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〇大分県佐伯市立志塾に招かれて(その2)

 川野義和さんの運転する公用車に乗せてもらい、早速佐伯市を目指しました。臼杵から佐伯までは既に高速道路が開通していて、今年度中に大分から鹿児島まで高速道路全線が開通予定だそうで、沿線では急ピッチで工事が行われていました。山肌の石灰岩を荒々しく削った津久見を抜けると40分ほどで佐伯市街に着きましたが、私たちの車は懐かしい見覚えのある番匠川沿いを上流へと走り、旧本匠村へ入って美和さんのお母さんたちが経営する特産加工場兼食堂へ案内されました。

愛の里工房の皆さんと(左端が美和さん、私の横が文子さん)
愛の里工房の皆さんと(左端が美和さん、私の横が文子さん)

 サプライズながらここで昼食を取るようでした。車が到着するとお店お中から美和さんのお母さんである、高橋文子さんと従業員さんが愛想のよい笑顔で出て来て出迎えてくれました。お母さんが代表を勤める愛の里工房では、先日みのもんたのTV番組「噂のケンミンショー」でも紹介されるほど、すっかり有名になっている「雪ん子寿し」やごまだし」などを製造販売していますが、70歳を越えているとは思えない元気な姿で出迎えていただきました。

 積もる話にも熱が入り、出された自慢の心のこもった雪ん子寿し定食を久しぶりに食べましたが、絶品に舌鼓を打ちました。食事をしながらお母さんたちの夢の話を沢山聞きました。メンバーは求めに応じ全国のデパートで開かれている、大分うmいもの展に参加しているようですが、年齢のことを考えるとハードなようで、そろそろこの食堂で客商売をしようと思っていると吐露されたので、私の小さな知識や知恵で少しだけアドバイスをしてあげました。それにしてもおばちゃんたちのやる気パワーと夢のある話にすっかり圧倒されてしまいました。再会を約束して次の予定時間に背中を押され店を出ましたが、姿が見えなるまで笑顔で手を振ってくれたおばちゃんたちの姿が今も心に残こっています。
 (この続きは明日のアメーバブログ・その3にて)

  「見覚えの ある川沿線の 上流を 目指し車は 本匠村へ」

  「20年 ぶりに再会 したおばちゃん 雪ん子寿しで 歓待してくれ」

  「嬉しいね 日本列島 あちこちに 私を待って くれる人あり」

  「この店を 繁盛させたい 夢語る 私も知恵を 出して手助け」

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〇怪我をした孫希心

 3日前の夕方、孫希心の通う学童クラブの先生から若嫁に、「足を捻挫か骨折した恐れがあるので迎えに来るように」との電話が入ったようでした。孫奏心を迎えに行く役目を私が引き受け、若嫁は心配な面持ちで迎えに行きました。帰ると直ぐに近くのたけます医院へ診察に出かけましたが、足の親指を骨折しているようでした。聞けば室内サッカーでボールをキックした折転げたようで、帰宅後はダイニングの机にもたれて、「痛い痛い」と泣いていました。食事の時間前でしたが余程疲れたのか涙を出しながら机を枕に寝入ってしまいました。

ラジオ体操から帰宅したステッキ姿の孫希心
ラジオ体操から帰宅したステッキ姿の孫希心

 夏休みも元気に過ごし、もう終わりだというのに登校などもどうなるのだろうと心配しましたが、明くる日の朝は父親が用意した登山用の2本のステッキをついて、目と鼻の先の夏休みラジオ体操広場へ出かけるほど回復していました。お医者さんから少しおとなしくしているように言われたそうですが、大人の目の前では病人ぶっていたものの、私たち大人の心配をよそに見ていない所ではトイレに行ったり遊んだりして、回復の早さを見せ付けてくれました。怪我3日目の昨日は歩くのにも違和感がなく、学童クラブへも元気に出かけたようで、まずはひと安心といったところです。

 孫希心は8月31日が誕生日なので、昨日は夕方母親に連れられて、誕生日プレゼントを買いに出かけたようで、足の痛みなどすっかり忘れ夕方ルンルン気分で帰って来ました。早速買ってもらった遊び道具に、頼まれた私が電池を入れてやり、楽しそうに遊んでいました。秋は運動会の季節です。例年だと夏休みが明けて間もなく運動会が行なわれていましたが、残暑の中で熱中症にならないようにとの配慮でしょうか、今年度から運動会の開催が10月にずれ込んだようで、それまでには怪我も治り自慢の俊足力も回復することでしょう。何はともあれ大したこともなくひと安心でした。

