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○孫朋樹の看病

 昨日の夜松山に住む娘から、「お父さん明日空いている?」と電話がかかってきました。娘からこんな電話がかかるのは、孫の調子が悪い時ぐらいなので、「空いているがどうした」と答えると、「実は朋樹が熱が出て、明日は仕事を休むことができないので、面倒を見てくれない」「朝熱が下がっていなかったらまた電話するから」と電話を切りました。

 予定表では夜仲間内の飲み会に参加する程度なので、まあいいかと思いながら朝を迎えました。朝6時に電話が入り、「熱が37度5分あるので学校を休ませたいのでよろしく」とのことでした。

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 少し軽めのブログを日本書き終えていたので、すぐに準備をして高速道路を使って、娘のマンションのある道後緑台に到着すると、孫尚樹は元気で幼稚園に行く準備を終えていました。朋樹はまだ部屋で休んでいました。

娘婿と娘が尚樹を連れてそれぞれの目的地へ向かって家を出るころ、朋樹は着替えて起きてきました。熱は37度程度なので、まずはインフルエンザではないだろうと、看護師助産師の娘は少し安心して、「薬はここ、カギはここ、もし病院へ行く時の保険証や診察券はここ」と、息子の面倒を見てくれる私にしっかりと引き継いでくれました。朋樹と一緒にソファーにもたれ、何することもなく午前中は過ごしました。

 これまでしょっちゅうわが家に遊びに来て、私の良き相棒だった孫朋樹ですが、小学校2年生になったいまではすっかり大きくなって、サッカーや公文など習い事も多くて、かつてのような出会いも少なくなって少々寂しい思いをしていましたが、今日は病気ながらゆっくりと話ができていい一日です。

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 娘が出かける時パソコンを用意してくれました。私がブロガーであることを知っているからです。早速慣れない手つきでパソコンを開き、今朝急ぎ足で書いたブログを呼び出して、多少の修正を加えました。また私のブログ記事に送られているコメントの処理をしましたが、お遊びのつもりで娘の家でブログを一本書いているのです。

 娘は私のブログを時々読んでくれています。もう結婚し独立しているため娘と話すことは殆どなく、わが家に泊まりに来た時くらいですが、私のブログが唯一のコミュニケーション手段となっているのです。最初は「余り変なことは書かないで」と注文をつけられていましたが、今はそんなこともなく読んでいるのか読んでいないのかさえも定かではありません。

 今日は孫の守とはいいながら私にとっても久しぶりの骨休めです。南向きの窓からは優しい春の日差しが差し込み、温熱カーペットの上に座っていると、ついウトウトしてしまいます。孫朋樹の体温も薬が効いたのか平熱まで下がったようです。朋樹はソファーの上に横になってウトウトしています。昼過ぎには娘も仕事場である病院から仕事を終えて帰って来る予定なので、もう少しのんびりとパソコンに向かって、思いつくままにキーボードを叩きたいと思っています。

    

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○月刊釣り雑誌で紹介された道の駅ふたみ

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 道の駅ふたみの池田所長から月刊釣り情報という雑誌を一冊いただきました。見開きで5ページに渡って道の駅ふたみが特集されていましたのでスキャナーでパソコンに取り込み、その記事を保存することにしました。この道の駅は昔海だった所を埋め立てて造りましたが、埋め立て計画段階や施設計画、資金計画、整備事業、整備後の立ち上げや運営に至るまで、全てに関わった自信と自慢の施設なのです。

 伊予市・中山町・双海町の平成合併で第一線を退いてからは、少し遠目からしか見ていませんが、政権交代による高速道路無料化実験事業によって車とと人の流れが変わり、何かと大変なようですが、こうして紹介されてみると、私の想いで作った物語は色あせず、使い方によってはまだまだ十分再生可能なような気がしています。

