人間牧場

〇元双海町長仲野和さんの思い出(その4)

 仲野さんの思い出の中で特質されるのは、何といっても町名変更問題です。仲野さんにとっても私にとっても、勿論町民の皆さんにとっても思い出したくない出来事で、仲野さんも町民も、これまで町名変更問題だけはタブー視され、口をつぐんで来ました。しかし町名変更で選挙を戦った丸山勇三元町長さんも既に他界し、この度の仲野さんの他界で気兼ねをする人もいなくなったので、史実として記録を残すために、そろそろ重い口を開くことも考えなければならないようです。

 私は仲野さんが町長の時、教育委員会で社会教育の仕事をしていたため、命令系統的には蚊帳の外であるはずなのに、田舎の行政はそこら辺が曖昧で、また教育行政トップの教育長もそのことが分らず、教育委員会の職員でありながら請われるまま、いつの間にか暗黙の了解で町名変更担当にさせられました。町名変更した埼玉県長瀞町や原発で町が二分していた高知県のある町を視察する等、かなり綿密な調査を行い、町内36の自治公民館で座談会を度々行い、産業団体、福祉団体、教育団体などを集めて何度も討論を行うなど、民意の発掘に力を注ぎました。

 そのうち公民館係長であった私に、総務課総務係長、企画調整室企画係長という兼務辞令まで出され、当時窓口だった愛媛県庁地方課へも度々説明に行くなど、色々な意見があってもそれなりに行政手続きを進め、議会も一旦は同意議決して国の認可まで漕ぎつけ、「双海町は来年4月から双海町は伊予灘町に変更することを許可する」旨が官報に告示されました。その後にわかに反対運動が起こり、町を二分する町長リコール運動に発展し、仲野さんはその責任を取るというよりは、一旦町長を辞任して選挙で信を問うたのです。結果は新人の丸山さんに勝ったのですが、その際新しい町名を辞めて双海町名に戻したのです。

 辞任した町長の任期は残任期間の2年だったので、2年後激しい選挙戦の末新人の丸山さんが当選し、仲野町長時代は終わりを告げましたが、仲野さんは残任期間を含めると5期16年間町長を務められました。私は仲野町長とともに責任を問われ、13年間勤めた教育員会を去り、左遷という形で産業課へ転勤を命ぜられ、その後4年近く産業課で水産や観光行政を担当、下灘漁協の水産物荷捌き所や上灘漁協の漁村センターを造ったり、観光協会を活性化させてそれなりに情熱を燃やして活動しました。

 それは恩師と仰ぐ静岡県大井川町の朝比奈博さんから贈られた、「ぼうふらも人を刺すよな蚊になるまでは泥水すすり浮き沈み」と、県公連会長岡島明夫さんから贈られた、「今は充電期間だ」の言葉に勇気づけられたからだと、今はあの世に行った二人のことを懐かしく思い出すのです。仲野さんにしろ丸山さんにしろ、最後の町長だった上田さんにしろ、私は時々のトップに恵まれました。私が地方公務員という限られた社会に生きていながら、こうも活発に飛び出す公務員として活躍できたのは、3人のお蔭だと心に言い聞かせています。私にエールを送り続けてくれた3人の町長につけても、合併はしましたが、「双海町」というふるさとを守り育てて行かねばなりません。これからの余生は、恩返しのために生きたいと思う今日この頃です。なお「幻の伊予灘町」については、後日折々記憶を頼りに記録したい思っています。仲野さんのご冥福を心からお祈りします。

  「町名を 変更すべく 働いた 元町長の あの日懐かし」

  「人は皆 ぼうふら人生 浮き沈み 悪くもあれば いい時もある」

  「功績を 誉める人なく 淋しいが せめて私が ブログに書いて」

  「冥福を 祈りながらも 逝きし人 思い浮かべて 心に誓う」

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人間牧場

〇元双海町長仲野和さんの思い出(その2)

