人間牧場

〇送られてきた「島の写真帖」

 先日親友の豊田渉さんから分厚い「島の写真帖」という一冊の本が送られてきました。先日送ってもらった二神島の豊田造船所にまつわる写真帖にも驚きましたが、今回の写真帖にもA5版250ページにわたり1700枚もの膨大な写真が掲載されていて、二度ビックリの手合いでした。

豊田さんから送られてきた島の写真帖

二冊とも編集・発行は長年二神家の研究に関わっている、旅する巨人と評される民俗学者宮本常一の流れをくむ、神奈川大学日本常民文化研究所ですが、収められた写真は豊田さん個人が撮影保存しているものが殆どで、長年にわたる二神島のかつての島暮らしの様子が一目で分かる貴重なものです。

送ってもらった写真帖の中に「由利島」という小見出しがついているページに付箋が付けられていました。150枚ほどの写真は、私は代表を務めている21世紀えひめニューフロンティアグループが20年にわたって無人島キャンプをした思い出の地だけに、懐かしい気持ちでページをめくりましたが、その中には私たちが無人島生活をした懐かしい写真も掲載せていていました。

 中には無人島キャンプの折、ヤギを連れて島に渡りましたが、よ~く目を凝らして見ると、渡回船からヤギを下ろしているのは5年前の2015年7月11日に97歳で亡くなった私の親父の姿でした。記録は時として記憶を蘇らせてくれます。この写真帖に記録された島の暮らしの殆どは時代の流れとともに失われたものが殆どですが、これぞ庶民の生きた証だと、価値ある記録写真に大きな拍手を送りました。

「送られた 写真帖見て こりゃ凄い 庶民文化の 姿ありあり」

 「婦人会 青年団も 学校も 過去の記憶は 写真のみ知る」

 「付箋貼る ページ開けば 懐かしや 死んだ親父が いるではないか」

 「沖合に 浮かぶ二神 過疎の島 友人さえも 島を離れて」 

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人間牧場

〇通学合宿夕焼け村の夜

 昨日の夜は通学合宿夕焼け村の最後の夜なので、折から降り出した雨の中、潮風ふれあいの館のホールで、キャンドルサービスを行いました。夕方の打ち合わせで急遽私が火の神になることになり、私は自宅横の海の資料館海舟館に展示してあるお面の中から、狐面を選び持参しました。衣装は子どもたちが使っている上布団のシーツだけというシンプルな素材で、火の神になるよう、スタッフとして参加している吉永さきちゃんの手助けを得て、別室で作戦を練りながら準備をしました。

夕焼け村最後の夜のキャンドルサービス
狐面とシーツでにわか作りの火の神ができました
天一稲荷神社の狐に化けたつもりの私

8時過ぎ下のホールから歌声が聞こえ始め、ハミングに変わった頃を見計らってローソクに火を点け、腹に縛り付けた鍋を叩きながらみんなの輪の中へ入って行きました。一瞬その滑稽さにざわめきましたが、ローソクの明かりに照らされた私の神秘な姿?に、多少たじろいた様子で静寂が戻りました。すかさず火の神の言葉を大きな声で話し、5人の班長たちに友情の火、感謝の火、愛情の火、信頼の火、未来の火をそれぞれ分火し、その後全員のローソクに火が灯りました。

 自分たちの決意の言葉や、家族からの手紙、村長さんの話などで締めくくりましたが、とてもいい雰囲気で、思い出に残るキャンドルサービスとなりました。通学合宿最大の目的は親や家族と子どもたちを引き離すことです。引き離すことによってお互いの存在に気づき、自立・自律への第一歩を踏み出すのです。それは子どもたちの親離れだけでなく、親の子離れにもなるのです。子どもの数が少なくなったこのころは、親の子どもに対する過期待や過保護と、それにややもすると押しつぶされそうになる子どもたちの間に葛藤が生まれます。そこを乗り切れば親子の人間関係がスムーズになるようです。

