shin-1さんの日記

○日曜市の安売りは自分の首を絞める

 最近はどの町へ行っても特産品センターのような農海産物を売る日曜市のような簡易な店があって、余りお化粧の濃くない地元のおばちゃんが田舎言葉を交わしながら店番をしているのです。近所の人が品物を持ち寄ってお客さんの多い土日だけにしていた商売でしたが、農業の疲弊と売れることを理由に最近は正月を除いた年中開店しているようです。中には予想以上の売れ行きに手ごたえを感じて、バーコードなどで無機質に商品を売るお店まで出来ているのです。日曜市の魅力は安さと商品の新鮮さ、それに温かさなのですが、どうもそれら3点セットが危うくなっているようです。

 安さの秘密は自分で作ったものなので自分の人件費だけで中間マージンが要りません。ゆえに安いのでしょうが安い=品物が悪いというイメージが何故かついて回ります。消費者は安いと訳ありをついつい連想してしまうのです。時々他の日曜市やスーパーに出かけて適正価格の勉強をして値札をつけなければ、安売りが常識になると価格破壊が起り所得が伸びないのです。スーパーや農協の直売所の出現によって薄利多売が常識の時代になってきましたが、どこかで安売りに歯止めをかけないと、農家や漁家が自分の値打ちを下げてしまっているのです。安けりゃ買う人も大勢いますが、値打ちが分かる人もいるのです。

 日曜市の値打ちは品物の安全と新鮮さです。見た目より安全で食べて美味しいものが売りですから、極力消毒を避け、有機肥料の効いた土の肥えた畑で作らなければなりません。姿形よりも朝取りや土付きが常識なのです。売れるからと品揃えのために他の地域から買ってきた物を売り始めると、消費者は自然と遠ざかって行くのです。日曜市といえども生産者や産地表示が義務付けられ、顔が見える説明責任が求められる時代ですから、むしろそのことを生かしてお得意先を確保するくらいの商売をしなければなりません。日曜市は第一産業の見本市だし第三次産業なのです。

 「おばちゃんこれ美味しい」?「私が作ったんじゃから美味しいよ」「もう少し負けてよ」「今日は寒いのに買ってくれるので50円でも勉強しときましょうわい」「ありがとう。又来るね」なんて会話はスーパーのレジでは味わえない温かい会話です。つまりこの会話が商品の価値を高めるのです。時には味見をしたりサービスをして顔馴染みなることが村おこしなのです。私も時々地元の日曜市に出かけ恥ずかしそうに店番しているおばちゃんに替わってお客さんに声をかけ、商売の極意を伝授しています。「進ちゃん、あんたは商売が上手い」と褒めてくれますが、お陰で先日は「これお食べや」と美味しい漬物をいただいて帰りました。会話も商品のひとつです。


  「安売りは 自分の首を 絞めること よく考えて 値札つけてね」

  「温かい 会話あるから 買いに来る お客と同じ 目線で笑顔」

  「人が来ん 売れないなんて 嘆くより どうして売れない 自分に問うて」

  「安心と 安全加え 温かさ 田舎言葉で 喋ろじゃないか」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○首吊り名札とペットボトル入りお茶

 いつ頃から始まったのだろうと記憶を辿るが、中々思い出せません。東京や松山の会合では時々そんな集会があったと記憶しているが、多分私が役場に勤めていた現職のころは余りこだわっていませんでした。おっと失礼、首吊り名札とペットボトル入りお茶の話です。最近は何処へ行っても集会といえば首吊り名札とペットボトル入りのお茶は欠かせない7つ道具の一つとなっているのです。

 昔名札は胸につけるものでした。ところが国際会議などの一軒格好いい外国の習慣が身について、最近は自分の顔写真まで入った身分証明書のような首吊り名札が日本全国に広がってしまったのです。しかしその実態たるや、名札が裏返しになってまったく用をなさなかったり、くたびれたままのものだっても平気でぶら下げている姿を見るにつけ、昔のようにきちんと胸に付けている方が余程いいと思ったりするのです。

 一方ペットボトルのお茶ですが、これも急速に普及して今では中身がどうであろうと何の疑いも持たず机の上に無造作に置かれ、こんな寒い冬だというのに今倉庫から取り出したような冷たいお茶を飲まなければならないのです。最近まではどの職場にもお茶汲みなどという風習があって、特に若い女性はお茶を沸かしお茶を出す仕事をしていました。これが男女の悪しき差別だと思われ、中にはまことしやかにお茶汲み廃止宣言まで新聞に取り上げられたりもしました。

