人間牧場

〇妻の同級生を訪ねる
 妻の同級生は旧瀬戸町三机に住んでいます。三机と言えば太平洋戦争の開戦となった真珠湾攻撃に参加した、潜水艦の極秘訓練地として知られていますが、10軍神の慰霊碑のある港の近くの邸宅は田舎らしい設えで、敷地内にゲートボール場まである何とも羨ましい広さです。誘われるまま居間に上がってお茶やお菓子をいただきながら、積もる話に花を咲かせ親交を温めました。

 その内桜の咲く庭を夫婦に案内してもらいましたが、手入れの行き届いた花咲く庭を堪能し、夕方ということもあり早々にお暇しました。帰路に就いた途中忘れ物をしたこと思い出し、引き返すというハプニングに出会い大恥をかきましたが、無事午後8時頃自宅へ帰ることができました。昔は船でしか行くことができなかった三崎半島も、道が良くなりごぜヶ峠のトンネルが抜けて、車で1時間程度で妻の友人に会えるのですから隔世の感です。

 しかし年齢を重ねつつあるため、もう間もなく車の運転ができなくなると、こうした離れ業のような形で出会うこともできなくなります。たとえウクライナ情勢の混沌でガソリンが多少高くても、今でしかできない友人との出会いを大切にしたいと、相変わらず暇を見つけ妻と二人で出歩いています。特に妻の同級生は車の運転ができないため、私たちしか近寄ることができないので、またの出会いを今度はわが人間牧場に案内しようと、二人で話しました。

「旧瀬戸に 住んでる妻の 友人と 嬉しい出会い 妻も満足」
「宅地内 ゲートボール場 まであって 何とも長閑 羨むほどに」
「こんな場所 住んでみたいと 思いつつ わが家も同じ 人が羨む」
「忘れ物 帰りの道を 引き返す 春は駆け足 夫婦も駆け足」

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人間牧場

〇甘夏柑のシーズンがやって来ました
 わが家の家庭菜園の横には果樹園があります。果樹園と言っても柑橘王国愛媛らしく、農薬散布や手間が少なくてすむ甘夏柑が主体で、格好良く言えばオーガニック栽培です。昨年は2度の入院などで摘果など全く世話をしなかったため、小玉が鈴なりで、その処理をどうしようか迷っています。

初収穫した甘夏ミカンとオーガニックレモン

 農家から貰ったデコポンや伊予柑などの晩柑雑柑類が底をつきました。これから当分は樹上で越冬した甘夏柑の登場です。昨日わが家に同居している鬼嫁(失礼)若嫁に頼まれ、「甘夏柑でマーマレードを作りたいので、10個ほど収穫して欲しい」と頼まれました。早速畑に入り、大きい実を選んで10個余り収穫し、ついでにこれまたマーマレードづくりには欠かせない、オーガニックのレモンを3~4個収穫し手渡しました。

 若嫁は料理や加工が得意で、これまでにもイチジクやスモモ、ブルーベリー、イチゴを使ったマーマレードやジャムを沢山作り、知人や友人にお裾分けするマーマレード外交をやっていて、これからは足繁く甘夏柑を使って加工し始めます。私は妻が暇を見つけて皮を剥き薄皮を取って実だけにしてタッパーに入れ、冷蔵庫で冷やしただけの甘夏柑を、おやつ代わりに食べるのが楽しみです。少し酸味がありますが後口が良いので、これから夏に向かって楽しみながら食べる予定です。

「聞こえいい オーガニックと 言うけれど 世話せず放任 たったそれだけ」
「雑柑の 季節が終わり 樹上にて 越冬甘夏 いよいよ出番」
「鬼嫁に 頼まで甘夏 収穫し レモンとともに ジャムなど加工」
「皮を剥き 冷やして食べる 甘夏も 私大好き くれからが旬」