  「釣り情報 雑誌紹介 記事を見る 思いを込めて 造った一入」

  「そこそこに 智恵出し残る 物語 やり方次第 再生可能」

  「砂浜に 大量ゴミが 漂着す モジモジしつつ 通りすがりて」

  「ご一緒に 造った町長 もういない 天国召され 名のみを残す」 

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○サツマイモの種芋植え付け

 私のあいまいな記憶が正しければ、毎年10日ごろにサツマイモの種芋を苗床に伏せる作業をしていると思い込み、昨年や一昨年のWriting Calenndarを確認することもなく手前勝手な憶測で、昨日の午後その作業をすることにしました。子ども体験塾の絡みもあるので失礼ながら教育委員会の赤石主事さんを誘い、手助けを頼みました。午前中伊予市の仙波青果で鳴門金時の種芋5キロ一箱を買い求め、被覆用のビニールを赤石さんに用意してもらって、待ち合わせた午後1時過ぎに人間牧場へ向かいました。

 この2~3日は午後になると北西の強い風が吹き荒れ、海は大時化模様でしたが、下灘の漁師は度重なる時化で出漁もままならぬジレンマなのか昨日は出漁していて、人間牧場から見下ろす豊田漁港内の漁船もまばらで、白波を受けながら寄稿している漁船が何隻も航跡を引いていました。

 早速種芋植え付けの作業にかかりました。サツマイモの入った箱を開けて赤石さんに数えてもらったところ、42個あったようで、一列に10個~11個と決めて鍬で溝を掘り、赤石さんが私の指示通り等間隔に並べて行きました。

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 掘った見度に並べた種芋を木べらで掘った穴に埋める作業も全て赤石さんがこなしてくれて大助かりでした。さあ次の作業は苗床の上にビニールを張るのですが、風がきつくて透明のビニールは中々言うことを聞いてくれないのです。いつもの年は自分一人でこの作業をしていましたが、お陰で大助かりでした。

 3月4日の作業であらかじめビニール被覆用の外枠だけは用意していたので、多少悪戦苦闘しながらもどうにか被覆を完了しましたが、被覆した小さなビニールハウス内では早くも熱効率が始まって、被覆の内面に水蒸気が発生しているようでした。

 約1ヶ月もすれば室内気温が上がって種芋が芽吹き、それから約1ヶ月でつるが延びるという算段ですが、今年の冬はまだまだ寒い日が続くので、果たして目論み通り行くかどうか不安でなりません。昨年は被覆を剥いで間もなくのネズミの被害にあって、種芋をかじられたので、今年はその注意もしなければなりません。折角種芋購入に2千円もかけたのですから、元は取らなければと思っています。

 この日はついでに、森林組合の稲田さんに頼んでおいた大石早生という品種のスモモの苗が届いていたので、赤石さんに手伝ってもらい、3本植樹しました。自宅裏の畑にも2本植えたので、早ければ三年後には桃栗三年で実をつけることでしょう。


  「種芋を 行儀よく四列 並べ植え ビニール被せて 春の来る待つ」

  「春風に いたずら翻弄 されながら ビニール二人 何とか張りて」

  「この冬は 寒さ長引き この後の 作業遅れが 少し心配」

  「鎌と鋸 しまい忘れて 引き返す やはり歳だな 確認せずに」

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○充実した一日でした

 この3月末で農協を退職することが決まった清水塾頭を誘って昨日の午後、今治で開催されている「今治100年写真展」を見に行きました。年輪塾ネット会員の村上太さんが主宰するうずの鼻が、市内から発掘した古い写真をデータベース化して保存したり、写真展を開催したりしていますが、早いものでもう5回目を数えているのですから驚きです。途中で大西町に住む大河内結子さんを誘い、不案内な今治市内を彼女の先導を受け3人で会場となっている市立図書館へ行きました。大河内さんの顔で図書館長さんとも面談し、早速3階のロビーへ上がりました。狭いロビーの細長い通路の両側に写真が沢山展示されていましたが、一枚一枚に記されたショートなコメントを読みながら、納得しつつ今治の変遷を辿って行きました。

