shin-1さんの日記

○今年も年賀状はパソコン対応

 今日は小雪ちらつくあいにくの天候で、外での仕事ができないことをよいことに、朝から書斎にこもって年賀状の印刷に追われています。先日松山の岡田印刷さんにメールで持ち込んだ、年賀状の印刷が校正を経て出来上がり、昨日宅配便で送られて来たので、その宛名を印字するのです。筆王というソフトを使って昨年打ち込んでいた住所氏名のデーターを呼び出し、亡くなった人の名前を消したり、新たにいただいた名刺を繰って追加したりと、少しだけ頭を使いましたが、住所氏名を印字するための修正がこれまた暇がかかる作業でした。

若松進一ブログ
(今年も年賀状600枚を仕上げました)

 数日前プリンターのインクカートリッジに不具合が生じ、どうしてもプリントアウトできなくなったため、友人の赤石さんに診てもらって、どうにかプリンターは動くようになりましたが、今もそのことが不安で、せめて年賀状の宛名プリントだけでも上手くできたらと願っています。

 私の元へは昨年も約1000枚の年賀状が舞い込みました。私が出した600枚をはるかに越える数字なので、400人の方には失礼ながら不義理をしているので、大意のないことをこの場を借りてお詫び申し上げます。

 在職中は届いた年賀状をチェックをして、遅ればせながらでも1月10日までには出していない全ての人に年賀状を出していましたが、今は退職をして自由な時間があるはずなのにやっていません。本当は一枚一枚昨年の年賀状を読み返して宛名や住所の調整をすればよいのでしょうが、それさえも年齢のせいにしてやらないのです。退職前に「仕事を辞めたら自由時間がたっぷりあるだろうから、その時は一枚一枚手書きで・・・」なんて思っていたことも、また「仕事柄の付き合いも役所を退職すれば終わるだろうからもっとコンパクトに少ない数にしよう」とか思ったことも、結局は元の木阿弥になってしまっているようです。

 今日はプリンターの調子もよく、私の名簿調整作業も順調だったので、ずっと重荷に感じていた年賀状作りも終りそうでホッと一息です。年末に私がやることと言えば年賀状書き、注連縄作り、家の窓拭きくらいですが、それでも私の年末3大行事の一つだけでも片付き、少し肩の荷が降りた感じがしています。

 やっと終わったと思い休憩をしていると、妻が「私の分もお願い」と手帳を持ってきました。年賀状もなくなりもう終りと思っていたのに、これから妻の分を入力しなければならなくなりました。妻は早速郵便局へ年賀状を買いに走ったようです。まあ肥後世話になっている妻の言うことも聞いておかねば・・・・。

  「一年に 一度年末 大仕事 年賀状書き 加えて二つ」

  「千枚も 来るのに四百 数減らし 六百枚で お茶を濁して」

  「退職を したら時間が あるはずと 六年経っても 時間は足りぬ」

  「便利だが 無機質年賀 どこか変 思いつ同じ 過ち犯す」

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shin-1さんの日記

○旧友新田優子さんから届いたクリスマスカード

 子どものころ、「明治は遠くなりにけり」なんて言葉を聞いて育った私ですが、いつの間にか平成生まれの子どもたちが沢山増えて、その人たちから言わせると、「昭和は遠くなりにけり」の感じがする今日このごろです。それでも終戦間近な昭和19年に生まれた私にとって、物のない時代とはいえ子どものころは復興や発展の足音が聞こえる、いい時代に少年や青年時代を過ごせて幸せだったようにも思えるのです。

 私たちの少年時代は田舎ゆえまだ旧正月の風習も残っていました。そんな時代でしたから、正月やお祭り、お節句などの賑やかさに比べ、クリスマスなんて行事は殆ど馴染みのないものだったように思うのです。

若松進一ブログ

 昨日はクリスマスイブでした。私の住んでいる田舎でさえ色とりどりのイルミネーションが飾られ、しかも個人の家さえも電飾を施しているのを見かけるようになり、無宗教ぶりな日本人の姿を肌で感じる今日この頃です。

 そんな昨日の昼ころ、郵便局員さんが一通の手紙を届けてくれました。真っ赤な封筒なので「えっ、何だろう?」と思い裏を見ると、神戸市須磨区に住む懐かしい旧友新田優子さんからでした。封を切ると中から綺麗なクリスマスカードが出てきました。添えた手紙には「毎日ブログを楽しく読ませていただいています」と書かれていました。そして「えひめ千本桜の森づくりプロジェクトに、神戸にいる私に協力することがありましたらお知らせ下さい」「16年前の地震の時には、全国の方々から温かい支援をいただき感謝しております」と書かれていました。

 新田優子さんとは、21世紀えひめニューフロンティアループ結成当時に知り合い、無人島へ行ったり丸木舟で瀬戸内海航海をしたり活動を一緒にした間柄なのです。その後嫁いで神戸に住んでいますが、あの頃は若かったフロンティアの仲間も禿や白髪が目立ち、定年を迎えるなどそれなりの年齢を迎えているのです。

 新田優子さんは当時幼稚園の保母をしていました。笑顔が素敵で知的な容姿はグループではマドンナ的存在で、みんなの憧れでもありました。あれから年月を重ねていて、失礼ですがどんなおばさんになっているのか、一度会って顔が見たくなりました。

 私は若いころから青年団活動やまちづくり活動に明け暮れ、多くの人にめぐり合い活動を共にしてきましたが、もう一度出会って旧交を温めたい人は何人もいますが、新田優子さんもその一人なのです。

 新田優子さんから届いたクリスマスカードを見ながら、私の近況をブログで読んでもらっている嬉しさと恥ずかしさが交錯しました。毎日人から見れば取るに足らないことを、いい加減に書いているに過ぎないからです。毎日千人近くの人が読んでくれているのだから、もっとましなことを書けばいいのでしょうが、浅学菲才な私には幾ら頑張っても書けないものは書けないと、自分自身で納得して書いているのです。

 今日は日本列島全体がまるで冷蔵庫の中に入っているような寒い日になり、西国四国も季節風が吹き荒れ初雪が舞っています。でも新田優子さんから届いたクリスマスカードを見ながら優子さんのことを思い出し、温かい気持ちになっています。


  「クリスマス カード届いて 世の中にゃ こんな俺でも 届ける人が」

  「初雪が ちらほら落ちる 寒い日に カード届いて 心ポカポカ」 

  「懐かしき 人の顔々 蘇る 若い時代に タイムスリップ」

  「あの頃は 俺も彼女も 若かった 私は爺 彼女熟年」 




 

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