shin-1さんの日記

○ダルマの夕日

 西条へ行った帰り、ブルーベリーの鉢植えに施す肥料である油粕を購入するため農材スーパーへ立ち寄ったり、あいにく不在の稲葉さんの自動車修理工場へ立ち寄ったりして、帰宅が夕暮れ時になりました。伊予市の裏道を通って帰る頃、車のフロントガラスの前にまぶしいほどの真っ赤に燃えた太陽が西に傾きつつありました。今もなお夕日に思いを寄せ続けている私は、こんな光景を見ると胸が高まり躍り始めるのです。

 「間に合うだろうか?」と多少不安になりながらも、多少車のスピードを上げ気味に三秋峠を上り下りし、やっとの思いで高野川まで帰って広場に車を止め、「間に合った」と思いつつ、急いで手持ちのデジカメを取り出し沈まんとする夕日をカメラに収めました。この日はかぜもなく穏やか、加えて秋の空気は澄んでいて、夕日の近くには大分の姫島や国東半島までもがこれまた印象的にシルエットを描いていました。

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 デジカメの調子が悪く、新しいのに取り替える時期が来たと少々悔やみましたが、それでも何とかダルマの夕日の天体ショーをカメラに収めることが出来ました。沈み始めて沈み終わるまでものの5分ほどは見る人それぞれで、長くも短くも感じるものですが、私にとってはまさに「秋のつるべ落としのダルマの夕日」をラッキーにも堪能することができました。これぞ日本一の夕日だと思いつつ、今日も天気がいいようなので、新しいカメラで狙ってみたいと思っています。

 夕やけが終わって、こやけの空も深い味わいがあり、いつまでも眺めていたい心境でした。この時期は昼間の温度が20度近くまで上がるものの、夜温は10度近くまで下がり、寒暖の差が大きいため、こやけになると急に様差を感じます。しばらくたたずんでこやけを見ていましたが、車の列に分け入り自宅を目指しました。

 自宅に戻りカメラのメモリーをパソコンに入れ再生しましたが、写真の腕は今一で、見たほどの感動夕日は、残念ながら写っていませんでした。


  「こりゃ駄目と 写った写真 落胆す 腕が悪いか? カメラ悪いか?」

  「夕日見りゃ 胸が高鳴り 興奮す これは病気だ 夕日病かも」

  「一年に 何度も見れぬ ダルマゆえ もっと綺麗に 腕を磨いて」

  「そろそろと お払い箱に しなくっちゃ 思いつカメラ 使い慣れして」

 

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○石鎚山を望む吉岡公民館へお邪魔しました

 昨日のような天気を秋晴れというのでしょうか、雲ひとつない青空で風もなく日中は小春日和りといってもいいほど穏やかでした。そんな陽気に誘われたからではなく、西条市吉岡公民館から講演の依頼があって、時間もあるのでのんびりゆっくり地道を走り、桜三里の峠を越えて西条入りしました。西条とっても旧丹原は桜三里の峠を越えれば「西条」という看板が程なく見えてくるほど東温市に隣接しているのです。吉岡は旧東予市で丹原寄りなのです。

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 旧丹原の産業道路周辺には深まる秋を象徴するように柿の木畑が何処までも続き、色づき始めた柿の実が秋を演出しているようでした。私の記憶はあいまいで、2007年9月26日にの同じ時間に訪問しているのに、最初は「はてさて?」と公民館の場所をカーナビに教えてもらいました。それでもサスガに近くまで行くと、吉岡小学校など近所の原風景を思い出し、迷うことなく一発で30分前に到着しました。館長室で館長さんと色々な話をして時間通りに集会は始まりました。

 手を上げてもらったところ、私の名前と顔を覚えてくれている人が多数いて、即座に話の中身を替えようと思いました。しかし再度「私が話したことを覚えている人」と手を上げてもらったところ、手を上げたのは2人でしたから、少し安心して話を始めました。確かに私が吉岡公民館の場所をあいまいに記憶していたように、参加した人たちが私の話を覚えていることはまずないのです。ましてや講演で話した私さえここで何を話したか思い出せないのです。でも一番前に座って、熱心にメモを取りながら聞いてくれた女性の顔は、今もはっきり覚えているのです。