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(写真展を企画した村上太さん)

 そのうち主宰者である村上太さんが姿を見せ、彼の説明を聞きながら再度一巡しました。やはり写真展を主宰した人のレクチャーは格別で、今治の裏話を随分聞かせてもらいました。村上太さんは清水さんの仲立ちで私の名刺や夕日徒然草の印刷を手掛けてくれている人なので、格別な気持ちで私たちを出迎えてくれたようです。

 ここでも今年輪塾が取り組んでいる二野宮金次郎銅像調査のことが話題となり、今治市内の小学校には渦潮電気の会長さんが二野宮金次郎の銅像がない学校全てに金次郎の銅像を寄付建立したという逸話を聞くことが出来、近々その人に会いたいという話も立ち話ながらすることが出来ました。

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(文化庁有形文化財の二宮金次郎の銅像)

 行く時は菊間、大西を経て海岸周りで行きましたが、帰りは玉川、奥道後経由の山周りを通ろうということになりました。ついでに鈍川の小学校にある文化庁の登録文化財になっている二宮金次郎の銅像を見るため、大河内さんを誘って出かけました。大河内さんは玉川出身とかでしたが、今では廃校となっているこの元小学校に二宮金次郎の銅像ががあることを知らなかった様子で、早速調査対象にして再度調査してもらうことにしました。

 元小学校の運動場では沢山のお年寄りが、折からの北風にもめげず一生懸命グランドゴルフに講じていました。やがて私たちもあんな風になるのかなと笑いながら横目で見ながら、金次郎銅像の直ぐ横にあった乳出の大イチョウの垂れ下がったコブに触りながら楽しい下ネタ話に花を咲かせました。

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(龍岡寺の山門)
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(森はともだち農園の事務所)

 大河内さんと現地で別れ、玉川町の森智子さん宅を訪ねました。森のともだち農園を開設している智子さんとはひょんなことで知り合い、また愛媛大学農学部社会人学び直し講座で受講していることもあって、人間牧場へも来ていただいているので、一度は表敬訪問がしたかったのです。

 森さんのお宅は建設業を営んでいて龍岡寺の直ぐ傍にありました。立派な家に驚きながら農園事務所へ立ち寄ると森さんは東京へ表彰を受けに行っていてあいにく留守とのことでしたが、お父さんと色々な話をすることができました。まこもたけやブルーベリーについてひとしきり話に花を咲かせましたが、この親にしてこの子ありといった印象を強く持ちました。

 写真展、二宮金次郎、森のともだち農園と訪問し、機能はとても充実した一日を、清水塾頭と道すがら積もる話や人生について話したことも大きな収穫でした。


  「写真展 見に行くからと メール入れ 塾頭誘い 大風の中」

  「それぞれの 写真に書いた コメントを 読んで納得 聞いて納得」

  「文化庁 何故に有形 文化財 謎は深まる 調査を託し」

  「この親に あの子納得 しつつ聞く まこもたけなる 珍味の話」

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○イベント大賞奨励賞はタナボタではありません

 昨日の新聞に東京発で、双海町の夕焼けプラットホームコンサートがイベント大賞奨励賞を受賞したことが紹介されました。少し前年輪塾ネットに小番頭松本さんからほんの触り程度でさりげなく受賞の経緯を紹介されていましたが、今回の奨励賞の受賞は決してタナボタではなく、松本さんの原稿書きの才能が認められたものなのです。

 友人の松本さんからイベント大賞へ応募チャレンジしてみたいと内々相談があったのは昨年のもう随分前のことでした。このイベントを発案して始めた私に気を使っての相談でしたが、その後の夕焼けプラットホームコンサートを陰で支え続けている松本さんのことだし、三年間出向していたえひめ地域政策研究センター時代に様々な原稿を書く技術をマスターしているので、原稿用紙10枚以上の原稿の出来栄えと審査の行方を楽しみにしていました。

