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○診察の結果何でもなかった92歳の親父

 毎週一回、7キロ向こうの下灘にある診療所まで自転車をこいで検診に出かける92歳の親父が、4日前少し滅入ったような顔をして帰って来ました。書斎の外窓を開けて、「暇が出来たら病院へ連れて行ってくれ」と言うのです。聞けば診療所の先生から「頭にできもののようなものが出来ているので、一度総合病院で看て貰った方がいい」と言われたそうなのです。帽子を脱いだ頭を見ると確かに素人目でも分かるおできのようなものがありました。手で押さえても余り痛がらないので、「2~3日中に病院へ連れて行ってやる」と約束しました。


 それ以来毎朝のように「2~3日中とはいつなのか」と聞きに来るようになりました。予定を調べて昨日の夕方家に帰って親父の隠居へ行き、「明日の朝8時に家を出発して県病院へ行くから」と口約束をしました。

 今朝は数日前から煙霧が立ちこめているものの風邪もない穏やかな朝を迎えました。病院へ8時に出かける予定を妻に伝えていたため、少し早めの準備をしました。7時30分には既に親父は準備をして玄関に立っていて、「お父さん、おじいちゃんが待ってるよ」と妻が言うものですから、少し早いとは思いましたが7時50分に親父を乗せて出発しました。


 車に乗り降りするのにも「よっこらしょ」と掛け声をかける親父、それでもシートベルトは絶対忘れることなく締めるのです。車の中で「昨晩は余り寝れなかった」「昨晩は畑の大根の葉っぱ落としに夢中になってご飯を炊くのを忘れて、ご飯を食べなかった」「頭のおできが気になる」などと私にちじに乱れた真情を吐露しました。

 病院に着くと駐車場の入り口で係員の男性に、「足腰の弱った親父なので」と説明すると、入り口付近の駐車場へ案内してくれました。早速初診の受付で担当の看護婦さんにおできを見せ、何処へ行けばいいか相談し、皮膚科の受付を済ませ2階の39番診察室へ向かいました。初診なので問診表を書き込んだりしていると、5分も待たずに「若松進様診察室へお入り下さい」と呼ばれました。

 バッグや帽子、それに杖を籠に入れ、先生の前の診察椅子に座りました。耳の遠い親父に変わって私が先生と説明をしました。先生は「92歳にしてはしっかりしていますね」と笑いながら話されました。「これは決して悪い病気ではありません。歳をとると出来るものなので心配は要りません。薬も塗る必要はないのでお帰り下さい。若松さんお元気でね」です。私も親父も余りのあっけなさに開いた口が塞がりませんでした。初診ゆえ多分昼過ぎまでかかるかも」と思っていた私、「ひょっとしたら悪い病気かも知れない」と思っていた親父ともども、まるで心の霧が晴れたようでした。

 思えば親父ももう92歳、寝たっきりになっても可笑しくない年齢です。それが何だかんだといいながら今も元気で自立して生きているのです。せいぜい親孝行をしてやりたいと思いつつ、いつも疎遠で心を痛めています。これからも元気で長生きして欲しいと願っています。間もなく息子夫婦家族も同一敷地内に住むことになり、楽しみにしていた曾孫の声を聞かせてやれる予定です。

  「昨晩は 眠れなかった ボソリ言う 診察結果 良くて安心」

  「気がつけば 92歳に なった父 今も元気で 一人暮らしを」

  「間もなくに 曾孫の声と 共暮らす それが楽しみ 言いつつ日々を」

  「親孝行 したいけれども 忙しさ りゆうにしては 疎遠の日々を」 

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○新しいバージョンにアップ

 私は自分を灰凡な凡人だと思っています。しかし周りの人は口でこそ面と向かっては余り言いませんが、少し毛並みの変わった人だと思っているようです。その証拠に私の周りには奇人・変人といった人が沢山いるし、少し変わった人が私にあいにやって来るのですから、やっぱり奇人とまでは行かなくても変人なのでしょうか。

 昨日私の自宅へ株式会社ミミックプロモーションの十亀孝さんがやって来ました。PR演出クリエイターと名乗るのですが、普通の人がこの会社の名前や肩書きを聞いても「それ何?」と首をかしげるのです。私もいく分か歳をとったせいか、横文字の流行語には弱く正式に十亀さんがどんな仕事をしているのかは分からないのです。