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 講演は賑やかな笑い声に包まれ無事に終わりました。公民舘の入り口に飾られた綺麗な菊の匂いと館長さんたちの見送りを受け公民館を後にしましたが、畑中の道からは石鎚山系の山々が綺麗に見えて、思わず車を道端に止め、大きな深呼吸をして写真に山並みを収めました。時折西条の高橋さんから届くメール添付の写真や、今年の夏人間牧場の子どもたちを連れてあの山に登ったことなどを思い出しました。多分石鎚山のふもとは紅葉真っ盛りでしょうが、秋の石鎚山も訪ねてみたいと、これまた何年か前に妻や妻の友人たちを案内して紅葉を見に行った時のことが蘇ってきました。今日もかくてありなん、いい一日でした。


  「三年も 前の話を 覚えてる? 人はいないと 鷹を食ったが」

  「菊薫る 文化の秋や 公民館 人生大学 話頼まれ」

  「あの山に 今年の夏は 登ったと 記憶戻りて 紅葉を思う」

  「ああ綺麗 山に向かって 深呼吸 これで一日 長生きするかも」

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○公民館まつりに集う懐かしい顔々

 昨日は大洲で開かれるイベントに誘われて行く途中、下灘コミュニティセンター前の広場を中心に開かれていた下灘地区公民館まつりに立ち寄りました。10時過ぎだというのに臨時駐車場となった運動講演グラウンドは車がいっぱいで、沢山の人が集まっていました。今年は前日に北西の季節風が吹いて大荒れだったため、お目当ての魚の即売がなにので、少々寂しく感じましたが、それでも仮設テントの下にはそれぞれの集落から持ち寄った産品が並べられ、賑やかでした。

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 顔見知りの人たちが殆どですが、退職してから疎遠になっている人たちばかりなので、そこそこで安否を気遣う立ち話が多くて先へ進めませんでした。ある人は「久しぶりに顔を見ましたがお元気そうで何よりです」という人もいれば、「体調を崩していたそうですがその後如何ですか」と気遣いの言葉をかけてくれる人もいました。また酷い人は「あんたガンだったそうじゃが、治ったんかい」と辛らつな言葉をいう人もいました。まあその人たちは朝からテントの下の机に座り缶ビールを飲んでいる人たちで、酔った気分、面白半分の冗談話なのです。

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 パットライスのテントでは、米湊大番頭や松本小番頭、それに浜田塾生も遠方から駆けつけお手伝いをしていました。毎回ながら会場を盛り上げようとする彼らのボランティア精神には感心するばかりです。時折「ドーン」と音を立てて爆発させて作るパットライスを容器に入れて砂糖湯で味付けして頭上で振る浜田さんの芸当もすっかりイベントの名物になっているようでした。かつて文化祭と呼んでいた時代に下灘小学校を会場として、主催者の一人として難儀をしたり、私の発案で初めて水族館を作って話題となったことが懐かしく思い出されました。
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 本村の持ちつき会場には餅を買い求める長い行列が出来ていました。餅をつく人、餅を丸める人、殆どの人が、かつて本村成人大学で学んだ懐かしい人たちです。会話を交わしながら過ぎ越し当時のことを思い出しました。あの顔もこの顔もみんな私と同じくそれぞれに歳をとりましたが、みんな元気で頑張っているようです。「お餅をおひとつどうぞ」といただいて食べましたが、みんなの心のこもったあんこ餅は格別の味がしてとても美味しかったです。


   「本人を 前にあんたは ガンじゃとなあ 当の本人 近眼(ガン)ですらい」

   「イベントの ある度助っ人 してくれる 友は遠方 手弁当にて」

   「お互いに 歳をとったと 自慢する 頭は白く なったり禿げて」

   「イベントは 人を元気に する道具 秋空高く 笑い声聞く」 

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○家族で秋を楽しむ

 数日前、妻が友人から大洲の肱川川原で行われる予定の、イベントの話を聞きつけてきました。「何でも渡し舟に乗れたり、カヌーにも体験乗船できるそうよ」と、娘と息子嫁に話したところ、「面白そうだから子どもたちに体験させてやろう」という話がまとまりました。ついては「男手が欲しいのでおじいちゃんのあなたも是非参加を」と、私の日程表に勝手に書き込まれコントロールされてしまったのです。