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 少し前審査の中間発表で表彰グループにノミネートされていることを教えてもらいましたが、残念ながら大賞は逸したものの、堂々の奨励賞受賞となりました。一昨日東京で授賞式があったようで、本来なら公費で出張させてもらいたかったのですが、残念ながら自治体からはよき返事が貰えず、努力した当の本人は自腹で東京の授賞式に他の3名とともに出席したようです。

 昨年の12月15日に私が書いた原稿用紙10枚が、明日の日本を創る協会から同じような奨励賞を受賞しましたが、私は残念ながらスケジュールが立て込んでいて欠席し、後日主宰者から表彰状が送られてきました。表彰には長年の苦労が報われたものもありますが、原稿審査で表彰、原稿審査とプレゼンテーションを組み合わせた表彰など、様々な表彰にチャレンジして奨励賞や優秀賞、大臣表彰をいただいて賞を自らの力で勝ち得てきた私としては、松本さんの今回の受賞を確かな手応えの第一歩として、人知れず喜び大きな拍手を送りたいと思います。

 私は松本さんに人間の潜在能力を氷山にたとえ、本を読む、話を聞く、物を見るで大きくするよう常々言っています。松本さんもそのことをしっかりと肝に銘じて修行をしていますが、大きくなった潜在能力を顕在能力にするため書く、喋る、実践することを要求しています。このことについてもしっかりと受け止めて、日々研鑽をしているようですが、彼の能力からすれば進化の可能性はまだまだこれからで、お粗末な私ながら彼の進化の後押しをしっかりしてやりたいと思っています。

 彼は今忙しい市役所の仕事の合間を縫って、年輪塾の事務局として清水塾頭などの指導を受けながら、新しいサイドハンドの仕事にも取り組んでいます。私が21世紀えひめニューフロンティアグループで修行したように、年輪塾での企画力、実践力を含めた人間力向上のための進化の道をしっかりと高めて欲しいと願っています。

 これまでどちらかというと私の後ろにいたような松本さんですが、今回書いた原稿が東京で認められ、私の一歩前へ出たような気がして、今回の受賞を自分のことのように喜んでいます。地域づくりに熱中したこの30年余りの半生ですが、一人歩きをさせてもよい後継者がやっと見つかった感じがします。これは何よりも嬉しいことで、次の目標に向かってしっかりと成長することを願っています。

 市役所職員が故のジレンマと、市役所職員が故に出来ることの可能性を、私と同じようにこれからもずっと思い巡らすことでしょうが、幸い松本さんも私がそうであったように、既に新しい種を育てようとしています。それは決して早過ぎることではなく、松本さんが蒔いた人の種はもうあちらこちらで芽吹いているのです。水をやり、太陽の光を注ぎ、雨風にも晒さなければ太くて丈夫な人は育ちません。乞うご健闘。


  「東京で 受賞と一報 届きたる わがことのよう 大きな拍手」

  「いつの間に いつ歩前行く 実力が 日ごろ鍛錬 実を結びて」

  「身銭切り 休みを取りて 東京の 風に異文化 感じて帰る」

  「さあ次は どんなドラマが 生まれるか 今日も明日も 楽しみながら」

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○千本桜の森植樹終る

 昨年のこのごろ、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンテアグループでは、「千本桜の森プロジェクト」という新しい事業を思いつきました。一ヶ所100本を毎年3~4ヶ所づつ、合計3年間で十ヵ所桜の木を植栽しようという計画です。大野事務局長と戦略会議を重ねてグループ総会で提案了承され、準備を進めてきました。幸運にもえひめ地域政策研究センターのアシスト事業に応募採択されて、引くに引けないところへ追い込む戦術も相変わらずです。

