人間牧場

〇人生の生活設計

 昨日わが家に相次いで2人の友人がやって来て、人生の生活設計について話が弾みました。Aさんは若い頃南予の田舎から出て来て、自動車修理工場を営んでいますが、息子さんと一緒に働くようになり、息子を一人前の後継者に育てたくて、自分が身を引くことを考え、双海町で農地を買い農業で身を立てようとしています。元々農家の生まれなので農業は得てているものの、有機で作った農作物をどのように売り、どのように収入を得るのかについては未だ五里霧中といった感じです。私は素人なので話に乗ることはできませんが、「遊びの農業は楽しいが飯を食わなければならない農業は苦しい」と、その厳しさをいつも彼に説いています。そして農作業日誌と毎月20万円の収入を得れる計画をまず作るよう話し、彼もその気になって、こうしてちょくちょく相談にやって来るのです。

 Bさんは今年40歳になるという地方公務員です。仕事の都合で夫婦と子ども3人で双海町の公営住宅に住んでいますが、目下のところ人生の四大資金といわれている生業・教育・住宅・老後の中の教育と住宅に関心があるようでした。私も4人の子どもを育て、住宅も31歳で手に入れているので、様々な経験を話しました。中でも生涯の買い物の中でも最も高額商品といいえる住宅は、購入に際し金融知識や具体的なライフプランなど身につけておくべき知識が色々あるのです。家を買うことのメリットとデメリットは色々あるでしょうが、子どもの教育と時期が重なるだけに、何よりも家計を管理する奥さんの技量や、夫婦が力を寄せ合って生きることが大切と、自分の半生を振り返りながら力説しましたが、はてさて彼の心の扉を叩けたかどうか・・・。

 私は23歳の時、青年学級で人生の生活設計を学びました。26歳で結婚しよう。子どもは4人つくろう。30歳でアメリカへ行こう。30歳で家を建てよう。老後は楽しく生きよう。85歳まで生きようなどなど、今考えればまるで夢のような計画でしたが、振り返ってみれば、自分が夢に描いたことの殆どを手に入れているのですから驚きで、「夢はドリームではなくターゲットである」と思うし、「鮮やかに想像し、熱烈に望み、心から信じ、魂を込めた熱意を持って行動すれば、何事もついには実現する」と言ったポール・J・マイヤーの言葉を思い出すのです。人はどうであれ自分が夢を持ってその夢の実現に向けて信念を貫く気概を持てば、人生に悔いは残らないのです。AさんとBさんのこれからの人生に幸多かれと祈ります。

  「Aさんは 一念発起 百姓に 何で今頃? これも人生」

  「Bさんは 不惑の40歳 迎えたり きっかけ作り これから先も」

  「人生は 長いようだが すぐ終る 悔いなく過ごす 夢を持ちつつ」

  「私には 老前今を どう生きる これしかないと 毎日元気に」

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人間牧場

〇寒い寒い・寒~い

 先週の日曜日はすっかり春めいて、「いよいよ春が来た」と殆どの人が思い始めていました。ところが月曜日には四国南岸を低気圧が通って、かなり強い雨が一日中降りました。この季節に四国南岸を通る低気圧は爆弾低気圧と言って、東に進むにつれて急速に発達するので、西高東低の冬型気圧配置に逆戻りし、日本列島全体が混んだ縦縞のような等圧線の中にスッポリ入り、雪混じりの天地を揺るがすような北西の強風が吹き荒れて、昨日はブルブル震える寒い寒い一日でした。

2015年3月10日の天気図
2015年3月10日の天気図

 今日は3月11日、東日本大震災のあった日です。ただでさえ4年前の悪夢のような地震や津波、それに原発事故が重なった出来事を思えば、当事者でない私でも涙が出るのに、ましてや東日本の人たちはこの寒さの中で震えながら今日の日を迎えたであろうと、寒さを実感した朝でした。寒さは、こちらの地方では「春の一日西(北西の大風)」といわれているので、今日で峠を越すものと思われますが、先週日曜日のような暖かい日が待ち遠しい感じを強く持ちました。

