shin-1さんの日記

○下灘の水仙畑NHKテレビで放映

 昨日の夕方テレビを見ていたら、NHKのローカルニュースで下灘の水仙畑が紹介されていました。既に亡くなっている金山泰盛さんというおじいいさんが存命中に、みかん畑を伐採した跡地に夫婦で水仙の球根を植え込み、その跡を継いだ長男の洋一さんが立派に守っているのです。

 私と泰盛じいさんは始めのころ絶妙な名コンビぶりで、私が新聞やテレビなどに顔が利くことをいいことに、花の季節になると必ずといっていいほどマスコミに取り上げてもらいました。また車道もない急峻な地形の山坂道は滑りやすいので、片側に鉄筋棒を打ち込みタフロープで手すりのようなものまで、毎年作りに行きました。

shin-1さんの日記

 泰盛じいさんは研究熱心で、水仙で有名な越前海岸から水仙の球根を取り寄せたり、水仙の出荷用に段ボール箱を作ったり、また当時は駐車場もないことから、地元に迷惑をかけないようにとかなり腐心をしていました。それでも毎年少しずつお互いが智恵を出し合い、コタツの中で泰盛さんと他愛のない水仙談義を楽しくしたものでした。今ではこの下灘水仙畑も愛媛県かではすっかり風物詩になって、厳寒のこの時期になると決まったように、マスコミが紹介してくれるのですから嬉しい限りです。この時期になると蛸壺漁で漁獲したタコをお礼にと、律儀にも届けてくれた泰盛さんの顔が懐かしく思い出されるのです。

shin-1さんの日記

 泰盛さんはお酒が好きで、酒を飲むと陽気になって色々な話をしてくれました。一番忘れられない言葉は「水仙」という文字についてでした。「水仙は分解すると水・人・山と書く。その字の通り水仙は北向きの水気の多い土地を好むようだ。わしは水仙人になる」などとおどけて見せました。

 この時期水仙を見に来るお客さんが絶えませんが、時々ハプニングもありました。ある時役場に勤める私の所へ松山~電話がかかってきました。「急な坂道で転んだ。どうしてくれる」と憤慨の電話です。役場の職員もこんな電話が入ると馴れたもので、殆どの苦情電話は私に回されるのです。

shin-1さんの日記

 電話に出た私も最初は平謝りが多かったのですが、時にはしつこいおばちゃんの食い下がりに心頭に来て、「水仙を見に来てくれと頼んだ訳でもないのに、転げたから保障しろとは何事か」と開き直りました。「あんたは役場職員のくせに横着だ。町長に代われ。あんたを辞めさせてやる」などと息巻かれました。居合わせ電話を変わった町長も私を援護して最後tなったこともしばしばでした。

 今もその急な坂道は、地元町会議員さんの熱心な請願でコンクリート舗装こそしたものの、相変わらず車は入らずのままです。でも車一辺倒の便利な世の中で、こんな不便さもまた一興です。急な山坂を登って振り向いた眼下に伊予灘の真っ青な海や豊田漁港、それに純白の水仙が風に揺れて、芳しくも清楚な姿を見せてくれるのですから、この上ない幸せです。

  「山坂を 登り振り向く 眼下には 伊予灘の海 港が見ゆる」

  「この頃に なると水仙 風物詩 テレビ新聞 タダで宣伝」

  「親の跡 継いだ息子が テレビにて 水仙語る 嬉しい話」

  「車では 行けない故に 意味がある こんな不便も 必要ですよ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○大寒の水

 冬の寒さが一番身体に堪える大寒の季節になると、朝顔を洗うのさえ水を使うのが億劫になります。でも主婦である妻は毎日朝・昼・晩と三食の炊事や後片付け、それに洗濯と、まあ水を使うことの多いこと、食器洗い機やハンドクリームが普及して昔のように手が荒れなくなったといいながら、それでも家族のためにマニュキアなどもせずせっせと働いてくれるのです。

 こんな日は早めに風呂を沸かしてと、勤めをしている妻のために最近は殊勝にも風呂を洗いガスボイラーのスイッチを入れてお湯を張る程度のお手伝いをしていますが、それとてもテレビに見入って忘れ、お湯をオーバーフローする事だってあるのです。一時が万事こんなことですが、妻は私をののしることもなく、笑顔で笑って毎日二人、多少のいさかいや喧嘩を私が一方的にするものの、まあ穏やかな老後を迎えているのです。


 1月20日から立春までを大寒というのでしょうが、、大寒に入り最近水が美味しいと感じています。冷蔵庫に入れなくても、蛇口から直接コップに汲み取って飲む水は最高で、外国のように水道水が飲めないことを思うと、日本に生まれて良かったとしみじみ思うのです。わが家ではこの頃を選んでお餅をつき、大寒の水に漬け込む習慣があります。昔は旧正月の餅つきは一族が集まり、大家族のために一俵以上の餅やかき餅を一日かけて賑やかについたものでした。


 つきあがった餅は2~3日すると大きな焼き物の瓶に入れられ、寒の水に漬け込まれ焼いたり煮たりしながら冬場の食料として沢山食べました。当時は粟やタカキビ、トウキビなどの雑穀餅が主で、白いもち米の餅などはそんなにありませんでしたが、母や祖母が火鉢の上で焼いてくれるかき餅やあられと共に子どもたちのささやかな楽しみでもありました。


 祖母から昔、「寒九の水」という話を聞いたような記憶があります。寒に入って9日目の水は薬になるからと、一升瓶に入れて保存していたのです。冷蔵庫もなかった昔のことだし、水のことゆえ腐りはしないかと心配しましたが、祖母の言うのには、この時期の水は雑菌や混ざり物が少ないので腐りにくいのだそうでした。今年は1月29日がその日なので、試しに「寒九の水」を汲み、飲んでみようと思っています。妻はそんなことを知ってか知らずでか手を赤くして、せっせと大寒の水で漬け込んだ水餅の水を2日に1回替えているようです。「お餅が焼けましたよ~」と台所から妻の呼ぶ声です。早速今朝は美味しい焼き餅を醤油と黄な粉にまぶして食べます。

  「大寒の 歯ぐき染み入る 水を飲む 何より馳走 喉を通りて」

  「大寒の 水に漬けたる 水変える 妻の手の甲 真っ赤になりて」

  「大寒の 水は薬と 逝きし祖母 言っていたこと 思い出しつつ」

  「蛇口水 飲める幸せ この国に 生まれたゆえの 幸せ感ず」

[ この記事をシェアする ]