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○二つの提案

 昨日自民党のある国会議員と電話で話す機会がありました。私は自民党でも民主党でもなくどちらかというと無党派層なのでしょうが、長く役場に勤めていて陳情などをやった経験から、自民党議員の中には顔見知りの先生方もかなりいるのです。国会議員を先生と呼ぶのはいささか可笑しいと思っていますが、先生と呼ぶと喜ぶ人たちなので、時には先生と呼んでいるのです。余談ながら先生と呼ぶのは学校の先生かお医者さんくらいにとどめた方がいいものを、私などにさえ講演などに出かけると先生と呼ばれるのですから世も末です。

 今は野党となってすっかり色あせた感じがする自民党の国会議員に、電話のついでに一つの提案をしました。

「先生、東北が地震で大変ですね。もしこの機をとらえて自民党が出来ることは何ですかねえ」と尋ねると、「高速道路無料化や子ども手当てのために予定している予算を、震災復興の補正予算に回すべきだ」と、相変わらず「べきだ論」をまるで念仏のように唱えていました。

 「私の提案ですが」と前置きし、「もし自民党が本当に政権をとりたいのなら、一人ひとりの国会議員が自分の選挙区で震災復興のためのボランティアを100人募り、自分の歳費を使って10日間現地に派遣する震災復興ボランティア十字軍みたいなものをやったら如何ですか」と話しました。先生議員さんは「それは面白い提案だ。早速考えてみたい」と言いましたが、手を汚すことも身銭を切ることもしない人たちですから、多分やらないと思うのです。

 昨日東京からキャリア異動で愛媛に赴任している人からメールが届きました。私の友人でファーマーの牧さんたちが、震災復興のお役に立ちたいと立ち上がって準備を進めている話を聞きました。田舎には農地と広い家という衣食住が整った地域が多いので、震災に遭った人たちを可能な限り受け入れたらという提案です。私は農家ならではの凄い提案だと思いました。震災復興に出かけることも一つの提案ですが、震災に遭った人たちを田舎に疎開させる提案は具体的な提案として直ぐにでも取り掛かれるのです。50万人の被災者の衣食住を賄うことは容易なことではありません。ゆえに農林水産省などが特例措置として早急に取り組んで欲しいと願っています。仮設住宅の準備もまだまだこれからです。冬がぶり返したような粉雪舞う余震の続く現地のことを思うと、心がうずくのです。

 私にできる復興支援は暮らしの中の無駄を省くことや、被災者への温かい思いを持つことから始まります。胸にバッジをつけた先生への私の提案はボツになることでしょうが、牧さんたちの提案はもう動き出しているようです。世の中には思わない人、思ってもやらない人、思ったらやる人に大別されます。人間をゴミに例えると、不燃人、可燃人 自燃人、類燃人に分けられます。今回の震災を教訓に不燃人は可燃人に、可燃人は自燃人に、自燃人は類燃人にワンランクアップして欲しいものです。戦争から見事に復興した日本の近代史に習い、一日も早い復興を願っています。


  「胸バッジ つけてる人は 手を汚す 事もなき世を 温々生きる」

  「あるべきだ 言いつつ評定 するばかり これで世の中 良くはならない」

  「過疎地ゆえ 疎開の人に来てもらい 一石二鳥 村に活気を」

  「東京じゃ 霞ヶ関に 霞立つ バチが当たると 言う人知事に」

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○伊予柑が届く・デコポンを送る

 今年も晩柑類の美味しい季節がやって来ました。毎年の事ながら先日、今治市大西町の友人大河内結子さんから、美味しいさくら伊予柑が一箱届きました。大河内さんは清水さんや丹下さんたちと一緒になって朝フル運動を推進しています。私が毎朝リンゴとキャベツを長年食べているように、朝フルとはお腹の空いた朝に新鮮なフルーツを思いきり食べるのです。みかん所のみかん農家の人たちがやっている運動なので、例えそれが理に叶っていても幾分揶揄する人もありますが、大河内さんや清水さんの話を聞けば聞くほど、朝フル運動が飽食の時代に生きる私たち現代人にとって大切かを教えてくれるのです。