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人間牧場

〇叔母の日記と私のブログ
 亡くなった親父は2人兄弟の長男でした。ゆえに私には沢山の叔父や叔母がいましたが、末の叔母が私と1つだけ違う年上の78歳ですから、すでに叔父や叔母も黄泉の国へ旅だったり高齢になっています。昔の貧乏な時代のことゆえ、叔父や叔母は中学校もロクに行けず、学歴など全くない人生を過ごしてきました。

 しかし、どこで学んだのか分かりませんが末娘の叔母は新聞のてかがみ欄や門という投書欄に度々載って、毎回楽しく読ませてもらっています。今朝近所に住む85歳になった叔母とウォーキング途中にばったり出会い、立ち話をました。叔母は近所で行われているラジオ体操会に入っていて、毎日毎朝欠かさず出かけていますが、「元気でボケない秘訣は体と脳を動かすことだ」と言い、とりとめもない日々の暮らしを日記に書いているのだそうです。

 叔母の書いている日記はアナログなので、読むことは出来ませんが、私の書いている日記風ブログは読もうと思えば他人でも読めますが、デジタルゆえ、デジタル手段を持たない叔母は読むことができないのです。それでも私と叔母は自己満足の範囲ですが、他愛のない日々の出来事を書き綴っています。

 文字を書いたり打つことは、確かに脳を刺激するようです。ましてや日々の暮らしを振り返ることによって、記録は記憶として残るのです。かく言う私も高卒程度の学歴しかないため、深堀したり広範囲な知識は望むべきもありませんが、それでも学習歴を積み重ね、人から見れば平凡ながら楽しい人生を過ごしています。年齢ではなく学歴でもない自分なりの生き方を、お互いこれからもしようと立ち話をして別れました。

「叔母2人 貧乏ゆえに 学歴も ないがしっかり 生きてる立派」
「ウォーキング 途中でばったり 立ち話 脳と体を しっかり鍛え」
「人様に 迷惑かけぬ 生き方を したいものだと お互い話す」
「学歴も お互いないが それなりに 日記やブログ これでいいのだ」

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人間牧場

〇鶏舎の移築完了(その2)
 鶏舎の屋根部分は、とりあえず車の荷台に積んで持ち帰り、下の田んぼを引きずりながら畑までやっとの思いで移動させ、とりあえず仮置きしてから何日か過ぎました。足繁く春の雨が降るようになり、思わぬ突風被害で組み立て途中の柱や板壁が吹き飛ぶ被害にも遭いましたが、何とか再起動しどうにか屋根を乗せる作業準備ができました。屋根は重たくて少なくても6人の尽力が必要なので、大工さん、息子、孫2人、浜田さん、それに私を含めた人員も何とか確保できたので、昨日は午前8時からいよいよ作業を開始しました。



(石垣の上にお目見えした小屋はまるでお城のようです)

 畑にミカンのキャリーを置いてその上に足場板を置き、一寸ずらしで屋根を移動させました。鋼管パイプを敷き、上で滑らせて柱のホゾをホゾ穴に入れる算段ですが、これが中々言うことを聞いて入らず、大工さんが大きな木製カキヤで叩いてどうにか入れてくれました。2時間ほどで屋根上屋が乗り、締めのネジ釘を打って何とかとりあえず念願の移築を終え、ホッと一息つきました。昼食時を迎えたので、上棟を祝ってみんなで魚吉というレストランに出かけ食事をしました。

 その後帰宅し、風で吹き飛ばされないよう4隅に鉄製アンカーを打ち込み、電線の廃材を使ってしっかりと固定したり、隙間に胴縁材を打って夕方一通りの作業を終えました。残った金網取り付け作業は今日にでも、大工さんにお願いしていた端材を取りに行き、取り付ける算段です。この日のためにやった訳ではありませんが、今年の春先1週間をかけて菜園下の高い石垣の草取りをしました。下道から見ると石垣に映え、手前味噌ながらまるでお城のようにも見えました。これから周辺の修景を整備する予定です。また新たな伝説が加わりました。

「6人が 力合わせて 屋根乗せて 何とか移築 完了しました」
「石垣に 映えて鶏舎は 蘇る まるでお城だ 自慢たらたら」
「移築した 鶏舎を使い カブトムシ 養殖すべく 早速準備」
「お祝いを 兼ねて近くの レストラン 食事しながら みんなで夢を」
「大風に 飛ばされないよう 杭を打ち 電線廃材 しっかり固定」

