人間牧場

〇年輪塾の名札づくり

 私が塾長を務める年輪塾の中心的施設となっている、人間牧場・水平線の家の板壁に吊るしている塾生の名札を、その後の変更に合わせてリニュアールすることにしました。今まで使っていた名札を全て外して自宅に持ち帰り、カンナで削り直して使おうと思いましたが、これまで使っていた名札は板が薄いので、共栄木材の西下会長に訳を言って、少し赤味がかった杉板の端材を貰って来ました。

これまで使っていた名札を下ろしました
いただいた杉板端材で名札を作りました

 早速東屋で貰った端材にカンナをかけ寸法を測り鋸で切り、ホームセンターで買った紙やすりで丁寧に仕上げの磨きをかけました。親父が存命中はこんな手仕事は朝飯前の器用だった親父に頼めば、直ぐに用意をしてくれていましたが、今ではそれもできず不器用を自認している自分がやらなければならず、まるで日曜大工のように楽しみながらやっていますが、まだまだ修行が足らぬと納得しきりでした。

名札ができたので、塾頭の清水和繁さんに電話を入れ、先日嵐山から松山のマンションへ帰る途中立寄ってもらい、名前を書いてもらう年輪塾師範の辻先生への手配をお願いしました。辻先生の達筆は周知の事実で、わが家にも近江聖人中江藤樹の「五事を正す・貌言視聴思」や二宮尊徳の「4つの教え・至誠・勤労・分度・推譲」などの掲額をいただいています。処志検定に合格した10人の名札ができるのが楽しみです。

「不器用を 自認の私 最近は 日曜大工 何とか様に」

「従兄弟から 貰った端材 カンナかけ ペーパー磨いて 立派な名札」

「達筆な 塾の師範に 墨字にて 名前書くよう 塾頭通じて」

「あれこれと 思い巡らせ あれやこれ 暇を見つけて 楽しみながら」

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人間牧場

〇密航船天神丸

 昨日は八幡浜市真穴公民館の招きで、真穴公民館へ講演に出かけました。帰り際「公民館長さんからあなたに渡してくださいと頼まれました」と、女性職員から大野芳著「北針」という題名の本を手渡されました。知りたかった密航船天神丸のことが書かれた資料だったのでとても嬉しく、帰りの道沿いにある記念碑を見学しようと思っていると、公民館長さんが「私も一緒に」と軽四トラックで先導して、天神丸が帆を揚げアメリカ目指してて出港したという源造前の浜に案内してくれました。そのうち伊予市の教育長だった黒田さんの奥さんと兄弟というお兄さんも加わって、3人で行き交う車に気をつけながら、記念穂の見学をしました。

北針の記念碑
案内してくれた館長さんたち
アメリカ渡航した打瀬船「天神丸」
源造前の浜から見える大島
大野芳著「北針)

「大正2年5月18日午後10時、密航船『天神丸』は、こうして愛媛県西宇和郡真穴村大字真網代(現・八幡浜市真網代)の源造前の入江を出帆したのであった。この乗組員は15人だった。25歳から50歳7人、以上が真網代出身者、23歳から39歳6人、以上が川上村川名津出身者、他2人は穴井出身となっているが向灘という説もあって不明である。なぜこの時期、15人という大勢の村人たちが、小さな漁船を改造した船で、危険を覚悟でアメリカへの密航を企てなければならなかったのだろうか。また、彼らの未熟な航海技術によって、太平洋を渡ろうとした航海の模様は、どんなものだったのだろう。(北針のプロローグより)

 18歳の時、愛媛県立宇和島水産高校の実習船愛媛丸で南十字星輝く珊瑚海へ遠洋航海に行った経験のある私。50歳の時、僅か5tの若吉丸に乗って潮岬・御前崎を越え伊豆下田から伊豆諸島の三宅島まで県外出漁した親父。30歳の時、23歳で作った生活設計に基づき、昭和の咸臨丸と銘打った、第10回総理府派遣青年の船の班長として太平世を渡り、アメリカ・メキシコ・ハワイを歴訪した私。そんな自分や自分につながる過去の思い出とダブらせながら、昨晩はいただいた大野芳著の「北針」という本を、朝方までかかり一気に読みましたが、アメリカを目指した未熟にして無謀な顛末にはいやはや驚きの連続でした。

4~5年前、人間牧場で開いた私塾年輪塾のテーマ人物がジョン万次郎だったこともあり、3つ4つのの出来事をダブらせながら「北針」を読んだお陰で、消えかけていた私の心の火が再びくすぶり始めたようです。もうそんなに若くはないので太平洋を渡りたいなんてことは考えませんが、少し暇を見つけて自分や海を巡るあれやこれやを、少し書いておかなければならないとも思い始めたようです。家の横に造っている海の資料館「海舟館」にはそのキーワードが幾つもあるようです。