  「骨折を したというのに 明くる日は 軽快歩く 凄い回復」

  「ステッキを 二本着きつつ 朝ラジオ 体操出かけ まずは安心」

  「一年生 今年最初の 夏休み 大した怪我も なしに終って」

  「秋来れば 運動会が 待っている 今年見学 行こうと相談」 

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〇ロケ風呂竹屋根の葺き替え工事終わる

 新築以来腐りもせず、雨漏りもせずどうにか持っていたロケーション風呂の竹屋根が腐り始めたため、設計した息子から張り替え工事を計画したいと申し出がありました。費用や手間のことを考えれば別の方法もあるのでしょうが、息子は最初からエコ的な発想にこだわって竹葺き屋根にしていました。設計した息子は「10年間は持つ」と言っていたので、10年目を迎えた今年の春、もうそろそろと注意をして見ていましたが、ここに来て「そろそろ葺き替えたほうが良いのでは」と息子から工事の提案がありました。

 息子は竹の切り時が盆月なので、中山の友人に頼んで真竹を手配し、お盆頃その友人の手助けを得て切り出した竹を出入りの建築屋に持ち込み、準備を進めていました。息子は竹の見分け方についてはまだ未熟で、中には新竹過ぎて使い物にならないようなものもあったようだし海側に面した見えない部分の片屋根はスレートに変更し、3日ほどの作業で何とか葺き替え工事を終えることができました。出来上がった屋根を2~3日前に見に行きましたが中々の出来栄えでした。

 葺き替える前の古い朽ちた竹材は建築屋さんがダンプに積んで持ち帰り処分してくれましたが、新竹で使えない竹はロケ風呂横の斜面に山積みされていて、片付ける必要があるので昨日の作務修業に合わせて焼却処分することにしました。あいにくの小雨模様でしたが風もなく、竹の表皮は油分がかなりあるのでよく燃え、鎌で小切りしながら火の中へくべ、2時間ほどですっかり綺麗に処分することができ、ホッつと一安心といった感じです。もしこれまで同様竹葺き屋根が10年後まで持つのなら、私の代はこれで終わりですが、人間牧場の負を受け継ぐ息子のために、何としても元気で10年後の葺き替えを見届けてやりたいものです。

  「10年は 持つと言ってた そのとおり 竹葺き屋根は 雨も漏らずに」

  「わが息子 友人手伝い してもらい お盆の頃に 竹切り作業」

  「10年後 見届けたいと 健康を 自分に誓い 今日も鍛える」

  「残材を 焼却処分 鎌振るう 跡形もなく 綺麗片付く」

葺き替え工事後の竹の残材
葺き替え工事後の竹の残材

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竹の焼却処分
竹の焼却処分
綺麗に葺き上がった竹葺き屋根
綺麗に葺き上がった竹葺き屋根
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〇上野地区公民館の高齢者教室に招かれて

 伊予市には旧市街に4つ、中山と双海にそれぞれ1つ、合計6つの地区公民館があります。昨日はその中の一つである上野地区公民館の高齢者教室に招かれ出かけて行きました。合併で同じ市内になったといいながら、農山漁村地域の双海町とは、生活環境や暮らしも随分違っていますが、高齢者の置かれている立場はどこも一緒で、目まぐるしく変化する社会の中で、体と将来への不安を抱きながら暮らしているというのが正直なところのようです。

上野公民館
上野公民館

 演題は「心豊かに生きる」でした。皆さんにまず手持ちの資料のメモ欄に一本の横棒線を引いて貰おうと思いましたが、殆ど全員メモを取る様子もないので、自分の後ろの黒板に板書をするように私が書きました。左端にゼロ歳、右端に100歳と書き、全国には100歳以上のお年寄りが5万人を越え、愛媛県内にも800人ほどいることを話し、100歳まで生きることが夢でない時代であることを認識してもらいました。昔は生きたくても生きられぬ時代でしたが、今は生きたくないのに生きなければならない時代であることも付け加えました。

 さてこの自分の人生という横棒線に、自分の今の年齢と自分の目標とする死ぬ年齢を書き込みますが、皆さんにインタビューのマイクを向けて「何歳まで生きるご予定ですか?」と尋ねましたが、80歳とか100歳とかただそのときの思いつきで答える人が多いように思いました。これは上野地区の人だけではなく、自分の命は明日が分らないという人間本来の姿なのかも知れません。しかし結果的に100歳まで生きたのと、100歳まで生きようと思って生きるのとでは随分生き方が違うのです。