 昨日は、「体育の日と文化の日は天気が良い」というジンクスどおり、絶好の秋晴れとなりました。娘たちは松山インターから高速道路、息子嫁たちは伊予インターから高速道路、私たち夫婦は地道をと、それぞれの方法で大洲の愛たい菜を集合場所に、12時を目安として集まりました。わが家の秋祭りに集合して以来の終結でしたが、孫たち4人もそれぞれ大洲地方の寒さ対策をして、元気な顔を見せてくれました。

 早速近くのレストランで私たち夫婦2人、娘家族4人、息子嫁家族3人の合わせて9人の大家族で賑やかな食事会となりました。息子は仕事で参加できませんでしたが娘婿も加わり、妻の財布を当てにしてそれぞれが食べたいものを注文して、久しぶりにおご馳走を食べました。食事が終わってお店を出ようとすると、いきなり大洲地方の地方祭のため郷土芸能五鹿踊りの門付けがあって、みんなで見学できる幸運に恵まれました。

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 私も、勿論孫たちもこんなに近くで五鹿踊りを見たのは初めてで、短い時間ながら、私たちの地方にはない郷土芸能なので、あっけに取られて見とれていました。鹿の被り物をして太鼓を打ち鳴らして踊った後、踊り子さんたちが気軽に声を掛けてくれ、お店の外に出てみんなで記念写真まで撮りました。10月の初旬松山地方から始まった秋祭りも、11月上旬の大洲地方の秋祭りでいよいよ幕を閉じそうです。

 さて孫たちのお目当ては河川敷で行われているイベントです。大小40余りのテント村が出現していて、大勢の人が集まっていました。ソフトクリームを食べたり、くじを引いて商品を貰ったり、孫たちにとっても露天屋台はまるでおもちゃ箱のようで右往左往していました。テントの向こうには青く澄んだ秋晴れの空に四層櫓の大洲城が堂々と聳え、絵になる光景を背景に舞台では藤縄神楽が奉納されていました。

 その足で川原に下りて、いよいよお目当てのカヌー体験です。会場テントには国立大洲青少年交流の家の新山所長さんや職員が総出でお世話していました。日ごろから顔見知りの職員さんばかりなので、受付を済ませて早速ライフジャケットをつけ、オール片手に順番を待ちました。新山sy長さんの話によるとこの日は500人以上の試乗者がいて朝から大変な賑わいだったそうです。

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 私と小学2年生の朋樹と3歳の尚樹は3人乗り、娘と3歳の希心は2人乗りのカヌーにそれぞれ乗せてもらいました。最初は怖がっていた朋樹も尚樹も馴れるにしたがって嬉しくなり、楽しそうに漕いでいました。尚樹は私の櫂を奪い夢中になり、思わずカヌーに尻餅をついて濡れても平気でキャーキャーいっていました。娘婿は対岸から望遠レンズのカメラで私たちの行方をカメラが趣味らしく撮らえていて、早速帰宅してみるとその様子をリアルにメールで送ってくれました。

  「秋深き 河川川原で カヌー乗る 孫は嬉しく オールをかいて」

  「五鹿の 踊り繰り出す 秋祭り 意外や意外 目の当たりする」

  「秋空に 四層櫓 堂々と 藤縄神楽 囃子に合わせ」

  「孫たちと 秋の大洲路 訪ねけり 束の間暇を 両手握りて」

 

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○新聞記事のスクラップ

 わが家はずっと地元紙えひめ新聞を購読しています。地元紙は多少物足らず読売や朝日を読みたい気もするのですが、地元紙えひめ新聞には長年まちづくりでお世話になっているだけに、どうしても止めるに止められないのです。新聞は休刊日を覗けば殆ど毎朝几帳面に牛乳と共に届きます。これからの寒い季節の早朝に届けてくれる人のことを思うと、購読料を払っているとはいいながら、ついつい頭が下がるのです。

 新聞に地元のことが載るとこれもやはり長年の癖でしょうか、詠み終わるとはさみを入れてスクラップし、書棚の奥の置き場所に投げ入れるのですが、これが欠航沢山たまり何とか片付けたいと思いつつそのままになって美観を損ねているのです。

