shin-1さんの日記

○田舎は切り捨てられ見捨てられるものでもない

 毎日ブログを書きながら、暇つぶしではありませんが息抜きに、お気に入りとして登録している何人かのブログを何の承諾もなく読んでいます。その人たちのブログに時々自分のことが肯定的(自分ではそう思っています)に書かれていたりして赤面したりもしますが、まあ納得しつつ時にはコメントを書き込んで声なき声のデジタル交流を行っているところです。

 昨日の喜久家ブログ(浅野長武さん)に私のことが書かれていました。同時に別の記事を読んで納得した言葉があったので紹介します。


 田舎は切り捨てられる存在でもなければ、忘れ去られる存在でもない。

 住む人の心の持ちようで輝きを増す。


 この言葉は田舎に住む、田舎応援団を自認する私がよく講演などで使う言葉とよく似ています。過疎化、高齢化、少子化、産業不振の顕著な田舎では、限界集落や学校統廃合などマイナス的現実を悲観して不安を持って生きている人が沢山います。講演などでやって来る大学の先生や著名な都会暮らしをしている講師は、自分でやらないことを慰め的に話をして、最後に「やるのはあなたたちだ」と言って帰って行くのです。

 私も大学の先生や都会暮らしの著名な講師と同じように色々な話をしますが、浅学な私は理論をは話せないため論理を話しています。論理とは実践に裏打ちされた生き様言葉なので、参加者たちには田舎のおっちゃんの話としてすんなり受け入れられるようです。

 限界集落や学校統廃合などへの行政の無策ぶりには多少憤りを感じていますが、いくら憤りを声高に叫んでも何一つ解決しないことを、田舎に住む人はしっかりと認識して生きて行かなければならないのです。行政が切り捨てたり見放しても、人間がその土地に住んで希望を持って暮らしている限り、そこはユートピアなのです。

 今はどんな土地に住もうと汗さえ出せば、知恵さえ出せばユートピアは生まれるのです。一番困るのは人の過疎ではなく心の過疎です。隣近所が離れていても今はインターネットという優れもののお陰で、情報過疎は解消できるし、うまい空気、うまい水、うまい野菜や魚を食べ、仲間とともに暮らす幸せを、都会のゴミゴミした社会で暮らす人に、田舎の良さを見せびらかしてい生きて行くくらいの勇気がないとダメなのです。

 人はどうであれ、少なくとも私はそう生きているつもりです。ゆえに大きな輝きほどではありませんが、自分で納得した自分サイズの恒星として輝いて生きているのです。私がいつも言っている、「田舎嘆きの10ヶ条」を「田舎楽しみの10ヶ条」に変えて生きて欲しいと思うのです。

 20世紀に田舎に生まれ田舎に育ち、21世紀にもなお田舎に生きています。多分死ぬ時も田舎のままで田舎で死んで行くことでしょう。これは不幸せでなく大きな幸せだと、今日も輝いて生きて行きましょう

  「他の人の ブログを読みて なるほどと 納得しつつ コメント送る」

  「ブツブツと 田舎を嘆く 田舎人 田舎こんなに いいとこなのに」

  「水うまい 空気もうまい 人情も 野菜魚と とびきり贅沢」

  「この田舎 生まれ育ちて おらくは 死んで行くはず これも幸せ」 

 

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shin-1さんの日記

○大きな木も小さな細根によって支えられている

 人間牧場の水平線の家には、標高130メートルの眺望が楽しめるようにウッドデッキが設えています。このウッドデッキはある意味人間牧場の象徴的なもので、観音開きのように開く硝子戸を開けて外に出た訪問者は、一応に眼下に広がる瀬戸内海の眺望の素晴らしさに感嘆の声を上げるのです。硝子戸を開けると室内25畳の広さとと同じ広さのウッドデッキ25畳が、一体的な大広間になるよう設計された息子の知恵に、手前味噌ながら感心して使っているのです。


 人間牧場は母親が長年丹精込めたみかん畑でしたが、母の加齢と私の仕事が忙しいことを理由の不義理がたたって、10年近く放任園になっていました。自然とは偉いもので10年の間にみかんの木は完全に枯れ、そこに雑木や雑草が生えて、足の踏み込めないまるで密林のような姿になっていました。この地に人間牧場を作る構想を練り、自由人になったのを機に今から6年前の4月1日、たった一人で開墾に着手しました。長年肉体労働から遠ざかっていた私の体は最初、その労働の激しさに悲鳴を上げていましたが、その内体も慣れて何とか視界を確保できたのは一カ月も過ぎてからでした。


 雑草や棘は草刈り機で、大木はチェンソーで切り倒し、切り株の下にうずくまる根っこは鍬とマサカリで抜根しましたが、太ももほどある木々の根の広がりや細根の多さには驚いたものでした。そして開墾から学んだのは、「どんなに大きくて強いものでも、小さくて弱いものによって支えられている」という教えでした。私は田舎の役場という小さな組織で長年働いていました。公民館活動や夕日によるまちづくり、町名変更など明暗を分けた仕事は一匹狼のような形で孤軍奮闘してきたつもりでした。また公民館活動も夕日によるまちづくりも沢山の人に支えられて成し得たことを感じてはいましたが、孤軍奮闘の辛さや反対意見への抵抗もあって、ある意味孤軍奮闘の気持ちが上回っているようにも思えたのです。

 一人藪に分け入り開墾しながら、私というたった一人の人間の非力さを感じながら、また地中深く根を張った雑木の抜根をしながら、私や私のやった仕事を支えてくれていた多くの人の存在の多さや大きさに気がついたのです。その経験をしながら自分のこれからの生き方は私を支えてくれた地域への恩返しをしなければならないと固く心に誓ったものでした。

 そんな折、植えた訳でもないのにウッドデッキの両隅に一本ずつ杉の小さな木が芽吹きました。一本は通り道に当たるため来訪者に踏みつけられて最初は息も絶え絶えといったところでしたが、それでも杉の苗木は天に向かってぐんぐん伸び始めました。大きくなったら土台を揺るがすかも知れないと心配するものの、願わくば人間牧場の歴史としてシンボル的に育ててみたいと思う心が強くて、未だに成長を続けているのです。

 この木は実生苗なので人間牧場のどれかの杉の木が母樹となっているに違いありません。人間牧場内の全ての杉の木は母親が北西の季節風からみかんの木を守るために植えた防風垣の名残の木なので、いわば母親の分身みたいなような感じもするのです。

 私はこの2本の木に、相次いで生まれ育っている孫たちの名前をとって「朋樹」「希心」と名付けました。二本の木々は負けず劣らず元気に育っていて、最初に芽吹いた「朋樹」はもう見上げるほどの大きさに成長しているのです。いつか孫たちにこの木の来歴を話し、地中に根を張っているであろう細根の大切さを話してやろうと思っています。

  「大木も 地中細根 あればこそ 天に向かって ぐんぐん伸びる」

  「母植えし 防風垣が 母樹となり 芽吹いて育つ 杉の逞し」

  「杉の木に 負けず育てと 願いつつ 朋樹希心と 孫の名つける」

  「一年に ひとつ年輪 刻みつつ 育つ杉の木 背伸び競いて」

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