 日本は平均寿命が男性80歳、女性86歳と世界一の長寿国になったけれど、平均寿命と健康寿命には6~7年もの差があることを考えれば、「健康で長生き」、つまり寝たきりにならない生き方を考えなければならないのです。そんな四方山話を面白おかしく笑いを交えながら、90分間話させてもらいました。午後1時30分という午睡の時間ながら、また人の話を30分も聞くと農のシャッターが下りるという年齢ながら寝る人もなく終ることができました。

 帰り際、「楽しい話だった。ためになる話だった。また来てや」と声をかけられ拍手をいただいて会場を後にしました。帰宅後参加した人の一人からメールが届き驚ろきました。この日集まった人の殆どは、私と同じように学校でパソコンを習っていない世代です。でもこの人は独学でしっかりと習っているのです。メールには私の話への感想が述べられ、帰宅後生活設計をやってみたようでした。講演を聞いた全ての人の心を揺り動かすことは不可能です。でも一人でも私の話に耳を傾け、実践しようとしてくれたのですから、これはもう感動ものです。昨日はいい一日となりました。

  「高齢者 50人ほど 集まって 私の話 入れ歯ガクガク」

  「聞いたけど 右から左 抜けて行く これも年齢 仕方がないか」

  「帰宅する メールが入り 読んでみる 驚きました 教室参加者」

  「一人でも 私の話 真に受けて 早速実践 嬉しい限り」

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〇今月今日の私の自画像

 「自分で自分の写真を撮る」ことは多少恥じらいがあります。ましてやそんなに二枚目でもなく(いや、もっとない)、顔に自信のないコンプレックスを持っているとなればことさらで、写真に写る機会があればいつも、目立たないような隅位置に陣取って来ましたが、2~3年前からその考えを改め、せめて月に1度程度は自画像を撮ろうと心に決めて、折に触れてデジカメの自動シャッターを使って自画像を撮り、記録のつもりでブログにアップしています。

これからの人生で一番若い今朝の自画像
これからの人生で一番若い今朝の自画像

 今朝も何を思ったのか自画像を撮ろうと急に思いつきました。カメラを木になるカバンから取り出し、机の横に置いているプリンターの上に置き早速撮ろうとすると、パジャマのままであることに気がつき、慌てて普段着に着替えました。3日前に1ヶ月に一度の散髪を終えていますが、今朝は髭も剃っていないので不精な顔つきです。こうして思いつくまま不定期ながら1ヶ月に1枚程度顔写真を撮ると、先月と今月の差は余りないように見えるのに、3年前とは明らかに顔相が少し違って見えるのです。

 私が自画像を撮っていることを妻は知っているので、冗談交じりに「お父さんはいつ死んでも遺影には困らない」と言われていますが、季節の変わり目とでもいうのでしょうか、一昨日も昨日も近所にご不幸があって、仕事の都合で葬儀には参列できず、不義理ながら友人に香典を預けなければならなくなりましたが、争議に参列する度に遺影について考えさせられるのです。その話をすると「縁起でもない」と妻は時々言いますが、さて私もそろそろ遺影に使う自画像を撮っておきた気がしています。

 今朝の自画像は自分の書斎でブログを書いている「在りし日」の若松進一です。「在りし日」と書いたのは、写真を撮った時間がたとえ数10分前であれ、その時はもう過去のものになっているからです。自分のこれまでの人生はさておいて、これからの人生では今が一番若いという事実もあるのです。老いの下り坂をブレーキをかけながら生きている自分をどう見つめながら生きるのか、これまで働いていた遠心的視点が、求心的視点に変わってきたことを実感した朝でした。

  「自画像を 臆目もなしに 月一で 撮ってはブログ 記録に残す」

  「ご近所で 葬儀続いて 少しだけ 自分行く末 思って暮らす」

  「遺影用 そろそろ準備 しておこう 縁起でもない 妻に怒られ」

  「遠心が 求心変わり 始めたと 実感しつつ 日々を生きてる」

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〇孫の小旅行

 長かった夏休みもいよいよ秒読み段階になってきました。今年一年生で初めての夏休みを迎えた孫希心は、学童クラブのお世話になっているので、弟奏心が保育園に登園する時間と一緒に弁当を持って、地域事務所2階の部屋へ通勤しています。先日の木曜日には学童クラブの一日遠足で、松野町のお魚館までチャーターバスで連れて行ってもらい、ガラス細工や昼食で楽しい小旅行を楽しんだようでした。

