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○日振島での講演会(その4)

 宇和島市の沖合いに浮かぶ日振島は世帯数179戸、人口416人の小さな島です。日振島公民館の講演会に招かれ出かけました。喜路(きろ)・明海(あこ)・能登(のと)という漁港を中心とした集落が点在していて、明海にある公民館へ集まることも容易なことではありません。ましてや夜の集会など来たくても来れないひとが多いのです。

 講演などに出かけると、主催者は希望的観測で集まるであろう人の数だけ椅子を用意するのです。その読みが外れて参加者が少ないと恥をかくことになるのですが、この日の読みはずばり的中し50の椅子が満席となり、慌てて後ろに幾つかの椅子を用意していました。

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 それぞれの地域には○○時間というのがあって、10分も送れたりすることはよくある話ですが、この日は予定通りまるでNHKのように19時きっかり講演会は始まりました。人が集まり時間が守れる、これでけでも日振島のコミュニティの素晴らしさが分かるのです。

 この日私がつけた演題は「島づくりの新しい風」でした。約90分日振島への応援歌とでも言うべき話を熱を込めて話させてもらいました。会場の雰囲気も打てば響く太鼓のように笑い声に包まれ反応は上々だったようです。私は魚村に生まれ漁村に育ちました。体の都合で漁業を断念し役場に勤めましたが、役場では産業課で水産行政を担当したり、地域振興課ではウォーターフロントに道の駅を造る仕事にも携わりました。

 役所を辞めてからも愛媛海区漁業調整委員会の委員に就任したり、全国各地の漁業関係のところに講演に出かけるなど、深い人間関係を保っているのです。また各地の離島には知り人も多く何かと出会いが深いのです。

 昨日日振島から帰る時、日振島で養殖を営む福島和彦さんからお土産に養殖をしているマハタをいただきました。マハタは高級魚で最近とみに有名な魚です。何で私にお土産まで?と思いましたが、福島さんは愛媛大学農学部社会人学び直し講座の学生で、私が客員教授として関わっているため、福島さんは昨年の夏人間牧場にやって来て私の講義を聞いているのです。

 ささやかな出会いをこのような形で深めてくれた律儀さにも頭が下がりました。今日は発泡スチロールを開封し、氷詰めされたマハタを取り出して出刃包丁で三枚に下ろし、刺身や煮つけ、鍋物にしてマハタ三昧な料理を楽しみたいと思います。

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  「集まりも 時間も守れ 言うことなし ひょっとしたなら 日本一かも」

  「養殖で 育てたマハタ 氷詰め 持って帰れと 土産にくれる」

  「島人は 長閑に暮らす ゆえなのか 人を大事に 思んばかりて」

  「ワッハッハ 笑う門には 福来る 公民館が 笑いの渦に」

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○ハマユウ咲く沖ノ島(その3)

 民宿はまゆうでお茶をいただいてくつろいでいると、ご主人が沖ノ島へマイシップで連れて行ってくれるというのです。沖ノ島は県の天然記念物に指定されているハマユウの自生地です。地元宇和海中学校の生徒さんたちが移植などをして長年保存に努めている所なので、一度は行きたいと思っていたのでお願いして連れて行ってもらうことにしました。

 ライフジャケットを着用して、養殖いかだの中を縫うように進むと、目と鼻の先にある沖ノ島へ到着しました。沖ノ島は小さな無人島ですがしっかりとしたステンレス製の桟橋もあって、とても綺麗な島でした。桟橋近くの広場には中学生や地元の人たちが大切に育てているハマユウに看板が幾つも立てられていました。ハマユウは夏の花のため残念ながら鼻を見ることは出来ませんでしたが、いつかまた花の咲く時期に訪ねたいと思いました。

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 林さんの案内で遊歩道を登ってデラ台風で犠牲になった方々の慰霊碑を祀る頂上へ上がりました。時あたかも東北地方三陸海岸が地震と大津波で大被害に会っている時期だけに、胸が痛む思いがして手を合わせました。こんな小さな無人島にもイノシシが住んでいて、足元のあちらこちらにはイノシシがぬたうったと思われる場所が幾つもありました。またカモメが運んだであろうハリセンボンというフグの残骸があちらこちらに落ちていたようです。