 大河内さんがさくら伊予柑と名付けている伊予柑はその名のとおり紅の濃い色をしています。手に取るとまさにい~予感がするし、皮を剥いて食べると伊予柑独特の何ともいえない香りが漂ってくるのです。私は無精者でカニやエビなど食べる時、手が汚れるような食べ物は余り好きではありません。ゆえにみかん類も余り食べませんでしたが、妻はそれらが大好きでせっせと皮を剥いて食べさせてくれるのです。

 昨日はその伊予柑をリンゴと一緒にフルーツサラダにして食べさせてくれましたが、美味しく食べました。和歌山、静岡とともにみかんの産地である愛媛もみかんを食べなくなった現代人のせいで価格が低迷しているようですが、産地の愛媛県に住んでいるがゆえにできる贅沢をこれからも楽しみたいと思っています。

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 昨日は人間牧場の直ぐ近くに住んでいる西嶋さんにお願いしてデコポンを8箱分けてもらいました。例年の事ながら全国の友人に向けて贈るのです。私は全国各地へ講演などに行く機会が多く、行く先々でご当地土産をいただいたり、旬になるとご当地の産品が沢山届くのです。相手も私がみかん産地の愛媛に住んでいることを知っていて、それなりの期待をしていることを伺わせるようなお便りが届くものですから、年に何度か旬のみかん類を届けるのです。

 今はポンカンやデコポンなどの晩柑類が美味しい季節です。昨日は近くの農協へ行って無印の段ボールを買い求めデコポンを箱詰めして12箱、郵便局から全国に向けて出荷しました。東北の友人にも送りたかったのですが、郵便局の窓口で規制がかかっていることを知らされ、今回は断念しました。

 今頃は私の荷造りしたデコポンが郵便局の車に積まれて全国各地へ向けて旅をしていることでしょうが、便利な世の中になったもので、寒くて遠い北海道へでも、2日もあれば届けてくれるのです。

 昨日は12箱をまとめて送ったため、10箱以上の割引料金が適用され、随分割安な送料となりました。何年か前郵便宅配でみかんを送ったところ、警察官をしている息子は朝が早く夜が遅い勤務のため荷物を受け取ることが出来ず、届いた時は殆ど腐ってしまい、保険のようなものが適用されたり、郵便局職員がお断りに来られたり一騒動ありました。郵便局には友だちも沢山いたり、郵便局へ講演に行ったりする親戚付き合いのような親しい意関係にあるため、昨日も職員さんが台車でトラックから受付まで運んでくれたりの大サービスでした。

 送られてきた伊予柑、送ったデコポンなどなど、みかんを介したお付き合いはこれからも続くことでしょう。大河内さん、さくら伊予柑今年もありがとうございました。


  「この季節 コタツ入って みかん類 妻剥きアーン いい夫婦」

  「伊予柑を 食べて何だか い~予感 語呂を合わせて 何かを期待」

  「今頃は 車に積まれ 旅をする デコポン友の 顔と重ねる」

  「俺古い みかんイコール ビタミンC お陰で今年 風邪のひとつも」 

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○早くも春の気配

 植物には遅い芽吹きもあれば早い芽吹きのものもあります。わが家の庭で一番に冬眠から目を覚ます植物は鉢植えしたブルーベリーです。もう春が来たと思っているのでしょうか芽は大きく膨らみ今にも伸びだしそうな勢いなのです。92歳になる親父は何を勘違いしたのか、この芽を見て間もなく実をつけると思ったのでしょうか、昨年採りの食害にあったことを覚えていて、網でブルーベリーの鉢植えを囲う作業を4~5日前から始めました。

