人間牧場

〇郷土の誇り双海剣道会

 昨日の愛媛新聞朝刊スポーツ欄に、双海剣道会が紹介されました。私は県道を習いませんでしたが、私の弟2人は少年時代双海剣道会で剣道を習い、特に3つ下の弟忠行は水戸光武館主催の全国大会団体戦で優勝した、全盛時代当時のメンバーとして活躍しました。

双海剣道会

 そんなこともあって、双海剣道会の初期の頃指導をしていた片岡先生は、練習が終わるとよくわが家へやって来て、剣道会の後援会長だった親父と酒を飲みながら色々な話をしていました。わが家の親父が存命中住んでいた隠居家の玄関には、全国大会で貰った総理大臣佐藤栄作揮毫のタオルが表装して掲げられています。

 親父は剣道会つながりで日本刀に興味を持ち、片岡先生の紹介で知り合った賀茂先生から譲ってもらった肥前兼良作の立派な刀の手入れを怠らず、ガンを患った折筋力の回復を願ってその真剣で居合道に取り組みました。その刀は大切に保管して、長男たる私が受け継いでいるのです。

「太刀振りて 何するものと 人問わば 御国守りぬ 技と答えよ」とは、光武館館長の言葉であり、その短冊も隠居の片隅に大切に掲げています。剣道の胴は普通茶色か黒色ですが、双海剣道会の胴は白色で白胴は珍しく、全盛時代には近隣近郷にその名を轟かせていました。双海剣道会で育った多くの指導者がその教えを今に伝えている姿に敬意を表します。

「新聞の スポーツ欄に 剣道会 凛々しい姿 紹介される」

「弟も 子どもの頃に 剣道を していたゆえに 親父も熱心」

「今は亡き 親父住んでた 隠居家に 剣道痕跡 数々残る」

「リハビリの つもりで始めた 居合道 親父の姿 思い出される」

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人間牧場

〇ウラジロ採り

 正月が近づくと私たちが子どもの頃は親父から、「〇〇日までにヤマクサを採って来るように」と命令口調で言いつけられました。毎年のことなので、どこにヤマクサがあるか本能的に知っていましたが、その場所は早い者勝ちでみんなが狙う場所でもあるので、少し遅れて山に入ると、葉先の痛んでいないヤマクサを探すのにかなり時間がかかりました。

ヤマクサ
ヤマクサの裏はウラジロです

 その後自分の後継者たる息子たちは、そんな苦労をさせることもなく、76歳になった今もヤマクサ採りは「おじいちゃんの役割」として定着し、私の代で終わろうとしているのです。今年もいよいよ押し迫り、しめ縄作りも終わっているので、昨日は歩いてものの5分ほどもかからない、とっておきの場所へヤマクサを採りに出かけ、10分ほどで大小70枚程の山草を採りました。

 私がヤマクサと呼んでいるウラジロは、しめ縄には欠かせないものです。29日に餅をつき、30日に鏡餅やしめ飾りにウラジロと五穀を奉書で包み金糸銀糸の水引で結んで飾ります。採ってきたウラジロは乾燥させないよう少し大きめのビニール袋に入れて保管をしました。今はスーパーなどは正月からお店が開いていて、おせちも外注が多く、買い出しする必要がないのですっかり廃れてしまいましたが、家族総出で正月の準備をした昔が懐かしく思い出される今日この頃です。

「子ども頃 親父に言われ ヤマクサを 森に分け入り 採った記憶が」

「子ども頃 もういくつ寝ると お正月 指折り数え あれこれ準備」

「ヤマクサを 採って来るのは じいちゃんの 仕事となって 久しかりけり」

「あと何年 生きるだろうか 来年も 多分元気で ヤマクサ採りに」

 

 

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〇勉強ができなくても夢があれば人生は楽しく生きられる

 親父やおふくろが生きていた頃、小さい頃の私はどんな子どもだったか聞いたことがあります。両親によると私は小さい頃、小学校へ入学するというのに、10の数も数えられず、自分の名前さえも書けない子どもだったようです。そんな低知能を気遣った両親は入学式の前日、浜から小石を拾って来てどうにか10まで数えられ、反転文字交じりながらひらがなで。自分の名前を書けるようになったそうです

