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〇上灘町文化協会広報を読み解く

 私が所属している双海町史談会は、伊予市と合併して双海町という自治体が消滅した直後、有志によって設立されました。会員20人足らずの小さなグループですが、2ヶ月に1回の例会は、忙しさもあって時々止む無く欠席するものの、毎回楽しみにして出席しています。昨日はその例会日で、双海町が昭和30年に誕生する前の、上灘町時代に発刊されていた上灘町文化協会広報を、事務局の中尾先生がコピーして配布し、みんなで雑談交じりで目を通しました。

上灘音頭歌詞
上灘音頭歌詞

 前々回、前回に引き続き今回が最終回で、上灘町の最後となる昭和28年ころの話題でした。当時私はまだ10歳前後だろうと思いますが、戦後の混乱期を脱し成長を遂げつつあるふるさとの現状が時には可笑しく、時には珍しく、また時には真剣な暮らしぶりとして垣間見え、三丁目の夕日にタイムスリップしたような雰囲気でした。知らなかった逸話や秘話も随分あって、私の知的コンテンツが多いに高まりました。この文化協会広報の編集人は、私の恩師古田竹雄さんだったというのも、何か深いご縁を感じるのです。

上灘音頭楽譜
上灘音頭楽譜

 私が中学3年生の時の、下灘中学校の校長先生が古田竹雄先生でした。先生は私が愛媛県立宇和島水産高校を受験する時、私のためにわざわざ校長でありながら私の受験に付き添い引率して、二人で宇和島の丸重という城山の麓の旅館に泊まり、受験をさせてくれたいわば私にとっては大恩人なのです。幸い漁業科に合格し私のバラエティに富んだ人生はスタートしました。先生は晩年不遇にも自宅が火災に遭って、不慮の死を遂げられましたが、この文化度の高さは比類を見ないのです。

 昭和28年9月1日付け第30号に、上灘音頭の顛末が載っていて興味をそそりました。当時の由並小学校長足立邦芳先生が作詞し、愛媛大学の清家嘉寿恵先生が作曲したこともさることながら、この音頭は10番まであることを始めて知りました。役場の職員をしていた頃、上灘出身の職員が酒を呑むと、必ずといっていいほど歌っていたので、私も口ずさむ程度の体感音楽で歌えるのです。折角なのでこの音頭を保存のためスキャンしました。

  「昨晩は 二月一度の 史談会 四方山話 花を咲かせて」

  「あの当時 こんなに高い 文化誌を 作っていたとは 驚きですね」

  「三九の マッチの箱に 検便を 入れた話は 体験している」

  「酒呑むと 上灘音頭 歌ってた 今は私も 体感音楽」

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〇干し柿作り

 今年は柿のなり年で、渋柿は容易に手に入る雲行きでしたが、最近まで好天高温が続き、渋柿を干してもカビが発生して腐らせるかも知れないと、躊躇していましたが、ここに来て北西の季節風が吹き、気温もぐっと下がったことから、先日西条市の壬生川へ講演で出かけた折買った来た渋柿の皮を、若嫁に頼んでピューレで剝いてもらったので、紐でくくり、家の横の雨天洗濯干し場の物干し竿に吊るして干しました。

洗濯干し場に吊るした干し柿
洗濯干し場に吊るした干し柿

 先日親友の稲葉さんが、家族の人数分を干し柿にして2個ずつ吊るしてくれていたのでその隣りに、5百円で買った20個余りを干しました。朝晩の気温もぐっと冷え込んで、風も少しあるようなので、1週間もすれば外側が固くなったのを見計らって、新しい軍手をはめて、揉んで柔らかく仕上げたいと思っていますが、毎年のことながらその見極めが微妙で、早過ぎると表皮が裂け、遅過ぎると固くなってしまうのです。

 今年も西条市丹原に住む佐伯さんはじめ、多くの方々から富有柿を沢山いただきました。私は柿が大好物なので毎日のように、妻に頼んで皮を剝いてもらい、美味しく食べていますが、富有柿よりも干し柿の方がビタミンが豊富な自然食品なので、せいぜいその味を楽しもうと思っています。それにしても自然とは不思議なもので、あの口をゆがめるような渋柿が、天日に干すと何故甘くなるのでしょう。私の頭では到底理解説明ができないのです。