 鉄筋を打ち込んで支柱を立てたり、エスロンパイプで横枠を組んだり、小さいながらもすっかり大掛かりな工事となりました。

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 親父は元漁師なので、漁師さんから貰ったり、自分が漁師をしていた頃の網類を倉庫から引っ張り出して、言っての長さに加工し始めました。目が薄くなったとはいいながら体に染み付いた漁師の腕は衰えることなく発揮され、見事な囲い網が出来上がりました。

 私はこの一週間スケジュールが立て込んでいてとても忙しく、親父の手伝いなど殆どできませんでしたが、今朝から午前中をかけて囲い網を吊るす作業をして完成させました。設計図などない親父の目視作業は立派なもので、これで今年の夏はブルーベリーの実を採りに食べられることもなく収穫できそうです。

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 今回の作業も結果的には66歳の私が92歳の親父の指図で動いて完成しました。ゆえに鉄筋や地中に埋めるブロック、エスロンパイプなどを買い求めたお金も全て親父の懐から出ているのです。この歳になって親父の世話になるのはいささか心が痛みますが、これも親父の生きがい対策だと思って納得しています。

 親父は何かにつけて器用です。器用な親の息子は概して不器用と決まっています。それは親が何でも自分がして子どもの出番を作らなかったからなのかも知れません。私の場合は親は私に色々教えたりさせてはくれたのですから、根っから不器用なのかも知れないと、今頃になって納得するのです。


 私の息子は37歳になりました。子どものころから物いじりが好きで、私より少し器用だと思います。今はソーラーシステムを自分で考えて、色々な部品をインターネットで買い揃え、蓄電した電気を使ったり、面白いことを楽しそうにやっています。まちづくりにも興味を持っていて、仲間といろいろなことをやっているようです。

 そろそろわが家でも代替わりの時期がやって来ました。親父の代が長かったため、私の代は短く、息子に受け継がれようとしています。まあこんな世襲もあるのでしょうが、願うことなら私以上の働きをして、わが家をワンランクアップして欲しいと願っています。

 

  「九十二の 親父に指図 されながら 囲い網など どうにかできる」

  「不器用な 俺は誰の子 親父の子? 時々思う 種の違いを」

  「親器用 俺は不器用 はて息子 どちらの血筋 引きてるのだろう」

  「さあこれで 鳥に食われる こともなし ブルーベリーの 木の実囲いて」


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○この一週間

 松山市内に住んでいる小学校2年生の孫朋樹が熱が出て学校を休んだため介護を頼まれ、昨日また今度は孫尚樹が熱が出て、仕事のやりくりがつかないという娘の申し出を快く受け入れ、早朝7時娘のマンションへ行きました。午前10時に自宅で来客が予定されていたためかかりつけの小児科に連れて行って診察を受け、孫を乗せて高速道路を走って10時5分前に何とか自宅へ帰り、滑り込みセーフで来客を待たせることもなく綱渡りの仕事を終えました。

 思えば孫朋樹の介護から始まり孫尚樹の介護までのこの一週間は、東北地方を襲ったまぐにちゅーど9.0という観測史上例を見ない地震と、それに伴う10メートルを越えたという大津波、また最近は原子力発電所の相次ぐトラブルが発生し、暗くて重たい出来事ながら心に残る日々でした。テレビやラジオを付ければ全て震災関連のニュースだし、映し出される映像全てがまるでCG映画を見ているようで、余寒耐え難い寒さに震えながら今なお救助を待ったり、死亡や行方不明が選任を超える国家的異常事態に、大きな衝撃を受けています。

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(新聞一面は津波10メートル)

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(テレビ番組も全て大震災実況)
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(新聞一面は福島原発事故)

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(気仙沼の惨状写真)