「最後夜 キャンドルサービス 火の神に なって登場 上手い演出」

 「狐面、シーツ使って シンプルな 火の神最初 子どもドキドキ」

 「アドリブで こんな芸当 できまする 長年やると 腕も上がって」

 「親と子を 離して分かる 有難さ 作戦通り 親から手紙」

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〇2002号のちろりんだよりが届きました

先日親友の西川則孝さんから、「ちろりんだより」という手書きのB4新聞が送られてきました。西川さんは鳥取大学を卒業後同級生だった奥さんと結婚し、旧丹原町来見という地に入植して、「ちろりん農園」を開いています。何かのきっかけで知り合いとなり、以来親しく付き合っていますが、世間様から見れば少し変わった生き方をしていて、誰へつらうことなく自分の信念で動く彼の生き方に共鳴し、多くの人が彼の元に集まって来ています。何年か前彼が自宅の横へ小さなゲストハウスを造った折、わが私設公民館「煙会所」の分家と位置付けて、「第二縁開所」と書いた看板をプレゼントしました。

2002号のちろりんだより
丹原に市中での講演

その後彼の行動は、毎号送られてくる「ちろりんだより」でつぶさに見聞きしていますが、添え文によるとその「ちろりんだより」が200号を超えたようで、近々2冊目の本にするようで、その巻頭文を書いて欲しいと書いていました。前回出した「晴れときどきちろりん」という本にも頼まれて巻頭文を書きましたが、私のような名もなき田舎者に頼んでも、何の得策にもならないと思いつつ、「喜んで書かせてもらいたい」と電話を入れました。偶然ですが昨日は西川さんの家と同じ西条市丹原町来見にある、丹原西中学校から講演の依頼があり、夕方出かけて行きました。

50~60人ほどの小さな中学校ですが、金融教育実践校に指定されていて、金融広報アドバイザーとして、PTAや学校の先生たちに金融教育についてお話をさせてもらいました。時間がなかったため西川さん宅に立寄ることはできませんでしたが、いつの日か訪ねたいものです。校長先生の話によると西川さんの奥さん文抄子さんは丹原西中学校で相談員をしていたそうです。私が若かったころ西川さんや佐伯さんを中心に丹原若者塾が活発に活動をしていて、その指導に何度も足を運びました。あの頃若者だった人たちも年齢を重ねているはずです。お会いしたいものです。

「親友が ちろりんだより 郵送で 送ってくれて 隅々読んだ」

 「200号 凄いいことだと 感心し 早速電話 祝意伝える」

 「付文に 巻頭言を 書くように 書いていたので 書くこと伝え」

 「偶然に 近くの学校で 講演を 頼まれ金融 教育語る」

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〇西平一生さんの訃報

 昨日の朝、いつものように朝の散歩から帰宅し、ダイニングで新聞を広げながら朝食を摂っていると、9面の訃報欄隅に、「宇和島市高光・西平一生・73歳」という小さな文字を見つけました。「若しやあの西平一生さんでは?」と、信じられない気持ちで驚きながら、何度も何度も読み返しました。

 宇和島に住む西平一生さんは、青年団活動で知り合った親友で、私の直前の愛媛県青年団連合会の会長でした。西平さんが会長の時私は副会長を務め、その後西平さんから愛媛県青年団連合会の会長を引き継ぎ、愛媛県青年団邸連絡協議会長、四国市県青年団連絡協議会会長の要職に26歳で就任しましたが、西平さんの思い出は今も心の中で生きているのです。

一昨年宇和島市津島町安らぎの里という温泉施設で講演した折、会議が終わって入浴中に偶然出会い、お互いが裸のまま昔を懐かしみながら再会を喜び合いました。聞けば「悪性リンパ腫」というガンが見つかり、加療療養の末元気を回復しつつあり、久し振りに温泉へ来たようでした。造園業を営んでいた頃の日焼けした精かんな姿は影を潜め、蓄えた顎髭も白髪で、思い出の容姿とは幾分違ったイメージでしたが、1時間ばかりお互いが我を忘れて、青春時代の思い出を大いに語りました。