 まあ余り考えるとノイローゼになるのでこの辺で止めますが、干ししいたけといい切干し大根といい、その製造過程で現物にはかなかった栄養素が、ドンドン増えてくるのですから驚きです。ただしそれら全てが手間暇かけないと出来ないうらみもあって、いいこととできることの違いを実感するのです。私は幸せなことに田舎に住み、先祖からそんな手間暇や味を伝承してもらってます。手づくりしたものをお裾分けして喜んでもらえることの喜びも知っています。干し柿の大好きな孫と間もなく、美味い美味いといいながら干し柿を食べることでしょう。

  「暖冬で 干し柿作り 遅れたが 寒い北風 やっと吹き出し」

  「物干しに 干し柿廉を 吊るしたる 風情田舎の 長閑な暮らし」

  「天日干し すれば渋柿 甘くなる 何でだろうと 疑問の館」

  「手間暇を かければ美味い ものできる 先祖伝承 感謝をしつつ」

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〇原節子の東京物語

 昭和の大スターで美女とうたわれた、原節子さんが亡くなったことをテレビや新聞で知り、忘れかけていた三丁目の夕日的な昭和の思い出が蘇りました。私は昭和19年の生まれですから、戦後映画で活躍した原節子さんは一世代前の人なので、銀幕では見たけれど、恋焦がれるほどの人ではありませんが、それでも一世を風靡した大スターの死を多くのオールドファンが悲しみ、テレビでは原節子さんが出演した映画を、毎日のように紹介しているようです。

原節子原節子2 妻はその中から見たかった、「東京物語」という映画をダビングしたようで、昨晩風呂から上がり孫たちが自分の部屋へ引き上げてから、二人でゆっくり視聴しました。東京物語は小津安二郎監督の代表作ですが、出演の笠智衆や東山千恵子、佐野真一、大坂司郎、香川京子、杉山春子など往年の大スターが勢揃いして、渋い演技をしていました。広島尾道に住む老夫婦が、成長著しい東京に住む、息子や娘の家を東京見物も兼ねて訪ね歩きますが、息子や娘は日々の仕事が忙しく、口では上手いこと取り繕っても、結局疎んじられ、傷心の思いで帰路につき、大坂の息子の所へ立ち寄って帰宅して直ぐに、母親が危篤状態になり急逝するのです。

 母危篤の電報に右往左往したり、臨終や葬儀のドサクサも、50年前の物語設定なれど、どことなく物悲しくどことなく、現代の世相に通じる思いで見ました。孫も可愛いが子どもはもっと可愛いし、自分の子どもより自分の戦死した息子の嫁さんが、一番老夫婦のことを気遣ってくれるシーンは、原節子さんの役柄にピッタリで、共感しながら見ました。聞けば笠智衆さんと東山千恵子さんの年齢設定が70歳前後で、私たち夫婦の今と同じ年齢でした。妻は「えっ?、東山千恵子さんが亡くなるシーンで「68歳」と言ったシーンには、ただただ驚きました。

 日本人の平均寿命は85歳を越えて、今や世界一の長寿国となりました。この物語の時代にもしタイムスリップすれば、私たちはもうこの世とおさらばしなければならない年齢なのです。しかしこの映画の裏に描かれた人間模様を思うと、親子の人間関係も長寿社会の問題も、50年経ったというのに少しも改善されず、むしろ悪化してより深刻になっているように思えるのです。生きたくても生きれなかった昔と違い、現代は医療が発達し、生きたくないのに生きなければならなくなった人も多くいるのです。人間は何のために生きるのか。考えさせられた映画でした。

  「原節子 亡くなり昭和 また一つ 消えて悲しい 思いで浸る」

  「原節子 出演映画 テレビにて 夫婦二人で 会話しながら」

  「おばあさん 68歳 亡くなった 妻の年齢 比較ビックリ」

  「今昔 比較しながら 映画見る バック思い出 社会も映り」

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〇44年目の記念写真

 私たち夫婦は、昭和46年5月5日子どもの日に結婚しました。ゆえに今年で44年目となりましたが、昨日甥の結婚式に参列した折、控室で夫婦揃って記念写真を撮ってもらいました。実物のいい妻?は「恥ずかしいから嫌だ」と渋りましたが、実物の悪い私が「撮ろう」と誘い、姪にシャッターを押してもらいました。「お父さん、この写真は絶対にブログなんかに載せないでね!!」と、固く念を押されましたが、今朝昨日の結婚式の模様をブログに記録していて、タブレットでこの写真を見つけ、遊び心が働いてfacebookにアップしてしまいました。