 東北地方には友人知人も沢山いるし、その安否も気になるのでメールを入れても反応が返ってこない人のことを気にしながら一喜一憂しているのです。記憶に残したくない忌まわしい災害ながら、記録しなければ記憶されないという宮本常一の言葉を反芻しながら、この一週間の新聞を少しだけスクラップして、最小限の記録をしておこうと心に決めたものの、その量が膨大で何処から手をつけたらよいかも分からぬままなのです。


 それにしても気になるのは、原発事故のニュースです。本来なら人命優先の地震や津波に関する報道がされるべきなのに、政府も電力会社の引き起こした原発事故の対応ばかりに追われ、責任逃れに終始しているように見えるのです。計画停電などという言葉で電力を取り繕うとしていますが、病院で透析をしている人たちにとってみれば命にかかわることなのです。原発は安全だといい続けてきた政府と電力会社の責任は今後検証されることでしょうが、それにしても被災した人たちを救う手立てや、音信の途絶えた人たちへの対応も、気になるところです。


  「旧友の 音信訪ね 電話する むなしく響く 不通信号」

  「地獄絵の ような写真に 胸痛む 今宵再び 温度下がりて」

  「あの町を 確か通った ことあった 記憶微かに 思い出されて」

  「原発の 安全性は 音もなく 崩れて今後 どうなるのだろう」

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○起業のための作戦会議

 新春早々私の元に一本のメールが届き、「早々に逢って意見が聞きたい」と、新居浜の十亀さんから連絡がありました。この人は私に電光掲示板をくれた人なので、それ相応のお返しをしなければならないと、常日頃から考えていたので、快く逢うことにしました。

 最近は私も第一線を退いていることもあって、私設公民館「煙会所」や自宅の応接間へ案内することなど殆どせず、春から秋にかけては外の「夕観所」で、冬は私の書斎へまるで土足のような形で迎え入れているのです。年輪塾ネットの清水塾頭や松本小番頭、浜田塾生第1号などはそのことを百も承知で書斎の窓から入って、私の用意したお茶をすすりながら話し込むのです。


 新年早々新居浜からやって来た十亀さんは、紙袋に何やら沢山の模型を入れて持参し、それらを商品化するための助言を求めてきたのです。十亀さんはあるコンペで最優秀賞に輝き賞金100万円をゲットした凄い人なので、私のような田舎者の意見など取るに足らないのでしょうが、熱心にメモを取ったり意見を戦わせたりして帰って行きました。

 数日後十亀さんは、私の助言を取り入れて改良を重ね製品から商品への階段を駆け上がっていました。それでも私のような違った目で見ると改良の余地や新しいアイディアが見つかるもので、さらに改良を加えたアイディア商品として販売に一歩近づ懈怠と意気込んでいました。そして商品を売り込むための色々なプレゼンテーションの仕方も助言しました。

 そして今日、十亀さんは加藤さんや浜田さんと一緒にわが家を訪れ、起業に向け熱を帯びて大いに話し合いました。17年前シーサイド公園を整備した折、道の駅の管理運営のため第三セクターとはいいながら会社を起こした頃を懐かしく思い出しました。2千万円の資金調達、役員の選任や定款作成、商品開発と販売、職員の採用、経営などなど、今から思うとよくも一人でやったものだと感心するのです。その作戦から生まれたシュミレーションがかなり頭に当たり、黒字経営や5%の配当をする会社に成長したのですから、立派という他はないのです。今日の起業のための作戦会議は越えなければならない幾つものハードルを指摘しました。多分十亀さんはその指摘を分析して、次回はもっともっと成長することでしょうが、私も何だかワクワクしてきました。もう少し彼らと楽しい夢を共感・共有・共鳴したいと思いながら、次回の出会いまでの宿題を随分投げかけました。


