人間牧場

〇ひな豆の贈り物

 季節は春に向かって確実に動いていますが、この週末はこの冬一番の寒気団が南下し、海沿いに面したわが町では天地を揺るがすような北西の季節風が吹いて、海も山も大荒れです。こんな日は外の仕事ができないため、昨日等は一日中書斎にこもり、ストーブの前で原稿を書いたり本を読んだり、また明くる日に迫ったシンポジウムの構想を練りながら、久しぶりにのんびりゆっくりと過しました。

 ストーブの前に座ると日ごろ食べないみかんやお菓子が目に付きました。中でも前々日漁協女性部の福岡憲子さんが、手づくりして持参してくれたひな豆が目に留まり、熱いお茶を自分で入れて、飲みながら食べました。ひな豆は食油をまぶした干し飯をホウロクで煎り、煎った大豆やひなあられとともに、ぎょうせん飴で絡めて団子状にしたものです。私が子どものころは母親が3月のお雛様の季節が近付くと、手づくりしてくれた思い出の一品です。

 甘いものとて殆どなかった戦後のことゆえ、ひな豆は子どもにとって最高の贅沢でした。干し飯も余ったご飯を水洗いして干した粗末なものでしたが、できたひな豆はまず姉のお雛様に供えられ、それから子どもたちに分けてもらえるのです。残ったひな豆は湿気がこないよう、1斗缶に入れて大切に保管していましたが、それをこっそり食べるのもまた子どもの浅知恵な悪戯でした。

 三袋いただいたので一袋は孫たちにやりました。上の孫希心はそれほど食べませんが、下の孫奏心はひな豆が大好きで、このところ毎日のように食べています。私も「止められない止まらないカッパエビセン」ならぬひな豆の味を大いに楽しんでいます。毎年必ずこの時期に手づくりのひな豆をいただく、福岡憲子さんに感謝しながら、今か今かと春の来るのを待つ今日この頃です。

  「ひな豆が 今年も届き 嬉しくて ストーブの前 お茶を飲みつつ」

  「ひな豆の 思い出今も 忘れない 母の笑顔も 頭の中で」

  「甘いもの なかった昔 ひな豆は 子どもにとって 最高贅沢」

  「一斗缶 入ったひな豆 母の目を 盗んで食べた 淡い思い出」 

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人間牧場

〇史談会での学び

 2ヶ月に一回の割合で年6回開かれる双海史談会も、早いもので65回を数えました。史談会は双海町史改訂版の発行に携わった人たちが中心になって10年前に始めましたが、中心的役割を果たしてもらった初代会長の中嶋さんは既に亡くなり、新しい人に引き継がれ今日を迎えています。幸い中尾先生が事務局長を務めてくれているので、ゆるぎない活動が続いていることは何よりも嬉しいことです。 

大久保八十八ヶ所の古文書
皆さんに話す駒沢さん

 先日行なわれた例会では大久保八十八ヶ所が取り上げられました。元役場職員で石久保に住んでいる駒沢一憲さんが、病床にありながら年月をかけて調査し、磯田先生や公民館職員のバックアップで、その全容がほぼ解明されたことは賞賛に値する出来事で、例会には駒沢さんも古文書を持ち込んで話をしてくれました。3月11日には史談会のメンバーで、大久保八十八ヶ所のおもだった場所を訪ねる計画も決まりました。

 2月25日に子ども体験塾で正法寺や石久保公民館周辺の25ヶ所を歩いて回るウォーキングも予定されていて、先日その下見調査も行いました。facebookへの小西さんの書き込みでふと気がつくと、仲間内で回ろうと始めた上灘八十八ヶ所参りも、まだ半分しか回っておらず、みんなの日程が合わず立ち消えになっていた参拝ウォーキングを、ご指摘どおり一つひとつ片付けなくてはと、自責の念に駆られました。

 ふるさとの歴史は紐解けば紐解くほど色々な事実が分り、とても楽しく学んでいます。双海の歴史を観光に生かせないかと、これまではそういう視点で歴史を見ていましたが、これからはむしろ地域の人々に遺し伝えることに主眼を置いた活動にも、気を配らなければなりません。それが今に生きる私たちの務めなのかも知れません。駒沢さんに感謝しつつ・・・・。

  「ふた月に 一回開く 史談会 新たな事実 次々明らか」

  「執念で 八十八ヶ所 調査した 資料説明 かつての同僚」

  「これまでは 観光ばかり 目を向けて いたがこれから 遺し伝える」

 