夫婦揃って記念写真
夫婦揃って記念写真

 私たち夫婦のこの44年間を振り返れば、4人の子宝に恵まれ、まあそれなりに普通の人生を経て今に至っていますが、妻にしてみれば決して平坦ではなく、祖母・母・父と3人の介護をしてあの世に送ったり、家を新築したり、子育てをしたりと、かなりの苦労があったようで、自分の日々を楽しむこもなく、私や子どもや家のためにその人生を費やしてきました。ゆえに感謝しても感謝しきれないというのが正直なところです。私が今あるのも妻の内助の功があったからだと、昨日は一緒に結婚式に参列した姉夫婦から散々言われました。

 結婚した時私26歳、妻25歳と一つ違いでしたが、その歳の差は当然のことながら今もこれからも、一つ違いのままのようです。これからは姉が言うように、少し優しくしなければバチが当たりそうな雲行きなので、気持ちだけはしっかり感謝したいと思っています。妻は1ヶ月前ひょんなことで脛に肉ばなれを起こし、病院に通っているものの正座が出来ず、少し難儀なようで心配していますが、私が妻を介護するか、妻が私を介護するか、これからのことは分りませんが、今が一番若く今が一番幸せであることを考え、夫婦仲よく助けないながら余生を生きたいものです。

  「写真見て 44年を 振り返る 顔の容姿に 苦労ありあり」

  「結婚時 一つ違いは 永久に 歳の差変わらず 今頃気がつく」

  「感謝しろ 姉の言葉が ずっしりと 心に響く 今日この頃」

  「これからは 夫婦仲よく 助け合い 幸せ老後 暮らして行くか」

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〇寒い冬がやって来た

 昨日は日本列島、冷蔵庫の中へ入ったような寒い一日となりました。南国四国だというのに、朝ウォーキングに出かけると大粒のヒョウがみぞれ交じりに降り、思わず首をすぼめ少し早足急ぎ足で歩を進め、自宅まで帰りました。前日まで空前の暖かさが続いていて、気温は5度以上も下がって、ついにわが書斎も急場しのぎでエアコンを入れて温めようとしましたが、冷房にセットしたままになっているのを忘れてスイッチを入れ、温度が上がらず?????の大失態を演じてしまいました。

今年の冬初めて火を入れた書斎の石油ストーブ
今年の冬初めて火を入れた書斎の石油ストーブ

 わが書斎には冬が来る前の11月初旬に、早々と息子が暖房のための石油ストーブを用意してくれていて、灯油も満タンで早速今年の冬最初の火入れとなりました。赤々と燃えるストーブは見ているだけで何となく、ポカポカするものです。これから来年の3月初旬まで、このストーブのご厄介になろうと思っていますが、室内が乾燥するので今日にでも、倉庫からヤカンを持って来て、ストーブの上に置こうと思っています。ヤカンでお湯を沸かし、お茶を飲みながら茶菓子をつまむのも悪くはないと、今から楽しみが増えそうです。

 一昨日の夕方児童クラブと保育園へ、それぞれ孫を迎えに行っての帰り道、軽四トラックの運転席に同乗した孫二人が、「おじいちゃんマラソンをしよう」と話を持ちかけてきました。「よっしゃあ」とばかりに帰宅後双海中、エンゼル薬局、上灘川、北風鮮魚、自宅と少し短めのコースを3人で走りました。昨日も同じコースを走りましたが、昨年からたった一年しか経っていないのに、昨年は転んだり「待って待って」と言って足を引っ張っていた孫たちが、元気な足取りで走る姿を見て多いに驚きました。

 孫たちに比べると私は、おじいちゃん早く早く」と孫たちにせかされ、多少息が上がる始末となって、「もう歳」であることを実感しました。それでも昨年に引き続き今年の冬も、折に触れ孫たちと「年寄りの冷や水」と言われないよう一緒に、ジョギングを楽しみたいと思います。わが家ではお正月に翠小学校までマラソン大会をやるのが恒例となっています。内孫2人、外孫2人、それに息子と私の6人ですが、昨年私は最下位の第6位でした。多分今年も第6位でしょうが、気持ち的には優勝を目指しています。年長の孫奏心が、「おじいちゃんには負けん」と張り切っているようです。