  「儲かるか どうか分からぬ 夢語る 亀山社中の ような気がして」

  「共有が 共感・共鳴 しつつある 起業間近な 作戦会議」

  「書斎にて お茶をすすりて 夢語る 双海のことも 夢のまた夢」

  「電光の 掲示板さえ 今の俺 まるで宝の ように使いて」

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○島根県益田市へ日帰りの旅

 前の日の夜四国の最西端佐田三崎半島の平磯で、喜久家プロジェクトという若者活動を続けているグループの集まりがあって、夜遅く帰りながら早朝4時30分に起床し、急いで身支度を整えて、午前6時20分松山観光港発広島行きのフェリーに乗り込みました。

 近頃は春が近づきつつあることを実感するように、朝が来るのもだんだん早くなって、フェリーが出航する頃には対岸の島々もはっきり見えて来ました。本当は高速船で行けば1時間20分と、フェリーに比べると半分の時間で目的地へ着くのですが、高速船の運賃片道6900円、往復12800円はどう考えても高く、まるで新幹線並みの金額だと思うのです。フェリーに乗れば3200円と半値以下なので、3700円の差額だけでも相手に迷惑をかけまいと、いつもそんな貧乏人根性が働いてフェリーを利用するのです。でも本当は昨晩と今朝の寝不足をフェリーで休息をとり帳消しにしょうと思ったのです。

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 宇品へは10分ほど遅れて到着しました。宇品港へは真砂公民館の大庭館長さんたちが出迎えに来てくれていました。暫く来ない間に宇品の港近くまで高速道路が延伸して、インターチェンジも港の直ぐ傍なので、目的地の益田まで高速道路と一般道を使っても2時間程度で到着することが出来ました。途中の広島県と島根県の県境付近にはまだ1メートル近くの残雪があって、除雪機で切り取った垂直な雪の壁の中を走りました。

 この日は、国道191号沿線に位置する6つの公民館が輝ネットワークを組織して地域づくりに取り組んでいる人たちへのスキルアップ研修なのです。この組織へは毎年お邪魔をしているので顔見知りも多く、この日は落伍形式のお話をさせてもらいました。

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 講演が終わって再び宇品まで、今度は真砂の大庭館長さんに替わって東仙道公民館の館長さんが乗り込み、2時間もかけて送っていただきました。

 松山観光港発は7時、8時と1時間おきに高速船が出ます。逆に宇品からは4時30分、5時30分とこれまた1時間おきに船が出ます。3時過ぎに益田を出た私たちは職工20分前という絶妙な時間帯に到着し、夕闇迫る午後5時30分の船に乗ることが出来ました。瀬戸内海を赤く染め分けて沈む夕日はとても美しく、途中寄港した呉港での対岸には偽装工事のために停泊しているオレンジ色のタンカーが夕日に映えてとても綺麗でした。

 また音戸の瀬戸に架かる橋に替わって、一際高い位置に大きな橋が建設中で、間もなく完成することでしょう。

行く度に変化発展し続けている広島に比べ、対岸の愛媛松山は便利になったとはいえ、港界隈は関西汽船大阪航路の発着も姿を消し、どこか気が抜けたサイダーのような気もするのです。便利が全てだとは思いませんが、政治力や経済力という、私たちの手の届かないことの温度差に、多少落胆したような一日でした。

  「島根まで 日帰り旅行 便利なり 宮本常一 何と思うか」

  「中国の 山に分け入り 雪を見る 狭いといいつつ 日本も広い」

  「夕映えの 瀬戸内海は 美しい 水面に夕日 長く尾を引き」

  「経済や 政治力など 違うため 発展速度 月とスッポン」

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○三崎平磯の喜久家プロジェクトで交流しました

 小番頭の松本さんに誘われて、昨日の夕方伊方町三崎平磯の喜久家を訪ねました。前回平磯を訪ねたのは2009年3月9日で、その時も松本さんと一緒に出かけたと、「喜久家」で私自身のブログを検索すると、当時の模様がリアルな文章で書かれていました。今年が2011年ですから時期も一緒の2年前なのです。

