコルセットが取れたもののまだ腰の具合が思わしくないとのことでした。日頃はボランティア活動や趣味活動も多く元気な姉ゆえ、早く良くなってほしいと願うばかりです。

 年齢を重ねると怪我をすれば治る速度が遅いことは私自身が実感していますが、ケガや事故はいつわが身に降りかかるか分かりません。健康に感謝し、健康が持続できるよう注意をしながら筋力・知力を鍛えたいものです。

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