列車で小旅行の親子
列車で小旅行の親子
新調された上灘駅の看板
新調された上灘駅の看板

 日曜日には上灘駅から列車に乗って松前の母親の実家へ、息子に連れられて出かけることになりました。普通は車で出かけるのですが、母親が体調を崩している実家の、孫にとってはおじいちゃんおばあちゃんの世話に先に出かけていたため、私が上灘駅まで送って行き、そこから短いながら北伊予駅まで列車の旅です。孫たちは列車が大好きで、マッチ箱のような一両編成の列車に乗り込み、はしゃぎながら手を振って去って行きました。

 今この路線は愛ある伊予灘線と命名され、夕焼けビール列車や伊予灘物語という観光列車が走っています。そのため駅舎も少し化粧直しが施され、ホーム側から見ると改札口に「上灘駅」という欅の板の看板も設置されていました。昇降客で賑わったり蒸気機関車が走っていた頃の、かつての賑わいはありませんが、それでも並行路線ながら廃線になることもなく今日を迎えていることを喜ばなければなりません。

 私は時々県外出張の際この上灘駅舎から列車に乗ります。列車に乗っている人は高校生であったり病院へ通うお年寄りが殆どで、車内はがら空きですが、松山駅まで各駅に止まる鈍行列車は、まさに「ふるさとの訛懐かしい~」で、車窓に広がる伊予灘の海や家並みも時間が止まったように懐かしく、昔の思い出が蘇ってくるのです。JRのキャンペーンロゴではありませんが、「そうだ!!、列車に乗ろう」と思います。スピード優先、車優先、便利優先の社会の中で忘れかけていた人間優先、のんびり優先を少し思い出させるローカル線です。

  「孫たちが 親に連れられ 列車旅 窓の向うで 手を降り交わす」

  「ローカルな 駅舎・列車 人まばら ゆえに長閑で のんびり優先」

  「この駅も 人で溢れた 昔あり 今は無人で 人影もなく」

  「忍び寄る 秋風ススキ 撫でながら 今日も明日も レールは続く」

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〇地元の裏盆盆踊り

 昨日の夜は、地元灘町の盆踊りがありました。私が青年団活動をしていた若い頃は、町内の沢山の集落で盆踊りが行なわれていて、連日連夜仲間と一緒に各集落の盆踊りに出かけて、踊ったり酒を飲んだりして青春を謳歌したものでした。今は下浜と池久保、それに灘町の三ヶ所になってしまい、その三ヶ所も踊り手が少なく風前の灯といった感じで、時代の流れを感じずにはいられません。

盆踊りを踊る孫希心
盆踊りを踊る孫希心

 わが家は集落の付き合いは息子に代替わりしていて、今年は順番による自治会の組長を息子が初めて引き受けています。ゆえに若嫁は息子に代わって組長の仕事をけなげにこなしています。毎月の組費の集金や回覧に加え広報の配布、組長会や公民館活動への参加など、組長の仕事も結構忙しいようです。昨日は朝から櫓を組んだり慰霊祭の準備があるので、孫たちを家に残して朝早くから手伝いに出かけて行きました。

みんな楽しそうでした
みんな楽しそうでした

 準備が終って昼前に一旦帰り、夕方戦没者や新盆を迎えた人の慰霊祭があるので出かけましたが、息子や孫それに私も午後7時から始まる盆踊りに参加するため、灘町公民館横の空き地へ出かけました。私も区長をした折、踊り子を確保するのに苦労した経験があるので、「枯れ木も山の賑わい」とばかりに参加して皆さんと一緒に踊りました。若嫁はかき氷夜店の担当でした。地域おこし協力隊の冨田さんや川口さん、それに漁協女性部の松本部長さんたちも参加してくれていました。

 ひょうきんな二人の孫も盆踊り初デビューで、みんなの後ろで輪に加わり見よう見真似で私と一緒に、楽しそうに踊っていました。盆踊りはどこか懐かしい日本の原風景で、絶やして欲しくないものの一つですが、いつまで続くか心配です。私が現職のころにまちづくりの一環として製作した「双海音頭」さえも、今は懐かしい感じがするほどです。それにしてもよそ者と思われる地域おこし協力隊の冨田さんや川口さん、漁協女性部の皆さんたちの支援を惜しまない活動には頭の下がる思いです。同じ町内に住みながら参加しない住民がいることに恥ずかしい感じもします。今一度ふるさとの元気を取り戻すために、参加する気風を復活して欲しいと願っています。