 私は明くる日早起きして朝5時に島根県益田市へ出張する予定だったので、松本さんから誘いがあった時多少ためらいましたが、喜久家や新装なった浅野先生の家も見たくて、一も二もなく一緒に行くことにしました。決めた後で三男の転勤異動に伴う引越し手伝いが入り気を揉みましたが、何とか1時間前に片づけが間に合い、下灘の松本さんの自宅前で待ち合わせ、早速夕暮れの道を夕焼けこやけライン~鼛声ヶ峠~潮風メロディーラインを通って伊方町三崎へ入りました。消防署の所を右折して平磯をへと車を進めましたが、2年の空白は平磯への道を間違えるほどあいまいにとばせていました。

 土曜日の夕暮れ時だったこともあって、国道は意外と好いていて時間20分ほどで平磯へ到着しましたが、浅野先生の弟さんに出会った時外はまだ明るく、リアス式の海岸の様子や集落内の段々畑を見ることが出来ました。そのうち顔見知りの瀬戸の長岡さんやお菓子や三代目の田村さんたちも姿を見せ賑やかな交流会が始まるであろう予感がし始めました。

 交流会の会場も前回と同じみかん倉庫の2階の集会場でした。喜久家プロジェクトで働く台湾や香港、韓国からの留学生に混じって日本各地から集まった学生も加わり、大賑わいでした。勿論私が一番年上ですが、若者の輪の中に入ると何故かまったく歳を感じないのですから不思議です。

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 テーブルの周りにはいつの間にか沢山の人が集まり、瀬戸からは顔見知りの木嶋さんもやって来て、皆さんがそれぞれ持参した食べ物を頬張りながら楽しいお喋りをしました。私は明くる日のことがあるゆえ、余り長居をすることができず、一部の学生と濃密な話をさせてもらい、2時間弱で再会を約束し、浅野先生の作ったDVDの写真の残像を反芻しながら松本さんとお暇をしました。

田村さんのポンカンを使ったスイーツ、木嶋さんの持参したチリメンジャコ、道元さんの持参したサンドウィッチなどなどで腹も満腹、心も満腹になることが出来ました。行き帰りの道すがら松本さんと人生について色々な話をしたことも忘れられないことでした。

 私の本が読みたいから買いたいといった学生、私の話をもっと聞きたいといった学生、人間牧場を訪ねたいといった学生など、名前と顔が一致しないものの、次の再会を予感させていますが、私が好んで使う「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」という言葉通りになりそうです。

 

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○島根県益田市へ

 今朝は早起きして島根県益田市へ講演に向かいます。松山観光港から船に乗り、広島県宇品港に着くと真砂公民館の大庭館長さんたちがわざわざ遠路迎えに来てくれるのです。さあ心を引き締めて出発です。帰りは多分遅くなることでしょう。御用の方は明日にするか私の携帯電話へご連絡下さい。それでは行って来ます。

 こんな書き込みをして益田へ出かけました。このところ中国地方へ行く機会が多く今年に入ってから島根県雲南市、岡山県倉敷市、広島県広島市、広島県三次市、広島県尾道市、今回は島根県益田市と続き、今週末の日曜日には広島県尾道市へ行く予定なのです。


 私が県外へ行く場合のその殆どは、講演依頼を受けて出かけるため、どちらかというと行政がらみが多いのですが対応もまちまちで、「お金がないから来てくれないか」といわれることがよくあるのです。リタイアして年金暮らしをしている私なので、旅費さえいただければと、一も二もなく相手の懐を察知して出かけるようにしていますが、旅費さえも出せない所だってあるのです。

 何年か前ある人から、「お金がないのでお米一俵で講演をして欲しい」と頼まれたことがあります。私はむしろその申し出を受け入れ喜んで出かけました。律儀にもその人は一俵を半分ずつに分けて二回、遠いわが家へ運んでくれましたが、その思い出は忘れることが出来ず、今も心を許したお付き合いをしているのです。