 私は宇和島水産高校を操業後、同校の専攻科に進む予定で全ての準備を終えていました。ところが時期を同じくして親父がガンに侵され、私が家の漁業を継がねばならなくなり、焦燥の思いで急遽帰郷し家業を継ぎました。8年間漁師として若吉丸の船長となって鯛網をやりながら青年団に入団し、それなりに青春を謳歌しました。朝の早い漁業と夜の遅い青年団活動で体調を崩した私は、意識不明となって松山の病院へ入院する羽目となりました。幸い一命を取りとめ回復はしたものの、重労働は禁物と医師から診断され、約3ヶ月間入院と自宅療養を余儀なくされました。

 私は青年時代、NHK青年の主張の県代表になったり、双海町青年団長、伊予郡青年団長、愛媛県青年団連合会長、愛媛県青年団体連絡協議会長、四国四県青年団連絡協議会長などを歴任して、活発な活動をしていたのを当時の仲野町長さんは傍で眺めていたようで、ある日吉岡産業課長さんが入院していた道後の奥島病院の病室へ、町長に頼まれたと見舞いにやって来て、「町長さんから頼まれたのですが、この際漁業を諦め役場に入って、町のためにあなたの才能や情熱を生かして欲しいそうです」と言われました。今で言うへッドハンティングだったのかも知れない、青天霹靂とも言うべきその言葉を両親に話すと、それもいいかも知れないと私に転職決断を任せてくれました。

 その来歴は自著本「昇る夕日でまちづくり」の冒頭に詳しく書いているので割愛しますが、もし私に目をつけてくれた仲野町長さんがいなかったら、今の私はなかった訳ですから、感謝しても感謝しきれない大恩人なのです。若かった私はこの人のためだったら何でもやろうと思いましたが、当時青年団の指導をしてくれていた中嶋さんは私の心を見透かしたように、「あんたは町長に雇われているのではなく、町民に雇われていることを忘れないように」と諭されました。今にして思えばこの言葉をかけてくれた中嶋さんも大恩人と言えるのかも知れません。

 今でこそ役場や市役所の職員になるには大学を卒業したり、試験をしなければ地方公務員にはなり得ませんが、高卒でありながら試験もしないで役場へ入れる、こんな信じ難い古きよき時代があったのです。町長さんは私の青年活動の様子を見たのか、教育委員会に出向させ公民館主事として第一歩が始まりました。そのころには体調もすっかり回復し、社会教育に生涯をかけようとのめり込み、様々な活動や取り組みは全国的にも注目されるようになりました。このことについても自著本に書いているので割愛しますが、町長さんは私に町の広報を担当するよう命じました。ただでさえ多忙極まりない夜も昼も土日もないような公民館の仕事に加え、月に2回発行しなければならない広報は、教育委員会に出向している職員でありながら、町長の決済を直接受けなければならず、目の回るような忙しさでしたが、月に二回の広報を10年間にわたって執筆した広報マンとしての仕事は、私の後の大きな武器になったことを思えば、凄い出来事でした。

  「病室に 私見舞った 課長さん 町長伝言 誘いの言葉」

  「今にして 思えばヘッド ハンティング 迷った挙句 転職決意」

  「試験せず 口約束で 公務員 好夢員だと 笑って入庁」

  「月二回 広報執筆 10年間 書く武器 使って今も」  

 

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人間牧場

〇遅ればせながらのハーロウィン

 日本は不思議な国で、ハーロウィンなどという外国のお祭りを真似て、東京渋谷の駅前が熱狂に包まれたかと思えば、街中ではこれまたキリスト教でもない人までクリスマスを待ち焦がれ、早くもイルミネーションをつけて、ジングルベルを唄いながら、その日が来るのを待ち焦がれているのです。もっとやるべきことがありそうな気もしますが、まあ平和がゆえの出来事と思い、巻き込まれないよう自分流を貫きたい気持ちです。

 わが家でもハーロウィンの時は孫たちが、保育園や小学校でそんな催しがあるようで、何がしかの影響を受けて楽しんでいましたが、ここに来て北海道佐呂間町の親友パンプキン武田さんから、1ヶ月も前に送って貰っていた観賞用カボチャを、ダイニングに飾っていましたが、そろそろ傷みかけてきたので、カボチャに絵を画き、目や鼻、口などを包丁でくり抜いて、中にローソクを差し込んで、親子で工作していました。