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〇私は持てないはずだ!!
 昨日妻と食事をしながら、「どうしたら持てるか?」という他愛のない雑談をしました。女性から見た格好いい男性の第一は身だしなみだそうです。身だしなみには①着ている洋服、②肌つや、③髪型などが挙げられますが、私の場合着る洋服を自分で買った記憶はなく、私のスタイリストは妻なので、妻の買った物を着ています。短足胴長という旧日本人の体形をしているため、たとえ妻が買ってくれた似合いそうな洋服でも着こなしが今一で似合わないため、①の洋服は×印です。

 肌つやはアウトドア―派で戸外で作業をするため、顔は日焼けし年齢を重ねるごとに顔のしわも深くなり、肌にクリームなどを塗ったことは散髪屋で塗って貰う程度なので、②肌つやも×印です。髪型はショートカットゆえ概ね1ヶ月に1度散髪屋へ行きます。風呂に入ると毎日シャンプーでゴシゴシ頭を洗い、ドライヤーも必要ないためタオルで拭いて一丁上がりで、整髪のための化粧品は全く使わないので、③の髪型も×印です。

 結局のところ私は身だしなみの3つの条件全て×印でした。持てないはずだと納得しましたが、これから先もこの条件の改善は見込めず、私の人生は「もてない男」のレッテルを貼ったまま終わりそうです。でも妻が言うのには「大丈夫、私だけには多少諦めても持てるからね」で多少ですが救われました。あ~あ~です。わが家の同居している内孫は今度中学3年生だというのに、身長も180㎝あり、足が長く格好いい少年で、見た目私とは月とスッポンです。

「持てたいと 思っているが 何故持てぬ 持てないはずだ 身だしなみない」
「これからも もてない男の レッテルを 貼って人生 終わりそうです」
「妻曰く 持てなくていい 私だけ それで十分 少し気が楽」
「見た目より 心が大事と 慰めて 今日も元気に 明日も笑顔」

 

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人間牧場

〇新月の大潮のワカメ採り
  わが家書斎に吊るしている日めくりカレンダーの昨日4月1日は、月こそ違え1日が旧暦と新暦と偶然重なる3月1日でした。新月は大潮で、午後3時過ぎ干潮を迎えるため、昨日は来客が帰った後、急いで身支度を整えワカメを収穫しに磯に出かけました。

 平日とあって、しかも海は少し風や波もあったので、私とっておきの場所には人影もまばらで、30分ほどでしたが専用の漁網袋に2個収穫し、単車の後ろに積んで持ち帰りました。早速色い発泡スチロールトロ箱に入れ直して、毎年届ける知人友人にお裾分けして喜ばれました。

 帰宅すると庭に移動式のかまどを出し、羽釜に水を張ってお湯を沸かしました。お湯が沸くまでにポリ容器でワカメを丹念に水洗いし、ワカメをお湯の中に入れて湯通ししました。茶色だったワカメは化学反応を起こして濃い緑色に変りますが、丹念に水洗いをして水気を切り、一丁上がりです。

 今朝はこれらを小袋に入れて近所へお裾分けする予定です。余ったワカメは専用の洗濯干しに吊るして干しワカメをにしますが、昨年は外反母趾の手術間近だったこともあり、ヒジキもワカメも採ることができませんでしたが、今年はヒジキもワカメもゲットし自給率向上に一役かいそうです。

「板壁に 吊るした日めくり 新月の 1日と知り 早速磯へ」
「磯に出て ワカメをゲット 持ち帰る お湯を沸かして 湯通しおさおさ」
「湯通しの ワカメあちこち お配りし 春を味わう 年中行事」
「天気良し 今日はワカメを 天日にて 干して仕上げて 食用保存」

 

 