 今朝は午前9時に、親父を特老のディサービスに送る出したので、エアコンの効いた書斎にこもって、執筆が佳境に入っている「人間牧場物語」の原稿書きでもしようかと思っています。前もって作っている目次のような執筆構想一覧表は、36項目に及んでいますが、既に粗方は書き上げていて、後回しにしている22年輪塾と35これからの夢で一通りは荒書きを終える予定です。荒書きなのでこれから少しずつ手を入れて上稿しますが、資金の都合もあって印刷出版するかどうかはまだ決めていませんが、願わくば最後の出版物にしたいと淡い夢を抱いています。

  「春が来た 喜び束の間 また冬に 逆戻りして みんなブルブル」

  「鳴いていた 裏山辺り ウグイスも さすがに今朝は 音さえもなく」

  「こんな日は エアコン効かせ 温々と 部屋で原稿 書いて過ごそう」

  「年金で 暮らすわが身の はかなさよ 執筆しても 出版できず」

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人間牧場

〇一生のお宝的道具

 わが家は代々農家でもない漁家だったのに、半農半漁とでもいうべき生業だったので、わが家の収納小屋には親の代から使っている鍬類が沢山残っていますが、その殆どは使うこともなく整理されて処分されることもないまま、所定の位置に吊り下げられています。よく使う鍬は畝を立てる巾鍬、根菜類を掘る三つ鍬、ゴボウを掘るのみ鍬、草を削る草削り鍬など4~5本程度で、それらはよく使うため土で磨かれ鈍い鉄の光を放っていますが、多分これからも私の大切な道具として使われるものと思われます。

手打ちの土佐刃物巾鍬
手打ちの土佐刃物巾鍬

 そんな中、手に馴染んで一番よく使う巾鍬は、母親が生前から使っていたものを譲り受けて使っていますが、使い過ぎて鉄が痩せて薄くなってきたようで、そろそろ買い替えの時期かな?と思っていた矢先の先日、お墓参りの帰りにオズメッセのスーパー入口軒下外で、土佐刃物を売っているお店が目に留まり立ち寄りました。ご存知のとおり土佐刃物といえば手打ちの名代の代物で、ホームセンターなどで売っている物よりは品質もいい代わりに、値段も2~3割高いのです。店の中には入りあれこれ見ていると、土佐人らしいご主人が私の姿を目敏く見つけ、土佐刃物の特徴を喋り捲りました。

 「酒やご馳走は呑んだり食べたりすると消えるが、道具は一代物ですから・・・」という言葉に後押しされて、立派な巾鍬を一丁妻の懐具合を相談して買うことにしました。値札は7,500円でしたが、500円値引きして7000円でした。運よく軽四トラックだったので、荷台に積んで意気揚々と帰って来ました。その夜は雨が降る予想だったので、無造作に書斎の中に取り込んで置いていると、妻が「鍬を書斎に入れるなんて、まるで子どもみたいだ」と大笑いされましたが、鈍い鉄の光を放つ巾鍬はこれから長くもないであろう私の一生の、いやひょっとしたら息子の長い一生の道具として役に立つことでしょう。そう思えば道具は安いものです。今年はこの巾鍬でせいぜい美味しい野菜を作りたいものです。

  「スーパーの 軒先出店 土佐刃物 色々見つつ 品定めする」

  「巾鍬を 手にしていると 主さん 安いもんだと 饒舌勧め」

  「500円 負けときますと 7000円 支払い巾鍬 軽四積んで」

  「この鍬を 私の代と 息子代 続けて使う わが家お宝」

 

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人間牧場

〇港の見える風景

 昨年末妻の妹が六十七歳で急逝し、今年も先日若嫁の父親が六十四歳で急逝して、身内の身近な人を相次いで他界へ見送りました。また妻の友人二人の義母や、実懇にしていただいていたギノー味噌の田中義一会長も亡くなり、通夜や葬儀、お別れ会と心が沈むことばかりが続いているので、昨日は好天に恵まれた暖かい日だったので急に思いつき、妻の実家のお墓参りに妻と二人で出かけました。少し荷物があったので修理を終えた軽四トラックに乗り海岸線を走りましたが、沿線には閏住の黄色い菜の花や、早咲きの河津桜がピンク色の花を咲かせ、春が来たことを告げているようでした。