  「冷房と 暖房間違え 可笑しいな 温度上がらず 首をかしげる」

  「昨日朝 今年初めて 暖房を ストーブ赤々 書斎ほのぼの」

  「孫二人 一緒にマラソン したけれど 置いていかれて 歳を感じる」

  「孫たちは 上り坂だが 私だけ 下り坂だと 実感しつつ」

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〇新聞予告

 わが家では地元紙愛媛新聞を購読しています。毎朝4時に起床して書斎でブログを書いたり読書をして過ごしていますが、毎朝5時になると販売店のおじさんが単車に乗って新聞を届けてくれます。家にいない時は書斎の前を通り越して、郵便ポストに入れてくれますが、普通は書斎の掃き出し窓を開けて、暑いだの寒いだのと朝のあいさつがわりに声を掛け合い、手渡しで新聞を受け取るのです。今朝は雨交じりの強風が吹く中、多少濡れた新聞を受け取りました。

3日前の新聞予告記事
3日前の新聞予告記事

 普段は受け取った新聞をひとまず息子のダイニングへ持って行ってやり、私はウォーキングから帰って食事をしながら読みますが、午前8時30分ころ仕事に出かける息子を優先するため、詳しく読みたい時は息子が出かけてから書斎でじっくり読みます。息子も最近は伊予市街地のまちづくりに参加しているようなので、新聞の地方版は特に念入りに見ているようで、時々意見を求められたりしますが、3日前新聞の片隅に、11月27日付掲載「伊予市合併10周年ひらけ未来双海中新聞」という予告記事を見つけたようです。

 その紙面には6枚ほどの組写真が載っていましたが、その一枚がわが家の東屋夕観所で、中学生の取材に応じている私が写っていました。「おじいちゃんの写真が出とる」と、孫がいいながら私たちのダイニングへ新聞を持って来てくれました。私はこの歳になったというのに、新聞や雑誌、それにテレビにもよく取り上げられます。別にこちらから頼んだ訳でもないのですが、取材依頼があれば断わる理由もなので甘んじています。

 今年はその回数がことのほか多いようで、海の資料館海舟館がアクリートという雑誌に、人間牧場10周年記念事業が愛媛新聞に、またきわめつけはテレビ愛媛のい~よという1時間のテレビ番組にまで、この顔で登場しました。田舎では露出が多過ぎるとねたまれたり嫌われたりするので、出来るだけ目立たないようにしていますが、はてさて予告された双海中新聞は今日付けの新聞掲載のようです。子どもたちはどんなタッチで私のことを書いたのでしょうか?。

  「わが息子 毎朝新聞 私より 先読みするが 日課になって」

  「おじいちゃん 顔が新聞 出ているよ 孫賑やかに 運んでくれた」

  「予告記事 家横東屋 夕観所 生徒と話す 様子写真に」

  「出過ぎると 田舎じゃねたまれ 嫌われる 程々一番 心に誓い」

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〇オノマトペ

 私は昭和19年生まれの古い人間です。ゆえに学校で習わなかったパソコンが大の苦手なアナログ人間です。流れの早い現代の情報化社会は余にも窮屈で、若い人たちが喋ってる言葉さえ理解できず、分ったような顔をして聞いてはいますが、もし「あなたはこの言葉を知っていますか?」と当てられたら、答えられない劣等生なのです。イノシシや鹿の肉をジビエと言われた時も、「ジビエって何?」と思いましたし、「オノマトペ」という言葉にいたっては「〇▲□×÷+-・・・・????」でした。

 詳しいことは分りませんが「オノマトペ」はフランス語のようで、最近はオノマトペ辞典なるものまで発刊されていて、知らなかった私は「いよいよ終末人間かも」と多少落胆しましたが、覚えにくい言葉ながら意味が分れば何のことはないのです。宮崎県の東国原元知事が宮崎産のメロンに「メロメロメロン」と名前をつけて、これが関サバ効果を産みました。このように同義語を並べると、その言葉だけでイメージが湧く商品名は沢山あります。「もちもち」「ぷるぷる」「ポタポタ」「バリバリ」など、スーパーの陳列棚を見れば、そんな名前のついた商品がゴロゴロあることに気付くのです。

 勿論「オノマトペ」は商品名に限らず、医療の現場でもこれまで何げなく使われていたようで、「傷口がズキズキする」「頭がジンジンする」と説明すれば医師と患者の間で病気を共有できるし、レストランも「野菜ゴロゴロ」とメニューに名前をつけただけで注文が3割アップしたと言うのですから驚きです。国会答弁を聞いていると「ガンガン」とか「ズルズル」なども良く使われていて、最近は「オノマトペ」にあやかって、会社の名前まで「サンサン商会」などと使われ、今や「オノマトペ」は止まるところを知らないようです。