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人間牧場

〇ふたみ公民館だより「ゆうやけ」
 一昨日、人間牧場へ来る予定の人と待ち合わせ場所にしていた、下灘運動公園で待っていると、何人かのかつて若かった女性4~5人が連れ立って、私の前を通りました。最近はみんなマスクをしているので、どこの誰だかも分からず軽く会釈すると、「あら、進ちゃんじゃないの、お元気」と弾んだ声が返ってきました。

 私を愛称「進ちゃん」で呼ぶのですから同年代に違いないと、私の感ピューターが動き始め、4~5人全ての名前を思い出しました。まだまだ健忘症や認知症ではない凄い記憶力です。暫くの間立ち話に花を咲かせましたが、「いつも広報などであなたのことは知ってるよ。昨日も広報に出ていた」と言われました。「はて私は最近伊予市の広報になど載っていないはずだが?」と思ったものの、「ありがとうございます」とお茶を濁しました。

 別れた後記憶を辿れば、おばさんたちが言っていた「広報」とは、どうやらふたみ公民館だより「ゆうやけ」のことのようでした。市の広報は市内全域をカバーした広報ゆえ、このおばさんたちにとって最も身近な話題は、双海地区公民館が毎月発行している「ゆうやけ」のようでした。市広報には載らない双海町内の話題を館長さんや主事さんの3人で拾い集め、しっかりと情報発信しているのです。

 かつては2色刷りの半カラーでしたが、予算の都合上今はモノクロながら、十分存在感を保っています。かつて私は町の広報「ふたみ」を毎月2回、10年間にわたって作り続けました。お陰様で文章を書くことが苦にならなくなりましたが、4ページの広報を取材して毎月作り、各家庭に送り続けることは容易なことではありません。公民館だより「ゆうやけ」が来るのを楽しみに待っている人がいます。これからも頑張ってください。

「あら進ちゃん 元気ですかと 会釈する マスクしていて どこの誰だか?」
「そう言えば 感ピューターが 働いて AさんBさん 馴染みの人が」
「広報に 載っていたなと 言われたが 記憶ないゆえ チンプンカンプン」
「公民館 だよりに載った わが写真 みんな読んでる 嬉しいですね」

 

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人間牧場

〇報徳という雑誌の4月号に寄稿が載りました
 大日本報徳社の鷲山恭彦社長とのご縁で年会費1万円を納め、昨年報徳社の社員となりました。社員になると日本で最も古い4本の指に入る「報徳」という月刊紙が送られてきます。元々は私が塾長を務めている年輪塾に、当時東京学芸大学の学長だった鷲山先生をお招きしたご縁などもあって、昨年の新春号の巻頭言に鷲山社長さんが私のことを書いていただき、急にご縁が再開されたのです。

 その報徳という雑誌の4月号に、「特集:2021年・令和3年度新入社員メッセージ」という企画があり、寄稿を頼まれました。私以外の誰が寄稿するのかも分からぬまま、恩もあるので快諾し、ショートな文章なので早速自分の似顔絵イラストとともに編集人宛に送りました。年度末の慌ただしさで、原稿を送っていたことなどすっかり忘れていたら、送られてきた雑誌報徳4月号に掲載されていて、他のメンバーの蘊蓄ある文章に比べ、軽薄な私の文章に赤面するばかりでした。

 私の文章題は「積小為大」です。小学校2年生の時地元の母校である下灘小学校の校庭にあった、二宮金次郎の銅像によじ登ったことから始まる来歴などを書いています。言ったことは録音や動画保存してない限り人の目や耳に触れることはありませんが、文章に書いたものは人の目に触れて拡散します。あとから気がついても後の祭りでしょうが、私の値打ちはこの程度だと自戒しました。そのことをしっかりわきまえて勉学にいそしみたいと思っています。

「報徳と いう名だたる 雑誌載る 自分の書いた 原稿軽薄」
「文章は あちらこちらに 拡散し 人目に触れる 注意しないと」
「今頃に なって気づいた 愚かさよ 後の祭りと 言うのでしょうか」
「この歳に なつても未だ 進歩無し 多分このまま 一生終わる」