 私の話は値段があってないようなもので、米一俵という値打ちの時もあれば、市内講師ゆえに3千円の時だってありますが、金額が安いからといって手を抜くことは許されないので、一生懸命お話をしています。最近はデジタル時代を反映してインターネットで講演依頼されることが増えてきました。ゆえに私の経歴や文章などをインターネットで見聞きしているため、説明しなくてもいいので大助かりです。

 リタイアして6年があっという間に過ぎ去りました。それでも私の元へは相変わらず講演依頼が沢山あるため、学習や実践によって話芸を磨く修行もしっかりとしなければなりません。またリタイアしてもそれらの人間関係をしっかりと保たなければなりません。そのようにしてそれ相応の進化をしなければいい話は出来ないのです。

 リタイア後5年と定めていた講演活動や目標進化も、もう少し続けなければなるまいと、心に新たな意欲を呼び起こそうとしているこのごろです。


  「講演料 幾らと聞かれ 口つむぐ そちら任せと 言わざる得ずに」

  「米一俵 これでやってと 依頼され 講演やった あれは懐かし」

  「いい人が できたと違う? 言うような 疑いの目で 見られ四~五回」

  「今頃は インターネットで 来てくれと メールが入り 相手分からず」

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○高野川海岸に巡視船が二隻座礁

 由並小学校の先生たちとの呑み会に参加するため、午後6時に家を出発しました。孫朋樹が熱が出てお守を頼まれた役目も、娘が仕事を終えて帰宅したのでバトンタッチしての帰り道、午後2時48分に超大型の地震が三陸沖で起ったことをカーラジオで知り、ラジオから流れてくる災害状況や津波情報を聞きながらの帰宅だったため、呑み会へ行く途中もカーラジオを付けっぱなしでニュースを聞いていました。

 上灘駐在所の前を右折して海岸国道に出たところで、緊急サイレンを鳴らさないものの、消防自動車と救急車が相次いで私の後ろを同じ方向に向かって走っているのです。ウインカーランプを点灯して左側に寄ってお先にどうぞと道を開けました。そうこうするうち小網付近で車のバックミラーに今まさに沈まんとする綺麗な夕日が映りました。そうだ高野川付近で車を止めて、手持ちのデジカメで一枚と思い車を走らせました。

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 やがて高野川の路側帯の広場まで来ると、さっき追い越した消防自動車と救急車が駐車して何やら騒々しいのです。愛媛県の瀬戸内海側にも津波注意報が発令されているのでもしやと思いましたが、見れば高野川海岸に見覚えのある二隻の巡視船が座礁しているようなのです。急いで車を止めて夕日を写真に撮るはずのデジカメで、不見識とは思いましたが二隻の巡視船の座礁風景までカメラに収めてしまいました。

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(高野川海岸に座礁した二隻の巡視船)

 民間の船の座礁なら理解できても、助け舟といわれる海上保安庁の巡視船が座礁するなんて信じられないと、見ていた野次馬は誰もが言いながら遠目で様子を伺っていました。やがてそこら辺は混雑が激しくなったし、呑み会開始の時間も迫っていることから、後ろ髪引かれる思いでその場所を立ち去りましたが、呑み会を終わって帰宅途中に現場を通りましたが、夜にもかかわらず野次馬が沢山集まっていました。

 昨日は春には珍しい北西の風が強く吹い海は大荒れでした。察するに一隻の巡視船が何らかの原因で航行不能となって折からの風波に押し流されて座礁し、それを救助しようとしてもう一隻の巡視船が近づいたもののミイラ取りがミイラになってしまったようです。巡視船は高速船のため船体は軽いアルミで出来ていて、昨日の風波で船底は完全に壊れ、浸水しているようでした。多分もう廃船にしかならないのではないかと、責任問題に発展するであろう船長さん以下乗組員の心労に同情せずにはおれませんでした。

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(昨日の海は大時化でした)

