shin-1さんの日記

○作詞・作曲した「しずむ夕日が照らす海」(大笑い)

 車で走っていると、車内のカーラジオからニュースや様々な話題が聞こえてきます。知っていること知らないことなど、何気なく聞こえるラジオの声は耳学にもなのです。時には面白い話にわざわざ車を道端の空き地に止めてメモしたりするのですが、聞くだけでなく自分自身のアイデアだって浮かぶのです。

 昨日は「ふるさとの思い出」という番組が流れていて、田舎で過ごした昔の懐かしい思い出を沢山の人が語っていました。私はふるさとを離れることなもなく生まれた地域に暮らしているため、望郷の念はありませんが、それでも少年の頃や結婚して間もない、みんな若かった頃の暮らしを懐かしく思い出しました。そしてメモ帳を取り出し、車内でいい加減な歌を作詞までしてしまいました。

  しずむ夕日が照らす海

                 作詞 大根 心

                 作曲 若松進一

 一、ミカンの花の 咲く道を

    親子二人で 荷を背負い

    しずむ夕日が 母照らす

    まなざし優しい 春の海

 二、砂浜渚 きらきらと

    仲間二人で 夢語る

    しずむ夕日が 友照らす

   まなざし愛しい 夏の海

 三、黄金色ずく みかん畑

    夫婦二人で 野良仕事

   しずむ夕日が 妻照らす

   まなざし嬉しい 秋の海

 四、潮風しぶく 船の上

   親子二人で 網を引く

   しずむ夕日が 父照らす

   まなざし逞し 冬の海

 早速車の後部座席に置いていた木になるカバンからハーモニカを取り出し、Amマイナーのハーモニカで、これまた即興で曲をつけ吹いてみました。メロディーは「ズンチャッチャ ズンチャッチャ」くらいなゆっくりとした調子で吹きました。自分で内心大笑いをしながら歌ってみたのです。

 いつか音楽の堪能な方に譜面に楽譜を書いてもらったらと、臆目もなく考えています。いずれ人間牧場で一般公開したいものです。(大笑い)

 実はここだけの話ですが、私が昔NHK明るい農村に出演した番組を見て長野県安曇野に住む作詞家が私の歌を作詞して送ってくれました。そしてその歌に大洲の松田寿雄先生が曲をつけてくれたのがあるのです。楽譜は何処か仕舞い忘れましたが曲ははっきり覚えています。いつかこれも譜面起こしをしたいと思っています。


  「車中にて ラジオ聞きつつ 歌作る 笑いながらも 一曲できた」

  「作詞した 歌に曲付け ハーモニカ 悦に入りつつ 車の中で」

  「今は亡き 母と二人で 山道を みかん運んだ 幼な日思う」

  「出来た曲 妻に聞かせて 褒めてくれ お世辞知らずに ハーモニカ吹く」

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shin-1さんの日記

○戻ってきた貸していたお金

 私は北は北海道から南は沖縄まで行動範囲が広いため、沢山の人と出会う機会があります。その中には一度会ったきりの方もいれば、何度も長く付き合う人もいて人それぞれなのです。毎日毎日これ程動いてこれ程ひとと出会って人を見る目は出来ているはずなのに、時々見込み違いな人もいるのです。そんな時は「私もまだまだ修行が足りない」と、自分の眼力の軽さや浅さを悔い、更なる修行をしなければと心を戒めるのです。

 そんな見込み違いと思ってたAさんが先日私の元に姿を現しました。その方には知人のよしみでお金を5万円貸していましたが、こちらがお金を貸したことを忘れるほど長く顔を見せなかったのです。私も仕事柄あいにく持ち合わせがないため、相手に頼み込んで寸借することがありますが、私にとって5万円は大金なのでその人の顔を思い出す度に、「貸すんじゃなかった」と貸したことを悔やんだものでした。


 それ以来私はお金を貸すルールを自分で決めました。「貸すお金は1万円まで」「同じ人にお金を貸す場合は先に貸したのを返してもらってから貸す」というものです。このルールだとたとえ返って来なくても1万円で諦めがつくし、お互いが借金の深みにはまることもないのです。人は人に頼みにくい金に困り金策尽きる事だってあるものです。そんな時はなりふり構わず恥を忍んで無心をするもので、貸してくれた時はその人がまるで神様に見えるのです。