 そんなこんなの低能少年だったので、小学校4年生頃までの記憶はそんなに残っていませんが、小学2年生の時学校校庭にあった二宮金次郎の銅像台座、に「金次郎さんは何の本を読んでいるのか?」不思議に思いよじ登った所を、運悪く校長先生に見つかり、お仕置きをされたりしましたが、以来国語が好きになり、小学校5年生の時図書室で読んだり、誕生日に担任の先生からプレゼントしてもらった、「ジョン万次郎の生涯」という本の影響を受けて、いつか太平洋を航海したいと淡い夢を抱くようになりました。

 その「夢」は現実となり、遊学した宇和島水産高校の実習船愛媛丸で赤道を越えて珊瑚海へ、30歳の時青年の船日本丸で日付変更線を越えて建国200年のアメリカへ行くことができました。国語の文法やサ行の二段活用が不得意でも、今では人の前でお話ができるし、算数の計算や図形のあれこれができなくても買い物や支払いができるし、理科の二酸化ナトリウムの化学式が分からなくても、社会の出来事年号なんか覚えられなくても、76歳の今日を一市民一国民として不自由なく生きれるのですから不思議です。

 かたや通知表において一・二を争った優秀な同級生たちは上級の学校へと進んで、学歴を身につけてそれなりの出世をしたようですが、総理大臣になることもなく、それなりの人生を歩んでいるようです。お金や地位があって誰が見ても幸せそうに見える人でも友だちもなく、深い悩みを抱えている人もいます。「幸せとは幸せと感じる心」、「夢亡き民は滅びる」です。

「低能な 少年時代 過ごしたが 何とかなるもの こうして生きてる」

「文法も 計算図式 化学式 年表さえも 分からぬままに」

「人生の 通知表なら 努力賞 貰える自信 大いにありて」

「夢を持ち その実現に コツコツと 努力をすれば いつかは幸せ」

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◯私は出張料理人?

 今朝アメーバブログに親父の形見の包丁の話を書きましたが、今朝魚屋さんに頼んでいた天然の真鯛とききょうイカが2箱届きました。早速東京送りの真鯛を家の裏屋外流し台でさばき、ジップロックの袋に入れて発泡スチロールの箱に氷と保冷剤を入れて荷造りし車に積み込みました。

 さてもう一つの箱は静岡に住む次男の妻のお兄さん宛に送る予定なので、松山市堀江角福町の実家へ親父形見の包丁を持ち込み、まるで出帳料理人のように粗調理をしました。お父さんはあいにく留守でしたが、私の包丁さばきにびっくり仰天の面持ちでした。

 粗調理した魚は発泡スチロールの箱に保冷剤とともに入れられ、お母さんによって東京行の魚とともに宅配会社に持ち込まれ、午後の便で送られました。宅配会社によると明日の午後には相手の所へ届くようです。今日もあれやこれやと忙しくも充実した一日でした

 現職を退職して早くも16年があっとという間に過ぎました。何するでもなく、何の成果も出せぬままの16年でしたが、それでも念願の人間牧場を造るなど、少なからず進歩もありました。少なくともこの一年間は新型コロナの影響で暮らし方も一変し、今まで見えなかった身の周り様子に気がつくことが多くなり、これからの暮らしの視点が変わりそうな予感がしています。コロナに感謝です。

「隠居から 親父の形見 包丁が 2本見つかり ワクワクしてる」

「田舎から 都会に送る 新鮮な 魚を調理し 宅配便で」

「この私 まるで出張 料理人 包丁持って 知人の家に」

「コロナ禍で 見えないものが 見えてきたこれから生き方 面白そうだ」

 

 

 

 

 

 

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◯今年最後の散髪

 今日は所要で松山へ出かけた帰り道、国道沿いの伊予市街にある散髪屋の前を通りました。いつもお店の前の駐車場にはお客さんの車でいっぱいなのに、午後1時ころだったため車が2〜3台でした。

 所要も済ませていて別に急ぐこともないので、「そうだ散髪をして帰ろう」と思い、次の信号をUターンして散髪屋さんに立ち寄りました。入り口で手指消毒をして中へ入ると、2〜3人の人が待合室で待っていました。