「館長さん 源造前の 浜案内 かつてここから 密航船が」

「海沿いに 立派な記念碑 建っていて 往時を偲び 記念撮影」

「今だから 無謀未熟と 言うけれど それでもアメリカ 打瀬船にて」

「あれやこれ 思い出すたび 血が騒ぐ 海はロマンの 塊だから」

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人間牧場

〇ダイニングで話す世間話あれこれ

 わが家は2世代同居で暮らしています。だけど食べ物の嗜好が違う世代ゆえダイニングキッチンは別々で、干渉することなく極々穏やかで平和な日々を暮らしています。私たちのダイニングからは外の庭が丸見えで、庭に植えた木々の緑や花、季節の移ろいを感じながら、特に朝食は新聞を読んだり色々な話をしながら妻と食事をするのが日課となっています。

今のところ二人の体調は問題になる程ではありませんが、妻はコレステロール、私は前立腺の薬を食後に飲むことが日課になっていて、お互いが「薬飲んだ?」と声かけ合っていますが、講演や会合で忙しい私は、朝食もそこそこで出かけるため、薬さえ飲んだか飲まなかったかさえ忘れることがあり、記憶の減退に黄色信号が点滅し始めました。

新聞のお悔やみ欄や訃報欄、それに知人友人が投稿している文芸川柳欄などは共感共鳴することが多く、妻に読んで聞かせては二人で「同感」の相槌笑いをしたり、時には詠み人に電話を入れて近況を知らせたりしています。妻は絶対がつくほど当たらない宝くじを私に内緒で買っていて、当たったらあれがしたいこれがしたいと、相変わらず夢を追いかけています。

今朝の話題はガンの闘病生活をしえいる友人の話でした。友人はガンを患い何度か手術をし、抗がん剤治療をしているようですが、その甲斐もなく抗がん剤の副作用に悩まされながら頑張っていますが、風の便りによると抗がん剤治療を止めて食事療法に切り替えるとのことでした。2人に一人の割合でガンにかかる時代ですから、私の周りにはガンと向き合って生きている人が何人もいて他人事とは思えず、親父や叔父がガンだったことを思えば、私もDNA的にはガン遺伝子を持った家系なので、他人事とは思えず、少し暗い話になってしまいました。

「ダイニング 二人毎朝 庭見つつ 世間話に 花を咲かせる」

「お薬を 飲んだかさえも 忘れ気味 自分忘れて 相手気遣う」

「新聞の お悔やみ欄が 気にかかる 同年代も 早々あの世」

「患いし 友の病名 ガンと聞く 二人に一人 今に私も」

 

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人間牧場

〇つまらないものですが・・・

 4~5日前外出先から自宅に帰ると、家の玄関先の庭木に、北海道花畑牧場産らしい生キャラメルがぶら下げていました。「誰からのいただき物だろう?」と首を傾げ、家族みんなに聞いても思い当たる人もなく、「まあいいか、折角のご厚意だからいただこう」という結論に達し、家族みんなで分け合い「誰からだろう」と言いながら美味しく食べました。

いただいた生キャラメル

 3日後ウォーキングをしていると近所のご夫婦が車で通りかかり、「お留守だったので、玄関先の庭木に吊るしておきました。北海道へ行ったお土産です」と車から顔を出して声をかけてもらいました。ご夫婦は「つまらないものですが食べて下さい」と言われましたが、「つまらないものではない」と思いながら、「もう美味しくいただきました」と丁寧に恐縮してお礼を言いました。

子どもの頃隣のおばさんが、「お寿司を作った」、「旅行に行ったお土産だ」、「貰いものだが」と色々な物を勝手口から持って来てくれるその度に、「つまらないものですが・・・・」と枕詞をつけていました。少しおませな私はその言葉が気になって、「つまらないものなら要らない」とか、また3つも4つも持って来るのに「お一つどうぞ」というので、「これは一つではない」と反論して、「お前は子どものくせによく要らんことを言う」と親になだめられ、叱られたことを覚えています。

「つまらないもの」「お一つどうぞ」という言葉が、へりくだった大人の謙遜語であることを後々知り、私も使うようになりましたが、日本人の謙虚なことば使いをあらためて素晴らしいと思いました。はてさて通常は裸銭が流通するお金の世界も、「ほんの紙切れですが・・・」と言いつつ、祝儀袋やポチ袋に入れて渡す風習も日本人らしい気配りで、お神輿のご祝儀、お年玉など随所にみられます。「ほんの紙切れですが」と祝儀袋にお金を入れるのを忘れて渡した逸話も、懐かしい思い出です。