 2~3日前、島根県隠岐の島へ講演旅行に出かけ家を留守にしました。妻は例によって私の読んでいない2~3日分の新聞をまとめて私の座る台所の椅子に置いてくれているのです。早速目を通しましたが、11月1日付けの新聞の1面に、「加戸県政12年・第2部課題への処方・[]4」という記事に一枚の写真が載っていました。見覚えのある風景だと思いながら、写真のキャプション「提案型パートナーシップ推進事業でNPO法人などが県に事業PRした公開プレゼンテーション=6月、松山市」を読んで、写真の中ほどに座っているのは私のようなのです。私は公開プレゼンテーションの審査員長になっていたのです。それぞれのNPOが与えられた時間内でプレゼンテーションし、私たち審査員の質問に答えてもらい優先順位を決めて、知事に答申するのです。

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 第一線を退き、新聞や雑誌に登場するのは無縁の世界だと思っていますが、未だに新聞や雑誌に時々登場しています。最近は時々の証としてスクラップした記事をスキャナーで取り込んで、こうしてブログに掲載すれば記録と記憶が出来るものと思い、つとめているのです。

 昨日の新聞に、双海中学の記事が載っていました。都道府県バレー出場本件中学女子12選手が双海中体育館で佐伯美香さんの指導を受けたというのです。佐伯美香さんといえばビーチバレーで過去3回オリンピックに出場した人なのですが、詳しいことは分からないものの、これも新聞記事の記録としてスキャナーで取り込み保存することにしました。

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  「新聞の スクラップ記事 スキャンする 記録残すは 大事な仕事」

  「新聞の 一面写真 よく見れば 自分写りて 恥ずかしながら」

  「私など 写っていても 気付かない 知り人メール 新聞見たよ」

  「秋日和 まとめて新聞 読む余裕 ニュースにやっと 追いつきました」

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○人間牧場に深い秋の訪れ

 このところ忙しくて、人間牧場の存在すらすっかり忘れるほど疎遠になっていたので、昨日は久しぶりに午前中出かけて行きました。というのも先日、人間牧場の農場下に畑を持つ92歳のおばちゃんから、栗の実が畑一面に落ちて、草も引けないようになっている」と電話があったのです。このおばちゃんはかつて私が公民館に勤めていたころ、婦人会長をしていたごく親しい人なので笑って話されましたが、これは一大事と丁度芋畑でサツマイモを掘る日に、参加した皆さんにお願いして、栗のイガをキャリー2杯も拾い集めていたのです。

 その後2週間が過ぎ、残った栗のイガが落ちてはいないかと心配もあったのです。人間牧場の農場の一番下の畑に大きな栗の木があります。野生の山栗なので小さな栗が沢山なりますが、その殆どは毬栗だけでこれまで拾う手間も収穫したこともなく、イノシシの餌になっていました。この木の毬栗は秋の訪れとともに越境して隣のおばさんの畑にも当たりかまわず落ちるのです。

 早速大きな栗の木の下まで降りてみると、電話をかけてくれたおばちゃんが草引きをしていました。気楽に声を掛け、近くに住む叔母から持参した野菜のお礼にいただいたかき餅を差し上げて、毬栗が迷惑をかけたお詫びをしたり、世間話をしながら農作業について色々と教えを請いました。今の農村集落は子どもの声も聞こえず、高齢者も多いのですが家と家が離れているため、殆ど人に逢うこともなく過ごさなければならず、毎日が寂しいと漏らしていました。またイノシシやカラス、ハクビシンなどの有害鳥獣の出没被害に頭を悩ませており、秋だというのにサツマイモさえも食べれないと嘆いていました。「寄る年波ゆえこれから何年生きるか分からないけど、死んでも死に切れない」と寂しく笑って話していました。

 さて、この栗の木も紅葉が始まっていて、間もなく葉っぱが黄色く色づき、やがて昨日のような強い北西の季節風で葉を落とすことでしょうが、今は何の役にも断たず迷惑ばかりをかけているこの栗の木を、最初は切り倒そうと思っていました。