 ただし要注意は、これらの言葉の殆どが登録商標化されていて、使うと法律違反になるため、「プルプル・モチモチ」などと組み合わせてすり抜けているようです。私たちは日々の暮らしの中で知らず知らずのうちに、色々な言葉を使っています。特に響きのいい言葉が書かれている商品を見つけると、その言葉から連想してついつい手を出して買ってしまうのです。それが「オノマトペ商法」の狙いであることをしっかりわきまえ、賢い消費者にならなければなりませんが、特産品開発に関わる人間はそれらを先取りするくらいの知恵が必要です。

  「オノマトペ 聞き慣れないが そういえば 商品名に 沢山ついてる」

  「お医者さん 政治家さえも オノマトペ 訳も分らず 使っています」

  「イメージで 商品求め 大失敗 しないようにと 裏の裏見る」

  「フワフワと じゃこ天名に つけたなら 3割アップ できるだろうか?」  

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〇伊方町老人クラブ連合会女性委員会セミナー(その2)

 私はこれまで女性を冠にした研修会に招かれて、色々な場所で講演していますが、老人クラブに女性委員会というのがあるのを知りませんでした。老人クラブは会長・副会長などの役職を男性が務めていますが、女性が男性より5~6歳も長生きすることから、底辺で活動を支えているのは女性なので、当然女性委員会があっても不思議ではありません。しかしいまさら今流行の女子会ならぬ女性委員会と名前をつけなくても?と、失礼ながら少し首を傾げて、含み笑いしてしまいました。

 瀬戸町民センター2階の会場には旧伊方、旧瀬戸、旧三崎から、バスでやって来た女性が100人を越えて参加し、参加者の中にはまちづくり活動などで顔見知りの人も何人かいて、松本伊方町老人クラブ会長さんに講師紹介されて、1時間ばかり「高齢化社会に生きる」という演題で、思いつくままお話をさせてもらいました。失礼ながら南予の田舎のおばちゃんたちは、まるで落伍のような私の話に、興が乗れば喉の奥まで見えるほど、辺りかまわず大笑いしてくれました。

 瀬戸町民センターの入口に、二宮金次郎の銅像が置かれているのを見つけました。早速同行二人を決め込んで持ち歩いている、私の二宮金次郎銅像と大学という古書を、手提げカバンから取り出し、知ったかぶりで「一家仁一國興仁~」と浅学の一端を披露しました。帰り際入口の金次郎像を見ましたが、金次郎手持ちの本にも大学の一節が書かれていて、嬉しい出会いとなりました。日本は高齢者は増えるばかりです。でも高齢者を巡る社会は多くの問題を抱えていて、かくいう私も高齢者の一員ですが、長生きを手放しで喜ぶことはできないようです。

 高齢者の万引き、引き篭りの高齢者、要介護・要支援などを必要とする高齢者などなど、生きたくても生きられなかった時代から、死にたくても死ねない時代へと移り行く社会の中で翻弄され、まるでゴミのように思われながら、ひっそりと息を凝らして生きている高齢者も多いのです。私は幸いまだ、自分でできる幸せと、人にしてあげる幸せを謳歌しながら生きています。そんな幸せはいつまでも続くかは分りませんが、幸せを自分で掴む努力だけは怠らないようにしようと、今朝も5000歩のウォーキングをしました。あと5千歩で目標の1万歩です。さあ今日も頑張らず頑張りましょう。

  「知らなんだ 老人クラブに 女子会が 美人揃いと 思うが普通」

  「喉ちんこ 見え隠れする 大笑い 入れ歯飛ばぬか 心配しきり」

  「高齢者 ゴミではないぞ 人財だ 薬飲むから 人剤かもね」

  「幸せは 色々あるが 第一は 自分でできる これが中々」

 

 

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〇49日と一周忌法要

 この2連休は22日に義理の叔母の49日法要、23日に義理の妹の一周忌法要と仏事が続き、気分的に少し疲れました。もっとも49日の仏事は最初29日の予定だったのに、和尚さんの都合で一週間早めたため、私は全国おやじサミットで講演する予定が入っていて抜き差しならず、妻一人で出席して対応してくれましたが、昨日は妻の妹の一周忌なので、朝食を終えると直ぐに準備をして、隣町長浜まで車を走らせました。

