shin-1さんの日記

○ベクレルという数字単位は聞いても分からない

 私たちは電気や水の存在さえ殆ど気付かずに日々暮らしています。スイッチをひねれば電気は点くし、蛇口をひねれば水はいとも簡単に出てくるのです。電気代も水道代もその代償ですから、毎月銀行口座から引き落とされ少し高いと思っても誰も文句を言わずその恩恵に浴しているのです。しかし福島原発が震災によって大変なことになって初めて電気がどんな意味を持っているのか気付くのです。東京電力の相次ぐ失態は震災という不慮の原因を差し引いても、傍目から素人的に見ればお粗末と言わざるを得ませんが、伊方原発から30キロ圏内ギリギリに住んでいることを、今回の新聞報道で初めて知った町民も数多くいるのです。

 それにしても原子力の世界は分からないことだらけです。今ではすっかり東京電力のスポークスマンになったような枝野官房長官の説明は、情報開示という点では一定の評価をされるのでしょうが、原発事故という極めて困難な国事ゆえ無理からぬことはあっても、日本国政府の官房長官の仕事はもっと他にもあることを認識しなければなりません。原発は文部科学省の所管なのに文部科学大臣の顔や声はまったく見えてこないのです。

 原発事故によって放射能が周囲に飛び散っているというのに、「冷静な判断を」とか、「この程度なら人体に影響がなく安全だから室内待機」などと言われても、また今まで聞いたこともない訳の分からないベクレルだかシーボルトだか分からぬ横文字単位の数字を並べられても、私たちにはどれ程危険なすううちなのかまったく分からないのです。

 雨が降ったらmmで、台風が接近したらヘクトパスカルで、また地震が起ったら震度やマグニチュードで表示されるため、それを目安に非難や備えをするのですが、放射能の数値は聞いても理解が出来ず、唯一の被爆国なのに、国益や大企業を守るために「安全」神話だけを国民に信じ込ませていた政府の責任は重いと思うのです。勿論それを見て見ぬふりをしてきた私たち国民はもっと愚かですから、どっちもどっちなのですが、この際放射能への認識を学習でしっかり見につけたいものです。


 これまで私たちの原発の学習は四国電力の用意してくれたバスをタダで使い、安全神話を見聞きして納得していました。私の町が原発から僅か30キロにあることも、そこで暮らしていることを認識することもなく浮かれていたのです。

 福島原発の事故を受けて、ブルサーマルを受け入れている県は多少浮き足立って、知事さんが昨日伊方原発を視察し事故のないよう万全を期して欲しいと話している姿がテレビに映りました。県民の安心安全を守る立場からすれば嬉しい行動です。しかし万が一事故が起こった時、「あれほど事前に言ったのに」との責任回避の理由にだけにはしないで欲しいと願っています。


  「ベクレルと 言われるけれど 何のこと? ポカン口開け 分からぬままに」

  「目に見えぬ ゆえに安全 いう言葉 信じる以外 手だてもなしに」

  「その昔 日本沈没 いう本を 読んだことあり 不安が過ぎる」

  「原発は 安全ですと 言ってきた 神話崩れて 恐怖が過ぎる」


  

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shin-1さんの日記

○心は見えないが心づかいは見えます

 テレビのチャンネルはこのところ、何処も東北・関東大震災関連と福島原発事故関連のニュースばかりでしたが、復興への第一歩を踏み出した明るいニュースもあって、多少心に光が差してきたような感じがし始めています。すっかり影を潜めていたバラエティー番組も少しずつ復活し、暗い世の中だから笑いもいいかと思いつつニュースの合間に見ています。そんなテレビ番組のCMに「心づかい」と「思いやり」について考えさせられるものがありました。

 「心」も「思い」も目には見えないものです。心というものは体の一部分ではなく心臓でもありません。脳の働きによって感じる五感なのです。食事をすれば甘い・辛い・酸っぱいなどを舌が感知して脳に送り美味いやまずいという総合判断や次も食べたい、次は食べたくないという思いまで発展するするのです。また手に棘が刺さると皮膚が痛いと感知して脳に送り、しまったと自分の不始末を反省し、時には次に失敗をしないように深く反省したりまでするのですから、人間の脳が指図する人間の心は凄いと思うのです。

 人間の心には善と悪があって、絶えずせめぎ合いをしています。中国の古い考えに双魚図というのがあります。心というコップには善という色の水と悪という水が混じることなく存在しています。善の水が多い人は善人で、悪の水が多い人は悪人です。悪いことをしてはならないと心で分かっていても悪の水が善の水を上回ると悪の方向へ向いて動き出すのです。さしずめ私は極端な善人でも悪人でもありませんが、どうにか善の水があくの水の量を上回っているため、悪人にならず今日まで生きてこられました。あれが欲しいと思ってもそれが人のものを盗むという直情的な思いにならず、我慢する心になるのは、善の水のお陰なのです。

 「心は見えなくても心づかいは見える」とはけだし名言です。思い荷物を持ったおばあさんを見かけると、「荷物を持ってあげよう」という心になります。また電車に乗って座席に座っていると、立っている年老いた人に席を譲りたい心になります。でもいくら心があってもそれを使わなければ心は人の目に触れることはないのです。荷物を持ってあげる、席を譲るという行為を「心づかい」といいますが、心づかいは周りの人の目に触れいい連鎖を生んで行くのです。

 「心づかい」も「思いやり」も私たちがほんの少しだけ持っただけで、社会はどんどん明るくなります。「心づかい」も「思いやり」も最初の一歩を踏み出すには勇気が必要ですが、やってみると案外楽しいものです。荷物を持ってあげただけで、席を譲っただけでとても嬉しくて爽やかな気持ちになります。「ありがとう」とお礼の言葉が返ってくるともう最高です。東北・関東大震災も同情の心を持つことは「思い」なのですからそれはそれとして嬉しいものです。でももう一歩踏み出して「思いやり」になったらもっともっと素晴らしいことになるでしょう。

  「目に見えぬ 心だけれど 一歩前 心づかいは 心和ます」

  「善の水 悪の水より 多ければ 悪いことなど 絶対しない」

  「使っても 減らぬどころか 増えてゆく 心づかいは 便利なものだ」

  「思いやり 予算にさえも ついている やりはやりでも 人刺す槍は」 

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