 日常は朝9時の開店時に出かけても1〜2時間待ちなのに、今日はラッキーにも僅か20分程で呼び込まれ、散髪が始まりました。いつもは髪を切ってくれる店員さんはお休みなのか見当たらず、手の空いた店員さんに、「どのように刈りましょうか?」と聞かれました。

 店員さんがお客さんの髪型を共有しているのか「いつものように」と言っただけで、「分かりました。3枚スポーツ刈りですね」と聞き返し散髪は始まりました。バリカン仕様であっという間に毛剃りも終わり、1210円を支払って帰りました。

 長年地元の散髪屋さんでお世話になっていましたが、ご主人が亡くなりやむなくお店を変わりました。新しいお店は「早い・安い」が売りなので、許せる間は当分この店に通おうと思っています。

「帰宅する 途中立ち寄る 散髪屋 いつもと違い 待ち時間なく」

「どんな髪 いつものように 言っただけで いつもと同じ 男前なる」

「散髪料 安くて時間も 短くて 昼寝する間も ないのが不満」

「帰るなり 目敏く私の 髪型を 見つけて褒める 孫は天才」

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〇物忘れがひどくなった

 昨日お地蔵さんのお接待の赤飯を、下灘まで届けに行こうと軽四トラックに乗りました。いつものように免許証をポケットに入れたものと思い込んだものの、ポケットの中はどこを探しても見つかりませんでした。一旦エンジンスイッチを切って、「はてな?」と再度家の中に入り、記憶のフィルムを巻き戻しながらあちこち探しましたが見つからず、行くのを断念しようとした矢先、出る前作業用ジャンバーから外出用ジャンバーにを着替えたこと思い出し、やっとのことで見つかりました。

 最近は置いた場所を忘れ探し物をする無駄と思える時間が増えてきました。忘れない基本は使った後、元の決まった場所へ置くことなのですが、ついついチョイ置きするため、見失ってしまうのです。携帯電話なら別の携帯電話で呼び出せば着信音を頼りに探すことも出来ますが、免許証や財布などはものを言わないため、今回のような失敗を繰り返すのです。物忘れはある意味歳のせいだと思って諦めていますが、歳をとっても物忘れしない人もいるのですから、日常の暮らし方かも知れません。

 私は妻が驚くほど人の名前と顔をよく覚えています。外出先で「若松さん、お久しぶりです」などと声をかけられることはしょっちゅうで、その都度私の脳内カンピューターが働き始めるのです。一番困るのはパソコン操作で、何度教えてもらっても覚えられないし、また整理整頓ができていないため、パソコンに記憶させた情報をどこにしまったか思い出せず、困惑してしまうのです。

 そんなことを考えていた矢先の今朝、「覚えたことを2度と忘れない最も良い方法は?」という見出しがパソコン画面で目に留まりました。物忘れ以前の問題として覚え方、記憶の定着度から学ばなければなりません。せめて忘れ状がよくなったことを年齢のせいにしないよう、頑張ってみようと思っています。

「外出時 ジャンバー着替えた こと忘れ ない・ない・ないと ポケット探す」

「外出時 携帯義務の 免許証 やっと見つかり 安堵の胸を」

「歳だから 仕方がないと 思ってる 生きてることすら 忘れるかもね」

「新しい ことを覚える その前に 覚えてること 忘れないよう」

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〇壊れかけた紙芝居の箱

 日本では一年間の出生数が100万人を割り込み、色々な施策を講じてはいますが焼け石に水で妙案も見つからず、日本の将来に暗い影を投げかけています。日本列島のあちこちでは少子化を理由に毎年のように学校が統合されたり廃校になっています。

紙芝居の箱

 統廃合された学校の幾つかは、統廃合時地元から出されていた要望や条件に沿って、福祉施設や地域づくりの拠点として再利用されていますが、中には再利用の条件である耐震基準をクリアーできなかったり、平成の合併などのどさくさでその約束さえも守られず、未だに手が付けることもなくゴーストタウンのような醜態をさらけ出しているもののもあるようです。