 しかし桜の植樹時期は秋植えも可能ながらやはり春植えが一番なので、助成事業を担当するセンターの河野さんに進捗について、最後まですっかり気を揉ませてしまいました。それでも手を挙げてくれた愛南町内海地区、国立大洲青少年交流の家、大洲市柳沢田処地区、伊予市双海町下灘地区、伊予市中山町佐礼谷地区に桜の苗を配布し、先週の日曜日までにやっと念願の植栽を終えることが出来ました。

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(田処亀本さんからメールに添えて送られてきた写真)

 仕事や日程の都合で、私は地元下灘と佐礼谷しか参加することは出来ませんでしたが、大洲市柳沢田処の亀本さんからは写真を添えたメールやお礼の絵葉書を報告がてらいただきました。前年度廃校になった下灘中学校跡地運動場に12月19日に植えた桜も、今年で廃校になる大洲市田処小学校に植えた桜も、ある意味一抹の寂しさを感じましたが、これこそ21世紀えひめニューフロンティアグループが目指している、地域再生への願いなのです。平成の大合併以降日本全国の地方は急速の疲弊の坂道を転げ落ちています。桜を100本植えたくらいで地方が再生するとは思いませんが、それでも限界集落が増え、耕作放棄地が広がりつつある田舎をこのまま見過ごす訳には行かないのです。

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(新聞で紹介された佐礼谷の植樹の様子)

 先週の日曜日私は、早起きをして伊予市中山町佐礼谷村中の小さな公園に出かけました。公園といっても広場があるだけですが、集まっていた30人余りの顔ぶれを見て私は驚きました。その殆どの人は私と同年代若しくはそれ以上の人たちでしたが、隣町で知り人が多いのは当然ながら、集まってる人の殆どはかつて私たちと一緒に青年団活動をやった人たちなのです。伊予郡連合青年団の団長をしたこともある私ですが、あれからもう40年も経っているというのに、彼らははつらつと地域で活動しているのです。若い頃青年団活動で育まれた郷土愛やボランティア精神は多分死ぬまで行き続けるに違いないのです。

 日本の田舎を支え続けた青年団も消えて、集まった人たちのような清らかなふるさとを愛する心を育む場と機会は残念ながら少なくなりましたが、彼らが頑張る限り田舎はまだまだ復元可能なようです。


  「千本の 桜の森を 作ろうと 始めた事業 既に五ヶ所も」

  「先々で 出会う仲間の 嬉しさよ 青年団は 今も生きてる」

  「十年後 植えた桜の 木の下で 花見をしよう どんな姿で」

  「歳相応 若くはないと 言われるが 心の若さ 誰にも負けぬ」


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○梅の花咲く頃

 先週の日曜日は、親父の妹で松前町神崎に住んでいた伯母の一周忌法要のため、妻と二人で出かけました。この日は中山町佐礼谷村中で桜の植樹が計画されていて、21世紀えひめニューフロンティアグループの代表をしているため、ちょっとでも顔を出さなければならず、朝7時20分に自宅を出て1時間30分で法要出発までに帰ってくるという妻との約束で出かけたものですから、なんとも忙しい朝となりました。

 目論見どおり出発9時の10分前には帰宅し、急いで黒の礼服に着替えました。男とは便利なもので僅か10分で食事をしたり着替えたり、身支度を整えられるのです。

 法要は自宅で営まれ、私たちは20分前に到着したのに叔父さんやや叔母さんたち親類縁者は殆ど集まっていました。仏壇に線香や不祝儀を供え伯母の遺影を見ながら、あっという間に過ぎたこの一年の時の流れの速さを思いました。

 伯母の家は道元禅師に源をなす曹洞宗のようで、やがてやって来た若い副住職の約30分間の読経が朗々と流れ、短めの説教の後、折から降り出した小雨の中を近くのお寺の境内にある墓地まで歩き、線香を手向け法要は終りました。