「玄関の 庭木吊るした キャラメルを 誰がくれたか 首を傾げる」

「まあいいか 家族相談 まとまって 食べ終わってから その人分かる」

「つまらない ものだと謙遜 した言葉 日本の文化 奥を感じる」

「お一つと 言いつつ 4~5個 持って来る 子どもにゃ理解 出来ずに指摘」

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人間牧場

〇ドラえもんとアンパンマン

 私たち夫婦には5人の孫がいます。高校1年生の孫はさすがにドラえもんやアンパンマンの漫画から卒業しましたが、内孫の小学三年生の奏心は、最近無線で空を飛ぶドラえもんの遊び道具を手り入れ、部屋の中で夢中になって遊んでいます。ドラえもんはご存じ藤子・F・不二雄作の漫画です。テレビの番組漫画番組では楠部工作詞、菊池俊輔作曲の歌を大杉久美子が歌って大ヒットしましたが、その歌の中の「~竹コブター~」というセリフは、ドラえもんの声優大山のぶ代の声なのです。

竹コブターで本当に空を飛ぶドラえもん

 1歳半になった孫娘花菜はドラえもんとアンパンマンの載った雑誌や歌が大好きで、雑誌の剥がして貼るシールを、どこへでもべたべた貼っては剥がして遊んでいます。最近はアンパンマンの歌が気に入って、音楽の出る遊び道具でメロディーボタンを押し、曲に合わせて踊りに夢中になっています。この小さい年代からバーチャルな夢の世界に陶酔して大丈夫だろうかと、時々思うことがありますが、アンパンマンやバイキンマン、ドキンちゃん、食パンマン、ジャムおじさんなどの名前を覚えて結構楽しんでいるようです。

 

1歳半の孫娘はアンパンマンが大好きです。

先日孫奏心から、「どこでもドアーを開けたらどこへでも行けるとしたら、おじいちゃんはどこへ行きたい?」と唐突に聞かれました。とっさのことだったので「う~ん、考えたことがない」と、現実離れした質問に答えられませんでした。同じような質問をされた妻は、「おばあちゃんは、宝くじ売り場へ行って7億円当たる宝くじを買いたい」とできもしない貧乏人ならではの、デッカイ夢を話して大笑いしていました。扉を開けば異次元の世界へ行ける「どこでもドアー」がもしあったら、私はどこへ行きたいのか?、早速考えてみました。その夢は内緒です。

「ドラえもん 竹コブターで 飛ぶおもちゃ 孫は夢中で 無線の操作」

「歌のように 空を自由に 飛びたいな やっぱり子ども ドラえもんが好き」

「孫娘 いつの間にやら アンパンマン 歌やイラスト 夢中になって」

「おじいちゃん どこでもドアー 行けるなら どこへ行きたい? 答えられずに」 

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人間牧場

〇岡山県井原市での講演

 岡山県井原市は、広島県福山市のすぐ隣で、街の真ん中を井原鉄道が通っています。今回の講演会場である生涯学習施設アクティブライフ井原は駅前にありました。井原駅はすごくモダンな建物で目についたので、駅前の駐車場に車を止めて駅舎を見学しました。駅舎内は駅というよりショッピングモールのような感じがしました。駅舎の観光案内所の女性に声をかけ、人口や観光など井原市の概況について事前学習のつもりで聞きました。

約束の12時になったので駐車場に車を入れ、生涯学習施設内にあるレストランで担当の川合さんと食事を取りながら雑談しました。川合さんは私の話を何度か聞かれているようで、講演依頼の赤い糸の糸口がやっと見えてきました。そのうち嬉しくも驚いたことに、隣町福山市新市町万能倉に住む親友平井悦夫さんが控室まで訪ねて来てくれ、再会を喜びました。平井さんは「ときめき堂」というハガキレターを今も発行していて、そのシリーズは200号を超えているハガキ道の達人で、私にハガキの魅力を教えてくれた大恩人でもあるのです。

講演会のテーマは「心豊かに生きる(男女共同参画)」でしたが、100分ほど熱いお話をさせてもらいました。会場は満席で、特に男性の参加者が多かったと川合さんから聞きました。私たちは第一次空間=家庭、第二次空間=職場(学校)、第三次空間=仲間、第四次空間=地域といった様々な空間を往復しながら生きています。家庭=男性>女性、職場=男性>女性、仲間=男性><女性、地域=男性>女性という男性優位の関係が今も無意識のうちに続いています。男性=女性が望ましいと頭では分かってても、特に私のような昭和生まれの人間はそれを当たり前だと思って見過ごしています。