 ところがいざ貸した金を返してくれるよう重ねて督促されると、今まで神様のように見えた人が鬼や蛇に見えるのですから人の心模様は当てにならないものです。私もAさんに同乗し5万円を貸した時は神様のように思われたに違いないのです。私はAさんに督促をしたことはありませんが、借用証も取り交わさずお金を貸したことを悔やんだり、貸したAさんのことを「信用出来ない人」と決め付けていたようです。

 私の元に現れたAさんはこれまで10年間、一日たりとも私のことを忘れたことはなかったと真情を吐露し、5万円を返してくれました。「利子はいかほど」と言われましたが、金貸しでもないので利子などいただくつもりは毛頭ないので、元金だけ返していただきました。聞けばAさんも人を信用して連帯保証人になったばかりに印かずきにあって、私が貸したお金もその返済に使ったのだそうで、信用や借金の芋づるで結ばれていました。

 5万円の借金は妻にも誰にも内緒でしたが、妻が在宅中に自宅へ返しに現れたのでばれてしまいました。元々私のポケットマネーでしたが、内情を妻に話し妻にそのお金を全て渡したものですから、妻は私の太っ腹に大層喜んでくれました。私も妻も信用を回復したAさんのことは一生忘れないことでしょう。このことで深く学んだことは、知人友人へのお金の貸し借りはご法度ということでした。年金暮らしで人にお金を貸すほど余裕がないと見えるのか、私に金の無心をする人はいませんが、Aさんから人を信じることの大切さも同時に学びました。

  「人からは そんな小額 思われし 五万円だが 私にゃ大金」

  「金戻る よりにもよって 妻がいる 仕方ないので 太っ腹なる」

  「信じれず 遠ざかる人 戻り来る お金と共に 信用回復」

  「借りた時 神様見える 人さえも 取り立て鬼に なるから不思議」

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○再び采根譚を読み解く

 私の友人たちはみんな勉強家です。ゆえに会って話すと「○○の本を読んだ」とか、「○○の本に書いてある」とか本の話題が豊富です。私などは友人のような読書家でもなく、むしろ本は「積んどく」程度で、人に話すような本から得た知識は殆どなく、会話について行けないこともしばしばです。

 私の友人たちは研修会などに行くと、会場の入り口で販売している講師著作の書籍に目を通し、何のためらいもなく本を買うのです。私などは本には目もくれず、まず会場に来ている人の顔ぶれを見ながら、近況や考えを話し合うのです。

 先日新居浜の研修会に行った時も、友人たちは書籍に群がり何冊か本を買い求め、熱心な人は講師にサインを貰い、講師とツーショットで記念写真をねだったりするのです。私は本も買わず持っていたデジカメでツーショットの写真だけにしましたが、講師の先生は自著本を買ってもらった人と勘違いして、快く笑顔で諸サインに収まってくれました。

 そんな私でも、友人の話について行くため、時々本を注文します。先日塾頭の清水さんの計らいで米谷さんの送別会に、私と清水さんのポケットマネーで「采根譚」という本を贈りました。

 私が若い頃、「采根譚」という本は手に入れて熟読しているのですが、その後その本がどこかに消えてしまって行き方知れずになっているので、清水さんに頼んで買い求めました。本をいただいた時、大きなお金しかなく金も払わず本だけ受け取っていましたが、妻にきつく注意されて先日であった時、1500円を支払い、やっと「采根譚」は自分の本になりました。さあ読書です。「采根譚」は明代の万暦年間(1573年~1620年)に書かれた本です。この本は中国五千年の人生訓を集大成した奇書」と評価されている名著なのです。内容は儒教、仏教、道教という三大思想のどうりを含んだ傑作で作者は洪応明です。