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〇忘れられない2001年2月10日

 明日に迫った2001年2月10日が近付くと、何となく胸の高鳴りを感じます。2001年2月10日はハワイ沖で宇和島水産高校の実習船えひめ丸が、米原子力潜水艦グリーンビルに衝突され、実習生ら9人が亡くなった日です。時の流れは早いもので、あれから16年が経ちましたが、今年は17回忌となるため、愛媛県知事さんや在校生も現地ハワイの慰霊碑を訪れ、鎮魂の祈りを捧げたようです。

自著本「昇る夕日でまちづくり」
私が乗船した初代愛媛丸の記事

 宇和島水産高校の卒業生であり、初代愛媛丸に乗って南太平洋珊瑚海まで遠洋航海した経験のある私にとっても、この日は一生忘れられない悲しい思い出の日なのです。偶然でしょうか?。この日は南海放送本町会館7階のテルスターホールを借りて、自費出版した自著本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティを行なう日でした。朝から特老夕なぎ荘近くの畑で、会場を飾る菜の花を取り自宅へ持ち帰って準備をしていると、近所に住む姉が事故の一報を告げにわが家へやって来ました。

 ニュースで事故の様子がテレビに映し出される度に、立ち上がれないほどのショックを受けました。出席を予定していたマスコミ関係者の何人かは対応のため欠席しましたが、200人ほどの参加を得てパーティは盛会の内に終りました。自著本にえひめ丸に乗船した思い出を書いているだけに、思いも一入だったことが昨日のことのように思い出されます。今朝は書斎本棚に並んでいる自著本「昇る夕日でまちづくり」をめくりながら、過ぎ越し日々を思い出しました。

  「早いなあ 17回忌が やって来た 心の襞に 残った記憶」

「自著本を 書斎本棚 取り出して 懐かしみつつ ペラペラめくる」

「沈没と 出版記念 重なって 右往左往の あの日あの時」

「来年は どんな気持で 迎えるか 行く当て知れず 歳を重ねる」

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〇地域教育実践南予ブロック交流集会

 先週の土曜日、愛媛県歴史文化博物館で開かれた、地域教育実践南予ブロック交流集会に、年輪塾小番頭の松本さんと一緒に出かけました。松本さんも私も交流集会の実行委員なので、暇を見つけ足繁く参加していますが、博物館までの往復道中は、まちづくりや町内の出来事について、お互いの意見をすり合わせるまたとない機会なので、車内ながら2人で大いに語り合いました。

奥伊予太鼓保存会の演奏
夜の交流会

 今年は12月に大洲で交流集会を開きましたが、2月4日南予で、2月5日に東予で、そして2月18日に中予で、それぞれブロック集会が持たれるので、松本さんも私も何かと大忙しです。この日は南予ブロックと言いながら、開会あいさつを全体実行委員長の私がすることになっていて、その日の愛媛新聞朝刊10面地方版の「伊予弁」に載った市川和人さんの記事を読みながら、雑談めいたあいさつとなりました。

 オープニングは奥伊予太鼓保存会の賑やかな演奏でした。園児から高齢者まで総勢37人の太鼓集団の活動は、文化的価値も非常に高く、見応えがあり大いに盛り上げてくれました。その後4つの分散会が行なわれ、全体会インタビューダイアローグ「地域づくりへの思いを語る」は、浅野長武さんがインタビュアーとなり、高校生や大学生が日ごろの活動を通じた地域づくりについて熱く語りました。

 最近感じることですが、地域に開かれた学校づくりと言いながら、小学校や中学校は学力向上を理由に少し腰が聞けていますが、高校や大学は逆に開かれ過ぎるほど地域活動をしています。この日も宇和島水産高校のフィッシュガールズや、三崎高校の三崎おこしに加え、愛媛大学の観光まちづくりについて熱く熱く語ってくれました。私たちの発想が既に古いと感じるほどの熱い意見に、胸を熱くした一日となりました。

 夜の交流懇親会も昼間の参加者80人の半数以上が参加して、旧国道沿いの十石という居酒屋で行なわれ、南予の熱い思いを肌で感じることができました。私は明くる日3時半起床で鳥取へ向わなければならなかったため、午後8時過ぎに退散しましたが、松本さんは明くる日東予のブロック会にも参加してくれたようです。

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〇鳥取県大山町生涯学習大会

 昨年山口県山口市で開かれた全国公民館研究集会の分科会に、愛媛県公民館連合会からの推薦で、フアシリテーターを頼まれ出かけました。県公連の専門委員や公民館OBの公友会の会長をしているものの、第一線を退いている私にとっては、少し首をかしげたくなる役目でしたが、「呼ばれたら刑務所以外どこへでも行く」をモットーにしている私は、首をかしげるどころかむしろ喜んで出かけました。