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 この様子をブログに書いたところ、愛読者のミツバチ師匠である井上登さんから接木をするのなら手伝うと嬉しい連絡をいただきました。「捨てる神あれば拾う神有り」とばかりに早速来年春の接木を依頼しました。多分「桃栗3年」ですから、上手く行けば3年後には栗の実の収穫が出来るかも知れないと淡い期待を抱いているのですが、「獲らぬ狸」ならぬ「拾わぬ毬栗」になる可能性もあるのです。でも再生可能な何がしかを信じるのも悪いことではありません。12月の中旬井上師匠が人間牧場へやって来る予定なので、現地をしっかり見てもらいたいと思っています。

 人間牧場にもいつの間にか深い秋が訪れ、大きなススキの株が満開で強い風にあおられてなびいていました。また人間牧場の入り口付近には隣の人が植えたアマリリスが真っ赤なラッパ状の大輪を咲かせていました。見る人もなく山里にひっそりと咲くススキやアマリリスの花を、愛おしくなって写真に収め一人楽しみました。

 

  「行く秋を 惜しむが如く 咲くススキ 愛おしくなり カメラに収め」

  「この時期に 咲くさえ知らぬ アマリリス 野辺花なりて 一際優雅」

  「栗の木の 下に座りて 話し込む 老婆の顔に 生きた証が」

  「歌ならば 大きな栗の 木の下で 毬栗落ちて 歌は歌えぬ」

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○物を売らないことが物を売るコツ

 今年も県内のあちこちで秋のイベントが目白押しのようです。今ではイベントという言葉もすっかり定着し、隣がやるからうちもやるという感じで、「何のために」という目的が随分薄れているようなイベントもあるようです。イベントといえばうどんやお寿司の類から野菜や魚、加工特産品などがテントの下に並べられて、素人の売り子が声を張り上げ、「いらっしゃいませ」「○○は如何ですか」と言い寄るのです。特に産業文化祭りのように隣の町と同じような物を競合して売る場合は余程注意をして売らないと、他所の町に客を奪われ、折角持っていった商品を再び車に積んでしずんだ心で帰らなければならないので、注意が必要です。


 私も長らく担当者としてそんな場所で物を売りましたが、私がやっていた頃は絶対となりには負けまいと知恵を絞った結果、70市町村の中でも常に10本の指に入るほどの売り上げを記録して、隣に双海町のテントが来るのをいぶかしく思う人もいたほどでした。そんな折、他市町村の人から「どんなにしたらよく売れるのか教えて欲しい」と質問をされたことがあります。質問をしなくても私たちのやっていることを見れば一目瞭然なのですが、そのことは研究しようともせず、口先の客引き方法を聞きたがるのです。私がいつも答えた言葉は「物を売らずに物を売ること」でした。この言葉を聞いた人は「よう分からん」と怪訝そうな顔をするのです。


 賢明な私のブログの読者は直ぐにその意味が分かると思うのです。つまりどうしたらお客さんが集まるかを考えればいいのです。お祭りのように人通りの多い場所では群集心理が働いて、人だかりが出来ると「何だろう」と直ぐに人が集まります。つまり物を売るコツの第一はまず人だかりを作ることです。そのために目玉商品や、味見、匂い、看板なども重要ですが、集まった人の心をつかむ話術が必要です。お客さんは来いといったら身を引きますが、ここに入らないようにといったら入りたがる真理を持っているのです。まあ特産品売りは知恵比べですから、知恵のある人が結局は沢山売るのです。


 自分のテントの前に幾ら立派な看板やポスターを貼っても来ない人には分かりません。ある時踏みつけるポスターを思いつきました。地面足元に観光ポスターを惜しげもなくあちらこちらに貼って矢印をつけました。次の年には真似する所ができて、美観を損ねると中止になりました。そこで考えたのがサンドイッチマンです。看板と作り物を被って一日中会場を歩き客引きをするのです。これは随分話題になりましたが、私以外の人は恥ずかしいとやりませんでした。恥ずかしいと思えば物は売れません。どうしたら物が売れるか考えればこの方法は最上の策だったと今も懐かしく思い出すのです。