 確かにペットボトル入りのお茶は便利で清潔です。机の上に並べると済むのですから・・・。しかし500mlの普通サイズのお茶を飲み干すには余りにも多く、殆どの人が残したり持ち帰らなければならないし、空いたペットボトルの後始末も資源ゴミとして皮を剥ぎキャップを外差なければならないのです。私は古い人間なのでしょうか。ペットボトルのお茶の味には何処か違和感があって、何処か好きに慣れないのです。

 先日も講演でお茶の名産地と呼び声の高い町へ講演に出かけました。300人ほどが集まっていましたが、「特産品を開発する村おこし集会」なのに机の上には相変わらず無頓着にもペットボトル入りのお茶が全員に配られていました。もしこの会場で地元自慢のお茶を出したら、ペットボトル万能社会ゆえに目立つだろうし、お茶場の消費も相当なものになると講演で指摘をしたら、感心をした参加者の中の一人から同感のお便りをいただきました。

 来客をお茶と温かい心でもてなす日本の美風は、残念ながらこの10年ほどで消えようとしています。お茶汲みも大切な女性の修行のひとつなんてことも男女同権の前に消え去りました。最近は事の外寒いため食事が終わって妻の入れてくれた熱いお茶をすする機会も増えていますが、お茶を飲めば妻との会話も弾み何処か落ち着いた気分になるのです。茶飲み友だちの世代になったのかも知れませんが、コーヒーも飲めない時代遅れの私は、これからもお茶党でいきたいと思っています。


  「裏返し 首吊り名札 無造作で 用を成さない 辞めたらどうか」

  「どの会も ペットボトルが 置いてある 量が多過ぎ 残し持ち帰る」

  「わが町は お茶が特産 胸を張る 地産地消も 地に落ち指摘」

  「お茶汲みは 修行のひとつ 思うけど 男女同権 上行く理屈」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○人を残す人生こそが上」

 先日松山の共済会館で開かれたフォーラムで後継者育成の話が出ました。コーディネーター役の人がいきなり、「若松さん、あなたは後継者育成についてどう思いますか?」と振ってきました。とっさに私は「私たちが若い頃には『いい指導者はいい後継者をつくる』と教わりました。確かにそれも一利ありますが、私はその教えに疑問を持っています。私のような未熟な人間が指導者ぶってみても後継者を育てる能力などありるはずがありません。私の持論ですが『いい指導者はできるだけ早く去るか死ぬ』だけですと発言すると、場内に大爆笑が起り、そのことについて「同感」や「異議あり」と議論百出でした。

 私も第一線を退いているものの、これまでの様々な実践や理論をそれなりに評価され、一応指導者的に扱われていますが、私がどのようにして育ったのか振り返ってみると、最も身近な関係にある親父からでさえ、文句や小言の端々で人の道を諭されたものの帝王学は学ばず、ましてや地域づくりなどは誰からも後継者として指名され、後継者としてのノウハウを教えてもらったことはないのです。多分私の指導者としての実践や理論は自分自身で開拓してきたように思うのです。本を読んだり人に出会ったり、時には自費で研修会に足を運んだりしながら、自分に投資するようになればしめたものです。


 ただしそれは私一人でなし得たものではなく、私をひのき舞台に立たせてくれたり、陰で後押ししてくれた大勢の人の力によることが大きいのです。もし私が後継者育成で出来ることがあるとすれば、私に続く人たちを「ひのき舞台に立たせること」と、「影ながら後押しすること」、いわば自立への手助け以外ないのです。

 幸い私に続くある意味後継者と思しき独り立ちした人たちが、私の周りには沢山育っていて幸せにさえ思うのです。私には知力も財力もなく、ましてやもう年齢的、役割的に責任も取ってやれな意のですが、支援はできなくても志援なら出来ると思っています。


 戦前の政治家後藤新平が「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上」という言葉を残しています。通常国会が始まり与党と野党が予算委員会などで激しい論戦を繰り返していますが、小沢一郎の金の問題も政権取得を事業に見立てれば、下や中の話に終始して、この国の将来をどうするのかといった人の道の話など殆ど出てこないのです。

 聞けばこの名言を残した後藤新平も小沢一郎も同じ岩手県水沢の生まれだそうです。名言を残した後藤新平は偉かったかも知れませんが、この言葉を活かしきれないところに後継者を育てる難しさがあるようです。


  「下・中・上 人それぞれの 生き方が あると諭され 上を目指して」

  「死ぬか去る 俺の発言 大爆笑 後は死ぬだけ 犬死するな」

  「金貯めて 金に生命を 奪われる ないから見える 人の生き様」

  「もっと上 目指すためには 否定して 革新的に 生きてくれなきゃ」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○自然はさびしい。だが・・・・