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(十亀さんのアイディアグッズの数々)

 名刺を貰いましたが、名刺二枚を繋ぎ合わせたサイズの名刺には、所狭しと「アナログプレゼンデサプライズ!」「新しいアプローチを生み出すユニークなプロモーション」「コミュニケーション促進企画」などなどのキャッチフレーズがこれでもかと並んでいるし、昨日持参した名詞は飛び出す名刺と称して、二つ折りを開けると十亀さんの出身地新居浜の産業遺産として脚光を浴びている、東洋のマチュピチュの写真が飛び出してくるのです。

 先日新しい企画の相談にやって来た時よりはるかにバージョンアップした十亀さんのアイディアに脱帽しながら、バッグから持参した試作品を次々見せてもらい、夢を見ること、夢を形にすること、夢を経済にすることの大切さを大いに学びました。

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(私のパソコンを使って・・・・)

 十亀さんと初めて出会ったのはえひめ地域政策研究センターが主催した地域づくり人養成講座でした。その後は十亀さんから、PRするという口約束でいただいた電光掲示板を胸につけ全国行脚をしています。また人間牧場で開いた国土交通省主催の観光カリスマ塾の折、塾長を務めた私の等身大写真パネルを松本さんの仲立ちで作ってもらい、出会いは少ないもののいい影響を受けてきました。

 先日突然十亀さんから連絡メールが入り、急速に出会いが深まりつつあるようです。昨日は私の人型パネルの卓上サイズを作ってきてくれました。しかも手に持ったカバンが開く仕組みで、その中を開けると電光掲示板が出てくる仕替えですから驚きです。

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(バージョンアップした卓上人型パネル)

 私は十亀さんが作ってくれたこの卓上パネルを来週行く廣までの研修会に持参してお披露目することにしました。どんな風に講演内容に入れるかは成り行き任せですが、多分観衆の爆笑を誘うことでしょう。私にとっては十亀さんのお陰でまたまたバージョンアップすることなので、今からワクワク・ドキドキしています。

 十亀さんは私の飛び出す名刺も作ってきてくれました。私も「裏が味噌」なギノー味噌がスポンサーのこだわりPR名刺を配り続けていますが、人に好奇心を抱かせる名刺の実践者として、今後も大いに宣伝してあげたいと思っています。


  「この人は 奇人?変人? いや凡人 面白き人 世の中いるな」

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○民俗学者宮本常一の撮影した双海町の海岸線)

 私は由並小学校、双海中学校、松山工業高校と小・中・高3つの学校の学校評議員をしています。小・中・高は同じ学校ながらそれぞれ、取り組んでいることも抱える悩みも微妙に違って、とても参考になるのです。

 先日の夜由並小学校の学校評議員会に出かけました。私は下灘出身なのでこの学校の卒業生ではありませんが、4人の子どもはこの学校の卒業生だし、私もPTAの副会長を1年だけやったことがあるので、この学校も行く度に何処か懐かしい感じがするのです。

 1時間半ほどの協議が終り帰ろうとすると、居残って仕事をしていたいた中尾先生が、「民俗学者宮本常一のデータベースで双海町の古い写真を見つけた」と知らせてくれました。中尾先生はオーストリア・ウィーンの日本人学校に3年間勤務して昨年この学校に復職した先生で、私が教育長時代にも派遣社会教育主事として一緒に教育委員会で仕事をした親しい間柄なのです。

 双海町が合併する直前に改定双海町誌を中心になって編纂してくれた苦労も知っているので、何かと気心が知れていますし、二ヶ月に一度は史談会で一緒に歴史の勉強をしているのです。

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(上灘駅周辺)

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(唐崎周辺)

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(閏住菜の花畑周辺)

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(下灘駅周辺)

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(上浜青石海岸・下浜豊田漁港周辺)

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(喜多灘駅周辺・石久保海岸)

 自宅へ帰り自分の社お菜のパソコンを開き、早速宮本常一のデーターベースを検索しました。いやあ驚きました。昭和36年8月6日のデーター557号から双海町の海岸の様子が伺える写真が数枚記録されているのです。おそらく大洲方面へ向かう列車の窓から撮影したものと思われますが、その後海岸道路が国道に昇格し、整備が進んで海岸線が一変していることを思うと、これはまさに貴重な資料だと思うのです。宮本常一は海岸の道が国道になって整備されることなど夢にも思わずシャッターを切ったことでしょう。