 海岸のあちらこちらには人間のエゴの塊と思えるプラスチックゴミが漂流物として流れ着いていて、綺麗な砂浜の美観を損ねていました。ここの砂浜の砂は沢山の貝殻で出来ていて、小林さん親子は物珍しそうに貝殻などを採集し、林さんに「これは何?」と自然が作り出した美しい芸術品に感心していました。沖ノ島の風景はいつまで見ていても飽きない風景です。そのうち地物の親子3人連れがボートで遊びにやって来ました。都会では考えられない何と贅沢な遊びでしょう。これぞ田舎暮らしの醍醐味だと感心しました。

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 民宿つわぶきに戻った私たちは、夜の集会に備え午後6時から少し早雨の夕食をとりました。座卓の上には海の幸が所狭しと並べられ、特に郷土料理であるアジと味噌で作ったさつま汁を三間米で炊いたご飯の上にたっぷりかけていただきました。まあその美味しかったこと、私はアジの南蛮漬け、アジやあわび、サザエの刺身、ツワブキの煮付け、アサリの貝汁、野草の天ぷらや和え物などを肴に、サツマ汁を3杯もお代わりをしてしまいました。漁村に生まれ育った私にとって民宿つわぶきでいただいた食事は全てお袋の味ですし、妻が作ってくれる料理と同じのようですが、ゆえに美味しくいただきました。

 水が美味い、空気が美味い、食べ物が美味い、そして人情が豊かである。質素でもこんな暮らしを毎日続けている田舎の暮らしに何の不足があるでしょう。私は幸せに生きていることを、民宿つわぶきで食事をしながら実感しました。

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  「あれもこれ 日ごろ食べてる 物だけど 何故か新鮮 民宿食事」

  「美味かった 郷土料理の サツマ汁 三杯お代わり よそってもらい」

  「ハマユウの 花の咲く頃 訪ねたい 島よそれまで 待ってておくれ」

  「デラ台風 犠牲になった 人の名も 風化判読 難しなりて」

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○宇和島市日振島訪問記(その2)

 日振島はご存知藤原純友ゆかりの地です。平安時代の貴族であった純友は瀬戸内海に出没する海賊を退治するため派遣されました。しかし自らも海賊の首領となって、日振島を拠点に反乱を起こしたことでもし知られていますが、今から千年余りも前の936年頃のことゆえ知る人も少なく、何故か詳しいことは余り残っていないようです。

 私が始めて日振島を意識したのは高校生のころ、宇和島水産高校に遊学した折、社会科の三好先生が歴史に詳しく、私もその影響を受けて随分教えを請いましたが、半世紀も前の高校生の頃のことなのではっきりと覚えていないのです。

 私が水産高校当時一年下の漁業科に林さんという人がいました。林さんは大型まき網を有する会社の社長さんだし、その後日振島漁協の組合長を長らくやられた立派な方ですが、その人の存在を通じて日振島を認識していたのです。

 日振島は昔宇和海村でした。私が青年団長時代宇和島市と合併しました。宇和海村時代は北宇和郡連合青年団、通称北連青といって、今でもその時代の名残の知人や友人が沢山いるのです。ゆえに今回足を踏み入れた日振島でも何人か昔を懐かしむ人たちに出会いました。

 公民館職員の畠山さんに運転してもらい、私たちはその夜泊めてもらう林さんの弟さんご夫妻が経営している、つわぶきという民宿へ向かいました。道すがら畠山さんの説明で、かつて南レク全盛時代に整備したという大入海岸キャンプ場などを見学しましたが、うたかたの夢破れ今は訪れる人も殆どなく、荒れるにまかせている諸施設を見学しました。キャンプ場も海水浴場も離島が故の不便さや、経済効果至上主義に見捨てられた姿は、公金の無駄遣いこの上なく、説明責任も果たされぬままで、継続の難しさをしみじみ感じ胸が痛みました。

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 それにして日振島は風光明媚です。海は何処までも澄み渡り、海岸の美しさは何処にも引けをとらないほど立派で、カメラを向ければ何処でも絵になる光景が見えるのです。小林さんは島根県の山の中で生まれ育ったようで、美しい海を巡る景観に目をパチクリさせて見とれていました。

 日振島では早くも様々な草木が春を告げるように芽吹き始めていました。早い山桜は満開でしたし、木イチゴの可憐な白い花も咲いていて、道端の草木を見るだけでも飽きませんでした。