 「物を売らないことが物を売るコツ」を地で行くのが、隣のものを売ってあげることです。普通隣は商売敵なので、どちらかというと疎遠になったり悪口を言うものです。敵対関係からは何の効果も生まれません。共存共栄なのです。さあ今年はどれほどの売り上げをどれほどの人で、何を売りたいのでしょう。しっかりと目標を定めてふるさとのため、みんなのために頑張りましょう。

  「どうしたら 物が売れるか 教えてと 聞きに来るから 売らないことと」

  「人だかり できれば物は 売れて行く まずは群がり 作ることです」

  「商売は なんぼ売ったか 大事だが なんぼ儲けた もっと大事だ」

  「素人の 私に分かる コツだから 玄人もっと 知ってるはずだ」

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shin-1さんの日記

○「ぼちぼち生きる」か「頑張って生きるか」あなたは・・・・

 毎日色々な人に出会い、色々な言葉を交わします。私のような年齢になると心を許せるような人には返ってきた言葉に、平気でいちゃもんをつけることだってあるのです。昨日も立ち寄ったある町内の小さな職場で、「どうですか?」と声を掛けると、「ぼちぼちです」という返事が返ってきました。すかさず私はその若者に、「人に『どうですか?』と尋ねられたら、『ぼちぼちです』という返事は止めた方がいい。だって聞いた私は、「ああこの人はぼちぼちしか仕事をしていないのか」と思ってしまうからね」とやり返しました。

 その若者は、「すみません。ついつい癖で・・・」と頭をかきながら、「次から気をつけます」と笑顔で応えてくれました。それにしても「ぼちぼちです」も気になりますが、「ついつい癖で・・・」はさらに気になる言葉だったものの、これ以上言うと相手を傷つけてしまうので、ぐっと堪えてその職場を後にしました。

 都会の好況とは裏腹に田舎は不景気で、周りには閉塞感が漂っています。年末も近いというのに給料もボーナスも下がりっぱなしでは、「ついつい癖で・・・・」というのも無理からぬことなのです。

 でも、「どうですか?」と同じような言葉をもし人から私にかけられたら、私は「元気です」とか「頑張っています」と応えるでしょう。「ぼちぼちです」と「頑張ってます」という二つの短い言葉ですが、相手に与える印象は随分違うと思うのです。そしてその言葉は相手に与える印象だけではなく、実はもう一つの大切な意味を含んでいることに気がつかなければなりません。それは「頑張っています」という言葉一つで、自分自身の心の内面に潜むネガティブな閉塞感を打ち破って、ポジティブに生きようとする生き方のようなものを誘発できるからなのです。

 自分一人が幾ら頑張っても、この不景気な世の中を変えることは出来ません。だからといって自分が出来ないことを社会のせいにしてしまうと、益々社会の閉塞感に押しつぶされてしまうのです。私は役場の職員だった時、大きなプロジェクト事業を任されました。それは田舎の職員には荷の重過ぎる仕事でした。反対や失敗の渦中の中から成功を勝ち得ることは、火中の栗を拾うようなものでした。でも諦めず一つ一つマイナス要因を塗りつぶしてプラスに書き換えたお陰で、その事業は大きな成果を得ることが出来たのです。

 環境を変えることは出来ないと思っていましたが、環境に立ち向かえば環境をも変えることが出来たのです。それは心の持ちよう次第で、その全てではなくてもある部分は変わるという大きな自信を生んで、次に繋がる足がかりを作りました。よく「こんな僻地に観光客なんか来るものか」と、来ない理由を「不便さ」のせいにしている人をよく見かけます。また私の町の状態を見て「あれは松山に近いから人が来る」と「条件のよさ」を羨ましがるのです。今は55万人が訪れる私の町だって、観光客ゼロから始めたのですから、やれば出来るのです。

 人間は自分というもう一人の自分と向かい合って生きる動物です。つまりもう一人の自分が「ぼちぼちです」と思うのか、「頑張ってます」と思うのかは、一日くらいはそんなに違いませんが、一ヶ月、一年も経つと偉い違いになってくるのです。同じ文字のように見える「偉い」と「違い」はそんな意味を私たちに教えてくれているようです。今からでも遅くはありません。「逢う」と「遅い」もよく似た文字、ポジティブに生きる人に逢い、いい感化を受けてもう一人の自分を強くしましょう。