 一旦妹の家に立ち寄り皆さんと合流して、昨年の23日に葬儀をした折立ち寄った、直ぐ近くのお寺まで歩いて出かけ、本堂で住職さんに読経を上げてもらいました。このお寺は浄土宗知恩院派で、宗祖は法然上人のようで「ナムアミダブツを十回唱えて下さい」と説明があり、声を出して念仏を唱えました。その後住職さんは柔らかい物腰で「布」について少し長めの説教をされました。

 布は肉眼で見ると一枚の布に見えますが、顕微鏡で見ると縦糸と横糸の無数の集まりであり、一本も無駄な糸はないそうです。ほつれている糸が見苦しいからと抜けば、そこは穴が開いてしまうから、ほつれた糸も容認しなければならないことを自覚せよとの教えでした。人はいつかは死に、天国か地獄に召されますが、死んだ人も生きている人とともに自分という一枚の布を作り上げているのですから、いつまでも大切に思ってくださいというお話に納得しました。

 7月に亡くなった親父も含めて、今年も沢山の仏事を主催したり参列し、その度に人生のはかなさを思い知らされていますが、ふと気がつくのは宗教や宗派を超えて、その都度人間がいかに生きればいいのか、和尚さんが諭してくれるのです。最近は自分がそんな歳になったせいでしょうか、若いころのような結婚式への出席は影を潜め、葬儀・法要などへの参列が多くなってきました。また若いころには説教を聞いても馬耳東風と聞き流していたのに、今頃になると心の扉を叩くのです。

 昨日は、変わる葬式事情やお墓のあり方などが、親族の集まった場所でオープンに話されています。葬式や法要のあり方、お墓のあり方などなど、それぞれがまちまちの価値観と考え方を持ち、実行に移しているようです。昔は考えられなかった散骨や、お墓さえも否定し、また先祖のお墓へは入りたくないけど、飼っているペットと一緒にお墓に入りたい人など様々なようです。死生観さえも変る現代を、私たちはどう受け止めればいいのでしょう。

  「連日の 仏事色々 あるけれど この世の人は 少しわがまま」

  「坊さんの 説教心 扉打つ 俺も歳だな そんな思いで」

  「人のこと 余り気にせず 自分流 貫きたいと 思っているが」

  「親否定 連れ添いさえも 否定して ペットと一緒 訳が分らぬ」

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〇少し嬉しく少し淋しいシルバー割引

 私はいつの間にか、「昭和生まれ」という古いと思うレッテルを、自分で貼って生きているようです。平成の世の中になって27年が経ったのですから、当然かも知れませんが、記憶力や体力の衰えを感じる度にその思いは一層強くなって、多少諦めの気持ちが先んじると、「これではいかん、頑張らねば」「私はまだまだ若い」と自分に言い聞かせ、カラ元気で生きています。

 10日程前妻が何げなく歩いていて、膝がギクッとなり歩くに歩けなくなりました。タダでさえ手薄な職場に迷惑をかけたくないと多少無理をして、近所の病院で膝に注射をしてもらい職場へ出勤したようですが、傷みは幾分収まって快方に向かっているようです。妻の日常の働きは尋常ではなく、これまでの無理がたたったようで、親父が亡くなってホッと一息ついた安堵感からか、少し体の不調変調をきたしているようです。

 先日講演で九州に出かけるため、小倉航路の船に乗りました。安上がりの旅をするにはこの航路を利用するのが一番で、船の中で寝ている間に九州まで運んでくれるのですから、多少時間はかかっても、こんなのんびりゆっくりで便利な船はないのです。船に乗るため松山観光港の受付で、乗船切符を買い求めましたが、この航路は20パーセントのシルバー割引があって、名前の下に生年月日を書く欄があるのです。

 そんな場合は生年月日を証明するため、携行している免許証を提示するのが普通でしょうが、乗船券売場の若い女性は私の顔を見るなり、「シルバー割引ですね」と言っただけで免許証提示も求めず、あっさりと割引料金を払うとチケットをくれました。65歳前後ならいざ知らず、71歳になったことを自覚しているので、そのまま船に乗りましたが、トイレの鏡に写る自分の顔姿を身ながら、シルバー割引された自分に納得しました。

  「年齢が 何だ!!と強がり 日々生きる だけどシルバー 割引特別」

  「免許証 見せず顔パス 船に乗る 鏡に写った 自分に納得」

  「何げなく 歩いただけで 膝ガクリ 妻の介護は だれがするのか?」

  「私には 昭和のレッテル 似合ってる レベルの低さ 相も変わらず」  

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