 先日、ある廃校となった木造の学校が、危険になったため近々取り壊されるという話を友人から聞きました。廃校になった折備品類は統合された学校に引き継がれ再利用されていますが、古くて使えない道具類はそのまま残されていて、やがて取り壊し工事の折重機のキャタピラーで無残にも踏み潰され、処理場へと運ばれるものと思われます。

 取り壊しを前に学校で育った地元の人たちが昔を懐かしむため中に入ったそうですが、教室の片隅に紙芝居の箱を見つけたようでした。埃にまみれ、金具は錆びて一部壊れていました。懐かしくなり貰って帰ったそうです。さりとて使うことも出来ず、結局回り回って私の元に届きました。

 貰った私も既に紙芝居の箱は近年、知人に立派なものを作ってもらって使っているので、はてさてです。さりとて長い歴史を紡いできたこの箱の物語を絶やすことも出来ず、正月休みを利用して少し手入れをしてみようと思っています。そして願わくば紙芝居を作り一度地元の人たちに見せてあげたいと、淡い夢を持ち始めています。

「学校が 日本の各地 消えて行く 何とも寂しい どうしたものか」

「再利用 されることなく そのままで ゴーストタウン 見るに忍びず」

「取り壊し される学校 キャタピラー 踏み潰されて 跡形もなく」

「紙芝居 壊れた箱が 届きたる 命吹き込み 地元凱旋」

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◯クリスマスツリー

昨日の夕方お墓参りに出かけた八幡浜から大洲を経由して帰る途中、肱川沿いの道を長浜市街に向けて走っていると、いよ出石駅付近にかかる新しい大橋の向こうにクリスマスツリーの明かりが見えました。一昨年偶然にも通りかかった時に見た記憶が蘇り、左折して大橋を渡り訪ねて見ました。

今年は新型コロナの影響でしょうか?、昨年のような派手さや賑わいはなく、落ち着いた雰囲気でしたが、それでも洗練された飾り付けに感心しながら、妻と二人でゆっくり歩きながら見学をさせてもらいました。途中一軒の家の庭では、電子ピアノを用意して家族でミニミニコンサートをしていて、頼んで聞かせてもらいました。

今年はわが町双海町のシーサイド公園もリニュアル工事を行っていて、名物だったサンセットロマンチッククリスマス「サンタが空から降りてくる」もやることができず、寂しい思いをしていましたが、何となくほのぼのとした気持ちになりました。クリスマスはもうすぐです。

「帰り道 かすかに見える 電飾の 光につられ ツリー見学」

「わあ綺麗 寒さを忘れ 二人見る 誰が飾った 知る由もなく」

「庭先で 電子オルガン 弾く家族 頼み聞き入り 控えめ拍手」

「今年は わが町名物 クリスマス できず悶々 少しスッキリ」

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〇20年という歳月の流れ

 私は宇和島水産高校漁業科を卒業しています。ゆえに私たちの同級生の殆どは、漁船に乗って色々な海で活躍したと思われますが、ゆえに残念ながら35人いた同級生とはその後殆ど会うことも交流することもなく、今日に至っています。恐らく過酷な海の上での仕事なので早々と船を降りて、75歳を過ぎた後期高齢者ゆえ、多分陸に上がり日本のどこかで穏やかに暮らしているものと思われます。

 他校に学んだ人たちはよく同窓会をしたと、同窓会の模様が新聞に紹介されていますが、残念ながらその同窓会も新型コロナの影響で投稿する写真が揃わないのか、コーナーは休眠状態のようです。そんな中にありながら、唯一宇和島水産高校の大先輩である玉井恭介さんとはこの20年余り、親しい付き合いを続けています。

 私が玉井さんと出会ったのは、ある研修会後の呑み会でした。当時広告代理店に勤めていた玉井さんとすっかり意気投合し、その後玉井さんは私に「本を出さないか」と勧めてくれました。「金がない」「暇がない」「能力がない」と渋る私に、ある意味強引と思えるアプローチをかけその気にさせられました。

 玉井さんがプロデュースしてくれた「昇る夕日でまちづくり」の出版記念祝賀会を、本町会館7階のテルスターホールに250人を集めて行いましたが、運命の悪戯かその日、母校である宇和島水産高校の漁業実習船えひめ丸が、ハワイ沖で米軍潜水艦と衝突し9人の尊い命が亡くなり、パーティーは悲しみの余韻を引きずりながら終わりました。