  「元気かい? 返った言葉は ぼちぼちか これでは前へ 進めないかも」

  「世の中は 変わらないけど 自分なら 変えれるのだと 自信を持って」

  「一歩でも 二歩でも前へ 少しずつ さすればきっと 成果現る」

  「ネガティブな 人に逢うのか ポジティブな 人に逢うかは 運命変わる」

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○島根県隠岐の島・西ノ島町⑥

 角市さんに予約してもらっていた宿泊施設国賀荘は確か2回目で、しかも2回とも同じ部屋でした。部屋からは湾内が一望でき、ぐっすり寝たため旅の疲れもすっきり取れて快適な目覚めでした。この日で10月も終わりかと思うと、いい日に来れて幸せでした。薄暗い外に出てそこら辺を散歩して予定していた7時から広間で朝食をいただきました。クロメ、ノリ、ワカメなどの海草に加え、アジの一夜干をその場で焼いて食べれる朝食を堪能しました。

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 この日は移動日とあって大した用事もなく、本来は3時過ぎの船で帰る予定でしたが、急遽10時20分発のフェリーしらしまで境港を目指すことにしました。全や相談がまとまった角市さんの娘さんの案内で焼火神社に出かけることにしました。焼火と書いて「たくひ」と読むのだそうです。伝説の島だけあって由緒のある神社らしく、8時前に国賀荘に迎えに来てもらい、中腹まで山道を走り、そこからさらに急峻な山道を二人で約400メートル登りました。山道には無数の椎の実が落ちていて、お年寄りが一人座り込んで椎の実を拾っていました。椎の実といえば昔は貴重品でしたが、今は落ちるに任せているようです。私も2~3粒拾って口にしましたが、懐かしい味に昔を思い出しました。途中まで行って見返ると湾内が一望できて絶景でした。

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(見返り坂からの素晴らしい眺望)

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(3日抱えもあるような立派な杉の大木)
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(社殿の前で、案内役の角市さん)

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(まるで投げ入れ堂を思わせるような洞窟を利用した本殿)

 程なく無人ながら立派な社務所に着きました。祭礼出しか活用されないようですが勿体ない感じがしました。やがて社殿に到着しました。社殿の奥には岩穴を利用した見事な本殿があり、その周囲には3抱えもあるような杉の大木が空に向かって真っ直ぐに立っていました。

 角市さんの娘さんは若いのにお父さんの影響でしょうか、かなり詳しくガイドをしてくれました。登山と下山で1時間ほどの時間でしたが、日ごろの仕事の話や、色々なことへのアドバイスを求められ、楽しい登山となりました。この日は寒かったら、スーツが汚れたらとズボンや上着を用意してもらいましたが、泥棒草の洗礼を受けた程度で済みました。


 帰りに多治見市から移り住んで陶芸業を営んでいる焼火窯を訪ねました。角市さんとここで合流しましたが、ご主人も奥さんも気さくな方で、色々とお話をしたり見学をさせてもらい、お茶をご馳走になりました。焼火窯で焼いたぐい呑を失礼ながら言い訳程度に2個買わせていただきました。

 窯元さんは自分の焼いた焼き物を海に沈めてフジツボをつけるという奇抜なアイデアを実践していました。私も色々な陶芸家に会いましたが、この技法は初めてでした。フジツボをつけると、まるで沈没船から引き上げたようで、面白いと感心しました。

 船着場で山椒の実の入った不思議なソフトクリームをご馳走になり、角市さん親子に見送られしらしまに乗り込み西ノ島に別れを告げました。

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(講演会の会場となった中央公民館)

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(前回妻と二人で泊まった海辺のホテル)

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(車が混んでいた紅葉の米子路)

 この日も海は大荒れでした。船員さんに聞けばこれが仏だと聞いてびっくりしました。午後2時40分、船は境港へ到着、折から振り出した大雨の中を車を置いていた七類港までタクシーで引き返し、紅葉染まる米子から高速を走って瀬戸大橋を渡り44時間ぶりに無事ふるさとへ帰ってきました。