 民宿つわぶきは能登という漁港の中程にありました。三間から嫁いで来たというオーナーの林妙子さんは知的な方で、ご主人と二人で歓待していただきました。私も漁家の長男なので何かと気心が知れていて、色々な話をしました。妙子さんにはどこかで出会っているようでしたが、どうやらえひめ地域政策研究センターの発行している「舞たうん」という雑誌の島特集に寄稿されていて、それを読んだ記憶のようでした。


  「二十年 ぶりに訪ねた 日振島 黒潮恵み 春の足音」

  「何処見ても 飽きぬ景観 美しく 見せてやりたく ブログ紹介」

  「つわぶきと いう名の宿に 逗留す 女将人柄 心癒され」

  「この島に 逞し生きる 人ありて 行く先々で 教えられたり」

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○20年ぶりに宇和島の沖合いに浮かぶ日振島へ(その1)

 もう20年も前でしょうか、役場の職員旅行で一度だけ日振島へ出かけたことがあります。その時は夕方の船に乗って船着場の近くの民宿のような所に泊まり、みんなで新鮮な魚を肴にお酒を鱈腹飲みながら、さした目的もないままワイワイガヤガヤ言って懇親を深め、明くる日の朝飯を食べて宇和島へ帰るるという、今考えると日振島へ行ったというだけで、その時の記憶など完全に頭から飛んでしまっているのです。

 今回はえひめ地域政策研究センターに出向していた宇和島市役所商工観光課の谷本さんの口添えをいただき、日振島公民館の招きで講演に出かることになり、ANAから宇和島市にこの3年間出向している小林詳子さんも同行してくれるというので、楽しみにして出かけました。日振島公民館の畠山さんからの連絡だと船の出発時刻は午前11時30分とか、50年も前に宇和島水産高校在学中3年間を過ごし、その後も幾度となく宇和島を訪問しているので、盛運社の船着場は海の駅きさいや広場の直ぐ近くにあることも知っていました。逆算して9時30分に自宅を出ました。大洲から宇和まで高速道路無料区間を利用したお陰で、所要時間は1時間30分で、船着場へは30分も前に到着しました。

 律儀な市役所の谷本さんと産業振興公社の得能さんが船着場まで見送りに来てくれました。そのうち小林詳子さんがお母さんと二人でやって来ました。聞けば小林さんは3年間の契約派遣がこの3月で任期満了となって、東京方面へ帰るというのです。風の噂には聞いていましたが、在任中一度も日振島へ行っていないので、たまたま娘の赴任地を訪れていたお母さんを親孝行のつもりで誘ったようなのです。

 昨日の宇和海はいつになく穏やかで、まるで鏡のように凪いでいました。しかも数日前には小雪が舞っていたとは信じられないほどの穏やかで、春霞さえ感じる温かさでした。

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 「岬かと思えば島なり、島かと思えば岬なり」とは坪井栄の「二十四の瞳の名文ですが、高速船は岬や浦々を巡り、12時18分に目的地である明海の港に到着しました。桟橋には畠山さんに出迎えてもらい、早速笠岡漁協組合長さんを交えて、用意いただいた弁当を食べました。聞けば組合長さんはもう何度も私の話を聞かれていて、その内容をしっかりと覚えて実践しているご聡明な方で、汗顔の至りでした。

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 講演は夜7時からなので、畠山さんの車に乗せてもらい島内散策に出かけました。ふと道すがらの風景が鹿児島県奄美大島によく似ているような感じを覚えました。リアス式海岸の美しい宇和海は黒潮が流れ込む温暖な気候で、生えている植物も、また芽吹きの様子も私の住んでいる瀬戸内海に面した地域からすれば、20日間は時計の針が早く回っているような感じがするのです。


  「日振島 素敵な女性 供に連れ 二十年ぶり 足を踏み入れ」

  「リアス式 海岸どこも 美しく 妻に見せたく デジカメ用意」

  「あの運河 通ったような 記憶あり 定期船窓 遠目眺めつ」

  「念願が 叶って日振 島に着く 迎えの女性 優し出迎え」

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○私の作った踏みつけ道

 66歳になった私はやはり歳でしょうか。まだまだ若いと思っていましたがこの2~3年、少し体の衰えを感じるようになりました。こりゃあまずいと思いつつ、少しでも体力や若さを保とうと、柔軟体操をしたり散歩や労働をするのですが、余りやり過ぎるとかえって体に負担がかかり、疲れてしまうのです。その疲れも明くる日一日で回復せず、2~3日後に出てくるのですから始末が悪いのです。それでも目標を持って生きねばと、忙しい合間を縫って急な坂道の続く裏山へ登っています。