 カメラの精度が悪く白黒の写真は鮮明ではありませんが、この列車に乗ってはるか水平線の彼方に自分の生まれ育った周防大島を見て、どんなことを思ったのでしょうか。願わくば近いうちにこの写真の定点に立って今の風景を撮影したいと思いました。


  「50年 前に列車で 海岸線 写真に撮って 記録に残す」

  「データ見て 時の流れを しみじみと 思いながらも 記憶辿りつ」

  「沖合いに 浮かぶ周防の 島々を どんな思いで 見たであろうか」

  「瀬戸の海 今も昔も 変わらねど 人の暮らしは 天と地ほどに」 

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○うたかたの夢の跡

 数日前岡山県倉敷市へ講演に出かけるため、瀬戸大橋を渡りました。本州四国連絡橋のひとつである瀬戸大橋は1988年(昭和63年4月)、1兆1300億円の巨費を投じ児島~坂出間9.4キロを結ぶ、鉄道併用橋として開通し、当時は国家の威信をかけた一大プロジェクト事業として脚光を浴び、全国から多くの観光客が押し寄せました。勿論私たちも珍しいもの見たさに何度かそのツアーに参加して、その威容に感心し目を見張ったものでした。あれから22年が矢のように過ぎ去り、瀬戸大橋は四国と本州を結ぶ大切な生活道として私たちの暮らしに役立っているのです。

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(瀬戸大橋記念公園)
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 瀬戸大橋を列車や車で通る度に少しだけ緊張したり、物珍しげに左右の景色や端の姿を眺め、あるいは写真に収めたりしていましたが、今ではすっかり馴れてしまい、時には列車の座席で眠ったまま知らず知らずに渡ってしまうことだってあるのです。

 大橋が開通した当時、車が混雑して入りにくいほど賑わった香川県坂出市の瀬戸大橋記念公園や、与島のフィッシャーマンズワーフは、端の上から見ると気の毒なくらい車の数が少なく、社会の流行のはかなを感じるのです。まさにテーマパークのうたかたの夢の跡といった感じです。

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 「橋は渡る道具にて見るものにあらず」とは私の名言ですが、巨額の投資をしながら人の来なくなった瀬戸大橋記念記念公園も、与島フィッシャーマンズワーフも今後は、海から吹きつける潮風と世間の厳しい批判の風に晒され続けるのでしょうが、特に瀬戸大橋記念公園には道の駅フェアーが開かれ何度か地元の特産品をを持って物販に参加したことがあるので、他人事とは思えない心境です。公園から真上に伸びる大橋の威容を見て感動した20年前が昨日のことのように蘇ってきました。記念講演の凋落に比べ、橋の袂の街は通る度に発展を続け、新しい街が誕生して賑わっているのですから世の中は分からないもです。


 シルバー色の大橋は瀬戸内海の穏やかな青にマッチしてすっかり溶け込んでいいますが、不滅と思っていた橋は鉄とコンクリートで出来ています。20年の時の流れでしょうか、少し赤茶けた錆のようなものを感じるようになってきました。もしもこの橋に錆止めのペンキを塗るとなると、どれほどの費用がかかるのだろうかと、要らぬ心配をしてしまいました。こんな心配をする人間は私くらいなものでしょうが、1兆円を越える建設費を通行料で回収することなど出来ないのに、新たなメンテナンス投資はこれまた大きな問題になるに違いないと、これまた要らぬ心配をしながら、早春の瀬戸大橋を往復しました。


  「もし橋に ペンキ塗ったら どのくらい 金がかかるか 頭が痛い」

  「うたかたの 夢の跡とも 思えたる 施設散閑 心が痛む」

  「二十年 前は私も 若かった みんなで橋を 口開け見たなあ」

  「三十五年 前にアメリカ 金門橋 下をくぐった 思い重ねて」

(与島パーキングエリア)