 「心安らかならば粗末な家でも穏やかに暮らせる。そして堅い采根も美味しく感じられる」というのが作者が伝えたい主旨のようなのです。この采根の含意を通じ、儒教の仁義と、中庸、道教の無為、仏教の悟りを一体化させながら、情と理のバランスの取り方や諸事万端の道理を説明し、出処進退のあるべき姿を説いているのです。

 若い頃この本を読破した頃、この本の意味が殆ど理解できませんでしたが、66年間生きてきた今になってこの本を読むと、いちいちもっともなことが書かれているといちいち深く理解が出来るのですから不思議です。

 これまで生きてきた年数より短い余生ですが、これからこの本を読みほぐしてこれまでの人生を振り返るよすがにしたいと、机の上に置き暇を見つけて読んでいるところです。これまで歩んで来た自分の人生において、説明の出来にくかったことが、納得できるのです。

 あと一ヶ月余りで今年も終わりですが、2010年の締めくくりとして、この本を再読できたことはやはり友人のお陰だと感心する今日この頃です。


  「若い頃 読んだはずだが 采根譚 すっかり忘れ  再度読み解く」

  「同じ本 読んでも理解 できなんだ 今は頷き 理解をしつつ」

  「采根の 堅さも噛めば 何のその 滋養となりて 心身健やか」

  「常日頃 読書勧める 友ありて 凡人私 少し利口に」

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shin-1さんの日記

○北の国から南瓜が届く

 今年の9月17日、わが家に一個の宅配便が届きました。中を開けてみると大小色とりどり、形とりどりのカボチャが出てきました。その殆どは観賞用カボチャでしたが、その珍しさに目を白黒させたものでした。その模様は私のブログに2回にわたって書いています。「記録しないものは記憶されない」という言葉通り、パソコンで自分の記録の中から、忘れかけていた3ヶ月前の記録がしっかりと検索できるのですから、便利な世の中になったものです。私はブログに使う写真も最近は、例えば9月17日であればその年の暦年末尾の10を頭にして日時と順番を10917-1といった風に入力しているので、直ぐに取り出せるのです。その時は孫とカボチャを紹介しましたが、使わなかったのが下の写真です。

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 これらの観賞用カボチャは、その後道の駅ふたみシーサイド公園のじゃこ天の店に飾られて、今も来客に親しまれていますが、その時お礼のメールに、「いただいた食用カボチャは大切に取って置き、冬至カボチャとして食べたい」と書いたのです。ところが返信メールでカボチャの薀蓄が語られ、カボチャの食べごろは収穫してからの

日数が大切であることが分かり、「冬至には幻のカボチャを送ります」と書かれていました。勿論忘れた訳ではありませんが、忙しさにかまけて記憶の外に押しやられていたのです。

 昨日カボチャで町おこしをしている北海道佐呂間町の武田温友さんから約束どおりカボチャが1個送られてきました。段ボールを開けると新聞紙を断衝撃材にした中からまあそれは見事で大きいカボチャが出てきました。

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 中から「パンプキンらんどサロマ」と書いた封筒に入った色鮮やかなメッセージ風の手紙と写真が出てきました。送られてきたカボチャはメッセージに書かれている「雪化粧」という素敵な名前のようでした。写真の裏に「お約束どおり冬になると美味しさを増す伝統のかぼちゃ『雪化粧』をお送りします。煮物、天ぷらなどでお召し上がりください」と書かれていました。

 ふとカボチャは「南瓜」と書くのに何故北海道で出来るのだろうと疑問も頭を持ち上げました。このカボチャは南瓜ならぬ北瓜ではないかと思いました。疑問はともあれこのカボチャを冬至まで取って置き、武田さんの言うとおり、煮物や天ぷらにして美味しく召し上がりたいと思っています。武田さんありがとうございました。

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(送られてきた雪化粧という名前のついた見事なカボチャ)