 用意された料理を食べながら久しぶりに身内のみんなと顔を合わせ、会話を交わして1時間ばかりを過ごしました。親父の兄弟もそれぞれに歳をとって、やれ足腰や脛が痛い、やれ今度は誰の番?などと寂しく笑っていました。

 仏事の後ながら、私たち夫婦は新聞で紹介されていた伊予郡砥部町の七折梅祭りを見学しようと、前もって相談ができていました。こんなに近くなのに七折へはまだ一度も行ったことがないのです。カーナビで七折を入力して15分も走ると道の両側に梅祭りの幟や看板が幾つも立っていて、道に迷うこともなく到着しました。日曜日のことゆえ混雑を予想していましたが、早めに降り出した雨の影響でしょうか、駐車場も混んでなく、少し拍子抜けしたテント出店の法被を着た人たちも手持ち無沙汰といった感じのようでした。

 農道の入り口で入場料一人300円を払い梅林内に入ると、まあ見事な梅の花が咲いていました。傘を差した妻をモデルに手持ちのデジカメで何枚か撮影しながら園内を散策しましたが、雨もまたよし、モデルもまたよし、昼食後の運動によしといった感じで、妻は梅林の美しさに痛く感動した様子でした。

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(妻をモデルの七折梅林撮影会)

 入り口で、餅撒き会場で、また時にはすれ違う道々で、「あら若松さんじゃない」と声をかけられ、その度夫婦二人仲良く梅見をとの目論みは外れてしまいました。途中広場で餅撒きがあり、雨で少ない来園者のため、私たち夫婦は沢山餅を拾い、妻は大喜びでした。

 七折の梅は小梅系で地元ではすっかりブランド化され、春の梅の花、初夏の梅の取り入れなどは愛媛の風物詩となってすっかり季節の話題となっているようです。仏事がなければこの日は地元双海町で開催されている菜の花ウォークに参加するのですが、仏事のお陰で念願の七折の梅林を見ることが出来、帰宅後遊び半分で撮った写真をプリントアウトして妻にプレゼントをしてやりました。

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(明くる日の新聞に掲載された菜の花ウォークの新聞スクラップ)



  「念願の 七折梅を 訪ねけり 燃え立つような 色香楽しむ」

  「そこここで 声をかけられ その度に 妻は先行く 見学コース」

  「雨もよし 傘を差したる 妻モデル 梅に劣らぬ 写真の写り」

  「梅の香は 残念ながら 写真には 写らぬけれど 記憶しまいて」 

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○春の三崎半島・その⑤(西宇和郡保育研修会に招かれました)

 かつては冠に○○郡とついていた町が沢山ありましたが、平成の大合併で70もあった市町村が20になり、例えば上浮穴郡は久万高原町一つだし、南宇和郡も愛南町一つ、越智郡も上島町、喜多郡も内子町、北宇和郡は鬼北町と松野町、伊予郡は松前町と砥部町、そして私が訪ねた西宇和郡も伊方町一つなのです。したがって西宇和郡と名前がついてはいますが、集まったのは伊方町内にある10保育所の保母さんたちでした。

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 会長さんから再三電話やお手紙をいただき、「午後1時頃三崎町民会館へお越し下さい」というお誘いどおり午後一時に会場へ到着しました。2階の控え室へ案内されましたが、この会場へは何度も足を運んでいてすっかり馴染みの会場なので、気後れすることもなく雑談をさせてもらいました。

 床の間には増加と見まがうほどのとても美しいチューリップの花が活けられ、出されるお茶のうぶ加減も申し分なく女性の気配りの豊かさに感心しました。

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 やがて午後1時30分の予定時間となり開会しましたが、私が持参したDVDの映写機が中々言うことを聞かず、あたふたしたものの何とか映像も音声も出ることが分かったものの、そのドタバタに翻弄されてすっかり映写を忘れてしまうハプニングに見舞われましたが、ご配慮で講演終了後上映させてもらいホッとしました。

