人間牧場

〇美味しいヒラタケ収穫

 このところ南下している1~2月並みの超一級の寒気の影響で、雪が降ったり氷が張ったりはしないものの、朝夕はめっきり冷え込んで、日中でも10度そこそこまでしか温度の上がらない日が続いています。家にいれば毎日夕方妻が、「今日は寒いからおでん」とか、「今日は鍋物」とか言いながら、暖かいメニューの料理を作ってくれるお陰で、「寒いのも悪くはないなあ」と思いながら日々を過ごしています。

沢山生えて食卓を賑わせているヒラタケ

昨日は人間牧場で収穫した季節外れのシイタケがあるので、シイタケの鉄板焼きを思いついたようでした。加えてみそ汁の具材として裏庭に置いている榎に植菌した、ヒラタケが出ているかも知れないと見回りに行くと、薄い鼠色のヒラタケが程よく出ていました。もう1か月前孫たちが偶然見つけ、バーベキューやみそ汁の具材にして好評だったし、私もその味を確かめていたので早速妻に渡すと、妻は鉄板で焼いたりみそ汁に入れたりして調理してくれました。

電気鉄板プレートで焼いたシイタケやヒラタケ、カボチャ、玉ネギ類は一緒に焼いた豚肉の油がよくなじんで飛びきり美味しく、みそ汁とともにご飯が進み満腹の手合いでした。わが家の通称「駄場」という畑の隅に、一抱えもあるようなかなり大きな榎が立っています。隣の人の畑の陰になるので、そろそろ陰切りをしなければなりません。いつもシイタケの原木を貰う親友の井上さんにそのことを話すと、「早速一緒に切ってヒラタケやナメコの植菌をしよう」と持ち掛けられているので、仕事が一段落したら思いつこうと思っています。また新たな楽しみが増えそうです。

「寒い冬 温もる料理 毎日の ように作って 夕餉楽しみ」

  「裏庭の 榎に植えた ヒラタケが 程よく生えて 美味しく食べる」

  「まだ二度目 だけどその味 抜群で 鉄板焼きと みそ汁具材」

  「美味いもの 食べて幸せ 田舎流 人生まるで 楽園のよう」  

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人間牧場

〇新旧のカレンダー

 「ああもうこんな時期か~」と、家のそこここに吊るしているカレンダーを見ながら、酉年のカレンダーの残り少なくなったのを見つめています。書斎の日めくりカレンダーは残り24枚です。またダイニングに吊るした月めくりカレンダーは、今や最後の一枚になってしまいました。さて来年はどうしようと思っている矢先、今年も新しい月めくりカレンダーがあちらこちらから送られて来始めました。

残り24枚になった日めくりカレンダー
残り1枚になった馬路村のカレンダー
木下さんから送られてきたカレンダー

 3日前高知県馬路村農協に勤めている木下さんから、毎年愛用しているカレンダーが2本セットで届きました。開けると見覚えのあるデザイナーが画いたと思われる墨字で、「森林鉄道から日本一のゆずロードへ」と書かれたカレンダーが出てきました。 今年は昨年までと若干様子が違っていて、日本遺産に認定された記念カレンダーでした。このカレンダーは旧暦や農作業メモが載っているので、私にとっては何かと便利で、また空きスペースへ、1か月の予定が書き込め重宝しています。

 昨日、材木屋を営む親類の従弟が「今月の標語」を墨字で書いたカレンダーを持って来てくれました。これも書斎で使っている日めくりカレンダーとともに、毎年愛用している月めくりなので、早速今年のカレンダーの後ろに掛けました。あとは息子が貰って来てくれる予定の日めくりカレンダーが揃えば言うことなしで、新しい年が迎えられそうです。行く年2017年もまあそれなりにいい年でした。迎える来る年2018年もいい年になるよう、努力したいと思っています。

「早いねえ 残り少ない カレンダー わが歳忘れ 思い出浸る」

「相次いで 新しい年 カレンダー いただきました 早速吊るそう」

「来年も いいことありそう 予感する 思うようには ならないけれど」

「来年は 戌年ですと 貯金箱 JA職員 玄関届け」

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人間牧場

〇今年最後の双海史談会

 2か月に1回だから1年に6回だのに、いつもその巡りを早く感じるのは、やはり歳のせいかも知れないと、自分で納得している今年最後の双海史談会が、昨晩地域事務所の3階の会議室で行われました。普通14~15人のこじんまりした普段着で出かけられる勉強会なので、毎回楽しみにして出かけています。今回は事務局を担当している中尾先生から、案内状とともに、明治43年ころに発刊した、「上灘村郷土史第7章・地体」のコピー資料が同封されていて、予習をして参加するよう添え書きがありました。