DSCN1704DSCN1705 「おじいちゃん、おばあちゃん、カボチャの工作ができたので見に来て」と、孫二人にダイニングへ案内されました。小さいけれど立派な工作が出来上がっていました。早速ローソクに火をつけて手に持っているところを、写真に撮ってやりました。孫たちは夜の来るのが楽しみでカボチャをテーブルに置き、そのカボチャに火を入れて夕食を楽しんでいました。もう初雪が降ったであろうオホーツク海に面した佐呂間町の武田さんのお蔭で、わが家はもちろんのこと、10月24日に人間牧場で開いた子ども体験塾の収穫祭も多いに盛り上がりました。

 「孫たちが 観賞カボチャ くり抜いて 中にローソク 入れて楽しむ」

 「ハーロウィン 意味も分らず 子どもらも ワイワイ騒ぐ 日本は可笑しい」

 「北海道 住んでる親友 毎年の ようにカボチャを 送ってくれる」

 「私たち 昭和生まれの 人間にゃ
理解ができぬ 今の世の中」

 

 

 

 

 

 

孫たちのカボチャ作品
孫たちのカボチャ作品
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人間牧場

〇居間の電気をLEDに替えました

 3日前私たちの居間の蛍光灯が突然消えて、電気に関しては無知ながら色々触ってみましたが、回復の兆しがないのでそろそろ寿命が来たのかも知れないと諦め、結局息子に頼んで買い換えることにしました。息子は建築の仕事をしているのでデザイン性、機能性、消費電力等を勘案して、今流行のLED蛍光灯に変えたらどうかと提案があり、金額的には少し高いが仕方がないと、妻の財布と相談して、この際居間2間の蛍光灯を取り替えることにしました。

わが家の居間はLDE照明になりました
わが家の居間はLDE照明になりました

 息子は私たちが外出から帰ると既に古い蛍光灯を取り外して、LEDに替えてくれていましたが、デザインも光源もまあ満足の行くものでした。息子が言うのには購入金額は少し割高でしたが、①長持ちする、②使用電力が少なくて省エネ効果がある、③長持ちするの3点を説明してくれました。同時にわが家は田舎ゆえ夏になると虫が多いのですが、虫が余り寄りつきにくいというのです。もしこれが本当だとすると夢の照明だと信じ込みました。

 ところが昨日何げなく机の上のパソコンで、LEDについて少し調べて見ると、これまで調査したデータがかなり詳しく載っていて、息子が嘘を言った訳ではありませんが、どうやらそれほどの効果がないことが少し分りました。もっと早く調べていれば蛍光灯の方を選んだかも知れないと、多少悔やみましたが今となっては後の祭りです。わが家は息子たちと同居を始めた時、電気代で息子たちといさかいを起こさぬよう、電気代は息子たちが払う、水道代やガス代、灯油代は私たちが払うというエネルギー代を相談で取り決めました。

 勿体ない精神の塊のような私たち夫婦は、小まめに電気を消す癖が身についています。息子たちは勿体ないより快適性を追及する世代なので、時々無駄な電気は消すよう注意をしますが、われ関せずといった暮らしぶりです。それでも最近は本宅と隠居を含めるととてつもなく大きな田舎の家に住んでいるので、電気代が息子家族の家計を圧迫しているようで、近頃は何かにつけて電気を消しよう言うようになり、してやったりの心境でニヤニヤしながら見守っていますが、息子も納得して買って取り付けてくれたLEDの様々な効果を信じるしかないようです。

 私たちの身の回りには無数の電気があります。夜ともなるとスイッチにもその位置を示す明かりが灯り、室内はバックライトで照らされ、また冷蔵庫も一晩中文句も言わず働いて、とても快適に暮らしていますが、それら一つ一つが知らない間に電気のメーターを熱くなるほど回しているのです。裸電球しかなかった子どものころの暮らしを知っているだけに隔世の感があり、勿体ない気持ちがついつい先んじています。私たちの暮らしになくてはならない電気ですが、原子力発電の是非も含めて、今一度立ち止まって考えてみたいものです。

  「蛍光灯 突然消えて いじったが 寿命でしょうか 復旧せずに」

  「蛍光灯 時代遅れと 早言われ LEDに とって替わられ」

  「メーカーは 良いことずくめ 言ってるが 調べてみると そうでもないな」

  「いつの間に 裸電球 姿消し いまや主流は LEDだ」 

 