 玉井さんは絵も描けるし書も書けるし歌も歌えるし、文章表現に長けた博学な人なので、事故の顛末を鎮魂歌「希望海」という曲に表現作詞し、名のある作曲家が曲をつけ、男声合唱団の力を借りて発表し、当時は県内でも大きな反響を呼びました。しかし来年2月10日で20年を迎える時の流れはえひめ丸事故をも風化させ、残念ながら鎮魂歌「希望海」も風化の風に翻弄されつつあるようです。

 昨日久しぶりに玉井さんから電話があり、「希望海という歌を知人の女性にチェロで演奏してもらったので聴いて見て」と電話口で聴かされました。哀愁を帯びたチェロの音色が良く似合う希望海という歌は、自らも初代愛媛丸に乗り遠洋航海に出かけた経験のある玉井さんの生きざまそのままだと、同じく初代愛媛丸で遠洋航海に出かけた経験のある私ゆえ、納得の手合いでしたが、20年の歳月は寂しいことではありますが、一つの時代の終わりを告げているようにも思え、心の中によき思い出としてしっかりしまっておこうとお話をして、長い電話を切りました。

「同級生 音信ないが 大先輩 何かにつけて 導き指導」

「自費出版 本を出しては 勧められ 昇る夕日で まちづくり出版」

「20年 前に突然 えひめ丸 出版記念日 沈没事故が」

「チェロ演奏 希望海聴く 名曲だ 残念ながら 歳月風化」

 

 

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〇人間行脚の小さな旅(その3-西予市明間の佐藤さん)

 1ヶ月ほど前、愛媛新聞のお悔やみ欄に長年の親友で、西予市宇和町明間に住む佐藤正治さんの訃報が載り、突然の訃報に驚きました。新型コロナの影響で葬送を済ませていたし、少し遠いので気になりながら日々を過ごしました。

 佐藤さんとは30年来の付き合いで、宇和町の観音水を名水百選にしようと他薦自薦運動を起こした時、その片棒を担ぎ佐藤さんたちとともに奔走した結果、見事観音水は名水百選という称号を勝ち取ったのです。佐藤さんはその観音水の直ぐ近くにアマゴの養殖場を造り、2倍体、3倍体のアマゴを飼育するなど大活躍で、その技術はその後水産高校に進んだ息子さんに引き継がれ、今に至っています。

 佐藤さんは愛護班活動にも積極的に取り組み、愛媛県の愛護班連絡協議会の会長として活躍し、その功績で愛媛県文化功労章を受章しました。佐藤さんは私のメル友で、私のことを年下なのに「進兄」と呼び、毎月決まったように携帯電話で音信を伝え、二人で他愛ない話をしました。息子家族と同居し孫とのふれあいもあることを「これ以上の幸せはない」と喜んでいましたが、2年前に宇和町明間も西日本豪雨災害に遭い、心労が重なったのか、やせ型ながらあれほど元気だった体調を崩し、最後は誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。

 2年前豪雨災害の見舞いのために浜田さんと二人で佐藤さん宅を訪ねましたが、今回も浜田さんと二人で遺影との出会いとなってしまいました。運よく顔見知りの奥さんと息子さんも在宅だったので、香典と線香を供え冥福を祈りました。享年81歳という年齢は若いとは思いませんが、もっともっと長く生きて欲しいと思いました。

 佐藤さんの案内で希しくも10数年前のこの時期野山に分け入り、つるを頼りに自然薯を掘り、公民館の調理室ですりおろし、地元の有志と破顔一笑の大酒盛りをした思い出は忘れることはできません。南予人特有の開けっ広げな佐藤さんからの携帯電話が懐かしいこの頃です。

「お悔やみ欄 親友訃報 驚きぬ お別れせずに 悶々の日々」

「2年前 豪雨災害 お見舞いに 出かけた時は 元気だったが」

「進兄と 私を呼んで くれた人 今は冥途の 長い旅路に」

「また一人 私の親友 姿消す 今度は私? 順番近し」

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