春が来た八幡浜湾
春が来た八幡浜湾
八幡浜の家並み
八幡浜の家並み

 佐田岬半島の付け根を貫通しているゴゼヶ峠の長いトンネルを越えて瀬戸内海側から宇和海側に入ると、黒潮の恵みでしょうか、どこか違った生暖かい明るさのようなものを感じました。妻の実家のお墓は臨済宗大宝寺の裏手高台にありますが、私はこの墓地から見える八幡浜湾や港の風景が大好きで、昨日は運よく九州からフェリーが入港する様子を見ることができました。耕して天に至ると形容される向灘の段々畑も絵になる光景です。妻に言わせれば妻が子どもの頃の八幡浜は、佐田岬半島の要に位置して、半島や離島を結ぶ船が足繁く発着し、紡績工場などもある、トロール船の基地として活気ある街だったようです。

 戦火に焼かれることも殆どなかったため、逆にそれが禍したかのように少し開発が遅れていますが、それはそれとして古い町並みが残っているので、どこか懐かしいノスタルジックな感じがするのです。縁あって妻と結婚してから、44年があっという間に過ぎましたが、約半世紀近くもこの街に通いながら見続けているゆえ、大好きな街の一つなのです。ただ保内からトンネルが開通し、そのトンネルの向うに更なる松蔭トンネルが三年後に出来れば、また人の流れが変わることも予想され、今からその備えをしておかなければ、通過する街になりかねないだけに、知恵の出しどころといったところです。
 帰りには山回りを通り大洲臥龍の湯、オズメッセで買い物や食事を楽しみ、久しぶりに夫婦水入らずのひと時を楽しみました。

  「春浅き 八幡の浜へ 墓参り 坂を登りつ 遠望楽しむ」

  「40年 越えてこの街 行き来する 妻の生まれし 昔そこここ」

  「九州と 四国を結ぶ 西玄関 フェリー到着 人・物乗せて」

  「今は亡き 両親の墓 掃除して シキビ取替え 線香向け」

 

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人間牧場

〇水切り

 このところ春の訪れを告げるように、また「春に三日の日和なし」と言われるように足繁く雨が感心するほどよく降ります。ゆえに畑仕事が遅れたり、毎朝のジョギングに水を刺されたりしていますが、山根にあるわが家では雨が降る度に裏山から水が出て、2度も水害による崖崩れに遭っているので、気が気ではないのです。
 これまでは親父が注意をして、家の周りの側溝の掃除をして家を守ってくれていましたが、親父の足腰も弱って目配り・気配り・行動もままならず、この2~3年は私にその役割が回ってきました。

体重55キロの強がってみせる上半身
体重55キロの強がってみせる上半身

 家の周りは数日前側溝等を点検し、落ち葉やゴミを取り除いて綺麗に掃除しましたが、裏山の農道側溝の水が溢れると大変なことになるので、昨日は小雨の降る中傘を差し、巾鍬を持って水切りに出かけました。水切りとはこちらの方言で水が上手く流れるようにすることです。杉や桧が植林されているので、落ち葉はそんなに多くはありませんでしたが、側溝脇の土砂がかなり多く崩れて、側溝を埋めている場所も見受けられたので、小雨に濡れながら一人黙々と100mほどの側溝さらえ作業を進め、すっかり綺麗になりました。

 このところ、こうした作業や農作業で鍬を持つ機会も多くなり、風呂から上がって鏡の前に立つと、筋肉的に鍛えられてすっかり逞しくなったような気がするのです。ジムに通って筋力をアップしている人や、若い人から比べると物の比ではなく、しかも50年前漁師をしていた頃の、筋肉隆々には及ぶべきもありませんが、歳の割にはそれなりにだと、妻が誉めてくれるのです。
 人間の体力は年齢とともに衰えますが、筋力も鍛えようと思えばある程度は維持できるし、筋肉の存在が基礎代謝を補助してくれるという話を聞けば、これからも折に触れ体を鍛えたいと思っています。水切り作業で大汗をかいて着替える際、記念に裸の写真を一枚撮りました。

  「裏山の 側溝さらえ 小雨中 一人黙々 水切り作業」

  「家守る これも私の 大切な 仕事とばかり 注意払って」

  「もう親父 当てには出来ぬ これからは 自分の力 息子まだまだ」

  「筋肉が 少しついたと 胸を張る 裸の写真 撮ってびっくり」

 

 

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人間牧場

〇年度末になると工事が始まるのは何故?