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shin−1さんの日記

〇金銭金融教育協議会に出席しました

 今日は金銭金融教育協議会に参加するため、松山市道後にあるにぎたつ会館に来ています。午前中は研究指定を受けた幼小中高校の発表がありました。その後分科会で金融広報アドバイザーとして助言をさせてもらい、昼食のあとフィナンシャルプランナーあんびるえつこさんの講演を聞いています。私はこれまでに色々な人の話を聞いてきましたが、人の前で話しをする手前、貪欲に講師の話を聞かせてもらいました。

今日も新しい知識を入れました
今日も新しい知識を入れました

 1時間の講演のあとワークショップが行なわれますが、私は夕方からスケジュールが立て込んでいるので、参加せず休憩時間に、もう一人の金融広報アドバイザーとともに、そっと会場を出ました。今朝は少し早く家を出て、コープえひめアドバイザーをしているので、コープえひめ本部を久しぶりに訪ね、アポも取らず飛び込みましたが、始業前だったこともあって、運よく居合わせた美濃専務さんと面談することができました。わが家で今年の夏採れた少しばかりの蜂蜜を手土産にしましたが、専務さんに大層喜んでいただきました。

 帰宅途中若嫁が勤めている実家の珈人という喫茶店に久々に立ち寄り、お父さんが亡くなってからオーナーとして働いている、若嫁のお母さんと少しばかりお話をしました。若嫁は結婚するまでこの店で働いていましたが、結婚後もお遊び程度で働いていたものの、お父さんが半年前に急逝したため、自家焙煎を担当しているようで、コーヒーを飲まないし喫茶店の自家焙煎がどんなものか分らないので、若嫁の仕事の様子についても少し聞くことができました。

 丁度よい時間になったので会う約束した人の会社を訪ね、色々な相談事を聞きました。会社の経営に対する相談でしたが、中々深刻で私の助言など屁のツッパリにもならないと思いますが、まあ相談があった以上逃げる訳にも行かないので、これから少し相談に乗って助言をしてあげようと思っていますが、はてさて長期戦になりそうです。今日もかくてありなん、明日も多分かくてありなんでしょう。

  「私には 人の話を 聞くことも 大事な日々の 入力行為」

  「一日が あっという間に 過ぎてゆく サンデー毎日 首をかしげて」

  「今日もまた 色々な人 出会いあり かくてありなん 明日も同じく」

  「平凡な 暮らしが一番 幸せと 思えば今日も 幸せでした」 

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人間牧場

〇孫の発熱

 土曜日の夕方から小学校二年生の孫希心に熱が出て、楽しみにしていた日曜日の公民館祭りに参加できなかったばかりか、月曜日も39度の熱が下がらず、結局月曜日と火曜日の二日間学校を休みました。今までのパターンだと保育園に通う年長の孫奏心が病気を貰って来て、お兄ちゃんに移すのですが、今回はちょっと様子が違うようで、孫奏心は今のところ元気なようです。

 子どもは土日とか夜とか、得てして病院が休みの時に怪我や病気をするものです。病院に連れて行きたくても行けないもどかしさに、親は一喜一憂しますが、こんな時は親と同居しているため、何かと相談に乗ったり、手助けをしてくれるので大助かりだと、若嫁は喜んでくれます。息子は松山市内の設計事務所に勤めているため少し遅めの8時30分頃に家を出て、帰りは大体夜9時ころになります。若嫁は実家の喫茶店に勤めているので、朝10過ぎに出勤し、帰りは夕方5時から6時ころになります。

 妻も今のところ近所の歯科医院に勤めていて、帰宅は午後5時ころですが、月曜日と金曜日は午後休んで夕方午後4時半から7時まで勤めているため、若嫁や妻が帰る時間と孫二人の帰宅時間とは、どうしても空白部分ができてしまうのです。幸い私は自由人なので所用で外出していない時は、下校途中で学童クラブに通う孫希心と保育園の孫奏心のお迎えは、目下のところ私の役割になっています。家庭では余り存在感のなかった私ですが、最近ではどうしてどうして、大いに育爺振りを発揮して重宝がられています。