  「南瓜と 書くのに何故か 北海道 疑問の館 首横に振る」

  「律儀にも たった一度の 出会いさえ 覚えてカボチャ 送る人あり」

  「雪化粧 名前がいいな 感心す 今年の冬至 今からワクワク」

  「送られし カボチャ大事と 床の間に 置いて日を待つ 間もなく冬至」


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○妻の手助けをした勤労感謝の日

 今日は昨日一日降り続いた雨も上がり上天気です。でも空の雲が東から西へかなり早いスピードで流れているので、「海は時化るだろうな」と予想していた通り、10時頃になると海は大波が立ち始めました。最近は気象衛星の普及によってかなり正確な天気予報が伝えられていますが、私はかつて若い頃7年間も漁師をしていたこともあって、私にはご当地の天気を予測する能力がある程度備わっているのです。

 今日は勤労感謝の日なので妻も仕事が休みです。サンデー毎日の私もこのところ忙しかったものの、今日は外に出る予定もなく、昨日の夕方妻から「明日は自宅のプランターに季節の花の苗を植えるので手伝って欲しい」と頼まれ、安受け愛していたことをすっかり忘れていました。朝食を済ませると二人で花の苗を買いに行くついでに、日ごろお世話になっている知人宅と今年叔母が亡くなった叔父宅、それに娘や息子宅へそれぞれご機嫌伺いに立ち寄りました。

 その後いよっこらという農協の直売所で、パンジーや桜草などの花の苗を買い求めて自宅へ帰り、さあそれからが大変です。裏庭のコンクリートの土間にプランターの土を、花柄や雑草を取り除きながらひっくり返し、丹念に残根などを集め土だけにしました。その上に鹿沼土、赤玉土、腐葉土、石灰、肥料など、袋に残っている土類を振り撒き、平スコップで何度も何度も切り返して万遍に混ぜ合わせました。プランターも20個近くあるので、土の量もかなりな量で、すっかり汗をかいてしまいました。

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 さあそれからプランタにスコップで出来上がった土を入れてならし、そこへ妻が買ってきた花の苗を植えつけるのです。妻は仕事出忙しく、私もかなり忙しいのでガーデニングなど呼ぶほどの花つくりではなく、雑草に覆われていますが、妻は花が大好きで友人知人から貰ってきた花を植えたりして楽しんでいます。勿論私も花が大好きですが、残念ながらこれまたガーデニングなどという洒落た言葉とは程遠いのです。女性にとって土を混ぜたりプランターを動かしたりする力仕事は苦手のようで、今日は妻から体操感謝されました。

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 植えた花に水をやり、汚れたコンクリートの土間を水で洗い流し、使った一輪車や鍬、スコップなどを片付け一段落した頃には日脚の短い晩秋の夕日が西の端に傾き、気温も下がってきました。これで庭の手入れも終り、あとは友人から毎年届くであろう葉牡丹の寄せ植えを待つのみです。今日植えた花々は冬の寒さに耐えながら貼るにはきれいな花を咲かせてくれることでしょう。殊勝にも手助けをしたことを妻に喜んでもらい、いい勤労感謝の日だったことを感謝する一日となりました。

  「手助けで 今日は勤労 感謝の日 妻が喜び 私喜ぶ」

  「プランター 秋から冬へ 衣替え パンジー可憐 春が楽しみ」

  「任せとけ 力仕事は 得意だと 張り切り過ぎて 腰が少々」

  「花愛でる 心はあるが 手入れせず 雑草茂り 花だか草か」

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○送られてきたリンゴと柿

 昨日外出先から帰り、勝手口にある郵便受けから郵便物を取り出しました。その郵便物に混じって、「○○様からのお荷物をお届けに来ましたがあいにく留守でした。今日中に届けたいと思いますので、下記にご連絡ください」と書いているメモが2通もありました。私は早速郵便局と宅配業者に電話をして、「自宅にいるのでそちらの都合のいい時間に届けて下さい」と伝えました。やがて夕方雨の中を郵便局員さんと宅配員さんが相次いで訪れ、どちらも受取人の名前をサインして荷物を受け取りました。送られてきた荷物は、私の大好きな果物であるリンゴと柿でした。送り主は広島県東城町に住む松永さんと和歌山県和歌山市の橋口さんからでした。


 松永さんはもう35年以上も前に総理府派遣青年の船で一緒にアメリカへ行った人で地元の役場へ勤めています。30年ぶりに出会ってから毎年自分で作ったリンゴを送り続けてくれています。一方橋口さんは県庁に勤めている人で、研修会の講師で招かれて以来柿を送り続けてくれているのです。