近所の田圃に仮置きされた埋設予定の水道管
近所の田圃に仮置きされた埋設予定の水道管

 このところ、わが家の近くの県道や市道で水道工事と思われる工事が、やたらあちこちで始まって、通行止めやガードマンによる片側交互通行になっているようで、遠く近くユンボで土中を掘る音や、埋め戻しのための地ならし機の音が、賑やかに聞こえてきます。合併して10年になりますが、これまで簡易水の領域を超えなかった水道も、上水道に切り替わりつつあるようで、そのための工事でしょうが、近所の人が「年度末になると、どうしてこうも色々な工事が始まるのだろう?」と、首をかしげているように、元役場職員で知っているはずの私でさえ、答えられないような有様です。

 地方自治体の行なう公共工事は、国や県の予算が決定してから補助金交付要綱に基づいて申請が上がり、申請審査が終ると交付内定や決定してから、入札や工事準備が進められるので早くても半年後、補正予算となると更に遅れに遅れて年度末となってしまうというお家事情もあり、私たち市民からみれば「年度末になってなんで今頃?」と疑問符がつくのです。まあ仕方のないことと諦めて、工事の進捗には全面的に協力するのも市民の義務なので、通行止めや断水になっても我慢しなければなりません。

 ついでの話ですが、わが家は敷地内に40年も前に埋めた水道管が時々破裂して、その度に漏水騒動を起こすのです。先日も水道メーターを調べる近所の人がやって来て、「メーターがかなり進んでいるので漏水かも知れないので、水道屋さんに調べてもらって下さい」と言い残して帰られました。早速近所の藤岡工業さんに電話を入れましたが、この頃は水道屋さんも年度末の忙しい時期なので、わが家のような儲けにならない個人に関わる暇もないようで、未だに調べる気配はないようです。そうこう言ってる今も敷地内のどこかで水道水が漏れていることを思うと、気が気ではありません。早く調べてもらい漏水ヵ所を見つけて欲しいと願っています。

  「年度末 何故かあちこち また工事 首を傾げる 人も多くて」

  「簡易から 上水道に なる工事 どんなお水が 飲めるか楽しみ」

  「漏水の 疑いありと 検針の おじさん言って 業者連絡」

  「漏水か 私の親父 パソコンじゃ 変換すると 同じ老衰」 

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〇にっぽん丸

 昨日の朝パソコンでfacebookを見ていると、大洲の親友河野達郎さんが双海町の海辺に来ている話題がアップされていました。大洲市長浜拓海ふ頭ににっぽん丸が来るらしいのです。たまたま私も人間牧場へ来客を迎えに行く予定だったので、少し足を伸ばそうと出かけて行きました。
 私にとって「にっぽん丸」といえば、今から40年前の昭和51年、青年の船に乗って建国二百年のアメリカへ行った時乗船したのが、政府がチャーターした三井商船の「にっぽん丸」だったのです。ゆえに「にっぽん丸」と聞いただけで、いても立ってもいられない気持ちでの衝動的見学でした。

にっぽん丸
にっぽん丸

 P1070324喜多灘を過ぎて今坊辺りに差し掛かると、大型客船ゆえ長浜町拓海ふ頭付近に接岸係留した姿が、まるで山のように一望できました。晴海ふ頭に通じる道を右折して入ると歓迎を示す「長浜町」と書いた幟が道の両側に立てられていて、降りたタラップから乗船客と思しき人が何人か、かなり強い北東の風を避けるようにコートの襟を立て、急ぎ足で降りてくるのが見えました。接岸して少し時間が経っていたため、また寒い早春の時期なので見学者もまばらで、たまたま車に積んでいたデジカメとタブレットで船体を何枚か写真に収め早々に引きあげて帰りました。

 今回の客船の入港といい、観光列車伊予灘物語の運行といい、この周辺も最近は何かと話題の多い感じがしますが、観光列車の運行も地元への経済的効果は殆ど皆無で、少し首を傾げたくなるようです。特に伊予灘物語などは海岸線を走るのに、わざわざ内子の弁当を運んで乗客に食べさせているのですから驚きです。こんな列車に「手を振って歓迎の意を表してください」とJRから言われても、殆どの人は関心を示さないのは、当たり前のような気がするのです。
 それにしても世の中には金持ちの人がいるものです。地方は人口が減り、景気も一向によくならないと嘆いているというのに、豪華客船や豪華列車でのんびり旅をする人がいるのですから、私たちのような汗水たらして働く貧乏人には、格差社会にも首を傾げたくなります。まあ何だかんだ言いながら時はいつしか過ぎて行くのです。

