○再び采根譚を読み解く
私の友人たちはみんな勉強家です。ゆえに会って話すと「○○の本を読んだ」とか、「○○の本に書いてある」とか本の話題が豊富です。私などは友人のような読書家でもなく、むしろ本は「積んどく」程度で、人に話すような本から得た知識は殆どなく、会話について行けないこともしばしばです。
私の友人たちは研修会などに行くと、会場の入り口で販売している講師著作の書籍に目を通し、何のためらいもなく本を買うのです。私などは本には目もくれず、まず会場に来ている人の顔ぶれを見ながら、近況や考えを話し合うのです。
先日新居浜の研修会に行った時も、友人たちは書籍に群がり何冊か本を買い求め、熱心な人は講師にサインを貰い、講師とツーショットで記念写真をねだったりするのです。私は本も買わず持っていたデジカメでツーショットの写真だけにしましたが、講師の先生は自著本を買ってもらった人と勘違いして、快く笑顔で諸サインに収まってくれました。
そんな私でも、友人の話について行くため、時々本を注文します。先日塾頭の清水さんの計らいで米谷さんの送別会に、私と清水さんのポケットマネーで「采根譚」という本を贈りました。
私が若い頃、「采根譚」という本は手に入れて熟読しているのですが、その後その本がどこかに消えてしまって行き方知れずになっているので、清水さんに頼んで買い求めました。本をいただいた時、大きなお金しかなく金も払わず本だけ受け取っていましたが、妻にきつく注意されて先日であった時、1500円を支払い、やっと「采根譚」は自分の本になりました。さあ読書です。「采根譚」は明代の万暦年間(1573年~1620年)に書かれた本です。この本は中国五千年の人生訓を集大成した奇書」と評価されている名著なのです。内容は儒教、仏教、道教という三大思想のどうりを含んだ傑作で作者は洪応明です。
「心安らかならば粗末な家でも穏やかに暮らせる。そして堅い采根も美味しく感じられる」というのが作者が伝えたい主旨のようなのです。この采根の含意を通じ、儒教の仁義と、中庸、道教の無為、仏教の悟りを一体化させながら、情と理のバランスの取り方や諸事万端の道理を説明し、出処進退のあるべき姿を説いているのです。
若い頃この本を読破した頃、この本の意味が殆ど理解できませんでしたが、66年間生きてきた今になってこの本を読むと、いちいちもっともなことが書かれているといちいち深く理解が出来るのですから不思議です。
これまで生きてきた年数より短い余生ですが、これからこの本を読みほぐしてこれまでの人生を振り返るよすがにしたいと、机の上に置き暇を見つけて読んでいるところです。これまで歩んで来た自分の人生において、説明の出来にくかったことが、納得できるのです。
あと一ヶ月余りで今年も終わりですが、2010年の締めくくりとして、この本を再読できたことはやはり友人のお陰だと感心する今日この頃です。
「若い頃 読んだはずだが 采根譚 すっかり忘れ 再度読み解く」
「同じ本 読んでも理解 できなんだ 今は頷き 理解をしつつ」
「采根の 堅さも噛めば 何のその 滋養となりて 心身健やか」
「常日頃 読書勧める 友ありて 凡人私 少し利口に」