 リンゴは外国産のものもあって年中出回っていますが、私は毎朝1個のリンゴとキャベツを食べる「リンキャベ」食をもう30年以上も励行していて、嬉しい贈り物なのです。松永さんから送られてきたリンゴは蜜入りリンゴで、酸味も程よくあり、とても美味しいリンゴなのでこれから毎朝の食卓が楽しみです。

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 一方柿はあまり保存が出来ないことから今が旬で、柔らかくて甘みのある柿は舌もとろけるような美味しさなのです。郷土愛媛が生んだ俳人正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句に橋口さんの顔を重ねながら、妻のむいでくれた柿を楽しんでいます。

 柿といえばもうそろそろ「あまぼし」の季節です。「あまぼし」とは吊るし柿のことですが、わが家でも毎年正月用に渋柿を買って2連ほど作ります。あの渋い柿がどうしてあのような甘い柿になるのか、浅学の私には説明は出来てもメカニズムは理解できません。柿大好物の私としてはそろそろ外気温が下がり、北西の季節風が吹き始めたので、いつにしようかと迷っているところです。

 名僧一休禅師の言葉に、「悪しくとも ただ一筋に捨つるなよ 渋柿を見よ 甘干となる」と詠んでいます。私が子どもの頃は食べるものとてなかった頃だったので、柿の実の余りの見事さにうっかりがぶり渋柿をかじり、そこら辺の茂みの中へ捨ててしまったものです。当時は捨ててしまったあの渋柿が甘干になるなんて思っても見ませんでした。祖母や母などは甘干作りのために剥いた渋柿の皮さえ干して大根と一緒に漬け込み、黄色い沢庵を作るのに役立てていたのです。

 渋柿の皮も捨てればゴミ、利用すれば香味になる生活の知恵は今も妻によって受け継がれていますが、渋柿の悪縁も考え方一つで善縁になるという教えを一休禅師はこの言葉で説いているのです。友人から送られてきたリンゴも柿も味わって食べたいものです。

 追伸

 柿どころ西条市丹原に住んでいる佐伯さんからも美味しい富有柿が沢山届きました。

  「柿リンゴ  季節果物 宅配便 籠盛り卓上 秋を演出」

  「太ってる ことを果物 せいにする 朝フルすれば 太らず済むに」

  「柿食べて リンゴを食べて 友の顔 思い出しつつ 妻に説明」

  「届いたと 電話の向こう 友人に お礼の言葉 深々頭」

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○新居浜エクスカーション②

 昨日は新居浜の武田信之さんたち石鎚みすヾコスモスが企画した「金子みすヾの宇宙」というイベントに年輪塾生15人ほどで参加しました。山口県長門仙崎出身の詩人金子みすヾは、「大漁」という詩で、「朝やけ小やけだ 大漁だ はまは祭りの ようだけど海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう」と詩っています。

また代表作である「わたしと小鳥とすずと」では、「わたしが両手をひろげても、お空はちっともとべないが、 とべる小鳥はわたしのように、地面をはやくは走れない。  わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど あの鳴るすずはわたしのように、たくさんなうたは知らないよ すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」と詩っています。

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 わずか二十六歳で死んだ金子みすヾの詩にはどこか違った感性が見え隠れし、読む人を引き付けるのです。

 昨日は愛媛県総合科学博物館多目的ホールに300人余りの人が集まりました。無名ながらわが年輪塾も後援の末尾に名を連ねているため、清水塾頭が中心になって年輪塾エクスカーションとして企画されました。現地では馴染みの直野さんと加藤さんが窓口になって近代化産業文化遺産といわれる別子銅山記念館やマイントピア別子を見学したあと、まんまる食堂で美味しい昼食を食べる前に、短い時間ながら尊徳塾を開講しました。

 その後博物館に会場を移し、午後1時30分から第一部は宇宙物理学者の佐治春を先生の「記憶の中のボイジャーから『はやぶさ』『イカロス』まで」とう話を聞きました。佐治先生はピアノと映像を交えて宇宙へと誘っていただきました。