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○学校支援の研修会

 愛媛地域教育実践交流集会の事務局長を務める仙波さんから年末に電話が入り、松山市の窪田小学校で学校支援の研修会で講演をして欲しいと頼まれました。「50分ほどの短い時間で申し訳ない」と聞いていたような記憶があるので、まあ準備をせずとも何とかなるだろうと鷹を食って出かけました。窪田小学校へは翠小学校にいた山本教頭先生が在校中一度話しに行ったことがあるので、大まかな場所は分かっていましたが、講演依頼文書に学校の電話番号が記されていたのを思い出し、近くに行ってからその番号をカーナビに入力しました。文書をよく見ると、公演時間は14時40分から16時まで1時間20分もあるようになっていました。相変わらず私の早とちりとうろ覚えのせいで危うく講演時間を間違えるところでした。

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 校長室に案内され私の話し相手を頼まれた長島女史と雑談をしながら、先生の入れてくれたお茶を飲みながら雑談をしていると、仙波さんが時間ですと呼びに来られました。一階とも地下とも分からぬ階段を下りて、会場へ入りました。はてさて持参したカバンの中に入れているパワーポイントを使おうかどうか、直前になっても随分迷いましたが、話の時間を少しでも長く取ろうと思い、結局は使いませんでした。

 オープンスペースの素敵な会場に着くなり、会場にはあちらこちらちらほらと、知り人が沢山いて手を上げ顔で会釈し、また声を掛け合いました。知人友人がいる前では話しにくいと思いましたが、話しているうちにそのプレッシャーも消え、まあ何とか時間いっぱいお話をすることができました。

 講演が終わり再び校長室に案内されましたが、校長先生は書が達筆で来月行われる卒業式の卒業証書の名前を自らが全て書かれるそうで、既に書かれた60数枚の卒業証書は乾かすために床いっぱいに広げられていました。この学校も開校時は学年それぞれ4クラスあったそうですが、今は学年2クラスに減っていて、卒業予定者も60人余りのようでした。

 壁にかかった歴代校長先生の中には顔見知りの高須賀先生や菊池先生の写真もあって懐かしく思い出されました。この学校はオープンスペースの素晴らしい学校で、花壇コンクールでも市町賞を受賞するなどの特徴ある学校経営が行われているようでした。

 学校支援の輪も広がっていて、この日も多数の関係者が集まっていました。

 今朝メールを開くと、早速仙波さんから昨日のお礼のメールが入っていました。仙波さんの丁寧な対応に感心しながら私もショートなお礼のメールを返信しておきました。

  「学校の イメージ変わる 窪田小 オープンスペース 授業が見たい」

  「そこここに 知人友人 顔見知り プレッシャー消え 饒舌話す」

  「嬉しいね 何処へ行っても 温かく 迎えてくれる 心がありて」

  「裏が味噌 名刺差出し 大笑い 持参サンプル 味見までする」

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○21世紀えひめニューフロンティアグループ年次総会

 本当は1月に総会を開催するはずだった、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの年次総会が昨夜、メンバーの一人である今治に住む河上和夫さん宅で行われました。メンバーの都合で開催日が二転三転したため、私の行くはずだった講演日程も二転三転し、関係者に要らぬ苦労と迷惑をかけたことをお詫びしなければなりません。

 昭和54年に産声を上げたフロンティがグループも、無人島に挑む少年の集いや丸木舟瀬戸内海航海、空からふるさとを見る運動、竪穴式住居語り部シンポ、大野ヶ原モウーモウー塾などなど、細々ながらもう30年もボランティア活動を続けているのですが、昨年から最後のご奉公とばかりに「えひめ千本桜の森づくり」に取り組み、今年の総会はいつになく盛り上がった議論をしました。


 若かったメンバーたちもリタイア組が増え始め、今年の春にはメンバーの一人である団塊の世代の佐賀山誠さんが、目出度く38年間の県庁生活にピリオドを打ち退職するそうです。みんなが集まれば決まったように、若かった頃の活動を思い出しては話すのですが、年齢がそうするの、日々の暮らしがそうするのか、過去や今を語ることが多くなって未来の夢を語ることが少なくなったような気がするのです。

 その点私は彼らのようにやれ年金が多い少ないとか、体の調子が悪いとかいう話よりも、日々の活動の話が出来たり、明日の夢を語れるだけ幸せなような気がしました。まあ考えようでは彼らと五十歩百歩で、体力と気力の衰えは薄々感じていて、自分自身に多少の腹立たしさも感じているのです。健康的不調を訴える彼らを診るにつけ、体力保持のため日々精進しなければと、心を新たにしたところです。