今年最後の史談会
明治43年発行の上灘村郷土史

開封後、県外出張があったりしたため、全てを読み解すことはできませんでしたが、古文書といいながら崩し字も比較的少なく、読めない字もありましたが、何とか意味は理解できました。開会後早速、磯田先生に手厚くサポートしてもらいながら、みんなで輪読を試みました。今回の「地体」は、上灘川河口周辺一帯の灘町集落形成に関わる興味深い話なので、みんな感心しながら文字を声に出して読みなぞりました。沢山出てきた小字名はいずれ何かの方法で調べてみようという話にもなりました。

気が付けば、私も双海史談会の副会長らしく(笑い)、今年最後の〆のあいさつをするよう中尾先生から指名され、思わずハッとしてしまいました。すっかり忘れていた副会長という責任も果たさないまま、木曽会長さんや中尾事務局長さんにおんぶにだっこで一年を終わろうとしていますが、少し性根を据えて取り組まなければならないと反省しました。私が双海町の教育長時代、合併で双海町という自治体がなくなる前に、双海町史を編纂発行しました。そのことがきっかけで始まった史談会ですが、これからも次の世代に遺し伝える役割を自覚して、しっかりと勉強したいと思っています。

「移住組 定住組より 熱心に 取り組む姿 見習わなければ」

  「古文書は 難し過ぎて 読めないが 少し慣れると 不思議や不思議」

  「予習して 参加をせよと 同封の 郷土史少し 読んで出かける」

  「今晩も また出かけるの 妻が言う 今日行くところ だから教育」(大笑い)

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人間牧場

〇とぎつ生涯学習を考えるつどいに招かれて

 江戸時代、長崎と小倉を結ぶ長崎街道の、彼杵への海路へと至る時津街道として利用されていたという歴史ある、長崎県長崎市に隣接する時津町の「とぎつ生涯学習を考えるつどい」に招かれ出かけました。800人が収容できるという立派なとぎつカナリーホールが会場でした。洋的館内には珍しく和的な民俗資料館が併設され、茶屋本陣も復元されていました。今回のつどいのテーマは「青少年が担う地域づくり~生涯学習の役割~」でした。

つどいの受付会場
カリーナホール内の民俗資料館
民俗資料館内展示

私の演題は「まちづくりの新しい風」でしたが、「ふるさとを思う子どもを育てるために」親や地域がどうあればいいのかについてお話しをしました。私は普通パワーポイントを使いませんが、遠く離れた長崎時津ゆえに、私のやっているふるさと教育や、日常活動をイメージしてもらうため、この日のために58コマもの写真をスライドショーに製作して持ち込みました。故に講演の時間が少し短くなり、舌足らずになったことは否めませんが、ステージで話しながら感じる参加者400人ほどの反応は良かったように思います。

まとめは私が公民館で青年時代に手に入れ、今もその道具を大切に磨きながら使っているた7つの道具について話しました。①仲間をつくる、②主張する、③ふるさとを思う、④感動する人間になる、⑤夢を持ち夢の実現に努力する、⑥学ぶ心を忘れない、⑦社会に役立つ人間になるという7つの教えは、青少年にとっても大切な視点です。ところで長崎に向かう特急かもめの車内で、紙切れの裏に、ボールペンで以下のような走り書きのメモをしていました。

~昔は小学校児童から高校生までを少年といい、中学校で義務教育を終えて実社会に出て働く若者と、高校を卒業して20歳で成人式を迎えた若者が交じり合って、結婚するまでを青年と呼んでいた。今は18歳になると選挙権が与えられても高校生や大学生には青年としての自覚が少なく、青年活動の場がないことからある意味少年の延長線上にいるようで、社会教育の現場で青年の活動する姿を見ることは殆どない。将来の自分の町を担うであろう青年へのアプローチをやらないと、まちづくりはできない。さあどうする。①青年予備軍の今の少年に、青年になってもしっかりとまちづくりに関わるようなふるさと教育をすることが大切。②青年をまちづくり学習やまちづくりに参加させる活動を復活させる。~