 西平さんの思い出はいっぱいありますが、一番は国立大洲青年の家の誘致運動です。室戸に殆ど決まっていた誘致場所を猛追して、大洲北只現地へ当時の坂田文部大臣を招いてひっくり返しました。新春早々当時の白石春樹愛媛県知事から「誘致決定おめでとう」と祝電を私宛に貰ったことは、今も忘れられない感激でした。また西平さんは造園業で門松を製作販売していましたが、自分の作った門松を南極昭和基地に贈ったのも有名な逸話です。

 わが家へも松山での会合の行き帰りに立寄っては泊まり、酒を呑みながら他愛のない夢を大いに語りました。今日の10時から葬儀がありますが、あいにく所用が重なり参列できないため、昨晩午後6時からの宇和島での通夜式に参列させてもらいました。まるで眠っているような穏やかな顔つきでした。奥さんや息子さん、それに顔見知りのかつての仲間にも出会い、お悔やみの言葉をかけ合いました。また一人、私の親友が帰らぬ黄泉の国へ旅立ちました。同年齢だっただけにことさら悲しい一日でした。

「新聞の 訃報欄見て 驚いた かつて肝胆 相照らす友」

 「二年前 温泉出会い 裸にて 昔話に 花を咲かせた」

 「思い出は 数限りなく あり過ぎて 昨日一日 心沈んで」

 「また一人 同年代の 親友が 黄泉の国へと 帰らぬ旅に」

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〇蜂蜜採り(その2)

 採集し桶に入れている蜂の巣を、あらかじめ用意していた専用のビニール容器の中へステンレス製ザル網を敷き、ナイフで小切りしながら投入します。こうすることで蜂の巣の蜜が出やすくするのです。その上から少し大きめのビニール袋をすっぱり被せ太陽の熱を利用します。蜂蜜の匂いに誘われてやって来る蜜蜂を寄せつけないように紐で縛ります。

専用の垂れ蜜道具を使って採蜜作業
採集した蜂蜜

すると容器の下の細いビニールパイプを通って、一升瓶に蜂蜜が流れ込むよう上手く作っていて、自然と蜂蜜が採れる仕組みです。養蜂業者は遠心分離器にかけて採るそうですが、私たちのような遊びの養蜂は垂れ蜜方式で採るのです。残暑の太陽でビニール袋の中はかなり強く温められて、この2日間で何と一升瓶5本を収穫しました。

「やった~あ」と喜ぶほどの収穫でした。早速生成と瓶詰めを担当する長男息子は、一升瓶に入った蜂蜜をパレットに移し、家庭用サウナの中に入れました。温度をかけながらジワジワと水分を飛ばし、純度85%以上になれば瓶詰めします。こうすれば蜂蜜は腐敗や発酵など劣化することもなく、賞味期限など関係なく一年中食べることができるのです。

あと1箱残っていますが、この箱は少し遅い7月初旬に入居したため、蜂蜜の量は期待薄なので、もう少し今月いっぱい様子を見てから採ろうと思っています。不作と思っていた今年の蜂蜜ですが、これでわが家の自家消費分は十分確保できました。毎朝常食にしている妻も大いに喜んでいます。

「専用の 垂れ蜜道具 庭に出し 取った蜂の巣 刻んで入れる」

 「ビニールの パイプ通って 一升瓶 甘い蜂蜜 タラリタラリと」

 「一箱で 5本も採れて 破顔です 一年分の 蜂蜜ゲット」

 「蜜蜂が せっせ集めた 蜂蜜を 人間横取り 何か気の毒」 

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人間牧場

〇餃子作りに挑戦

 昨日の夕焼け村の夕食メニューは餃子とニュー麺、それに野菜サラダでした。始業式のため少し早めに潮風ふれあいの館に帰って来た子どもたちは、接近する台風で、ひょっとしたら学校が臨時休校になるかも知れないという、何とも不思議な期待感から少し華やいだ雰囲気で、かまどご飯炊きと餃子作りに挑戦していました。