 さてフロンティアグループでは、毎年一回世界遺産を巡る旅を行っています。今年は日程が取れず予定していた飛騨高山の合掌造りツアーを延期しました。折角だから雪に埋もれたライトアップも見たいため、そのツアーを来年に繰り越して今年はとりあえず近場岡山県の姫路城を、4月10日日帰りで行くことにしました。聞くところによると姫路城は平成の大修理が行われていて、その全容は見えないそうですが、それもまた意味のあることのようで、早速メンバーの河野正彦さんを責任者に選び準備に取り掛かることにしました。

 これまで石見銀山、広島原爆ドーム、安芸の宮島、熊野古道、遷都1300年の古都などを巡りましたが、飛騨高山や北海道知床、九州屋久島などが今後の候補として上がっていますが、皆さんの年齢のことを考えると急がなければならないようです。

 昨日は河上さんのお宅で毎年のことながら手づくりの美味しいご馳走をいただきました。河上さん宅は近所に二人の息子さんが住んでいて、5人のお孫さんがいます。少子化何処拭く風の賑やかな子どもたちのはしゃぐ姿を見て羨ましいと皆が思いました。一年ぶりに再会した子どもたちはそれぞれ元気に成長していて、小学三年生の子は私の顔を覚えてくれていました。

 また私たちのために一緒に無人島へ行ったことのある息子さん夫婦は、料理を運んだり雑談をしたりして今年も温かいもてなしをしてくれました。嬉しい限りです。私の家もこの4月から長男家族が帰って来て同居生活をする予定ですが、河上さんの家庭を見習いながら、幸せを噛みしめたいと思いました。

  「山中の 峠を越えて 今治へ 例年通り 今年も総会」

  「孫五人 襖や壁は 傷だらけ 勲章のよう ご主人苦笑」

  「孫五人 来客迎え 大はしゃぎ こんな家庭を 築きたいもの」

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○列車の車窓から見た夕日


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 旅先からの帰り道

 列車の車窓から綺麗な夕日を見た

 余りの見事さに読書の手を休め

 カバンからデジカメを取り出した


 列車は西に向かって走っているため

 私の心をもてあそぶ様に

 ビルや流れ行く電柱に遮られ

 中々シャッターチャンスが定まらない

 「よし今だ」と思ってシャッターを切るが

 ボケたり要らぬ物が写ってしまい

 何度かそんなへまをするうちに

 夕日は山の端に隠れてしまった

 デジカメで写した写真を再生しながら

 使えそうな写真を見つけようとボタンを押すも

 気に入った写真は見つからず

 仕方なく残照に照らされた自画像を写した


 ふとふるさと双海のことを思った

 今頃夕日のメッカシーサイド公園には

 綺麗な夕日が落ちて

 多くの人が夕日の美しさに見とれていることだろう

 同じ太陽なのにここでも綺麗な夕日が見える

 不思議と言えば不思議である

 「そうだ明日は双海の夕日を見よう」

 そう思いつつ山の端に沈む夕日を見送った

  「旅先で 綺麗な夕日 車窓見ゆ 思わずカメラ 取り出し写す」

  「わが心 見透かすように 邪魔をする 電柱ビルが 次々現れ」

  「この夕日 今頃海に 沈んでる 思い巡らせ 不思議を感ず」

  「デジカメで 残照照らす 自画像を 隣の席人 首をかしげて」


 

 

 

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○第18回倉敷女性まつりに招かれて

 昨日は倉敷市夫人協議会の招きで岡山県倉敷市倉敷芸文館へ出かけました。この3月には鹿児島まで新幹線が開通し、青森と鹿児島まで直通になるというのに、北海道と四国は取り残されたのか、わが家から倉敷へ行くのに半日もかかるのです。往復すればわが家から8時間もかかる少し長めの列車の旅でしたが、瀬戸大橋を渡ったり、立春という言葉どおり久しぶりに厳しい寒さも緩んだ、春を思わせるかすんだ好天の中を、特急潮風に乗ってリラックスしました。