  「友人の facebookで 観光船 やって来ること 知りて衝動」

  「懐かしい にっぽん丸と いう響き 40年前 思い出しつつ」

  「接岸の にっぽん丸は でっかくて タブレット画面 入りきれない」

  「この船が どんな効果を 産むのやら セレブ人間 私は貧乏」

 河野達郎さんが2枚の写真をfacebookにアップしていました。

1にっぽん丸にっぽん丸2

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人間牧場

〇2月の五行歌

 先日松山五行歌会から、2月歌会の報告書が届きました。相変わらず歌会にはまだ一度も出席せず、欠席歌をメールで送ってお茶を濁していますが、そろそろ身の置き所も考えなければならないようだと、少しだけ心に吹く隙間風を感じました。報告書の末尾に年会費2千円が未納であることを告げられていて、汗顔の至りでした。早速今日にでも妻に頼んで振込みをしておこうと思いました。

 2月の私の五行歌は次のようなものでした。
  昨日の夜
  死んだ母ちゃんの
  夢を見た
  母ちゃんも僕も
  何故か昔のままだった

 講評として次のように書かれていました。
  ☆何故か【お母さん】よりも【母ちゃん】の方が歌にするとよい響きになる気がします。年をとらない【母ちゃん】は、亡くなっている人だけにどこか切なく、愛情満載の作品となりました。岡野雄一さんの作品『ペコロスの母に会いに行く』(『2013年の日本漫画家協会賞 優秀賞とキネマ旬報の日本映画一位』を思い出したという人もいました。

 巻末に主宰者の見山あつこさんが私信欄に、「お母ちゃん」じゃなくて「母ちゃん」ですね。若松さんの世界が大好きです。3月の作品も楽しみにしています。と嬉しい手書きの達筆な添え書きがありました。
 ちなみに出席歌一席は井村江里さんの次の歌でした。
  震度二を
  感じない体
  日頃から
  ゆらりゆらり
  生きているから?

 ちなみに欠席歌一席は高橋美代子さんの次の歌でした。
  遠い日
  ひとつの
  火鉢を囲んで
  分かち合った
  家族の温もり

  「またしても 会費督促 巻末に 汗顔至り もんたりしつつ」

  「それぞれの 人の作品 読む度に 心浅はか 今となっては」

  「頭打ち 中途半端を 嘆きつつ さてこれからを どう生きるべき」

  「これもある これしかないは 大違い 少し気合を 入れてみようか」

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人間牧場

〇親父が転げて顔から出血

 昨日の天気予報では、「春に三日の日和なし」という言葉がピッタリのように、前日一日晴れたと思えば、昨日は早くも昼からかなり激しい本降りの雨が降り出しました。雨の降らない午前中の間に、干していたコンニャクイモを片付けようと、人間牧場へ出かけ、平キャリーにコンニャクイモを並べ終ると、自宅にいる若嫁から「おじいちゃんがこけて血を流しているので直ぐに帰って下さい」と、携帯で連絡が入りました。急いでコンニャクイモを倉庫にしまい、取るものをとりあえずはやる心を抑えながら自宅へ戻りました。

 親父は既に若嫁がオキシドールで消毒をして、カットバンを張って落ち着木を取り戻していました。聞けば洗濯機付近でついていた杖が、雨で滑って転んだとのことでしたが、しばらく様子を見ることにしました。一時間ばかりして隠居を覗いてみると、親父の傷口から血が滲んでいるようなので、大事をとろうといつも往診してくれる、かかりつけの諸橋先生に電話を入れました。先生は30分もすると看護婦さんを伴って往診に駆けつけてくれましたが、傷口を縫う用意までしてくれたのに、大事に至らず傷口を消毒してガーゼで止血をして様子を見ることにしました。