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人間牧場

〇桜が間もなく満開です
 一昨日町外に住む親しい友人から「双海の桜の咲き具合はどう?」と電話がかかってきました。聞き及べば松山市内の桜は満開に近く、桜の名所道後公園には連日多くの花見客が押し寄せているそうです。さりとて新型コロナ・オミクロン株の感染者数も高止まりが続き、一向に減らない日々の感染者数に心が曇り、人混みの中へは行きたくないので、「双海くらいが丁度いい」と思ったようでした。

 このところ年度末で、退任者の来訪が相次ぎ、町内の桜の咲き具合がどれほどなのか見てみたいと、早速修理を終えたバイクを走らせ、昨日の夕方桜の名所ふたみふれあい公園まで出かけました。昨日は少し春霞がかかっていて、海や空の青とのコントラストは見えませんでしたが、桜の咲き具合は8分咲きといったところでした。多分この陽気だと今日か明日にでも満開を迎えるだろうと、早速折り返して友人に花見誘いの電話をしました。

 春の花、特に桜はパッと咲いてパッと散る潔さが魅力ですが、年度末年度初めの忙しさにかまけていると、折角咲いた桜の満開を観ずに、また写真に収めることもなく終わってしまいます。退職して17年、何がどうしてこんなに忙しいのか分からぬまま、今年も相変わらずの日々です。超高齢化社会を迎え、100歳まで生きれる時代がやって来たとはいいながら、はとてそこまでは生きれないことを考えれば、余命尽きるまでに幾度桜の花を見ることができるのか?、心もとない話です。今年の桜をしっかり目に焼き付けようと、馬鹿なことを思いつきました。

「咲いてるかい 友人電話 聞かれても はてさてどうか 首をかしげる」
「松山じゃ コロナ感染 数減らぬ 花見のニュース 大丈夫かな?」
「修理した 単車走らせ 咲き具合 8分~9分 間もなく満開」
「あと何年 桜が見れる 両手指 折りつつ余命 短さ思う」

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人間牧場

〇八幡浜ミュージカル劇団旗揚げ公演「二宮忠八物語」観劇
先日パソコンに、友人の二宮さんから、「ミュージカルを観に来ませんか?、よければチケットを送ります」という優しい書込みがありました。予定表を見たところ3月27日(日)の午後5時からだったら、妻も私も行けるかも知れないと思い、甘んじて申し込みをさせてもらいました。やがて3日前に私信にてチケットが送られてきました。

 八幡浜は妻の実家もあるので、少し早めに出て実家に立寄り話をしていると二宮さんから電話が入り、三嶋神社に車を止めるよう指示されました。神社の境内に入ると、宮司をしている二宮さんのご主人と、それにお母さんに加え、川之石公民館長の菊池さんがお揃いで迎えてくれました。聞き及べばお母さんは過去に私の講演を何度か聞いているらしく、私の「昇る夕日でまちづくり」という自著本も手元にあって読んでいるとのことでした。

 夕暮れ時の社殿前で記念撮影をしたり立ち話で談笑した後、菊池さんの車でゆめみかんまで送って貰い、2階サブホールへ入り、少し広めのディスタンスを取った指定席に付き、トライアル公演「二宮忠八物語」を1時間10分にわたって観劇しました。妻の実家の苗字も二宮で、日本飛行機の祖と言われる二宮忠八との遠い縁戚でもあるようで、親しみを込めて大きな拍手を送りました。

 私たち夫婦の次男一生も高校時代から10年余り、松山を拠点に活動していたイリュージョンというミュージカル劇団に所属して活動していたので、毎年松山市民会館ホールで開かれていた定期公演を観劇していて、久し振りのミュージカル公演は、当時を懐かしむよい機会となりました。

「友人の 誘いを受けて ミュージカル 公演観劇 妻と二人で」
「ゆめみかん サブホールにて ディスタンス 二宮忠八 物語観る」
「講演を 2回も聞いた 自著までも 読んだ奥さん 嬉しい出会い」
「何回も ミュージカル観た 経験が 懐かしきかな みんな活き活き」

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