 児島駅で降り、鈍行列車を乗り継いで茶屋町駅で下車しました。前回と同じく今回も教育委員会の岡野さんが駅まで出迎えてくれました。岡山~児島間にある高架茶屋町駅に降りるのは初めてでしたが、岡野さんの説明では茶屋町付近は岡山市のベットタウンとして発展して、理想的な人口ピラミッドを形成しているとのことでした。

 10分ほどで芸文舘に到着しました。玄関先では楽しいバザールが開かれていて、恵方巻き寿司なども売られていました。

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(講師控え室の楽屋に飾られた活花と美味しいお茶に気配りを感じました)

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(ステージ隅から眺めた開会式風景)

 私の出番の記念講演は13時30分からなので、用意していただいた出演者控え室でサンドウィッチやお茶ををいただいたり、入れ替わり立ち替わり出入りするお偉い人と名刺交換しながら、さて講演で何を話そうか思案しながら過ごしましたが、遠くで聞こえる開会式の模様などが気になって集中できず、まとまらぬままステージへ出ました。倉敷市の市長さんは女性の方で、東大とケンブリッジ大学を主席で卒業された凄い方だそうです。一度お目にかかりたいと思っていただけに、ステージ隅で名刺交換をさせてもらいラッキーでした。

 「市長さんは東大出だそうですが、私の町にも東大ならぬ灯台が二つもあって、私もある意味灯台出です。灘高という有名な学校がありますが、私も下灘小学校、下灘中学校を出ているので、灘校出身で市長さんには何ら負けていません」と洒落から入り、800人の参加者で満員の会場が大爆笑に包まれました。講演は会場の心をつかみ心を和ませることが大事なポイントで、昨日の講演はこの入りが大きな役割を果たし、テーマである「人生楽しく暮らそう」という内容はさて置いて、90分の話が上手く行ったような気がしました。最高に盛り上がりました。

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(夕日に照らされた特急しおかぜ乗車の私の自画像)
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(西条辺りで綺麗な夕日を見ました)

 皆さんの盛大な見送りを受け、教育委員会の若い職員さん二人の運転で児島駅まで送ってもらい、午後3時55分の下り特急しおかぜに乗ることが出来ました。夕闇迫る瀬戸大橋や石鎚連山と瀬戸内海の長閑な風景を見ながら帰って来ました。途中西条市辺りで車窓に綺麗な夕日を見ました。窓越しに差し込む夕日の光が私の安堵した顔を照らしてくれました。今治では週末のため県庁族が多数乗り込んできました。どの顔も疲れたり安堵しているように見えました。2~3人顔見知りもいて、「何処へ?」「何しに?」「元気?」と矢継ぎ早の質問にまるでオームのように、「岡山へ」「講演に」「元気です」と笑顔でショートな会話を交わしました。

  「会場に 800人の 女性たち 心ときめき 大いに喋る」

  「学歴に 対抗するは 学習歴 負けじとばかり 駄洒落連発」

  「耳肥えた 人とお見受け 女性たち 寝る人もなく 熱心でした」

  「立春の その名の通り 水ぬるむ 瀬戸の大橋 霞にかすむ」

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○1+1は2なのに


 1+1は2なのに

 1+1は2ではない

 人の力の不思議さよ

 私一人で作業する

 汗水たらして働けど

 一人の力はかどらぬ


 私一人で作業する

 智恵を出したるつもりでも

 一人の知恵は知れている

 仲間が一人増えただけ

 智恵と力は倍以上

 作業はかどり落着す

 

 1+1は2なのに

 3にも4にも増えてくる

 人の力の不思議さよ

 人の力と人の智恵

 足し算ばかりしていたが

 掛け算なるをあらため思う

 


  「足し算と ばかり思った 智恵・力 掛け算なるを あらため思う」

  「しみじみと 思う一人の 非力さよ 力借りれば 仕事はかどる」

  「嬉しいね 俺には仲間 多くいて 都度都度力 貸してくれたる」 

  

 

 

 

 

 