男性=女性のウィンウィン関係の望ましい社会を作って行くのか、まず自己変革を目指さなければなりません。家庭、職場、仲間、地域とどう向かい合って自分の人生をどう生きるか、その生き方を少しだけレクチャーしました。みんな大笑いしながら和やかな雰囲気でした。最初から最後までじもとのCATVが撮影していました。いつ放送されるのでしょう?。

「久方に 親友出逢い あれやこれ お互いリタイア 自由になりて」

「一日に ハガキ三枚 書いたなら 幸せなれる 実行してます」

「世の中は 半分女性 あと男 だのに男が 主流の日本」

「若い人 男女平等 進んでる 昭和生まれは まだまだ遅れ」 

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〇正法寺の掲額

先日数珠くりと大草鞋張りの仏事に参加した正法寺の本堂にこんなおもろい掲額がありました。長文ながら書き抜いてみました。誰が書いたか知りませんが大阪弁の文章は確かに面白いです。

正法寺の掲額

ぼけたらあかん 長生きしなはれ

年をとったら出しゃばらず
憎まれ口に泣き言に
人のかげ口愚痴いわず
他人のことはほめなはれ
聞かれりゃ教えてあげてでも
知ってることでも知らんふり
いつもアホでいるこっちゃ
勝ったらあかん負けなはれ
いずれお世話になる身なら
若いもんには花持たせ
一歩さがってゆずるのが
円満にいくコツですわ
いつも感謝を忘れずに
どんなときにもへえおおきに!
お金も欲も捨てなはれ
なんぼゼニカネあったとて
死んだら持っていけまへん
あの人ええんやった
そない人から言われるよう
生きているうちにばらまいて
山ほど徳を積みなはれ
と言うのはそれは表向き
ほんとはゼニをはなさずに
死ぬまでしっかり持ちなはれ
人にケチと言われても
お金があるから大事にし
みんなベンチャラいうてくれる
内緒やけれどほんまだっせ!
昔のことはみな忘れ
自慢話はしなはんな
わしらの時代はもう過ぎた
なんぼ頑張ろうとしても
身体が言うことききまへん
あんたは偉いわしゃあかん
そんな気持ちでおりなはれ
わが子に孫に世間さま
どなたからでも慕われる
ええ年寄りになりなはれ
ボケたらあかんそのために
頭の洗濯生きがいに
何か一つの趣味持って
せいぜい長生きしなはれや
後生大事や皆の衆
死んでも命があるように!

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人間牧場

〇新聞の訃報欄

 先日2日続いて新聞の訃報欄に悲しい訃報が載りました。一人は元魚島村村長だった佐伯眞登さん、もう一人は愛媛大学准教授の丹下晴喜さんです。佐伯さんは88歳でしたが、丹下さんは55歳という若さでした。丹下さんとの出会いは、長女が結婚する時婿が同じ大学に勤めていたこともあって、見届け人のような感じで結婚式に列席してもらった時からでした。

新聞の訃報欄

その後、当時の法文学部長さんと丹下さんが双海町役場へ見えられ、法文学部総合政策学科の非常勤講師をして欲しいと頼まれ、町長さんとも面会し了解を得ました。間もなく合併により役場を退職してから10年余り、年間30コマ60時間4単位の、私にとってはかなりハードな週1回の講義を続けましたが、その窓口となってくれたのが丹下さんでした。

 何度となく大学の教室で、あるいは食堂や戸外のベンチで、時には講義の内容や他愛のない雑談をしましたが、ニコニコ顔の丹下さんの姿は今も忘れることはできません。佐伯さんの葬儀に参列していた折娘からの電話で訃報を知ったり、お別れ会も重なって出席することが叶わなかったことは残念でならず、心からご冥福を祈りました。

 時には100歳まで生きれる世界一長寿の国に住みながら、丹下さんのように55歳で短い生涯を閉じる人もいます。幾ら健康に注意をしていても心不全や脳卒中など、自分でコントロールできないことで命を落とす人も沢山いますが、自分の人生に置き換えながら、これからどう生きるか、考えさせられた丹下さんの訃報でした。

「相次いで 新聞訃報 載った人 知り人だけに 心が痛む」

「55歳 余りに早い 幕引きに みんな戸惑い ×●÷▼−・・」

「この人に 出会わなければ 大学で 教えることも なかったかもと・・・」

「惜しい人 早く旅立つ ひょっとして 私はどうか? 微妙なところ」

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