 孫を風呂に入れるのはもっぱら私たち夫婦の役割です。今晩はすっかり熱が下がって一安心の孫希心を、3日ぶりに風呂に入れてやりました。たった3日ですが熱を出していた孫希心は少し痩せたような感じで、早く元気になるよう会話を交わしました。孫が一人熱が出ただけで、家の中はどこか暗く感じるもので、毎日同居の孫から元気を貰っている私たち夫婦まで、気分が暗くなっていましたが、明日から元気に学校へ行くようなのでひとまずホッとしています。

  「孫病気 学校休み しょんぼりと 私たちまで 暗い気持ちに」

  「近頃は いつの間にやら 孫日課 組み込まれ日々 右往左往す」

  「明日から 元気に学校 行くそうな 元気が一番 勉強二の次」

  「私たち 息子家族の フォローして これから先も 生きて行きます」  

 

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人間牧場

〇山茶花の花が咲き始めました

 昨日から一年収めの大相撲九州場所が始まりました。遠い少年の頃の記憶では、この時期になると立冬の暦どおり、北西の季節風が吹き荒れ、子ども心に寒さが見に染みた思い出がありますが、昨日はどうしたことか九州博多では27度の夏日となり、力士も観客席のお客さんも、汗をかくほどの陽気だったようで、異常気象?を予感させました。それでも季節は確実に冬に向かって動き出していて、野辺に咲いている黄色いツワブキや白い野菊の花々も、そろそろ見納めといったところです。

 

わが家の庭に咲き始めた山茶花の花
わが家の庭に咲き始めた山茶花の花

わが家の庭には何本か山茶花の木がありますが、その木々に赤というより少しピンクがかった山茶花の花が咲き始めました。山茶花は初冬の花なので、夏の花のような派手さはありませんが、茶花らしく控え目清楚で、人知れず咲き人知れず花びらを落すため、趣のある大好きな花の一つです。私たち夫婦がダイニングとして使っている南向きの部屋は、急峻な山と杉木立が迫っていますが、この時期は杉木立の中からこぼれ日が差し込んで、何ともいえない風情を醸しています。

 ダイニングの透明で大きなガラス戸からは、親父が長年丹精を込めて育ててきた、かなり大きな山茶花の木があって、この山茶花の木にも数日前から花が咲き始め、食事をしながら時折やって来る野鳥の可愛らし仕草に一喜一憂しながら、夫婦二人で食事を楽しんでいます。私たち現代人は何故か毎日忙しげに暮らしています。室内は防音や冷暖房によって気温が保たれ、外気を感じないよう造られていて、ゆえに季節の移ろいに鈍感で、気がつけばいつの間にか一年が過ぎ、一生を終えるような感じですが、私たちに限ってはそうあってはならないと、時には窓を開けて外気を取り込んだり、緑や花々を楽しんでいます。

 昨日も妻と朝食を取りながら、裏庭の風景を眺めて「幸せとは何か?」を議論しました。例えば夫婦がこうして何げない風景を眺め、日常会話をしながら食事ができること、食卓に私の作った無農薬の野菜が並ぶこと、病気にならず健康なこと、遠くで孫たちの泣き笑いの声が聞こえること、これらはありふれているので気付かない、ささやかな幸せなのです。「幸せとは幸せと感じる心」ですから、もっともっとありふれた幸せを感じて生きて行きたいと思いました。山茶花の花がそのことを教えてくれました。

  「ダイニング 窓から見える 何げない 風景これも 幸せですね」

  「山茶花の 花見て立冬 暦知る 一年収め 九州場所も」

  「幸せは 遠いどこかに あるような 錯覚するが 手元にあった」

  「山茶花の 花は控え目 葉に隠れ ひっそり咲いて ひっそり散って」

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人間牧場

〇facebookを楽しむ

 どんな使い方や意味があるのかも分らぬまま、facebookを始めて1年近くが経ちました。今では私が毎日書いている2本のブログのうち、アメーバブログ1本は書いて画面の公開ボタンを押せば、facebookに自動的に投稿できるように、娘婿がセットをしてくれているので、そのセットの不具合が時々起きてfacebookにアップできない限りは、ほぼ毎日私の記事はfacebookで見たり読んだりすることが出来るのです。

