shin-1さんの日記

○由並小学校五年生児童環境ポスター展始まる

 昨日の午前中、人間牧場へ行く途中ふたみシーサイド公園に立ち寄りました。一昨日の時ならぬ季節風に乗って打ち寄せたゴミが人工砂浜に沢山打ち寄せていて、係の人がキャタピラー作業車で掃除をしていました。6年前までだったらあの人に変わって、私がこのゴミを掃除していただろうと自分の姿をダブらせながら懐かしくなりました。北西の季節風もいよいよ終わりに近くなり、ホンダワラ(海草)の漂着も少なくなったように見えますが、作業をしている人は大変なようでした。

 市役所支所の松本さんと、由並小学校の中尾先生が、5年生の児童とともにイベントホールで環境ポスター展の展示をしていました。勿論見覚えのある子どもたちの顔々なので気安く言葉をかけながらポスター展示の様子を見守りました。私たちの子どものころは自分で下絵を書き絵の具で色をつけることしか出来ませんでしたが、子どもたちが作ったポスターは、パソコンで文字や図案を取り込んで色をつけ、それをスキャナーで読み込んで仕上げていて、何処かのデザイナーが作ったものと見まがうほどの出来栄えに驚いてしまいました。しかもコメント欄までパソコン文字で書かれていて脱帽しきりでした。

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 中尾先生とはかつて教育委員会で一緒に仕事をした中のよい間柄なので、おせっかいで口を出し、「折角いいポスターを展示しても人に待て貰わないとキャンペーンにはならないので、一人5人ぐらいに声をかけ、見に来てもらったらどうでしょう」と助言をすると、子どもたちは早速シーサイド公園で働く人や立ち寄った人に笑顔で愛嬌を振りまきながら、「僕たち、私たちのポスター展をしているので見てください」と声をかけていました。積極的なコミュニケーション能力に感心しながら嬉しくなりました。海岸に打ち上がった大量のごみといい、ポスターの展示場所としてシーサイド公園のイベントホールを選んだ発想こそ、生きた学習だと思いました。多分子どもたちが声をかけた人が何人か見学に来てくれることでしょう。


 ゴミをどこにでも捨てる日本人のマナーの悪さが目に付くようになってきました。ポスターを作る作業を通して育まれる子どもたちの美しい町をつくろうとする心は、私たちが大事に育ててやりたい思いなのです。ゴミを捨てない、ゴミを拾う、ゴミを捨てないように人に促す、ゴミを拾うように人に促す、ポスターはそんな意味が込められています。私たちが花を植えたり、美しい海や夕日を見て美しいと感じる心も、限りある資源を大事にすることも全て広い意味での環境問題なのです。子どもたちと一緒に美しい町をつくり、この町で幸せに暮らしたいものです。


  「このポスター 本当に子ども 作ったの? 見まがうほどの 素晴らし出来栄え」

  「進化した 子どもの頭脳 感心し ポスター見入る 俺は古いなあ」

  「ポスター展 見に来てくれと 誘う子等 折角展示 妻も誘いて」

  「ポスター展 次に繋がる 子が育つ 大人しっかり せねば恥ずかし」

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○大きな栗の木の下で

 レクリエーションで歌った経験のある歌に「大きな栗の木の下で」という歌があります。歌を歌いながら振り付けをして遊んだものですが、その歌を髣髴するような大きな栗の木が人間牧場の農場にあるのです。この栗の木は春になると一斉に若草色の若葉が芽吹き、夏には緑陰を作り、秋には見事な紅葉を、冬の枯れ木と四季を感じさせてくれる落葉樹なのです。

 栗の木は栗の実が稔ってこそその役目を果たすのでしょうが、実はこの栗の木の品種は山栗系で、沢山実はつけるものの残念ながら食用にしたことはなく、棘のある毬栗が木の下を埋めるだけの厄介者なのです。しかもその毬栗が隣接する他人の畑にまで落ちるものですから、何とかしなければならないと常々思っていました。

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 昨日は数日前の春を思わせる温かさとは一変して、戻り寒波に見舞われ山には里近くまで雪が積もるあいにくの寒い一日でした。滅多に雪が降らないし霜も降りない人間牧場ですが、季節風はそんなに強くないものの時折小雪の舞うあいにくの天気で、水平線の家のウッドデッキも雪で薄化粧していました。

 こんな日こそ体を動かせば暖かくなるだろうと、思い切ってチェンソーを持ち出し栗の気の伐採作業を始めました。チェンソーにガソリンとオイルをそれぞれ入れ、チョークを引いて紐を引っ張ると長い間使っていなかったチェンソーが甲高いエンジン音を山々に響かせて勢いよく作動し始めました。

 胸元辺りから枝分かれした枝を順番の切り落として行くのですが、調子よく面白いように作業がはかどりました。しかし栗の木にはおびただしいほどの小枝があって、それらを片付けるのに一人で半日もかかってしまいました。

 伐採した木々を放っておくと間もなく始まるであろう草刈りに支障をきたすので、小切りをしてそれらを一ヶ所に集めうず高く積んで行くのです。大ばしい枝を鎌で小切りする作業は予想以上に重労働で、日ごろ使っていない手や腕が悲鳴を上げ、時折かかってくる携帯電話を持つ手が震えるほどでした。昼食はシーサイド公園で魚屋さんとじゃこ天のお店で貰った鯛めしと野菜じゃこ天を美味しくいただき、一通り納得いくように片付いたのは午後3時を回っていました。

 大きな栗の木が根元だけを残して無残な姿になりましたが、これで梅林もすっきりして梅の木も丈夫に育つし、隣の畑の持ち主に迷惑をかけることもなくなりホッとました。

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 本当はこの栗の木に丹波か銀寄せのような優良品種を高担ぎすればいいと思っていて、山奥組のミツバチ支障の井上さんに内諾をいただいていたのですが、隣の畑の年老いたおばちゃんの草引きに迷惑をかけれないとの思いが先に立っての作業と相成りました。

 片付けた木々は暇を見つけてチェンソーで小切りして薪にする計画です。乾燥すればかまど小屋の燃料として日の目を見ることでしょう。何はともあれ私にとっては落ち葉集めと同じく、久々の大仕事となり、充実した一日でした。


  「木陰しか 役に立たない 栗の木を 思い切りよく まるで散髪」

  「小気味よい チェンソーの音 山々に 響いて春の 足音を聞く」

  「まだまだと 体力過信 したものの 最後はへなり 疲れありあり」

  「もし接木 するなら思い 残したる 枝に登りて 海を眺める」

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