 

真っ黒焦げの餃子
楽しかった餃子作り
出来上がった餃子

 餃子の具材を練り合わせ、餃子の皮で包んで行くのですが、これが中々上手く行かず、中には具材が多過ぎてはみ出したり、皮2枚を使ってUF餃子を作ったりと様々でした。テーブル毎に卓上コンロのフライパンで焼きましたが、少し焦げ過ぎたのもお愛郷で、美味しそうに頬張っていました。

子どもの勘はよく当たるもので、まだ遥か彼方にある台風ですが、伊予市内の小中学校では、早々と臨時休校を決めたようです。最近は度重なる大雨や強風に対する反応が敏感で、「えっ、どうして」と思うような警報や避難情報が早めに出て驚きます。それはそれとして住民の安全を考えれば良いことですが、災害の度にあれこれ避難される行政の言い訳にならないよう、住民側もしっかりと対応したいものです。何はともあれ夕焼け村は一時自宅避難と相成りました。

「メニューは 自分で作る 餃子です まるで芸術 色々あって」

 「食べません 誘われたけど 食べません 見るから遠慮 早々退散」

 「焼いたけど 焼き過ぎでした 真っ黒に それでも美味い 納得手合い」

 「台風が 近づき子ども ざわついて 学校明日は お休みバンザイ」

 

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〇若松さんちに若松さんがやって来ました

 昨日親友の松本さんから連絡が入り、「視察研修で伊予市へ来ているメンバーの中に若松さんという人がいて、あなたのことを話すと是非会いたいというので、昼過ぎにお連れしますがご予定は?」とのことでした。「若松さんが若松さんちへやって来る」ということだったので、「是非お越し下さい」と言いました。

右前に座った人が若松さん

 昨日は通学合宿「夕焼け村」が始まっていて、私も実行委員長だし夕方には「夕日の話」を頼まれていて、何かと忙しい一日でしたが、午後3時ころ松本さんの案内で7人ほどの一行がわが家にやって来ました。名刺交換をさせてもらいましたが、若松さんという方は青森県上北郡おいらせ町まちづくり防災課の主任主査若松徹さんでした。おいらせといえば全国に名だたる景勝地奥入瀬渓谷を思い出しましたが、若松さんから頂いた名刺には、沢山の特産品や公園、イベントなどが写真で紹介されていたものの、奥入瀬渓谷の写真はありませんでした。

 色々と尋ねたいこともありましたが、先を急ぐような感じだったので、海の資料館や煙会所を案内し、思い出の記念写真を撮って引き揚げて行きました。私も全国各地を飛び回っていますが、私と同じ若松という苗字の人には中々巡り合うことはありません。若松という苗字を意識した一日でした。

「若松と いう苗字人 やって来た どんな人かと 興味津々」

 「わが苗字 普段殆ど 意識せず 暮らしているが 昨日ばかりは」

 「これも縁 青森おいらせ またいつか 訪ねてみたい そんな気がする」

 「青森と いえば奥入瀬 思い出す 二年前にも 訪ねた記憶」 

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〇夕焼けプラットホームコンサート(その2)

 無人駅のプラットホームをステージにするという奇抜なアイデアを思いつき、JR下灘駅で始めた夕焼けプラットホームは、今年が33回目です。33年前の6月㉗日に、多くの反対を押し切って始めたコンサートですが、多くの人たちが関わり、有難いことにバトンをつないでくれています。親友の高岡亮さんや浅野和子さんなどは、毎年のようにやって来て、一年に一度の旧交を温めています。

 

