shin-1さんの日記

○花篭のプレゼントに大感激

 昨日外出先から帰って自宅の玄関の戸を開けると、目の前の板間に何やら花篭のようなものが置いてありました。「はて、何だろう?」と思いつつ、直感的に「もしや」と、この10年間毎年私の誕生日に届く花束ではと思いました。それにしても誕生日は過ぎたのに何故と不思議に思いました。

 花篭にそっと差し込まれたメッセージを開くと、「若松様、三日遅れのお誕生日おめでとうございます」と書かれていました。文章には「わが家では一週間ほど前から家族中で風をうつし合っていて、今日は長男の番です。私もやっと解放されてこれから秋を満喫しようと張り切っています。今日は久しぶりに双海に来ることができ、心も身体もリフレッシュできそうです。若松さんのエネルギーが満ちているようで双海が大好きなのです。これからもそのエネルギーでたくさんの人に感動を与えて下さいますように、お元気で頑張って下さい」と素敵な言葉が添えられていました。

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(贈られた誕生祝の花篭)

 花篭の贈り主は松山南吉田に住む西岡真由美さんと伊方町瀬戸塩成に住む緒形二三子さんです。縁もゆかりもないお二人に花束をいただくようになったのは今から10年も前の2001年10月3日と記憶しています。その日私はいつものように朝5時に起きて、海岸の掃除をしていました。海岸だけならまだしも水槽の掃除をしてドロドロになっていました。自宅に帰ろうとするとお二人の女性が現れ、いきなり私に花束をプレゼントしてくれるのです。私も藪から棒の出来事で驚きましたが、特産品センターの職員やじゃこ天の叔母ちゃんたちも驚き、みんなで大きな拍手をしてくれました。「若松さん、男冥利に尽きるね。水知らずの人でも、あなたの毎日ひたむきな掃除をする姿を見てるのよ。私も感激しました」と、漁協女性部の富岡部長さんが褒めてくれ、その夜は仕事が終わってからシーサイド公園夕浜舘で盛大な誕生パーティーをしていただきました。

 私はその年の5月23日に県立中央病院へ5日間入院し、胆のう摘出手術をしていて、その後の回復が思うにまかせず、半年で15キロも体重が減った時期でした。


 その時以来、二人の女性は毎年欠かすこともなく私の誕生日に大きな花束を届けてくれ続けているのです。その都度「来年は遠慮します」と丁重にお断りをしましたが、相変わらず今年も花束ならぬ花篭が届けられ、大感激でした。しかも誕生日が終わって三日後というのもまた心憎い気配りで、余計感激しました。

 人情紙風船とかいわれる、説がらい世の中なのに、奇特な人がいるものだとしみじみ感心しながら、昨夜お二人にお礼のハガキをしたためました。そして外が明るくなり浅野チャイム放送が鳴る午前6時に戸外に出、歩いて郵便局のポストへ散歩がてらハガキを出しに行きました。今朝はこの秋一番の冷え込みで、真っ青な秋空に白い雲が浮かんで気持ちよく歩きました。

 66歳のこの歳になっても、私の誕生日を覚えてくれていて、花篭までくれる人がいるのですから、こんな嬉しいことはありません。さあ、お二人のメッセージのようにこれからも、感動のセールスマンとして元気に頑張り、二人のご恩に報いたいと思っています。


  「今年また 玄関先に 花篭が 嬉し恥ずかし この歳なりて」

  「十年も 続く花束 感激で 胸がいっぱい ウルウルします」

  「花束が 私の心 ネジを巻く もうひとふん張り やるとしようか」

  「お父さん あんた幸せ 妻が言う 自分自身も 納得しつつ」

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○孫の秋祭り

 先日娘から、「10月5日午前中の、お父さんの日程表を見て」と妻に電話が入ったようです。妻は私の木になるカバンに入れている大判の2010Writing Calendarを取り出し、「午前中は空いている」と連絡したそうです。その夜娘から私に電話が入りました。「10月5日は孫尚樹が通う愛媛幼稚園の主腰を担ぐ日なの。私は仕事を休めないので、写真を撮りに行って欲しい」と懇願されました。長男智樹の時は運動会や学芸会など子とある度に両親が休んで出席していたのに、次男となるとこうも変わるのかと思いつつ、孫可愛さに安受け合いしてしまいました。11時からというので少し早めの10時30分に到着し、近くの有料駐車場に車を止めて、2番町の繁華街の中にある幼稚園内に入りました。先生たちも孫朋樹を頻繁に迎えに行った経験があるので、私の顔を覚えてくれていて、不審者と間違われませんでした。