 最近中四国のあちこちを旅をする度に、空き家や荒れた畑を目にする機会が増えてきました。黄色く色づいたみかんの実が収穫されず木に残っている段々畑は何とも惨めなもので、ヒヨやカラスの餌場と化していて、多分後2~3年もするとカズラがはびこって放任園となって自然に帰って行く運命を辿るのでしょう。

 実は私も人のことを言える身分ではないのです。わが家でも母が丹精を込めて作っていた2ヶ所のみかん園を放任し、野生にに帰した苦い経験を持っているのです。人間の手が入らないとみかん園は3年もすると草やカズラが生い茂り、5年で完全にみかんの木が枯れます。そして雑木や茨が生えて人間の入園を拒むようになるののです。

 仕事が忙しいからと仕事を理由にして荒れさせてしまったみかん畑を元に戻すことは容易なことではありません。私は退職と同時にひとつ目のみかん園へ人間牧場を造る目的で入りました。15年近くほおっておいたみかん園は太ももほどもある潅木とカズラに覆われ、チェンソーと草刈機とノコ、カマ、地掘り鍬などで挑みましたが、2反程度の狭い土地ながら新地にするのに私一人で1ヶ月もかかりました。手に豆をつくり、思いに労働になまった私の体は悲鳴を上げていましたが、それでもどうにか明るくなった土地を見て、宮本常一さんのいった「自然はさびしい、しかし人の手が加わるとあたたかくなる」という言葉をしみじみと味わいました。


 母親の植えていたみかんの木は親不孝な私のせいで全て枯らしてしまいましたが、それでも人間牧場には水平線の家やロケ風呂などが建ち、狭いながらも農場には毎年芋が植えられたり、寒風吹きすさぶ梅園には春を待つようにちらほらと一輪二輪梅の花が咲き始めているのです。

 今年は事の外寒いため、また新年早々ぎっくり腰を患ったためついつい億劫になり、毎年春先に行うはずの落ち葉を拾って苗床を作る作業が一ヶ月も遅れているのです。このままだと3月初旬に行う予定の種芋の植え付けが間に合わないと気を揉んでいますが、これも仕方があるまいと内心諦めているのです。


 先日島根県へ講演に出かけた折、人の住まなくなったであろう山里の人家が崩れしままになっているのを見ました。屋根は傾いて落ち、障子も破れて無残な姿をさらけ出していました。配られることもなくなった郵便受けの赤い箱には住んでいたであろう多くの家族の名前があせることなく残り、戸口に印象的にかかっていました。私の町でも例外ではなく限界集落のあちこちにこんな光景が見え始めてきました。多分もう10年もすれば準限界集落は限界集落となり、原型集落は消滅するのでしょうが、日本の政治の貧困や地方自治体の無力非力を嘆かずにはおれないのです。何とか地域を守りたい。そう思う心の焦りがいっそう募る今日この頃です。


  「人の手が 入ると自然 温かい 田舎は逆の 道を辿りぬ」

  「人住まぬ ようになりたる 家崩れ 自然に帰る 涙出そうに」

  「親・子・孫 田畑守る リレーさえ バトン途絶えて 荒れるに任せ」

  「吾が輩も 楽して暮らす 術覚え 怠慢ばかり 気だけあせりて」 


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○えひめ地域づくり研究会議フォーラム2011

 先週の土曜日、えひめ地域づくり研究会議の年次フォーラムに放談者として招かれ出かけて行きました。第一部の放談者は内子町の町並み保存を手掛けた岡田さん、五十崎町の小田川を守る運動を手掛けた亀岡さんと夕日のまちづくりを手掛けた私の3人でした。コーディネーターとなった近藤さんから、3人に変人とからかわれましたが、亀岡さんは奇人、岡田さんは変人であっても、私は凡人だけに奥の深い話には中々骨が折れました。

shin-1さんの日記

 最初この話を聞いた時、またその企画書に「継続する力ー地域の自立のためにー」「~愛媛の先駆者たちから受け継ぐこと~」や、「2011年、24回目となるフォーラムでは、愛媛の地域づくりの先駆者にその情熱と思いを伺い、時代を経ても変わらない理念を確認し現在実践している個々の地域づくりを点検することを目的に開催します。えひめ地域づくり研究会議の主要メンバーとなり、(財)愛媛県まちづくり総合センター、現(財)えひめ地域政策研究センターとともに歩んだたくさんの地域づくり人は志高く、全国から先進地・まちづくりリーダーと呼ばれ早くから注目されてきました。その地域づくり人は今もまだ熱く地域の自立に向け奮闘されており、学ぶべきことは沢山あります」と書かれた面映い文章を見て、今更老兵が出ることもあるまいと固辞しましたが、あの手この手の誘いに乗って出席することにしたのです。

shin-1さんの日記
shin-1さんの日記
shin-1さんの日記

 この日は70人ほどの人が会場となったえひめ共済会館に集まっていました。老兵3人が集まるとあって懐かしい顔も姿を見せ、また誰の誘いなのか高知県からも10人近くの人が集まっていました第一部「愛媛の先駆者から受け継ぐこと」では飄々とした亀岡さんの話や、理論武装した岡田さんの話、私の笑わせる話に加え、高知県安芸市の限界集落へ嫁いだ小松圭子さんを交えた第二部「愛媛の地域づくり、これから」も、そして食談交流会も大いに盛り上がりました。