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(私が踏みつけた踏みつけ道)


 裏山の道は適度な坂道で、農道のため殆どは舗装されていますが、少しきつめの運動をするため赤道といわれる未舗装の細い土道も歩きます。昔は裏山はみかん畑で道も綺麗でしたがし、20年も前に伐採されて杉や桧が植林されてからは、農道も赤道も訪れる人もなく荒れるに任せているのです。植えられた木も大きくなってまるで森林浴をするような感覚で、深呼吸をしながら多少の汗をかいて上り下りしています。

 私がこの道を使ってウォーキングを始めた頃赤道は草に覆われていました。しかし私が毎日歩くため赤道は踏みつけ道となって今ではすっかり綺麗な道に生まれ変わりました。

 詩人で彫刻家でもあった高村光太郎の「道程」という詩があります。若い頃大好きで宙で覚えていました。

   「道程」

 僕の前に道はない

 僕の後ろに道は出来る

 ああ自然よ

 父よ僕を一人立ちさせた広大な父よ

 僕から目を離さないで守ることをせよ

 常に父の気魄を僕に充たせよ

 この遠い道程のため

 この遠い道程のため


 自分が踏みつけて作った踏みつけ道と、この詩の奥ゆかしさとは随分違いますが、それでも私は昨日も今日も相変わらず小さな踏み付け道を時には胸を張り、時には息を大きく吸ったり吐いたりしながら歩いているのです。体を動かすとこの余寒を感じる季節でも額に少し汗が滲んで、多少の疲れが生じるのか小腹が空き、夜は安眠を貪れるのです。

 今日は間もなく宇和島市の沖合いに浮かぶ日振島へ泊り込みで講演に出かけます。明日朝一番の船で宇和島に戻り、その足で広島県尾道へ出かけます。多少ハードな日程ですが、そのためにもこれから少し踏みつけ道を歩いておこうと思っています。


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(朝日が差し込む散歩道)


  「いつの間に 出来た踏みつけ 道歩く 白い吐息 ハーハー言いつ」

  「若い頃 好きで覚えた 詩を反芻 しつつ小森を 昇り降りする」

  「さあ今日も 元気で行くぞ 気合入れ 元気になった ような気がして」

  「三連休 リタイア俺にゃ 無関係 仕事ない日が サンデーですよ」

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○人間は今日の今の自分が一番若いという事実

 人間は年齢とともに気力も体力も、ましてや知力さえも、余程のことがない限り、ある一定の年齢を過ぎると落ちてくるものです。ある学者は気力、体力、知力のピークを30歳といいますから、66歳になった私などは人生の峠どころかもうとっくに登りきってもいないのに盛りを過ぎて、終わりに近づいているのです。しかし衰え行く年齢だから仕方がないと諦めて何もしなかったら、気力、体力、知力の衰えるスピードはどんどん速くなって、取り返しのつかないほど衰えてゆくのです。

 人間は誰でも、いつまでも若くありたいと願うものです。ゆえにその願いを叶えるため可能な限りの努力をします。その最たるものは健康補助食品といわれるサプリメントの服用です。特に美しくありたいと思う中年の女性や、体の衰えが痛みとなって体の随所に現れている人たちは、ヒアルロンサン、コラーゲン、コンドロイチンなどという言葉のついたサプリメントを、ワラをもすがる思いで、高いお金を出して買い求め愛飲しているのです。そんな人の心情をくすぐるように、テレビのCMや新聞折り込みチラシは、これでもかといわんばかりに私たちの元へ届けてくるのです。


 本来薬屋さんというのは体を治すための薬を売るのでしょうが、先日ドラッグストアーという大型のスーパー薬屋さんに行って驚きました。確かに本命の薬やサプリメントは沢山売っているのですが、お菓子類や食料品まで、来店するお客がついで買いできるように並べて安く売っているのです。中には食べて大丈夫だろうかと疑うような物まで並べられ、目を疑うような光景でした。私たち消費者はそのような中から賢い消費者として、体にいいものを選ぶ知識を学習によって得なければならないのです。