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 先生の話によると神輿は歩行者天国の大街道へ繰り出すのですが、孫尚樹の「ことり組」は最年少組なので園外には出ず、園内でみこしを担ぐのだそうです。少しがっかりしましたが、ことり組の部屋の外に行くと、園児たちは一斉に私の方を見てくれました。窓越しに孫の姿を発見し手を振ると、嬉しくも恥ずかしそうに笑顔で手を振ってくれました。

 やがて11時になり、子どもたちが元気に外へ出てきました。勿論孫尚樹も一番乗りで私の所へ走ってやってきて私とハイタッチしました。いつの間にか両親やおじいちゃんやおばあちゃんが孫の姿を一目見ようとカメラ片手に沢山集まって、一辺で賑やかになりました。

 目の中に入れても痛くないような神輿に園児たちがまるでアリのように群がり、先生の笛の音に合わせて「ワッショイ、ワッショイ」と担いでそこら辺を一周しました。

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 園内には昔懐かしい「神輿音頭」の音楽が流され、子どもたちも豆絞りの鉢巻をしてもらい、秋祭りの何であるかも分からぬまま、僅か10分ほどのイベントは終わりました。孫は私の所へ駆け寄り最後のハイタッチを力強く2回して、先生とともに部屋の中へ消えて行きました。

 他の園児たちは親やおじいちゃん、おばあちゃんを引きつれ、大街道へ繰り出して行きましたが、私は駐車場まで戻り岐路に着きました。

 仕事から帰った娘に電話して、孫尚樹の神輿担ぎの様子を報告してやりました。孫は疲れたのか遅いお昼寝の最中とかで、兄の孫朋樹が電話に出て、近々連休に遊びに来る予定や秋の虫などについて話をしました。


  「鉢巻を 締めて祭りの 神輿担く 孫の姿を 写真に撮りて」

  「親仕事 爺が代役 園に行く 私見つけて ハイタッチする」

  「長男の 時はときめく 親たちも 次男二の次 こうも変わるか」

  「注連縄が 張られ幟も 風に揺れ 松山祭りの 街中歩く」


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○懐かしい顔々がやって来ました

 コープえひめの学識理事になって4年が経ちました。最初は一期くらいなら何とかと思い、安請け合いで引き受けたものの、生協運動の奥の深さに何度か立ち止まりましたが、それでも無事二期目を終え、三期目の初年を迎えています。この四年間の任期の中で今まで出合ったこともないような人たちに出会い、また任期で退任した人と別れました。でも濃密に毎月一回は化ならず出会った人たちの顔を忘れるはずもなく、いまだに何度か手紙やメールが届いて交流を深めているのです。

 昨日そんな仲間ともいえる人たちが更なる仲間を連れて人間牧場へやって来ました。退任後僅か3ヶ月しか離れていませんが嬉しい出会いに思わず顔がほころびました。

 一行とふたみシーサイド公園で待ち合わせをして、車4台を連ね人間牧場へ向かいました。少々ガスが入っていて自慢の遠望は利かなかったものの、前日の雨もすっかり晴れて、遅まきながら顔を出したススキが秋風に揺れる絶好の日和でした。例によって私のおしゃべりを聞いてもらったり、ロケーション風呂にお湯を張り、2班に分かれて足湯を楽しんでもらうことが出来ました。引率の平井さんは折角ためてもらったお湯が勿体ないと、女性ホルモンで味付けしたお湯にざぶんと入り、ひとり「いい湯だな~」を楽しんでいました。

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 まあそれにしても見事な脚線美です。プライバシー保護のため誰の足だと分からないようにパチリ証拠写真を撮りましたが、顔より足が素敵な奥様たちでした。(失礼しました)

 ロケーション風呂から見える港の様子や遠望に満足した一行を、わが家へも案内しました。海の資料館海舟館や私設公民館煙会所へも案内し、12時30分にわが家でお別れしました。コープえひめの理事をしなかったら出会わなかったであろう人たちのことを思うと、人の出会いは不思議ささえ覚えます。彼女たちには随分と勉強をさせてもらいました。これからも彼女たちのことを忘れ内容にしようと思いました。