愛媛新聞の浅野さんも駆けつけてくれました

「10年続ければ物語が生まれ、20年続けば神話になる」とは、私のけだし名言(迷言)ですが、20年はおろか33年も続いているのですから、これはもう仏話かも知れません。33年前には私も42歳の厄年真っただ中でした。町が町名変更問題で揺れ、責任を取って異動した後の失意のどん底のような時に始めたイベントだったので、他の人とは違った殊更な想いがよぎりますが、苦しい思い出は時としてより懐かしく思い出されるものです。

コンサート会場から見えた無人島由利島

昨日は下灘駅のプラットホームから見ると、沖合に由利島が赤く染まって見えました。この島に21世紀えひめニューフロンティグルーの仲間とともに渡り、20年間も「無人島に挑む少年のつどい」をやったのですから、これまた夕焼けコンサートと同じくらい思い出があるのです。今はダッシュ島として違った顔を見せていますが、過ぎてしまえば一瞬の出来事のようにも思います。夏の終わりを告げるように、昨日の夕方は少し肌寒ささえ感じる夕暮れでした。

昨日はタブレットを忘れ、加えて持参したデジカメも電源切れで途中で使えなくなり、残念ながら記録写真を撮れなくなってしまいましたが、幸い知人友人がfacebookにアップしてくれていたので、失礼ながら何枚かの画像を寸借してしました。そうそう昨日はコンサートに耳を傾けていると、いきなり前触れもなく、テレビ局のカメラマンにカメラを向けられ驚きました。また昨日司会を務めた藤田さんは古い友人ですが、終了後握手をしたり殺弾をして再会を喜び合いました。

「コンサート 会場全てが 懐かしい 沖合浮かぶ 島さえ思い出」

 「コンサート 始めた頃は 若かった 今はロートル 面影かすか」

 「よくもまあ 続いたものと 感心し 記憶辿りつ 歌に聴き入る」

 「前触れも なしにいきなり インタビュー 顔がいいのか? カメラ向けられ」 

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人間牧場

〇雨の降るのを心待ちにしている日々

 今日からいよいよ9月で、今日は私が種まきの基準日としている210日です。210日と言えば台風がよくやって来る日とされていますが、その予言通り南の海上を910hpという信じられないほど超々大型の台風が、日本列島に向って北上を続けています。

畝立てを終えた畑はお湿りを待つのみです
可憐なオクラの花
ナスも豊作です

 関東や北陸、東北ではこのところゲリラ豪雨が頻繁に降り、各地で川が氾濫し甚大な被害に見舞われているようですが、私の住んでいる四国・愛媛県・伊予市・双海町・上灘に関しては、かなり大きな被害をもたらし7月の集中豪雨以来、雨らしい雨が降らず、朝晩懸命に谷灌水しているものの、家の横の家庭菜園は完全に砂漠化して、冬野菜の種まき準備をするため耕運機を入れましたが、土煙るが立つほどの固さでした。

 遅れないようにと、とりあえず牛糞を撒いて中耕し畝を立てたので、後は雨さえ降ってくれれば大根をはじめ野菜の種を蒔こうと思っています。谷灌水には井戸の水を使っていますが、井戸の水もそろそろ枯渇するのではないかと心配しながら朝晩やっていますが、水がないと育たないサトイモは葉っぱが枯れ始めました。

 唯一元気なのは先日強剪定したナスとオクラです。ナスは紫、オクラは薄い黄色の可憐な花を咲かせていますが、オクラもナスも食べきれないほど出来て、親類や近所にお裾分けして大層喜ばれています。今年は豪雨の影響で野菜の値段が高いので、わが家は大助かりだと妻を喜ばせていますが、連日食卓にはオクラとナス料理が並べられ、文句は言えませんが・・・・・です。

「関東や 東北北陸 あちこちで 水害発生 日本沈没?」

 「こちらにも お裾分けして 水不足 まるで砂漠の 畑ため息」

 「今日9月 210日は 厄日です 大型台風 日本伺う」

 「毎日の ように食卓 オクラ・ナス 葉物野菜が 食べたいけれど」

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