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○隠岐の島・西ノ島町・出会い深まる⑤

 西ノ島町での講演が終わり、角市さんと私は夕闇迫る牧場へ出かけました。国賀海岸を一望できる頂上からの眺めは素晴らしく、何度見ても飽きない風景に思わずため息が漏れるほどでした。人の気配のない頂上では放牧された牛たちが行儀よく並んで歩いていました。多分塒へ帰るところだったのでしょう。

 角市さんの箱バンの車は4WDで、牧畑のために作ったであろう段々畑を等高線に沿って気持ちよく走りました。台風の影響で眼下に見える海は少し荒れ、空も鉛色の雲に覆われ風は強く吹いていましたが、対岸の島々がシルエットとなって印象的でした。

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(列をなす牛の帰宅風景)

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(国賀海岸の遠望)
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(卯天の背中に乗って遊ぶカラス)
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(牧場にて記念写真)

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(平気で近寄ってくる馬たち、友だちと思っているのかな)
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(絵になる馬のいる風景)
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(牧場へいつも通っている角市さんを馬たちは顔見知りのようでした)

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(私も記念写真を撮りました)
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(牧畑の故事来歴看板)

 牛や馬を放牧しているため草はまるで芝刈り機で刈った後のように綺麗で、向うの丘の上には馬が数頭のんびりと草を食んでいました。角市さんは最近牧場に自生する山椒の実を収穫して「鬼の涙」という商品を開発しているようです。山椒が何で鬼なのか聞いたことはありませんが、察するに山椒の木は沢山コブが出ていて、擂り粉木に使われますが、それが鬼の金棒に似ているようだからかも知れないと思いました。西ノ島の山は対馬暖流が流れていて、多様な植生が見られるそうで、山グミや山椒が至る所に自生しているようで、山グミは真っ赤な実を沢山つけていました。あれもこれももし生かせるとしたらこの島は宝の山かも知れないと思いました。

 それにしても、放牧の馬の上にカラスがちょこんと止まっていたり、牛や馬が長閑に草をハム姿はまるで時間が止まっているような感じがして、癒された気分になりました。

 牧畑が島根県の景観候補になっているすおですが、前回は草や茨を分け入って進んだ石積みも、今ではすっかり姿を現していて、万里の長城の如く延々と続く石積みの話を二人で立ち話しました。

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(美味しかった海の幸)
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(交流会に集まっていただいた方々)

 その夜は角市さん親子、先日人間牧場へ来られた町議会議員の中浜尭介さん、元校長先生の口村光房さん、それに観光課の南さんが加わり、楽しいひと時を過ごしました。テーブルには所狭しと海の幸が食べきれないほど沢山並び、腹も胸もいっぱいになりました。角市さんの娘さんも役場に勤めていて、南さんと二人の話はかつて私が若かった頃を髣髴するような、質問や疑問を私たち大人にどんどん投げかけてきて、いい議論となりました。角市さんの配慮で若い人たちに外の人との出会いの場所を設けることは、とても意味のあることでした。一年以内に必ず人間牧場を訪問することを約束して闇の中へ消えてゆきました。


 この日は台風の行方を気にしながら、朝早くにわが町を出発したため、やたらと長い一日だったような気がしました。でも親友や知人に再会でき、そして新しい若者との出会いも実現して、とても充実した一日でした。私の持論である、「人は逢えば逢うほど逢いたくなる」ものだと思いました。

 宿舎のお湯に身をしずめていると、鳥取県江府町の人と一緒になりました。江府町のことを私がよく知っているのに驚いた様子でしたが、もっと話したいと部屋まで来られ、少しの間雑談をさせてもらいました。今回の旅も新たな出会いがあって、いい一日でした。


  「講演が 終わって急ぎ 牧場へ 何年ぶりか 国賀海岸」

  「放牧の 馬の背中に カラスいる 共存世界 この世思えぬ」

  「自生する 山グミ山椒 特産に 出来ないものか 知恵を絞りて」

  「足元に 落ちた糞とて 特産品 自然は大きな ホスピタリティ」

 この日の夜の宿泊は国賀荘という国民宿舎でした。ここへも二度泊まった経験がありますが、前回と同じ部屋でした。私の部屋は角付けの特別見晴らしのよい部屋で、明くる日の朝は眼下に西ノ島の湾内が一望できるだろうと想像しました。

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