 サプリメントなどに極端に頼って服用や愛飲し過ぎると、「過ぎたるは及ばざるが如し」の例えのとおり、副作用が起こります。同じサプリメントを服用しても人によって効き方は違うのですから、過信は禁物です。薬やサプリメントの宣伝には有名な名の通った俳優や芸人が、マネキンとして登場しています。そのマネキンが自分の憧れの人だったりすると、自分をその人にダブらせてイメージするのです。それこそ相手の思う壺で、術中にはまってしまうのです。他力本願で気力、体力、知力を補うことは所詮無理があります。今からでも遅くはありません。私たちの人生において今日の今の自分が一番若いという事実をしっかりと認識して、少しでも衰えのスピードを遅くする努力をすることです。


  「人間は 今日の今なる その時が 一番若いと 認識せねば」

  「サプリなど 高い金出し 飲んでるが 体動かす 方が早道」

  「ドラッグも 当てにはならぬ 品揃え 何を選ぶか 学び忘れず」

  「八千草に 自分の姿 重ねつつ お年寄りたち コラーゲン飲む」

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○第1号から23号までの卒業証書授与式

 私の母校である下灘中学校が昨年度末廃校になり、下灘と上灘の中学校が統合して双海中学校が誕生したのは昨年の4月でした。早いものであれから1年近くが過ぎ去りました。私は上灘中学校の評議員をやっていたこともあって、新しい双海中学校になってからも請われるまま引き続いて学校評議員をしています。ゆえに昨日行われた学校の落成式と同時に行われた卒業式に出席しました。

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 卒業生たちは真新しい校舎では2ヶ月余りしか授業をしていませんが、両中学校の統廃合や校舎建築に伴う仮校舎での授業など、慌しい時代の波に翻弄されながらも何とか頑張り、双海中学校の歴史の第一歩を記してくれたのです。落成式は市長さんも出席していただいたものの簡素な式典のみでした。続いて行われた卒業式の卒業証書授与式では統合したといいながら男子13名、女子10名、合計23名の卒業生で、新生中学校なので生駒君に第1号、森田さんに23号の卒業証書が手渡されました。


 卒業式も私たちの頃のような湿っぽさはなく淡々と進みましたが、それでも在校生と卒業生がお互いにエールを送るような姿で歌う合唱は、涙ぐむ子どももいて思わず私もウルウルしてしました。貰った卒業証書をお父さんやお母さんに手渡す演出もとてもよかったと思います。

 今日は県立高校の合格発表があるようです。今日でそれぞれの進路が決まることでしょうが、進学率100パーセントの時代なので、全員が高校へ進学する予定です。それぞれの子どもたちはそれぞれの夢に向かって荒田灘愛一歩を記すのです。

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 私は学校の直ぐ近くに住んでいるため卒業式・落成式には歩いて行きました。昨日の朝は雪がちらつくほどの寒さでしたが、帰り道で満開に咲いたさくらんぼの花を見ました。このところの寒さで桜前線の上陸や北上は少し伸びることでしょうが、思わず見とれ心が和みました。植物は四季の巡りを覚えているし、世界に一つだけの花として一生懸命咲いているのです。この花のように卒業生もオンリーワンの素敵な花を咲かせて欲しいと祈っています。

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  「落成と 卒業式を 同時する 珍しきこと 後にも先にも」

  「第1号 卒業証書 授与された 幸運な子の 名前忘れじ」

  「紅白の 饅頭のみの シンプルさ 落成式も 無駄を省きて」

  「寒いけど 春が来たよと さくらんぼ 満開咲きて 今日を祝福」 

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○岩手県一関室根の金森さんは無事でした

 今回の東北・関東大震災に出会ったであろう友人の所在確認のため、震災の混乱期を幾分過ぎたと思われる3日前から何人かに電話を入れ始めました。30数年前に総理府派遣第10回青年の船に同乗した仲間や、まちづくりで知り合った仲間とは何とか無事であることの確認が取れましたが、何度電話しても不通だったのが岩手県一関市室根公民館の金森勝利さんでした。金森さんとは東京上野の国立社会教育研修所に講義に行った時に知り合い、そのことがご縁で2006年11月27日と2007年9月1日の2回講演に招かれているのです。

 室根といえば室根山を思い出す人も多いと思います。宮城県気仙沼唐桑の漁師さんが山に木を植え、「森は海の恋人」というキャッチフレーズですっかり有名になった所です。岩手県と宮城県の県境付近にあって、宮城県の漁民が岩手県の山に木を植えるという不思議な行動ゆえに注目を集めた場所なのです。私は2回目に行った2007年9月1日に室根に行った折、金森さんにお願いして室根山に登り、漁師が植えたという雑木林を見せてもらいましたが、ゆえに強烈な印象として私の心に残っているのです。早速パソコンのブログ記事から当時の思い出の写真を見つけました。記録が私の記憶を蘇らせてくれました。