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 つなぎとして社会人落語家日本一になった精神科医枝廣篤昌先生の落語「はくしょんしてよかばくん」とらくさぶろさんの詩の朗読コラボ、第二部は童謡詩人矢崎節夫さんとらくさぶろうさんとの対談「みすヾさんのうれしいまなざし」を聞きました。

 懇親会ではA・B席を年輪塾生が独占し、佐治先生や矢崎先生と身近にお話できる機会もありました。またテーブルスピーチでは高座が用意され、私もお粗末ながらショートコメントながら落語ならぬ落伍を披露し会場を笑わせました。「くれあ&香」の透き通る歌声も素敵でしたし、車の運転もあって殆どの塾生がウーロン茶で我慢しましたが、非常に密度の濃い内容に身も心も洗われた感じがしました。

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 毎日あくせく暮らす私たちにとって、ましてや地域づくりを志してともに学ぶ私たちにとって、ふと立ち止まって自分や周りを見つめることはとても大切なことなのです。私たちは今回のエクスカーションでまた新しい活力を得ることが出来ました。その時は感動してこだました言葉も、直ぐに忘れてしまうような年齢になりましたが、それでも心の基層にしっかりと残っており、いつか何かの拍子に思い出すに違いないのです。

 さこの日の学びを生かしてもうひと踏ん張り、自分のため人のために頑張りましょう。


  「大挙して 金子みすゞ 講演会 心洗われ よかったよかった」

  「この人は 難し話 分かりよく 話す人だと 感心しきり」

  「いや凄い 物理の学者 ピアノ弾く もしもピアノが 弾けたらなあ~と」

  「指名され 俺はやっぱり 向こう見ず 高座に上がり サジ(佐治)を投げたり」

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○亀本耕三さんという男①

 旧友の亀本耕三さんに数日前、「8時に伊予農協駐車場集合ですから、7時40分くらいにわが家へ迎えに来てください」とメールを入れておきました。そして昨日の朝は妻に、「田舎の人は多分10分前に迎えに来るから7時30分に出発する」との私の予言どおり、亀本さんは大洲市田処から朝ヶ峠を越える双海周りで7時30分に、西田和子さんとじゅんこさんを伴ってやって来ました。

 亀本耕三さんは酪農家で乳牛飼育をしていますが、かつて彼が大洲市柳沢公民館主事をしていた頃に知り合い、さらには私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループの主宰したフロンティア塾に塾生として参加し、10年間で40回の塾の殆どに参加した熱心な人です。その後も私が執筆した「今やれる青春」という本に寄稿文を書いていただき、現在は年輪塾の強力なメンバーとして共に学んでいるのです。

 亀本さんの凄さはフロンティア塾の時に感じていました。酪農は乳牛の搾乳や世話など朝が早く夜が遅い仕事です。ゆえに塾活動や昨日のように朝顔は焼く夜が遅い集会に出席するためには、日曜などない仕事なので相互扶助してもらっている仲間にヘルパーとして牛の世話を頼まなければならないのです。

 フロンティア塾の折々にも学習に参加して午前3時頃にそっと会場を抜け出し、夜道を帰って寝ないで朝を向かえ仕事をしている姿を、「向学心に富んだ凄い行動」として常々感じていました。その後今回の年輪塾を立ち上げる時いち早く塾生にならないか誘い、快く門下の一員に加わってこの3年間一緒に活動しているのです。彼はホタルの保護活動や情報発信、それに雲海情報を季節になるとネットで配信するなど、これまた目に見えない地道な活動をやっているのです。

 私の知る限り、ひょっとしたら私の仲間では最右翼に数えられる律儀で謙虚な人ではないかと思うのです。彼の要請で何度か柳沢や田処へ講演にも出かけ、その都度元教師の西田和子さんを中心にした楽しい仲間の和の中に入れてもらい、どこか私と波長の合う田舎暮らしから生まれた感性を共有しながら付き合ってきました。子どもの数が5人に減って今年度で閉校することになっている田処小学校の子どもたちの素晴らしい絵を、後世に残したらどうかという私のアドバイスも素直に聞き入れ実践し、また今回私たちが弾めている桜のミニ公園作りにもにも参加するため着々と準備をしているのです。多分これからも山を挟んだ隣り合わせ地域に住む友人として、一生付き合える友ではないかと、頼もしく思っているのです。