 降って湧いた巡視船座礁騒動も、偶然重なった日本列島地震騒動の陰に隠れてマスコミの餌食にならないことを、元船乗りだったゆえに願っています。天災も人災も忘れた頃にやって来ます。起こそうとして起こした事故ではないものの、巡視船一隻を建造するには億を越える費用が必要です。そのことを思うと無駄な出費でもあるのです。昼夜を問わず国民の安全を守るために働いている海猿さんたちの深い悲しみは当分続きそうです。

  「巡視船 二隻も座礁 するなんて 大荒れ海で 海猿悲し」

  「夕日撮る つもりが何と 巡視船 座礁現場で デジカメ向ける」

  「船乗りの 経験を持つ 俺故に 心の痛み 察して余る」

  「海猿は 昼夜分かたず 国民の 安全守る 両手で感謝」 

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○楽しかった現役との交流呑み会

 現役を引退すると現役との間に微妙なずれが生じ、その関係は加速度的に遠のいて行きます。したがって余程お互いが気配りしないとお互いのコミュニケーションが取れないようです。私のようにリタイアしていながら日常茶飯事のように現役の人たちと現役時代以上の付き合いをしていても、現役組は冷たいと感じるのですから、リタイアして現役と無関係になった人たちや、社会活動をしない人たちは殊更強く感じることでしょう。

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 由並小学校で先生をしている中尾先生は私が教育委員会に勤めていた時、派遣社会教育主事として一緒に仕事をした間柄です。先生は派遣期間が終って現場復帰後間もなくオーストリアのウィーンにある日本人学校へ3年間家族とともに赴任し、昨年のこのごろ帰国して古巣の由並小学校へ再び復帰して教壇に立っています。その間私は市町村合併と定年が重なり、多分人以上に溝は深まり音信不通になるはずでした。

 ところが彼は帰国後すぐに史談会の事務局長に復帰して一緒に活動するようになったばかりか、学校の学校外活動にも積極的に関わり、武田校長先生が今年度赴任してこられたこともあって、私との関係は見事に復活し、市役所に勤める同級生の松本さんの仲立ちが輪をかけて、公私共に深いご縁をいただいているのです。そんな中尾先生からみんなで酒でも飲もうと誘われ、一も二もなく参加することにしました。

 昨日の夜、伊予市役所の近くの「まき」という居酒屋に集まりました。季節はずれの感はありましたが、寒さがぶり返したためふぐ刺し、ふぐ鍋、ふぐ雑炊というふぐ三昧の料理もとても楽しみでした。しかしそれ以上に武田校長先生はじめ6人の先生や、同席した公民館の宮栄館長さん、赤石主事さんたち子ども教室関係者も加わって、まあ楽しくて実のある呑み会となりました。

 昨日は日本列島が地震観測史上最高レベルのマグニチュード8.8という超大型地震に見舞われ、各地に大きな被害をもたらしたため、災害対策本部が設置され松本さんは職場待機となって残念ながら参加できませんでしたが、2時間余りの飲み会は次の機会を予感させましたし、飲み屋の女将が私の顔を覚えていて、フルネームで呼んでくれた事も手伝って、近々松本さんの残念会をしなければならないようです。

 何はともあれ、現役組と私一人のリタイア組の付き合いは首の皮一枚で繋がることになりました。私も由並小学校の学校評議員をしていますが、その役割もそろそろ任期が終わりなので少し出会いが遠のきつつも、いささかお役に立ちたいと思いながらお開きの後、呑み助の宮栄館長を残し、赤石さんと二人で夜の道を一次会で帰ってきました。

  「ふぐ三昧 何とも贅沢 料理にて 現役組と 楽し呑み会」

  「若松さん お元気でした はい元気 交わす言葉が 何とも嬉し」

  「地震あり 職場待機の 友不在 それでもみんな 楽しく語る」

  「地震あり 悲しいけれど メモリアル 多分毎年 思い出すだろう」

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