○道を踏み外すことのないように生きよう
私は35年間小さな田舎町双海町の役場に勤めてきました。役場に初出勤した日先輩上司から一冊の分厚い本を手渡されました。双海町の条例を綴った例規集でした。上司は分かったような口調で「この条例を頭に叩き込め」「役場はこの条例と法に則って仕事をするところだ」などと私を諭しました。しかし役場に入って間もない私には、お役所用語のオンパレードとでもいえる条例など、覚えるどころか読めば読むほど適当な解釈ができると思ったのです。というのは条例の最後あたりに、「町長が認めた場合はこの限りでない」と、町長さえ認めれば書ていることを覆すことだってできると思ったのでした。現に田舎の役場では条例の解釈が私の思った通り緩やかだったのです。ましてや私に条例の蘊蓄を傾けた上司は、条例など覚えているどころかまるで無視するような行動をしている時もありました。
私も管理職になってからは、議会の度に新しい条例案や改正案を作成して、議会に提案議決してもらったりしましたが、私は法というのは人間の都合のいいように作り直されるものだと思っています。例えば刑法で時効が決められていても、社会の変化に合わなくなったと判断されると時効が無くなったり、公職選挙法だって議員の都合のいい方法に変えられ、解釈だってそれぞれ勝手に解釈して法の目を逃れようとするのです。
法は国民の幸せのためにあると作る人は言います。法の番人たる公務員も法を守ることは国民の幸せのためだと言います。それは正しいことかもしれませんが、法を守るべき人が法の目をかいくぐる術を知っていてかいくぐるとしたら、法は作る人と守る人を守るためにあるような懐疑も成り立つのです。
私は遅ればせながら最近、自らが開いている私塾年輪塾で二宮尊徳翁夜話を学ぶ機会を得ました。清水塾頭からメールで送られてくる夜話解説を読みながら、百数十年の時を超えてなお尊徳の言ったことが陳腐化していないことに気がつきました。尊徳の言葉は道なのです。まさに道は不変不易なんです。
ある人が「法は時により中国の聖賢によっても変わる。わが国に移されればなおさらである。しかし道は、永遠の始めから生じたものである。徳の名に先だって、道は知られていた。人間の出現する前に宇宙は道を持っていた。人が消滅し、天地がたとえ無に帰した後でも、それは残り続ける。しかし法は、時代の必要にかなうように作られたものである。時と所が変わり、聖人の法も世に合わなくなると、道のもとをそこなう。」と言っています。
私のような凡人にはまだ道の何であるかは分かりませんが、学ぶことによって「自分の前に道はない。自分の後ろに道はできる」のだと信じて、道を踏み外すことのないようにしたいものです。
「法律や 条例などは 解釈で 変わるものだが 道は変えれず」
「尊徳を 学びて道を 意識する 踏みつけ道だが おぼろげながら」
「随分と 回り道した これまでを 振り返りつつ 道なき道を」
「これほどに 進んでいると 思う世も 百年前より 人は遅れて」