 伊方町内の保育所もご多分にもれず少子化の影響をもろに受け、最小5人の保育所もあって統合が進むようなお話をされていました。


 私の話は演題が「逞しい子どもを育てるために」でしたが、どちらかというと田舎の保育所なので、いつもとは少し違った話をさせてもらいました。保母さんは園児の保育もさることながら、いい子を育てるためにはお母さんたちの教育もしなければなりません。全ての親ではありませんが、首を傾げたくなるような親もいて、そのことが子どもに強い影響を及ぼしているのです。子は親の鏡といわれます。逞しい子どもを育てるには逞しく生きる親でなければなりません。はてさて親の教育は一体誰がすればいいのでしょうか。


  「活けた花 差し出すお茶に 気配りを 感じて過ごす 春の一日」

  「逞しい 子ども育てる コツは何? 尋ねられれば 逞し親に」

  「この地にも 少子化の波 押し寄せて 統合進む またまた不便」

  「打つ響く 阿吽の呼吸 講演会 楽しかったと 笑顔で会釈」

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○春の佐田岬半島・その④(樹齢千年の大楠)

 先日浅野先生の導きで三崎中学校へ講演に行きました。その折PTA副会長で、次年度会長になる予定のお寺の住職さんに出会いました。住職さんは閉会の挨拶でふるさと」というご存知の歌の三番の歌を歌われました。「♭こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおきふるさと 水は清きふるさと♯」という歌詞です。私は住職さんの歌を聴きながら心がぐっと込み上げてきました。一番の「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと」や、二番の「如何にいます父母 恙なしや友がき 雨に風につけても 思い出ずるふるさと」も、日本人の優しい心を歌った大好きな歌なのです。

 その時住職さんから、「私のお寺は中学校の直ぐ裏にあります。お寺の境内には樹齢千年を越える大楠木があります。夏の緑陰も冬の陽だまりも素敵です。是非一度」と誘われ、私も一週間後に保母さんたちの集まりに来る予定なので、その時は必ず伺います」と話してお別れをしました。

 講演のあった3月5日は絶好の日和で、家を早く出た私は春まだ浅い佐田岬半島を、町見郷土館、風車公園、二名津田村お菓子屋さんと順番に立ち寄り、昼過ぎにお寺へ向かいました。思いつくままに車で路地道を走って運よくお寺の駐車場に到着しました。お寺の横の家のチャイムを鳴らしましたが、あいにく住職さんは留守のようなので、勝手に楠木など境内の散策をさせてもらいました。

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 境内の楠木は住職さんが自慢したとおり、聞きしに勝る銘木で、その大きさには度肝を抜かれました。樹木には木霊が宿るといいます。楠木にそっと手を添えてパワーをいただきました。 楠木の故事来歴看板によると根の周囲は10.9m、目高直径7.1m、樹高17.5m、樹齢千年と書かれ、藤原純友時代より古い時代からこの地に生きているのです。

 お寺の庭も立派で、屋根が絵のときに出たであろう瓦が随所に使われ、古刹ぶりを遺憾なく発揮していました。私は古い銘木が大好きで、旅に出て銘木に出会うと何かパワーをいただいたような気持ちになるのです。千年の時を超えて生き続ける楠木に比べれば人間の寿命はたかだか幾ら長生きしても100年です。気の遠くなるような長い年月をこの地三崎の歴史とともに生きてきた姿に深い感動を覚えました。残念ながら寄る年波でしょうか主幹が枯れ少し受精が落ちているようにも見えました。


  「大楠の 木肌をそっと 手でさすり パワーいただく 三崎のお寺」

  「そこここに 古刹趣き 感心す 住職感性 豊かなりけり」

  「大楠や あこう樹ありて 羨まし これから先も 大事に保存」

  「約束を 守りお寺を 訪ねけり あいにく留守で 一人散策」

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○春の佐田岬半島・その③(お菓子屋の三代目を訪ねる)