昇る夕日でまちづくり1昇る夕日でまちづくり2 facebookのシステムは1年経った今でもよく分りませんが、この1年間で私の元へ、友だち申請され承認した友だちの数は620人を超えました。その人の数が多いのか少ないのかさえ理解できませんが、私の書いた記事やアップした写真は少なくと620人の元へ届いている計算になるのです。私がアップした記事や写真の下には、読んで「いいね」ボタンを押した人の名前や数がカウントされるようになっていて、その中には常連的にコメントをくれる親しいお友だちもできて、毎日楽しみながらコメント会話を繰り返しています。

 「蜂に刺されて手が腫れました」と写真つきでアップすれば、人の不幸を笑うように「いいね」ボタンを押される、まるで漫才のネタになりそうな話題もしばしばですが、友だちの中にはまったく顔を見たこともないし、たった一度名刺交換しただけの人が沢山いるのも驚きです。昨日私がアップした前日の美しい夕日の写真に、沢山の人がコメントを入れてくれましたが、その中に滋賀県大津市在住の吉見精二さんという人から、写真つきのコメントが届きました。

 吉見さんは私の木になるカバンのことを知っていて、その後カバンが健在かどうか問うていました。「今も健在で全国各地へ持ち歩いています」と返信すると、今度は私の自著本の裏表表紙を写真に撮って読むよう紹介してもらい、多いに驚きました。この本を自著した本人の私でさえ、最近はこの本のことすら忘れる有様なのにです。吉見さんは元地域観光プロデュースセンター代表ですが、多くのことを知らないだけに興味津々で、いつかどこかで出会いたいと思うようになりました。

 アナログからデジタルへと時代は大きく変わりました。デジタル教育など受けていないアナログな私は、こんな便利なツールさえ使いこなせない時代遅れな人間ですが、恥をかくことを恥じる歳でもないので、失敗したり人に聞いたり、笑われたりしながら、知ったかぶりでデジタルに挑戦しています。コンセンサスどころか頭の中は毎日「混線さす」気分です。チャールズ・ダウィンが言っているように、「強い者・賢い者が生き残るのではなく、順応した者が生き残る」のであれば、時代に順応して生き残らなければなりません。生きる屍にならぬよう、しっかりと・・・。

  「アナログな 人間ゆえに デジタルは 私の頭 混線さすだ」

  「アナログも やってみるうち 少しだけ 理解ができて お茶を濁して」

  「目に見えぬ 相手と交信 面白い 口では言えぬ ことまで書いて」

  「自著本を 写真に写し 紹介す 只者でない facebookで」

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人間牧場

〇秋の夕日は美しい

 昨日は宇和島へ講演に出かけた帰りに、ホームセンターで買ったタマネギの苗の植え付け作業を午後2時ころからやりました。あいにく抜き苗が売り切れていたため、セル苗という200穴のセルに植えている苗しかなかったので、畑の横に椅子用のキャリーを置いて座り、セルの下に手を突っ込んで突起を指で軽く揉み解し、苗が傷まないよう慎重に抜き取る作業を進めましたが、これが中々時間がかかり一苦労でした。

昨日の夕日
昨日の夕日

 セルから抜いた苗を手箕に入れ、前もって立てていた畝に草削り用鍬で目安の溝を掘り、順次植ええて行きましたが、結局800本の苗を植え終わったのは午後5時前でした。孫希心が学校から友だちを連れて帰ったので、若嫁に頼まれていた孫奏心を迎えに、保育園まで行きましたが、帰宅途中家の前に聳える町のシンボル本尊山が、夕日に赤く映えているのを見て、孫奏心を自宅で降ろした後、軽四トラックを走らせてシーサイド公園まで夕日を見に出かけました。

 昨日の日没は午後5時12分ころでしたが、私の到着した午後5時前には砂浜で、ウエディング衣装の若いカップルが結婚の前撮りをしていました。刻々と沈み行く夕日を見ながら手持ちのデジカメで何枚か美しい夕日を写真に収めましたが、季節は移って自慢の夕日も随分西の端を通るようになっていて、そろそろ撮影時期も終わりを迎えるようですが、アングル的には恋人岬のモニュメントに夕日をあしらい、いい写真が取れました。