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(室根山から望む気仙沼湾)

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(2007年9月1日に登った室根山での記念写真)
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(室根山に建っていた牡蠣の森の標柱)

 宮城県気仙沼地方は入り組んだリアス式海岸の美しい所です。その海岸を利用して古くから牡蠣の養殖が行われていましたが、リアス式海岸ゆえに潮の流れが悪く、毎年夏になると酸欠とプランクトンの異常発生で赤潮が発生し、牡蠣養殖に打撃を与えていました。

 このままでは牡蠣養殖が壊滅するかも知れないと思った漁師さんは、畠山さんが中心になって海を再生することを考え、山に木を植えたのです。天から降ってくる雨は川を流れて海に注ぎますが、現代の山は杉や桧など針葉樹の人工林が殆どで、落葉樹の落ち葉腐葉土の中に含まれる鉄分やミネラルが海に流れてこないのです。落ち葉の森から流れ出る豊富な栄養分は牡蠣にとって貴重な食べ物であることは、当時余り解明されていませんでした。ゆえに色々な苦労もあったようですが、唐桑湾の牡蠣は見事に復活し今の礎となったのです。

 昨日の昼過ぎ室根公民館の金森さんと念願の通話が出来ました。聞けば今回の大震災の被害は少なかったようですが電話が通じたのは、私が電話をかけた10分前だったそうです。壊滅的被害を受けた気仙沼が近いゆえにその惨状は目を覆うばかりで、明くる日気仙沼で桜の木に引っかかった亡くなった人の亡骸を見た時は震えが止まらなかったと話していました。

 金森さんは今、ガソリン不足で自宅から公民館まで5キロの道を歩いて通勤しているそうです。震災対策本部では米とガソリンを担当していて、公用車でその確保に奔走しているようです。昨日は西国四国でも朝から小雪がぱらつきましたが、一関室根では10センチほどの雪が積んで寒さが厳しいそうです。復興への決意を金森さんから聞きながら、何はともあれ元気な声を聞いて安心し電話を切りました。


  「少し前 電話通じだ 元気です 弾んだ声が 電話の向こう」

  「木に人の 亡骸地獄 見た思い リアル証言 悲しくなりて」

  「何年か 前に訪ねた 室根山 牡蠣の打撃も ひどいと聞いて」

  「この寒さ 東北地方じゃ たまるまい 被災者思う だけしかできず」

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○ベクレルという数字単位は聞いても分からない

 私たちは電気や水の存在さえ殆ど気付かずに日々暮らしています。スイッチをひねれば電気は点くし、蛇口をひねれば水はいとも簡単に出てくるのです。電気代も水道代もその代償ですから、毎月銀行口座から引き落とされ少し高いと思っても誰も文句を言わずその恩恵に浴しているのです。しかし福島原発が震災によって大変なことになって初めて電気がどんな意味を持っているのか気付くのです。東京電力の相次ぐ失態は震災という不慮の原因を差し引いても、傍目から素人的に見ればお粗末と言わざるを得ませんが、伊方原発から30キロ圏内ギリギリに住んでいることを、今回の新聞報道で初めて知った町民も数多くいるのです。

 それにしても原子力の世界は分からないことだらけです。今ではすっかり東京電力のスポークスマンになったような枝野官房長官の説明は、情報開示という点では一定の評価をされるのでしょうが、原発事故という極めて困難な国事ゆえ無理からぬことはあっても、日本国政府の官房長官の仕事はもっと他にもあることを認識しなければなりません。原発は文部科学省の所管なのに文部科学大臣の顔や声はまったく見えてこないのです。

 原発事故によって放射能が周囲に飛び散っているというのに、「冷静な判断を」とか、「この程度なら人体に影響がなく安全だから室内待機」などと言われても、また今まで聞いたこともない訳の分からないベクレルだかシーボルトだか分からぬ横文字単位の数字を並べられても、私たちにはどれ程危険なすううちなのかまったく分からないのです。

 雨が降ったらmmで、台風が接近したらヘクトパスカルで、また地震が起ったら震度やマグニチュードで表示されるため、それを目安に非難や備えをするのですが、放射能の数値は聞いても理解が出来ず、唯一の被爆国なのに、国益や大企業を守るために「安全」神話だけを国民に信じ込ませていた政府の責任は重いと思うのです。勿論それを見て見ぬふりをしてきた私たち国民はもっと愚かですから、どっちもどっちなのですが、この際放射能への認識を学習でしっかり見につけたいものです。