「長崎の すぐに隣の 時津町 人口3万 こちらじゃ松前」

  「一口に 青少年と いうけれど 少年・青年 まるで別々」

  「成年の 時に手に入れ 今もなお 使っています 七つの道具」

  「乱雑に ペーパーの裏 走り書き 感じたままを 読み返し見る」

 

 

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人間牧場

〇平和公園を訪ねる

 今回の講演依頼は長崎市のすぐ隣の時津町からでした。教育委員会の担当者から、「博多出発の特急かもめに乗って長崎を目指しますが、降りる駅は一つ手前の浦上駅で降りて下さい。そこからタクシーに乗って・・・」と指示がありました。一便早く到着したので早速路面電車に乗って、平和公園を目指しました。私はここが大好きで、長崎に来れば何度も訪ねている場所ですが、平和の祈りを込めて今回も寸暇を惜しんで記憶の道を辿り、要領よく平和祈念の像の前に到着しました。

長崎平和記念象
東南アジア系の観光客
平和公園の噴水
色鮮やかな平和公園裏の紅葉

 彫刻家北村西望作のこの像は、体全体で色々な主張をしています。垂直に高く揚げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市内の静けさ、立てた足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っています。被ばく10周年の1955年8月8日に完成しています。像の高さは9.7m、台座の高さは3.9m、重さ30tだそうです。訪れた昨日の午前中は、青空が広がる絶好の好天でした。

多くの観光客が訪れていましたが、自撮り棒で撮影したり、大きな声で話しているのは中国系や東南アジア系外国人のようでした。この人たちは70年も前この地に原爆が投下され、多くの人が犠牲になった悲しい出来事など、まるで興味がないような雰囲気でしたが、中には手を合わせて静かに合掌する日本人の年老いた夫婦の姿も見え、幾分救われた気持ちになりました。11時までには時津町カナリーホールへ到着する予定だったので、路面電車に乗り再びJR浦上駅へ戻りました。

「講演の ついでに公園 立ち寄りぬ 70年前 私赤ちゃん」

 「知らずでか 外国人の 人たちは 平和の祈り するでもなしに」

 「浦上と 言えば原爆 思い出す 昭和生まれの 心に深く」

 「記念像 指・足・腕と それぞれに 昨夜の願い 感心しきり」

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人間牧場

弓を引く子どもたち

○子ども体験塾本尊山登山(その2)

少し押し気味の時間を気にしながら下山した私たち一行は、天一稲荷神社の拝殿に上がり、森田館長さんが準備してくれたパンや107のパンを一人2個ずつ貰い、遅めの昼食を取りました。パンはどれも美味しくみんな満足の手合いでした。その後私が事前に用意していた弓を外のダンボール的に向かって放ちましたが、これが予想以上の大人気で、大いに盛り上がりました。弓を欲しいとねだられ、ゲームで何人かの子どもに分け与えました。

 

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人間牧場

〇一斉にこちらを向いて咲くスミレの花

 わが家の玄関先には幾つかのプランターに植えられた花が置かれています。全て植え替えから水やりなどの手入れは、花好きな妻がやっていますが、春は夏花、秋は冬花を植えるため、頼まれてプランターの土替えを手伝っています。今年も晩秋の頃20ほどのプランターを一輪車で運び、花柄や雑草を取った後、庭の隅のコンクリート土間にうつし、苦土石灰や牛糞、新しい土などを加えてスコップで何度も切り返して混ぜ合わせ、空いたプランターに入れました。

一斉にこちらを向いて咲くスミレの花

 その後妻が園芸店で買ってきた花の苗を植えて、妻の指図通りの場所へ置きましたが、この時期になってシクラメンやスミレが活着し、可憐な花を咲かせ始めました。夏の花のように四方に広がる旺盛さや豪華さはありませんが、寒さにも負けず凛として咲く花は愛らしく、殺風景な冬の庭に彩を添えてくれています。昨日何気なく咲いているスミレの花を見ると、まるで人間の顔のようにも見え、一斉にこちらを向いて笑っているようで思わずハッとし、タブレット内臓のカメラで一枚写しました。