百人一首大会
冬の味覚松葉ガニを堪能しました

 長年社会教育とつながっていることもあって、有り難いことに山口大会では、様々な出会いがあり、特に分科会で旧友である鳥取県大山町の入江さんと久しぶりに出会い、その後昨年の11月、入江さんが合併前の中山町時代に交友のある徳永さんと一緒に、職員を誘いわが町へ遊びにやって来て、今回の生涯学習大会での講演へと結びつきました。大会担当の徳永さんと、演題を「人づくり・まちづくり・未来づくり」にしようと相談がまとまりました。それというのも大山町では「大山町未来づくり10年プラン」がスタートしていて、事前に送られてきた資料の中にそのことが読み取れたからでした。

 会場となった「保健福祉センターなわ」では、午前中百人一首の大会も行なわれていて、昼食は給食センターが用意した地産地消の菜めし、じげ野菜のちゃんこ風、鶏肉の梅誰だれかけなどが振る舞われ、発表や講演には予想をはるかに越える180人もの参加者が集り、熱気ムンムンでした。町長さんや教育長さんとも顔見知りで、また楽屋へは金田先生はじめ何人かの人が訪ねて来てくれ、その余勢をかって熱のこもったお話をさせてもらいました。

珍しいイギス料理

 実は今週末の12日と13日の2日間、偶然にも大山町の下中山の地域づくり団体が双海町へ視察にやって来る予定になっていて、その夜はふれあいの館で交流会をしたり、人間牧場へ案内をするようになっていて、中山温泉で開かれた懇親交流会には、その人たちも参加して賑やかな宴席となりました。昨年11月にわが煙会所にやって来た池本公美恵さんや金田順子さんも同席し、まあそれは賑やかな懇親会となりました。松葉ガニやイギスなど珍しい食材も堪能するほど食べました。

楽しかった交流懇親会

  「山口で 出会ったことが 震源に なって再三 再四広がる」

  「今週は 大山町の 人が来る 交流重ね 人生楽し」

  「カニ嫌い 手が汚れるからと わがままを 言いつつ横の 女性に甘え」

  「瀬戸内に 住んでいるけど 日本海 美味い魚に 舌鼓打つ」 

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人間牧場

◯中山温泉で「いい湯だな!!」

 昨夜は鳥取県大山町の中山温泉のそばにある公共の宿に泊まりました。いつ来たかは定かでありませんが、おぼろげながら記憶を辿ると、多分10年も前に講演に招かれた折、温泉を楽しんだようなのです。

 温泉の好きな私は早速温泉を楽しみました。いい湯質で極楽極楽でした。さあ身支度して間もなく帰路に着きます。

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◯早起きは三文の得

 いつもは朝4時の起床ですが、今朝は30分早い午前3時30分に起きました。昨日は集会の後の懇親会に参加して帰宅が遅かったため寝るのが多少遅れたため、目覚まし時計のご厄介になりましたが、松山駅まで妻に見送ってもらい、特急しおかぜに乗ることができました。今日は早起きは三文の得を満喫したいと思います。

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〇昨日も綺麗な夕日でした

 前日の夕方、軽四トラックに空のポリタンク6缶を積んで、伊予市のJAガソリンスタンドへ灯油を買いに行きました。このところ寒い日が続いているので、石油ストーブや風呂のボイラー用の燃料を使う量が多く、普段は妻が買い物に行くついでに買い求めて来るのですが、妻が風邪気味なので助手席に同乗させて出かけました。

 午後5時半過ぎに家を出て海岸国道を走っていると、バックミラーやサイドミラーにそれは綺麗な夕日や夕景が映っていました。カメラを持ち合わせていなかったので、後ろ髪引かれる思いでやり過ごしましたが、昨日の夕方週一回でスイミングスクールに通う孫を、迎えのバスに乗せてから仕事が一段落したので、一人夕日見学と洒落込みました。

大分県姫島辺りに沈む夕日

 シーサイド公園の砂浜はこのところの波浪でごみが打ち上がり、幾分美観を損ねていましたが、沢山の夕日ファンが夕日の見学を楽しんでいました。夕日が落ちる辺りに大分県国東半島や姫島が、黒いシルエットとなって印象的に見えました。海路100キロ以上も離れているのに、空気の澄んだ今頃しか見えない半島や島々のことを知っている人は殆どなく、私が説明してあげると、西条からわざわざ夕日を見に来たというご夫婦はとても喜ばれ、また特産品センターの店員さんにも人に説明してもらうよう頼みながら教えてあげました。お礼にじゃこ天を1パックいただきました。