 親父の体力はこのところ急速に衰えているようで、年末から年始にかけて再三再四転げて顔面を怪我するようになりました。多分転んでも手や腕で防備できなくなっているのです。血が出たショックでパンツも濡れ、全ての洋服を着替えさせて一段落しましたが、いよいよ親父の介護も厳しさを増してきました。炊事や洗濯等身の回りの世話は妻がやってくれますが、着替えや薬を飲ませる気配りを私が担当しているものの、私も忙しく家を留守にすることが多いので中々です。在宅介護は高齢者にとって理想の介護といわれていますが、実際にやってみると多くの問題があるようです。でも私を産み育てくれた親父ですから、しっかりと親孝行してやろうと思っています。もう間もなく特老のディサービスのお迎えの車が来るようです。仕度をして送り出してやらねば・・・。

  「『お父さん おじいちゃんが 転げた』と 携帯電話で 緊急告げられ」

  「転げれば 防備の力 既になく 顔から地面 二度も三度も」

  「痛かった はずだが痛さ 訴えず むしろ心配 医者を迎える」

  「大事なく 済んだがいつも 冷や冷やで 老々介護 いずれわが身か」

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人間牧場

〇孫の木登り

 「自分の子どもを豊かな心の持ち主に育てたい」と思うのはどの親も一緒です。しかし豊かさの基準を心の豊かさより、「将来いい仕事に就いて、いい稼ぎをさせる」経済的豊かさに置くと話は別で、勉強がよく出来ることを優先するようになるのです。私たちの身の回りにもそんな人はいっぱいいますが、その人たちが本当に幸せな人生であるかどうかは疑問なようです。私たち夫婦は少子化社会の中で、今時珍しい4人の子どもを産み育てました。夫婦を足して2で割った数字が、わが子どものレベルだと思っていたから、そんなにレベルの高くない私たち夫婦は、望むべきもない「将来いい仕事に就いていい稼ぎをさせる」ことをあきらめ、むしろ「心の豊かな子ども」に育てようと思いました。ゆえに仲間とともに結成した、ボランティアグループ「21世紀えひめニューフロンティアグループ」が主宰した、無人島キャンプなどにも積極的に参加させ、心を磨かせました。

 お陰様で学校の勉強は今一でしたが、飛び切りでもない普通の、心優しい子どもに育ちそれぞれの道を歩んでいます。30年近くも続けている青少年育成活動への積極的参加も、いつの間にか自分の子どもたちに代わって息子夫婦や孫たちと一緒に活動するようになってきました。いやはや驚きですが、「まあいいか」と思いながら少し角度や視点の違ったかかわりの中で、これから10年は軸足を育爺として関わってやろうと思いを新たにしています。
 先週の土曜日人間牧場で、ジャガイモ植え作業をしました。農作業や集いを終えて皆さんは引き上げて行きましたが、私と息子は使った道具類の片づけを一時間ばかりやりました。すると1年生と年中の孫二人は、そこら辺で棒切れを持って遊んでいましたが、孫希心は何を思ったのかヤマモモの木、孫奏心は柿の木に登り始めました。

 やがて「おじいちゃ~ん」と呼ぶ声が聞こえたので外に出てみると、二人は器用にも木に登り、孫希心はかなり上の方まで登っていました。「危ない」と思いましたがぐっと堪えて「凄い、凄い」と誉めてやると、両手を広げて格好いいとこを見せてくれました。孫奏心は柿の木から足を滑らせ落ちそうになって半泣きになりましたが、これもいい経験です。田舎では木に登ること等当たり前と思っていましたが、今は田舎ですら「危ない」という理由でしない、させないようです。怖いけれども木に登った時の達成感は言葉で表現できない嬉しいもので、孫たちもその夜は木に登ったことを家族に自慢話していました。昔テレビのコマーシャルで丸大ハムが、「腕白でもいい、逞しく育って欲しい」というのをやっていて、流行語になっていました。これからも折に触れ田舎ならではの逞しい体験をさせてやりたいと思いました。

  「ヤマモモと 柿の木登る 孫を見て 中々やるわい 嬉しくなりぬ」

  「その夜は 木登りできたと 大威張り 今度は天辺 登ると豪語」

  「危ないと 何でもかんでも 駄目サイン 大人の尺度 子ども育たぬ」

  「腕白な 子ども育てる 育爺に なってやろうと 何かにつけて」 

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