 毎年のことながら、師走のこの時期になると厳春の準備として、空いたプランターに葉ボタンを植えます。最近は懇意にしている伊予市の水口種苗店さんから、プランターに植えた葉ボタンをいただくので手間が省けますが、クリスマスに似合うシクラメンに続いて、間もなく植えているサクラソウも蕾を開けることでしょう。花は暮らしに彩を添えてくれます。若い頃海外派遣の研修生を引率して行った、世界一の花の街ニュージーランド・クライストチャーチの、花で飾った庭の思い出が思い出される今日この頃です。

「近頃は 妻に頼まれ プランター 土入れ替えは 少し加勢を」

  「冬の花 派手さはないが 凛として 殺風景な 庭をそれなり」

  「お揃いで こちを向いて 咲くスミレ まるで人面 何か言いたげ」

  「若い頃 海外派遣 引率し 行った外国 花に囲まれ」

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人間牧場

〇航空写真撮影に参加しました

 このところ孫たちが通う由並小学校へちょくちょく顔を出しています。この小学校の学校評議員をしているので、毎月のように学校だよりが届き、校長先生の時期を得た文章を読んで感心したり、子どもたちの様子を紙上で垣間見ていますが、先日学校開校130周年記念事業の一環として、運動場に子どもや父兄が列をなして人文字を作るというので、若嫁に誘われ出かけて行きました。聞くところによると2度も雨で流れた難産の末の企画だったので、PTAや一般参加の人数確保が難しいようなのでとの人員動員でした。

人文字に並ぶ子どもたち
人文字に並ぶPTAや一般参加者
撮影するセスナ機

こんな機会はもう一生のうちでも二度とないだろうと、少しワクワクしながら出かけました。運動場には既に白い石灰で文字が書かれていて、そこへ児童と教職員、それにPTAや一般の人が並ぶのですが、小規模校ゆえ、また3度目の正直ということもあって、それほど多くはありませんでした。9時20分に撮影のためのセスナ機が来ると言うので、早目にリハーサルが行われ、みんな満を持してセスナ機の来るのを待ちました。ところがこの日も撮影時間が近づく頃になると雨がポツポツ降り始め、ヤキモキしました。

 そのうち北東の方からセスナ機の機影が見え始め、その姿と音は段々大きくなりました。教頭先生が「間もなくです・皆さんよろしくお願いします」と声かけ合図し、セスナ機は2度3度上空を低く旋回し、搭乗していると思われるカメラマンが撮影しているようでした。私もかつて役場企画調整室に勤務していたころ、町政要覧用の航空写真を撮るためカマラマンと一緒に搭乗した経験があるので、その様子を想像することができました。ちなみにその時撮った下灘と上灘の航空写真は今でも私たちのダイニングに飾っています。

やがて撮影終了OKのサインが届き、みんなが声を出して手を振り、セスナ機を見送りました。雨も小康状態で何とか持ち、ホッとして散会しましたが、今の校長先生は余程天候に恵まれていないのか、何かにつけて雨男のようだと、みんなで話していました。科学的には行事毎に雨が降るのは何も校長先生が意図的に降らす訳ではないので責任はありませんが、雨を押して行事をやるため、かえって思い出に残る行事になっているようです。「天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」です。

「記念にと 航空写真 撮る企画 雨で流れて 三度目正直」

  「誘われて 人文字の中 入りました 仕上がり写真 どんな姿に」

  「セスナ機が 学校の空 旋回し 航空写真 雨がポツポツ」

  「わが家にも 空から撮った 写真あり 私自身の 力作ですよ」

 

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人間牧場

〇松山西地区防犯協会防犯相談所支部長会議

 「何で私に?」と思われる講演依頼が、防犯協会事務局長さんからありました。しかも演題が「安全安心なまちづくりの推進」で90分間も、ましてや松山西警察署3階会議室で話して欲しいというのですから、二の足を踏むのは当然です。でも私は「呼ばれたら刑務所以外どこへでも行く」とポジティブに考えてしぶしぶ了承し、昨日出かけて行きました。日常の講演は殆どアドリブで話す私なのですが少し気になり、車で走りながら「安全安心」の裏側に隠されている、「日ごろ気になることは何だろう?」と考え、思いついたことを紙に走り書きしました。