 私にとって佐田岬半島は訪れる度に、青石の海岸や石垣、岬対岸の豊後佐賀関、珍根のあこう樹など自然豊かな魅力を感じる場所でもありますが、もう一つの魅力は何といっても私に繋がる心優しい人たちが住んでいることです。井野浦に住む塩崎満雄さんとは青年団時代からの交友ですし、平磯に住む浅野先生兄弟とも新しくて深い交流を続けています。指折り数えればきりがないほど多くの知人友人がいる隙間に、最近新しい友人が加わりました。その人の名前は田村義孝さんです。66歳の私にとって、私の年齢の半分ほどの田村さんは、ひょっとしたら岬半島では一番若い友人かも知れないのです。

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(田村さんから届いた美しい絵葉書)

 田村さんとは何年か前一度名刺交換をしたことがありますが、その後お互いが忙しかったり別の道を進んでいることもあって出会うこともなく時が流れていました。ところが浅野先生の喜久家プロジェクトというブログを介してバーチャルの世界で急接近し、今ではコメントメールのやり取りをするまでに急接近しました。そして先日三崎中学校での私の講演会に参加して意見まで述べていただき、何としても田村さんの元へ表敬訪問をと考えていたのです。

 田村さんは三崎二名津に住んでお菓子屋をやっている、今流に言えばパテシエです。自分で三代目と名乗っているので多分おじいさん、お父さんと続いたお菓子屋の跡取りだと思います。三崎町民会館で講演を頼まれたついでに国道を右折して二名津の集落へ入りました。

 二名津は私が漁師をしていた若いころ、何度か冬の海に時化込まれて入港停泊した港町です。記憶の彼方にあるような賑わいはすっかり消えていましたが、港の近くに車を止めて辺りを散策していると、美しい中年の女性に「若松さんですよね」と声をかけられました。「エッこんな所で?」と驚きました。聞けばこの女性何年か前まで役場に勤めていたそうで、私の講演を聞いたことがあると言うのです。丁度12時ころだったので畑から昼休みで帰る途中のようでした。「田村さんなら私が連れて行ってあげましょう」と優しく先導までしてくれました。

 コールタールを塗った黒い波型トタンの細い路地を通った所に田村菓子屋さんはありました。運よく三代目は家にいて、短い時間ながら立ち話をしました。バラ売りの饅頭を10個余り妻と親父への土産に買い求め、土産に雛豆までいただいて、先を急ぐからと早々に失礼をしました。

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(田村菓子屋の三代目です)

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(にょっきり生えたど根性庭木?)

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(この青石の標柱は何のために?)

 毎日忙しく全国を歩き、走り回る私にとって何よりの栄養剤は人間です。中にはインターネットで交信するだけのバーチャルな人もいますが、ちょっと勇気を出して出会えばバーチャルがリアルになってきます。田村さんはその典型で、これで田村さんとの交信はよりリアルな関係になることでしょう。

 町歩きをしていると面白い物を発見する事だってあります。菓子屋さんの路地には何と水道の箱の中から楠の木が生えていました。ど根性庭木とでも命名したい思いました。また路地の隅には大きな四角い青石が標柱のように建っていました。何の目的なのか?、これも田村さんに聞いてみたいと後ろ髪を引かれる思いで二名津の集落を後にしました。(ハガキを書いたのに出すのを忘れて手渡ししてしまい、そのハガキが田村さんのブログで紹介されています。お恥ずかしい。)


  「突然に 訪ね驚き 立ち話 土産雛豆 いただき帰る」

  「ど根性の 庭木にょっきり 水道栓 始めて見ると これも驚き」

  「その昔 漁師していた 若い頃 訪ね面影 すっかり消えて」

  「バーチャルが リアル変身 いい出会い 思い出しつつ ブログしたため」

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