  「盆踊り 今年も細々 でも参加 年に一度の 顔にも出会い」

  「孫デビュー 前に吊られて 踊ってる いやはや嬉しい 光景でした」

  「かき氷 おひとつどうぞ 勧められ 暗がり見ると 若嫁笑顔」

  「戦没者 新盆写真 並べられ どこな悲しい 裏盆慰霊」

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〇目にはさやかに見えねども

 昨日は久しぶりにシーサイド公園に出かけました。今年の夏は雨が多くて蒸し暑かったものの、太陽の照りつける日が少なく、日照時間は記録に残るほど少なかったようです。例年だと昨日と今日は土日なので夏休み最後の海水浴で賑わうはずなのに、砂浜に海水浴客の姿はそんなに多くありませんでした。
 このところ日照時間が少なく、雨が多かったせいで野菜が品薄となり高騰しているようで、普通の年だとキウリ一山100円なんて時期なのに、1本百円もするようです。

珍しいカマキリ
珍しいナナフシカマキリ

 そんなこともあって、わが家の家庭菜園でシシトウ、ピーマン、ナス、キウリを適当に収穫してじゃこ天のお店と鮮魚店のおばちゃんに持って行ってあげました。両方とも大層喜んでくれ、お礼につみれと作ったばかりのにぎり寿司をいただき、わらしべ長者の存在をいかんなく発揮しました(大笑い)。
 わが家では雨が足繁く降るお陰で、野菜が水不足で枯れることもなく大豊作で、特にシシトウとピーマン、それに長ナスは追肥のお陰で沢山実をつけ、近所へお裾分けして喜ばれているのです。

 わが家では目下のところカブト虫やクワガタの話題が持ちきりで、玄関先に置いた虫篭には色々な種類のクワガタが孫と息子によって飼われています。息子は地域づくりの一環として中山の友人とクワガタを増やし、ワンダーランドを造ろうと意気込んでいて、昨晩も子どもたちを集めて教室を開いたようでした。孫はまだ小学一年生と保育園年中ですが、既にカブト虫やクワガタの交尾のことを知っていて、親は時々その質問に戸惑う場面も見られるようです。孫にとっては避けて通れない性教育の場面です。

 昨日珍しい虫を見つけました。田舎のことゆえしょっちゅう庭先や家庭菜園で珍しい小動物を見つけますが、孫から「おじいちゃん、これ何という虫」と聞かれる度に、知ったかぶりで説明をしてやりますが、昨日のクロアナバチといい、この歳になっても知らないことがいっぱいあるようで、インターネットで調べたりしながら、孫の成長とともに少しだけ心もとない進化を遂げているのです。長いと思っていた孫の夏休みもあと一週間となりました。背中に汗疹を出す程度で今年の夏も、どうにか家族全員乗り切れるようです。

  「野菜類 お裾分けして 喜ばれ わらしべ長者 色々お返し」

  「クワガタを 増やして田舎 活性化 目論見だけは 見上げたものだ」

  「孫たちは クワガタ交尾 はや知って 親に質問 親は戸惑う」

  「汗疹出る 程度で夏を 乗り切った 秋の気配を 早くも感じ」

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〇尾籠な話で恐縮です

 昨日一年生の内孫希心が1階トイレで、「おじいちゃんウンチに何やら黒いものがあるから見て!!」と唐突に言うのです。孫のウンチゆえ気恥ずかしくもなく便器の中を覗いてみると、健康体を示すような大きなウンチが便器内の水溜りに鎮座していました。よく見ると孫希心が言うように、ウンチの中に黒い粒のようなものが2~3個見えました。それがスイカの種であることは容易に知ることができましたが、それを孫に分りやすく説明してやらなければならないのです。

 夏休みになるとNHKラジオで、「子ども科学何でも相談室」という番組がありますが、「スイカの種は食べるとどうしてウンチに混じって出てくるのですか?」みたいな質問です。早速孫希心とウンチ談義になりました。私「希心君僕は昨日スイカを食べたかい」。希心「食べたよ」。私「種は出して食べたかい」。希心「出して食べた」。私「多分スイカを食べた時知らない間にスイカの種も食べたんじゃないかな。その種がウンチに混じって出てきたんだよ」。希心「食べた白いご飯はご飯のままウンチになって出てこないのに、何でスイカの種はそのまま出てくるの?」。