 愛媛地域づくり研究会議の代表運営委員の職を辞してから早くも2年が経ちました。研究会議の発展を願い夢中で世話をした組織を離れてみると、違った発見やほころびも見え隠れしていますが、私たちの意思を継いだ人たちが、その人たちの時代感覚で盛り上げてくれることを期待しながら、今はひっそりと遠目で見守って行きたいと思っています。


  「老兵は 消え去るのみと 覚悟して 桧舞台を 去ったはずだが」

  「過ぎ去れば 色々言える ことなれど 一喜一憂 色々あった」

  「川や街 夕日なんかに 気狂いし 競ってやった 地域づくりを」

  「元気かい 久方声を かけられて 元気ですよと オームのように」 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○月刊社会教育2月号に原稿を書きました

 10月ごろ、財団法人全日本社会教育連合会が発行している月刊社会教育の編集長さんから、企画連載「社会教育一筋」というコーナーへの寄稿原稿依頼のお手紙をいただきました。若い頃「月刊公民館」「月刊広報」とともに愛読していた雑誌なので、「月刊社会教育」の存在は知っていたし、「社会教育一筋」でもないのですが、ある意味心の在り様では「社会教育一筋」なので引き受けることにして、早速その日のうちにたった一日で原稿を書き、2~3日筆を休めて冷静な目で読み直して修正し、メールで指示のあった編集長さん宛てに送りました。

 年末のドサクサや年始の雑事で原稿を送ったことなどすっかり忘れていた昨日、掲載本が2冊贈られて来ました。切りの良い60ページと61ページの間に付箋が挟まれ見開きになった紙面は思ったよりゆったりしていて、もう4~5行多くても良かったと思いましたが、余白のゆとりのお陰で読み易く編集されているようでした。

 さて今回の原稿依頼にあたって、私の社会教育一筋とは一体何なのかを考えました。私のこれまでの人生はある意味まちづくり、ある意味社会教育なのですが、社会教育という視点で考えると、①青年団、②公民館、③21世紀えひめニューフロンティアグループ、④人間牧場と概ね4つくらいが考えられるようです。

shin-1さんの日記
shin-1さんの日記
(企画連載「社会教育一筋」に掲載された私の書いた原稿)

 もし4つの場面がなかったら私の今は存在していないのですから、竹の節を重ねて繋いだような社会教育は一筋といえるのかも知れません。普通タイトルを決めて中身を書いたり、中身を書いた後でタイトルを書いたりするのですが、今回は原稿を書いた後に「これからがこれまでを決める」と決めました。読まれた方は「あれっ、逆ではないの?」と思うかも知れません。普通は「これまでがこれからを決める」といわれています。私の自著本に「昇る夕日でまちづくり」という本を10年前に出しました。その時も「えっ、何で夕日が昇るの?」と不思議がられました。私を知っている人は「若松さんらしい逆転の発想だね」と直ぐに理解してくれました。逆立ちして見ると夕日は昇るのですから・・・・・。


 今回のタイトルはわれながら天晴れです。これまで66年間生きてきて、そのうちの40年余を社会教育に関わって生きてきました。ゆえに今も社会教育的心で社会教育とかかわり生きていられるのです。しかし私にとってこれからの生き方がこれまでを決めると考えれば、これまで以上に短いであろう社会教育的人生をうかうか生きられないと思うのです。

 私のは6年前から始めた人間牧場での活動を進化させる夢があり、そういう意味ではこれからなのです。青年団も公民館も21世紀えひめニューフロンティアグループもじょうごの細い口から流し出すのではなく、じょうごの口を上に向け、坂の上の一朶の雲を見て上って行くように歩み続けたいと思うのです。


  「これからが これまで決める 人生と 社会教育 一筋思う」

  「今までを じょうご口から 落とすより じょうご口から 上見て生きる」

  「これからが 大事と心 言い聞かせ 今日も明日も 湧潮流で」

  「誰の目に 触れるか俺の 文章に 三振凡打 それでもいいや」 

[ この記事をシェアする ]