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〇今日は節分

 今日は節分です。わが家では毎年節分の前日に裏山へ分け入り、オニグイの木とトベラの葉っぱを取って帰り、オニグイはトゲに刺さらぬよう布を巻いて、ノコで10cm程度に小切りして、包丁で4分の一に割り、さらにそれらに割れ目を入れて、トベラノ葉っぱを差し込むのです。

魔除けのために作ったオニグイを玄関などに供えました

 出来上がったものを2個一組にして、家の玄関先や神棚、仏様、トイレ等に魔除けとしてお供えするのですが、効き目があるのかどうかも分からぬまま、親父の代からの風習として続けています。お正月の注連縄飾りもそうですが、特に節分のオニグイなどは、近所の人に聞けばやらなくなった人が殆どで、何かにつけてこういう風習やしきたりが廃れてゆくのを寂しく思っています。

 今日は節分なので、夜には孫たちと「鬼は外、福は内」などと言いながら豆まきをする予定だし、72歳ゆえ歳の数だけ豆を食べることはできないので、10歳で1粒+2歳で2粒、合計9粒の豆を食べて無病息災を祈ったり、今年の方角である北北西に向って恵方巻きの巻寿司を食べようと思っています。明日はいよいよ待ちに待った立春です。

  「節分は オニグイトベラ 取って来て ノコで小切りし 葉っぱ差し込む」

  「玄関や 神棚などに オニグイを 供えて無病 息災祈る」

  「近所では こんな風習 やらないと 聞いてはいるが 私はまだやる」

  「今晩は 孫と一緒に 豆まきと 恵方巻き食べ 節分行事」

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〇一番の教師は母親

 私は貧乏な漁師の長男に生まれました。親父が40代でガンを患ったため、ふるさとに戻り18歳から26歳まで漁師をしました。ゆえに大学へも行かず学歴もありません。でも学歴はなくても学習歴は積もうと、この歳になった今でも様々な学習をやっています。しかし凡人ゆえの悲しさで高さも広さも一向に広がりませんが、諦めず思いを込めて生きているつもりです。(笑い)

福沢諭吉の肖像

 亡くなった母親は私が子どものころ、下灘漁協婦人部の部長をしたりしていましたが、船下ろし(漁船の進水式)の簡素化や日掛貯金などを推進し、婦人部は当時の大蔵大臣表彰まで受けました。母は愛媛県や全国の漁協婦人部大会で、大勢の人の前で意見発表もしたようですが、下灘小学校からオープンリールのテープレコーダーを借りて毎晩のように練習をしていた姿が、今でも目に焼きついています。

 そんな姿を見ていたからでしょうか、私も青年学級委員長時代に、NHK青年の主張に応募し、見事県代表になることができました。奇しくも母親が借りた下灘小学校のテープレコーダーを私も借りて、一生懸命練習したのですから、世の中は不思議なものです。昨日福沢諭吉について書いている本を読みました。福沢諭吉が1万円札の肖像になったのは今から32年も前の昭和59年です。

 「人のうえに人をつくらず、人の下にひとをつくらず」という「学問のすゝめ」は学校で習いましたが、福沢諭吉のこうした考えは、分け隔てなく人と接した母親於順の影響のようです。幕臣榎本武揚の助命や、咸臨丸で共に渡米した木村摂津守への送金、北里柴三郎の伝染病研究所への支援等、諭吉が「人として当たり前のことをしただけ」と一切口にしなかった逸話にも頷くのです。

 母親の影響は人間の生涯にとって最も大きいものです。母親も人間ですから子どもを良くしようと思い、叱ったり誉めたりしますが、むしろ言葉よりも母親の生きる姿が大切で、あいさつをしたり、人を気遣ったりする何げない日々の姿を、子どもはしっかりと見ているのです。ゆえに人間の人生において母親は一番の教師なのかもしれません。今朝は財布から1万円札を取り出し、広げてまざまざと見ました。諭吉の母親於順のことを思いながら・・・・。

  「東京で 発表母親 小学校 テープレコーダー 借りて練習」

  「何年か 後に同じ 小学校 テープレコーダー 借りて私も」

  「母親は 子どもにとって 一番の 教師ですよと 一万円札」

  「子育ての 基本母親 しっかりと すれば世の中 上手くいきます」

 

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