 私「食べるものにはお腹に中で壊れるものと壊れにくいものがあるんだ。スイカの種は硬いので壊れずにお腹のトンネルを通ってウンチに混じって出てきたんだと思うよ」。希心「じゃあスイカの種を食べた小鳥もウンチになって種は出てくるの」。私「そうだよ。小鳥は色々な種を食べるけど、種の入ったウンチをあちらこちらにして、そのウンチから植物の芽が出るんだよ」。希心「ふーん、じゃあ僕のウンチも畑ですると、スイカの種から芽が出てスイカができるかも知れん。きたねえ」。私「スイカの種についたウンチはお日様や雨水で消毒されて綺麗になるから大丈夫。だからスイカは真っ赤で美味しいんだよ」。希心「ふーん」。~てな感じでした。

 孫の質問に爺が答えるウンチ問答は中々骨が折れました。60歳以上も歳の差のある孫に、分りやすい言葉で話をしてやなければならないのです。結末は「スイカ=汚い」で終ると、スイカ嫌いな子になってしまうから厄介です。孫は何事もなかったように昨日も色々な果物を食べていましたが、私もスイカ大好き人間で、毎日のようにスイカを食べています。私も今朝自分のウンチの中にスイカの種を発見しました。そのウンチは水とともに流れ合併浄化槽へ運ばれたようですが、その後のスイカの種の運命は知る由もありません。朝から臭い尾籠な話ですみませんでした。

  「おじいちゃん ウンチに黒い ものがある 孫の観察 大したものだ」

  「どうしてと 次から次へ 質問を されてたじたじ 大人の私」

  「わがウンチ 孫と同じく スイカ種 まざまざ見つめ 水に流して」

  「スイカ種 自分腸内 一巡り 消化もされず この世出現」

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〇悲しい広島の土砂災害

 3日前の夜、まちづくり学校双海人の会合から帰って自宅に着き、車を車庫に入れて北の空を見ると、雷の閃光が30秒間隔くらいで怪しく連続的に光っていました。「おやっ」と思った程度で家の中へ入り、風呂に入ったりテレビを見て床に就きましたが、明くる日の朝いつものように4時に起床して、ブログを書き終えてパソコンでニュースを見ると、広島市で3時間に200mmを越える雨が降り、被害が出始めているようでした。広島は愛媛の対岸ゆえ知人友人も多く、他人事とは思えずテレビの画面に流れる被害状況を伝えるテロップを、食い入るように見つめていました

広島の惨状を伝えるニュース写真
広島の惨状を伝えるニュース写真

 死者39人の中には幼い子どももいて悲しみは一層深くなりましたが、最初7人だった行方不明者の数はその後大幅に増え、今朝の新聞によると安否不明者は51人になっていました。広島へは何度も出かけていて、その度に山の頂まで住宅開発されている様子を見ているだけに、今回の集中豪雨による大災害との因果関係も、分かるような気もしますが、行方不明者の捜索に3000人の人が投入され、夜を徹した捜索活動が行われているようで、一刻も早い救出が望まれます。わが家でも裏山が急峻なため、これまでに2度も土砂崩れに遭っているだけに、他人事とは思えず胸が痛むのです。

 こうした災害が起こるとテレビや新聞といったマスコミは、いち早くその様子を伝えてくれますが、と同時に原因究明や対応の責任についても手厳しく迫っています。雨が降り始めたのが未明頃からだったし、たとえ避難指示や避難勧告が出されたとしても、人々が避難でき得たかどうかは疑問の残るところですが、住民の安心安全を守らなければならない立場を考えると、39人の死者を出し51人の安否不明者を出した対応の遅れは、被災した人たちの深い悲しみを思えば、責められても仕方のないことのようにも思われるのです。

 広島は原爆投下による大きな惨事を経験し、街並は見事に復旧したものの、今もその後遺症に悩まされています。何年か前同じような風水害で大きな被害も受けています。戦争は平和への願いを、風水害は安心安全への願いを固く心に誓わせますが、慢心な人間はいつかその教訓や願いをを忘れてしまうのです。原爆や度重なる自然災害に遭っている地域だけに、もう二度と広島にだけはこのようなことがないようないようにしてあげたい、そう思った悲しい朝でした。

  「前の晩 広島辺りで 閃光が 大雨予感 悲しく的中」

  「3時間 200mm越す 大雨が 降って土石の 大なる被害」

  「またしても 広島被害 対岸の ことゆえことさら 心が痛む」

  「あの人は 大丈夫かと 顔浮かぶ 電話連絡 無事を確認」

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