 これまで私たちの原発の学習は四国電力の用意してくれたバスをタダで使い、安全神話を見聞きして納得していました。私の町が原発から僅か30キロにあることも、そこで暮らしていることを認識することもなく浮かれていたのです。

 福島原発の事故を受けて、ブルサーマルを受け入れている県は多少浮き足立って、知事さんが昨日伊方原発を視察し事故のないよう万全を期して欲しいと話している姿がテレビに映りました。県民の安心安全を守る立場からすれば嬉しい行動です。しかし万が一事故が起こった時、「あれほど事前に言ったのに」との責任回避の理由にだけにはしないで欲しいと願っています。


  「ベクレルと 言われるけれど 何のこと? ポカン口開け 分からぬままに」

  「目に見えぬ ゆえに安全 いう言葉 信じる以外 手だてもなしに」

  「その昔 日本沈没 いう本を 読んだことあり 不安が過ぎる」

  「原発は 安全ですと 言ってきた 神話崩れて 恐怖が過ぎる」


  

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○心は見えないが心づかいは見えます

 テレビのチャンネルはこのところ、何処も東北・関東大震災関連と福島原発事故関連のニュースばかりでしたが、復興への第一歩を踏み出した明るいニュースもあって、多少心に光が差してきたような感じがし始めています。すっかり影を潜めていたバラエティー番組も少しずつ復活し、暗い世の中だから笑いもいいかと思いつつニュースの合間に見ています。そんなテレビ番組のCMに「心づかい」と「思いやり」について考えさせられるものがありました。

 「心」も「思い」も目には見えないものです。心というものは体の一部分ではなく心臓でもありません。脳の働きによって感じる五感なのです。食事をすれば甘い・辛い・酸っぱいなどを舌が感知して脳に送り美味いやまずいという総合判断や次も食べたい、次は食べたくないという思いまで発展するするのです。また手に棘が刺さると皮膚が痛いと感知して脳に送り、しまったと自分の不始末を反省し、時には次に失敗をしないように深く反省したりまでするのですから、人間の脳が指図する人間の心は凄いと思うのです。

 人間の心には善と悪があって、絶えずせめぎ合いをしています。中国の古い考えに双魚図というのがあります。心というコップには善という色の水と悪という水が混じることなく存在しています。善の水が多い人は善人で、悪の水が多い人は悪人です。悪いことをしてはならないと心で分かっていても悪の水が善の水を上回ると悪の方向へ向いて動き出すのです。さしずめ私は極端な善人でも悪人でもありませんが、どうにか善の水があくの水の量を上回っているため、悪人にならず今日まで生きてこられました。あれが欲しいと思ってもそれが人のものを盗むという直情的な思いにならず、我慢する心になるのは、善の水のお陰なのです。

 「心は見えなくても心づかいは見える」とはけだし名言です。思い荷物を持ったおばあさんを見かけると、「荷物を持ってあげよう」という心になります。また電車に乗って座席に座っていると、立っている年老いた人に席を譲りたい心になります。でもいくら心があってもそれを使わなければ心は人の目に触れることはないのです。荷物を持ってあげる、席を譲るという行為を「心づかい」といいますが、心づかいは周りの人の目に触れいい連鎖を生んで行くのです。

 「心づかい」も「思いやり」も私たちがほんの少しだけ持っただけで、社会はどんどん明るくなります。「心づかい」も「思いやり」も最初の一歩を踏み出すには勇気が必要ですが、やってみると案外楽しいものです。荷物を持ってあげただけで、席を譲っただけでとても嬉しくて爽やかな気持ちになります。「ありがとう」とお礼の言葉が返ってくるともう最高です。東北・関東大震災も同情の心を持つことは「思い」なのですからそれはそれとして嬉しいものです。でももう一歩踏み出して「思いやり」になったらもっともっと素晴らしいことになるでしょう。

  「目に見えぬ 心だけれど 一歩前 心づかいは 心和ます」

  「善の水 悪の水より 多ければ 悪いことなど 絶対しない」

  「使っても 減らぬどころか 増えてゆく 心づかいは 便利なものだ」

  「思いやり 予算にさえも ついている やりはやりでも 人刺す槍は」 

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