shin-1さんの日記

○再び高知県芸西村へ

 高知県の中心高知市から南国市などを通って安芸市に通じる国道56号線沿いに芸西村という小さな村があります。村といっても私の町より少し人口が少ない4千百人ほどの村です。南は太平洋に面していて、昔は松林の綺麗な琴ヶ浜から見える夕日は格別だったと、心ある住民は今も自慢をするのですが、残念ながら松林は殆ど素方を消し、村民会館大ホールのの緞帳が往時を偲ばせているようです。

若松進一ブログ
若松進一ブログ

 実は2年前の11月21日にも、まったく同じイキイキ会に招かれているのですが、昨年は新型インフルエンザの影響で年に一度の高恒例となっている研修会も、昨年は止む無く中止としたそうです。ところが二年ぶりの研修会を企画する話の中で、性懲りもなく一昨年に続いて私にオファーがかかり、連続して2回も記念講演をすることになったのです。いくら田舎のおばちゃんが物覚えが悪くても、私の名前と顔ははっきり覚えているのです。

 しかし私が前回どんな話をしたか、内容までは覚えていやあしないと、鷹を食ってノコノコ出かけて行きました。

集会は午後6時から始まりました。芸西村のウーマンパワーは素晴らしく、副町長さんも女性、村議会議長さんも女性なのです。失礼な話こんな小さな村でよくもまあこれ程の人が集まると感心するほど椅子が用意されていました。5時半過ぎからボツボツ席が埋まり始め、6時の開会時にはほぼ満席状態でした。

若松進一ブログ
若松進一ブログ
若松進一ブログ

 イキイキ会の会長である村議会議長さんの挨拶で始まり、村長さんが短めの祝辞を述べて会はスタートしました。お待ちかねは当日のメインイベントである振込み詐欺をテーマとした寸劇でした。前回も見ましたがまあ土佐弁丸出しでの熱演に会場は笑いの渦に包まれました。その後、午後からみんなが出て作ったという美味しい料理の試食パーティーです。お寿司やおでんなど高知ならではの皿鉢料理が所狭しと並んでいました。

若松進一ブログ

 一番人気は何といっても芸西村特産のナスを使ったタタキです。高知では普通カツオのタタキが有名ですが、ここのタタキはナスを素上げにしてその上に焼き鯖の身をほぐしたものを乗せ、タマネギやねぎをあしらってポン酢で食べるのですが、これがまた絶品であれほどあったものがあっという間になくなってしまいました。酒はなく甘党な饅頭や洋館アドも用意されていましたが、もう満腹でした。

若松進一ブログ

 芸西村で作られているというトルコキキョウやダリアの花が会場の至る所に飾られ、集まった人が少しお歳を召してさえいなければ結婚式の会場と見まがうほどでした。食事会は講演10分前に切り上げ、5分だけ早くスタートしたので、幾分助かりましたが、私の講演は1時間5分をきっちり守り、8時30分に終わりました。講演が終わると素敵な女性が壇上まで大きな大きな花束を運んで私に下さりました。もう大感激でした。

 直ぐに身支度して帰路に着きました。南国インターから伊予まで高速に乗って自宅へ帰ったのは11時近くになっていましたが、参加者の中にはすっかり顔見知りもいて、今度は人間牧場へ行くからと、固い約束をした顔顔が浮かぶのです。この日は高知へ出張していた馬路村の木下課長さんと芸西村の入り口で待ち合わせをして、山岡さんが作ったミツバチの巣箱を2個受領しました。これで来年の春の分鉢の準備は整ったのです。


  「アドリブな 即興人を 笑わせる 振り込め詐欺は 身近所で」

  「この村の 元気源 野菜かな ナスのたたきに 舌鼓打つ」

  「二度目だが 知り人多く 駆け寄りて 百年前の 旧知のように」

  「馬路村 頼んでおいた 巣箱持ち 指定の広場 友と出会いて」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○お金持ちになりたいという願望

 わたしたち人間は多い少ないは別として、何らかの願望を持って生きています。それらの願望は生きてきた人生の裏返しであると時々思うのです。例えば不幸せな目にあった人は幸せになりたいと思うし、貧乏にあえいだ人はお金持ちになりたいと思うでしょう。またガンに侵され余命いくばくもない人は健康で長生きがしたいと思うに違いないのです。そしてその様々な願望は、時には幸せそうな人、お金持ちの人、健康で長生きをしている人を羨ましく思ったり嫉妬したりするのです。


 昔の人は一部を除いて殆どの人が貧乏でした。勿論わが家も親父や死んだ祖母の話によると大貧乏で、律義者の子沢山といわれるほどの家族を養うために、おしんという朝ドラにも匹敵する苦労をしたようです。でもいつかは幸せになりたいという願望を持って生きてきたお陰で、そして何よりも世の中が変わったお陰で、お金持ちにはなりませんでしたが子孫の私たちは、祖母の時代の人がうらやむほど幸せになれたのです。

 そんな幸せの中にありながら、私たち人間は何故か満ち足らず、相変わらず幸せの青い鳥を探しているし、お金だって毎日あくせくと働いて、「お金持ちになり」という願望のために、妻などは宝くじまで買って一攫千金を夢見ているのです。

 今の世の中は若い頃年金を掛けておけば多かれ少なかれ歳をとると年金をいただくよう福祉が充実しています。また子育てにおいても子ども手当などが支給され、もし食べれrなくなっても生活保護を受けれるなど、様々な手厚い保護が受けれるようになっています。

 しかし一方で介護保険を引かれたり、日ごろの生活だって電気代・ガス代・携帯電話代などなど、少し注意を怠ると、自分の口座から自動引き落としになっているため、引き落とす金が底をついたと銀行や郵便局から督促が来るのです。いわば暮らしに金がかかる時代のようです。

 じゃあ自分の人生において余命を生きて行くのにどれほどのお金があったらいいのか、試算したことがあります。その結果は「えっ、そんなにお金がいるの?」と疑うほどお金がいるようです。しかもその数字は病気や不慮の事故に遭わないということが前提ですから、将来の備えを考えると年金さえ当てにならない時代ですから不安に刈られ、できるだけ使わず質素倹約をして小銭を貯めるという生活を強いられ、頭のどこかに「お金持ちになりたい」という願望が頭を持ち上げるのです。でも宝くじも当たらないし思うようにお金持ちにはならないものだとしみじみ思うのです。年金以外収入の道を断たれた私たちは、もうお金持ちになることは決してありません。でもこうして三度三度の食事にありつけ、考えようによっては幸せな暮らしが出来るのですから良しとしましょうか。


  「貧乏を 経験したほど 金持ちに なりたい願望 強いというが」

  「もし金が あったらあれも これしたい ないゆえ思う だから生きれる」

  「ありそうに 見せる人ほど 借金も あったりするから 見栄え分からぬ」

  「祖母親父 貧乏経験 したゆえに 諺言って 私戒め」


[ この記事をシェアする ]