 そういえば今年のゴールデンウィークのころ、念願の一眼レフデジカメを子どもたちがお金を出し合って、プレゼントしてくれたものの、親父の逝去や何だかんだと忙しくて使う機会を逸しています。今年中には何とか使いこなせるようにしないと、子どもたちに申し訳が立ちません。もし昨日のあの綺麗な夕日を一眼レフのデジカメで撮っていればと反省しきりです。まあ慌てることもあるまいとのんびりゆっくり考えるようになったのも、やはり歳のせいかも知れないと思う今日この頃です。

  「黙々と ただ黙々と タマネギの 苗を畑に 秋の夕暮れ」

  「赤く燃ゆ 本尊の山に 誘われて 車走らせ 夕日見に行く」

  「うわあ綺麗 心の中で 叫びつつ 手持ちデジカメ 夕日に向う」

  「半年も 前に貰った 一眼を 使いもせずに 悶々しつつ」 

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人間牧場

〇突然変異のサツマイモ

 妻が「お父さんの友だちは変な人が多い」と言うように、私の友だちには少し毛並みの違った生き方をしている人が多いようです。稲葉さんもその一人で、経営している自動車の修理工場を息子さんに任せ、自分は双海町の農地を購入して、自宅のある砥部町からわが町へ農業をしに通っているのです。初期のころ人間牧場の近くの私の所有する畑も貸していて、あちらこちらにこれでもかというほど手を広げて色々な作物を作り、まちづくり学校双海人や軽トラ市の常連さんとして、まちづくり活動にも参加してくれています。

一つの茎に赤芋と白芋が交互についた珍しいサツマイモ
一つの茎に赤芋と白芋が交互についた珍しいサツマイモ

 一昨日私は里芋の種芋の保存方法を聞くべく稲葉さんに電話を入れると、「えっ!!」と耳を疑うように、「今は高知県越智町の畑でサツマイモを掘っています」と元気な声が返ってきました。何と稲葉さんは高知県まで触手を伸ばしているようで驚いてしまいました。その後芋畑から電話が入り「同じ茎に白芋と赤芋が交互についた珍しい芋を見つけた!!」と少し興奮した面持ちの一報が入り、「明日にでも見せに行きます」とのことでした。少し半信半疑で「どんな芋だろう」と頭の中で想像をめぐらせましたが、昨日の昼頃稲葉さんはナイロン袋に入れた、いわく因縁のサツマイモを持ってわが家に現れました。

 ナイロンの袋から取り出したサツマイモは、稲葉さんから電話で聞いていたように、一つのツルに赤芋と白芋が交互についているのですから、突然変異かも知れないようで、高知県で長年サツマイモを栽培している、地主の方も初めて見たと言うのです。地元新聞のネタにでもなりそうな話題を、小雨で濡れないよう玄関先に座って大いに語り盛り上がりました。稲葉さんは一事が万事このように面白い人で、人のことをとやかく言えない私と、どっこいどっこいのところがあるようだと感心した次第です。

 「類は友を呼ぶ」といいますが、私の元へは稲葉さんのように少し毛並みの違った人が集まって来ます。私たちから見ればむしろ私たちが普通で、他の人が変っているんだと感じています。それを裏付けるように私も若いころから相当変った生き方をしています。夕日なんぞに思いを寄せたり、無人島に20年間も子どもを連れて行ったり、自費で人間牧場などを造ってあっけらかんとしているのですから、一緒に住む妻でさえ開いた口が塞がらないといった雰囲気です。でもこれが自分流の人生の楽しみ方ですから、人が何と言おうと多分死ぬまでこの生き方は変わらないし、変った生き方の友達も沢山集まって来ることでしょう。「面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり」です。

  「今どこに いるのと電話 尋ねたら 高知越智町 芋を掘ってる」

  「白と赤 ひとつの茎に サツマイモ 見せに行くから 興奮気味に」

  「持参した 突然変異の サツマイモ 玄関先で 大いに話す」

  「変わり者 人をとやかく 言えないな 自分も相当 人から見れば」

 

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