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○腐葉土作りのための落ち葉集め

 ぎっくり腰で体調が今一、年末から続いていた寒波で外気温が今一と、今年の冬はどういう訳か怠け心が働いて、約一ヶ月も作業が遅れていた、腐葉土作りの作業を友人赤石さんの力を借りて昨日やりました。午前9時に市役所地域事務所前で待ち合わせして、軽四トラックに熊手や手箕などの道具類を積み込み、人間牧場へ向かいました。昨日は風もなく気温も少し温かで、農作業には絶好のコンディションでした。久しぶりの人間牧場では陽気に誘われてかまど小屋近くに置いているミツバチの巣箱では、気の早いミツバチが何匹か飛び交っていました。


 昨日の作業は作ってから5年間ですっかり痛んでしまったベニヤの囲いを修復することと落ち葉を拾うことです。まず己登利建設の社長さんにお願いして貰った使い古しの幕板押さえ用鋼管を6本打ち込む作業から始めました。このところ殆ど雨の降っていない大地は堅く、打ち込んでも歯が立たないため作戦を変更してスコップで予備の穴を掘りました。腐りかけた幕板の根元のハコベ草を除けて土を掘る作業はかなり重労働です。1時間ほどで6つの穴を掘り終わり、家から持ってきた大きなハンマーで打ち込みました。そして分厚いコンパネ用のベニヤをサンドイッチのように真ん中へ挟み込んで行くのです。


 復旧工事が終わると囲い板の中の表土を集めて外へ掻き出しました。土の下からは去年の腐葉土が見えてきました。中からカブトムシの幼虫が沢山出てきました。九州育ちの赤石さんはカブトムシの幼虫を気持ちが悪いとためらっていましたが、そこは青少年活動の指導者なので、次々出てくるカブトムシの幼虫をいぶかしそうながらも拾い集め、毎年カブトムシを飼育するのに使っている漬物樽の腐葉土の中に埋め込みました。本当は腐葉土の中の幼虫を全て掘り出したかったのですが、容器が間に合わず50~60匹の幼虫を拾い集めるに留めました。今年の初夏までしっかりと管理をして、孫たちにプレゼントしてやりたいと思っています。

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(杭打ちと幕板立てが終り表土を掻き出しました)
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(腐葉土の中から出てきたカブトムシの幼虫)
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(トラックいっぱいに積んだ落ち葉)

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(落ち葉のベッドで遊び心の私)
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(赤石さんも大空に向かってヤッホーです)
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(落ち葉の踏み込み作業をする赤石さん)

 さあそれから落ち葉集めです。人間牧場へ通じる細い道を降りて行き、道沿いの吹き溜まりにある落ち葉を、ベニヤ板で囲った軽四トラックの荷台に拾い集めて積むのです。落ち葉には事欠きませんでしたが、二人でどんどん拾いどんどん拾いました。途中地元の人のトラックや郵便は辰の人が通る度に車を待避所に寄せてやり過ごし、30分ほどで荷台いっぱいの落ち葉を集めました。再び人間牧場へ戻って囲いの中へ落ち葉を移すのですが、毎年一人でやると一日かかる作業も、二人の力が加わると面白いようにはかどりました。赤石さんが踏み込んでくれた落ち葉の上に持参した米ぬかと油粕を満遍なく撒き散らしその上から発行を促進させるために水をかけました。これで作業は一段落です。来週には再び人間牧場へ行き落ち葉の上にビニールを被せ太陽の光を集めて腐葉させるのです。

 腐葉土も金で買えば造作もなく苗床は仕上がるのでしょうが、こうした地道な手づくりの活動こそが青少年活動であり、物語作りなのです。そのお陰で今年もカブトムシの養殖まで出来るのです。来月の初旬には落ち葉の上に土を被せて苗床を作り、サツマイモの種芋を植え込み小さなビニールハウスを造ります。

 やがて5月下旬には延びたサツマイモのつるを切り取り、耕した農場へ植えて実りの秋を迎えるのです。まるでエンドレステープのように延々と続く植物の命のリレーから、子どもたちは様々なことを学ぶことでしょう。今年の農作業事始も遅ればせながらやっと始まりました。手助けしてくれた赤石さんに感謝しながら二人で人間牧場を後にしました。

 

  「遅れてた 腐葉土作り するために 落ち葉集めの 農作業する」

  「手助けは 1+1は 2だけれど 3にも4にも 大き力に」

  「フカフカの 落ち葉のベッド ふざけ寝る 空の青さが 眩しく広がる」

  「腐葉土の 中から続々 カブトムシ 背中丸めて 寒そうでした」

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