 亀本さんの8人乗りの車に乗せてもらい向かう先は新居浜です。伊予農協で清水塾頭、松本小番頭、愛南の上田さんと合流し予定通り午前8時少し前出発しました。近くの伊予インターチェンジから高速道路を新居浜インターまで100キロ近くのスピードで駆け抜けました。この日は穏やかな小春日和で楽しいお喋りや、これからの塾運営について語り合いながらのちょっとした小旅行でした。新居浜へは我が家を出てから1時間もかからずに到着し、お世話人を務める新居浜の加藤さんと直野さん、それに年輪塾のメンバーとファミリーマートの駐車場で落ち合い、別子銅山記念館やマイントピア別子へと向かいました。

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  「二十年 超えて変わらぬ 人となり 見習うことの 多き旧友」

  「謙虚さと 向学心を  併せ持つ ゆえに成長 ゆえにキーマン」

  「十分前 常に行動 出来る人 余裕を持って 生きれる姿勢」

  「何気ない ことだがそれを 何気なく やれる普通が 平凡非凡」

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shin-1さんの日記

○忘れた方がいい事

 「最近忘れ状がよくなった」「何かをしている時、ふと私は何をしていたのだろうと、今やっていることさえ忘れることがある」「今朝食べたものを忘れた」という言葉をお年寄りから聞きます。若い頃はそんな話を聞いても「私はそんな年寄りには絶対ならないし、その人は特別だ」と思っていました。ところが66歳のいわゆる高齢者の仲間入りを果たした私にも、老いはいつの間にか忍び寄り、私も忘れることが多くなってきたのです。そして私が忘れるのは自分のせいではなく加齢のせいだと思っているのです。

 先日広島へ講演に行きました。講演の席で新居浜の十亀さんや加藤さんからいただいた電光掲示板を、少しPRしようと胸のネクタイに着け得意になって話しました。電光掲示板の充電容量が危なくなった気がしたので、講演をしながら取り外しましたが、その時ネクタイ裏の協力マグネットを落としてしまいました。気がついた私は無意識のうちにそのマグネットを拾い背広のポケットにしまったそうです。家へ帰ってポケットを探しましたが見つかりませんでした。

 拾ってポケットへ入れたことすら記憶にない私は、相手の探してもらうよう仲介者を通じて頼みましたが、相手から何度探しても見つからないと、気の毒そうな返事が返ってきました。推し量るにマグネットは同じポケットに入れた車のキーに付着してポケットの外に出たに違いなく、何か足元に落ちた記憶がおぼろげながら蘇りましたが、それが一体何処なのか思い出すことも出来ず、今もマグネットがない電光掲示板をナイロンケースに入れて不自由な使い方をしているのです。

 今朝親父が「メガネを何処かへ置き忘れた」と騒いでいました。ふと見ると親父は自分の頭の上にメガネを乗せてめがねを探しているのです。私も今朝携帯電話を何処へ置き忘れたの見つからず探しましたが、出発する時間になっても見つかりませんでした。仕方がないので妻の携帯電話で私の携帯電話を呼び出すと、今朝持って行くリュックの中で呼び出し音が聞こえ難なく見つけることが出来たのです。このように忘れてはならないことは忘れるのに、人間は覚えていなくてもいい事を覚えているのです。

 まちづくりの研修会である人から、「いいことの種を蒔いて実がなったら忘れるという土をかけろ」と教わりました。それは色々なことをして成果を得ると「あれは私がやった」といつまでも自慢する人への戒めの言葉なのです。人間は得てしていいことは自分と自慢し、悪いことは人のせいにしたがるのです。周りの人から見ればそれは自慢や責任逃れに聞こえて鼻持ちならないのです。特に成果は他人に譲り一日も一刻も早くそれを忘れるために、忘れるという土をかけなければならないのです。