 ①人口減少時代と過疎化(急速に進む地方の人口減少、限界集落、空き家問題、ローカルコミュニティの維持、地域文化の継承、買い物難民)、②高齢化社会の到来(100歳まで生きる長寿時代、福祉施設不足、独居老人、家族の在り方、死生観)、③進む少子化(学校の統廃合、地域の教育力、核家族化、子ども社会の崩壊)、④情報化(ネット社会、広がるスマホ利用、ネット買い物、ネット犯罪)、⑤健康問題(食生活の乱れ、増える成人病、ガンの多発・心の病)、⑥増加する凶悪犯罪、⑦環境問題と防災(地球温暖化、原発事故と放射能、頻発する自然災害、南海トラフ)、⑧交通問題(赤字路線切り捨て、遅れている四国の交通、田舎の狭い道)、⑨国際化(トランプ大統領の言動、北朝鮮問題、外国人観光客の増加、テロ)、⑩将来への不安(夢の喪失、減り続ける年金、医療費、迷走する国内政治)。

走り書きしただけでもこんなに喋れることはあるのです。私が現職だった10年ほど前を境に、つまり10年ほど前を潮目にして日本は、伸びる社会(成長の日本)から縮む社会(壊れかけた日本)へと変化しているように思えます。昨日と今日の変化なほとんど感じませんが、こうして10年前と今を比較してみると、まさに「10年ひと昔」の大きな変化に気づくのです。さてどうすると考えると自分の非力さを嘆かざるを得ませんが、①人間的ゆとり、②時間的ゆとり、③空間的ゆとり、④経済的ゆとり、⑤文化的ゆとり、⑥安心安全のゆとり、⑦情報的ゆとり、⑧未来的ゆとりという8つのゆとりを、7つの自覚(自分・家族・近所・仲間・住んでる町・日本・世界や地球)を促しながらしっかりと生きてゆくしかないようです。そんなお話を、ユーモアを交えてしたように思います。

「講演の 依頼のあった その先は 防犯協会 安心安全」

  「講演の 演題聞いて 後ずさり しかも警察 3階だとは」

  「まあいいか 開き直って 熱弁?を 90分も 呆れてしまう」

  「気がかりな ことを社内で 走り書き みんな熱心 眠りもせずに」

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人間牧場

〇干し柿ができました

 今年は柿が大豊作のようで、田舎に行くとあちらこちらで、たわわに実った柿の木をよく見かけます。そんなこともあって富有柿や渋抜きをした柿を知人親類から沢山いただき、毎日のように食後の果物として妻の剝いてくれた柿を、「美味しい」と言いながら食べています。

間もなく食べれる干し柿

柿は加工できないため生のまま食べますが、唯一の加工は干し柿です。今年は妻が近所のお店で一箱150円という、考えもつかない超安値で渋柿を買ってきたので、2人で皮を剝きビニール紐で連を作り、洗濯干し場に干しました。幸いなことに吊るしたその日から北西のかなり強い季節風が吹いたので、カビや小蝿も寄りつかず、順調に推移しています。

一週間前から両手に薄手のビニール手袋をはめ、暇を見つけて干し柿を揉んでいます。干し柿は揉めば揉むほどいいと聞いているので、もう3回どおりも揉んでいますが、お陰様にて黄色かった柿も今ではすっかり飴色になり、もうそろそろ渋が抜けて食べごろのような気がしています。子どものころ渋が抜けるのが待ちきれなくて、親の目を盗んで食べたものの、口の中に渋が残って苦笑いした記憶があるので、もう少し待ちたいと思っています。

昨日学校から帰った2年生の孫奏心が、「おじいちゃん、干し柿はまだ食べれないの?」と言いました。「僕は干し柿がサクランボの次に大好きだから」と付け加えました。干し柿とサクランボを比較する言葉に、ちょっとだけ首をかしげながら、「もう直ぐできるから楽しみにしていてね」と声をかけてやりました。

 「今年は 柿大豊作と 聞き及ぶ 柿の木たわわ 折れんばかりに」

  「毎日の ように食後の 果物は 柿・柿ですよ 食卓並ぶ」

  「渋柿の 皮剥き干し柿 干してます 毎日揉んで 間もなくできる」

  「干し柿が 大好きだよと 孫が言う 私も同じ 柿好き人間」

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