 忘れてならないのは恩と責任、忘れるのは成果だと思う時、この世の中は政治家を中心にして何と反対人間が多いことでしょう。責任を逃れ成果を独り占めにする人より、今朝自分の食べたものを忘れたり、マグネットを忘れた私の方がよほどましな、犬も食わぬ人間であることに安堵するのです。

 人に見せるための善行を、人はよく見ているものです。自分の値打ちは人が決めるものであることを忘れないようにしたいものです。

 

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shin-1さんの日記

○初孫は早くも8歳に

 7年前、私は新潟へ向かう上越新幹線の車内で妻からの電話を聞きました。それは娘が出産し初孫が誕生したという飛び切り嬉しい知らせでした。私は飛び上がって喜びたいような衝動に駆られました。一人旅だったのですが、隣に座った縁もゆかりもない乗客と会話を交わしていたこともあって、その方は大層喜んでくれたばかりでなく、少し度が過ぎて新幹線の車内で「皆さん隣の席に座られた方は四国愛媛の方ですが、ただ今郷里松山で初孫が出来たと連絡がありました。何という素敵な出来事でしょう。子どもは国の宝です。お孫さんの誕生を拍手で祝福しませんか」と、車内全体に聞こえる大きな声で叫んだのです。すると皆さんが列車一両丸ごと大きな拍手をしてくれたのです。

 驚いたのは私ですが、その時の感動は今も忘れられない思い出なのです。列車は司馬遼太郎の「峠」に出てくる河井継之助や、後に小泉純一郎首相が米百票の教えをなぞらえた話ですっかり有名になった越後長岡藩の小林虎三郎を輩出した長岡市付近を走っていました。

 その時11月23日の勤労感謝の日に生まれた孫朋樹が、早いもので間もなくあと3日で満8歳の誕生日を迎えるのです。孫朋樹の誕生日が近くなったので、お祝いをしてやろうという話になり、前日の夜からわが家へ家族で泊まりにやって来ました。外出先の高知から帰ってみると朋樹は娘に連れられて弟尚樹と親子3人で私の帰りを待っていました。

 久しぶりにその気になって小学校2年生になった孫を見ると、すっかり成長して目を細めるばかりです。その夜は一緒にお風呂に入り一緒の布団で、まるで湯たんぽを抱くようにして二人で寝ました。昨日は私も孫のために予定を空けて欲しいという妻の頼みもあって、孫と一緒に麻生ことにしました。

 午前中は人間牧場へ馬路村の木下さんから届いたミツバチの巣箱を運ぶ作業をしましたが、朋樹と尚樹を連れて出かけました。朋樹は小動物やドングリなどの木の実に興味がある自然派少年なので、ビニールの復路を用意して、人間牧場から池久保地蔵尊まで3人でゆっくり山道を歩きながら、ドングリや椎の実を拾いました。この日は天気も小春日和で温かく、上々のハイキング日和でした。

若松進一ブログ
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 ドングリはまだそれほど落ちていませんでしたが、池久保の市指定記念物椎の木の大木の下には、無数の椎の実が落ちていました。かつて私が子どもの頃には食べ物の少ない戦後間もないこともあって、この木の下に落ちた椎の実をわれ先を争って拾い食べたものです。

 孫たちも私に習って2~3個食べていたようでした。足元にははじけた椿の実や、木には真っ赤に熟れたカラス瓜など珍しいものが一杯あって、孫たちは歓声を上げながらビニール袋に沢山採集していました。

 帰宅後昼食をしてから紙ヒコーキを作って近所の空き地で飛ばしたり、ドングリで遊んだりしましたが、夕方から朋樹のリクエストである松前の回転寿司で食事会をし、エミフルでプレゼントを買い、朋樹が主役の楽しい一日は終わりました。


  「初孫が 早くも八歳 誕生日 歳をとるはず 我らは初老」

  「孫連れて 野山落ち葉を 踏みしめる 拾い集めた 椎の実かじり」

  「私より 積み上げ皿は 高いかな? 食欲旺盛 回転寿司屋」

  「プレゼント 貰って孫は ご満悦 これから先も 健やか育て」  


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