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 それにしても他所の女性はどうしてこんなに美しいのでしょう。お化粧が上手いのか、着る服のセンスがいいのか、他所の女性と比較するとわが家の妻は多少劣るような気がするのです。多分妻も毎日見ている他所の男性はどうしてこう足が長くて顔もイケメンなのか、思っているに違いないのです。でも私の妻は総合点で採点すると何処の女性にも負けないと、多少ゴマすりの甘い点をつけるのです。私が見ている妻はみなさんのように余所行きではなく、普段着なのですから。

 おっと、とんだ方向に話が行ってしまいました。危ない、危ないです。


  「久方に 懐かしい顔 集まりで ワイワイガヤガヤ おしゃべり楽し」

  「大根の ようなお身足 勢ぞろい 足湯で体 ポカポカなりて」

  「妻よりも みんな可愛い 人ばかり 総合点では 妻が一番」

  「私には 安心するのか 女性たち 心許して 今日も沢山」

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○今年の採蜜終息宣言

 今年は春から秋にかけて、他愛のないことながら、自然を相手にする社会に関わりつつあることもあって、気象的にハラハラ・ドキドキの半年を過ごしました。その中心は何といっても野菜とミツバチです。野菜は蒔いた種の殆どを山バトに食べられたり、晩夏の異常高温と降雨不足で冬野菜の作付けが大幅に遅れたり、気象条件ではないにしてもイノシシに人間牧場芋畑のサツマイモが被害にあったり、眉をしかめるような日々でした。これも自然がくれた不自然として受け入れ、来年こそは天変地変のない一年であって欲しいと祈るのです。


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 さて昨日は、ミツバチ養蜂の師匠である野村町山奥組の井上さんが、わが家の裏に今年初めて設置したミツバチの巣箱確認に来てくれました。養蜂などと言えるほどではありませんが、それでも今年は人間牧場に4個、家の裏に2個巣箱を設置して5個の巣箱に入居したのですから入居率8割は大した実績です。7月30日にはその中の3つの巣箱で採蜜作業を行い、既に3升あまりの成果を挙げているのです。私的には裏山に設置している巣箱の巣がかなり成長しているようなので、この巣から1升採蜜できれば、昨年の実績である4升を抜くかも知れない淡い期待を抱いていたのです。

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 昨日は午前中人間牧場へお客さんが来ることもあって、午後2時に自宅へ来ていただくようメールで打ち合わせをしていましたが、聞けば井上さんはわが家へ来るのは初めてだそうで、カーナビを頼りにやって来ました。山里で取れた栗の実とモチムギ、それに山間米を手土産にいただきましたが、いつものことながら恐縮してしまいました。

 井上さんは早速家の裏山に上がり、設置している巣箱の重石を取って持ち上げて重さを確認していました。巣箱の下まで蜂の巣は成長しているものの、思ったほど重さが確認されず、下板を抜いて掃除をした段階で、来年までお預けという結論に達しました。仮にこの巣箱から巣を外して採蜜すると、蜂たちは行き場を失い来年の種蜂になることが出来ない確率が高いのです。この巣が巣虫にやられたり群れが逃げたりというリスクはあるものの、より安全な方法は見守る方法以外ないようです。

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 この決断によって今年の採蜜実績は昨年を下回る3升3合と確定しました。異常気象や私の養蜂技術の程度から見れば上出来な結果なので、井上さんに迷惑をかけたり、蜂に何度か刺されたりしましたが、分からないことも学習してそれなりに技術も向上した年でした。

 井上さんは私のためにキンリョウヘンという日本ランを一鉢プレゼントしてくれました。養蜂にとって蜂を呼び寄せる道具のような貴重なものなので、大切に育てて行きたいと思っています。ミツバチの師匠と仰ぐ井上さん、今年もご指導や物心両面のご支援ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。


  「師匠来る 巣箱持ち上げ 来年に 楽しみ取って おこう結論」

  「鉢は八 三升三合 散々(さんさん)と 語呂を合わせて 刺し傷思う」

  「蜂飼いて 二年の月日 流れたり 自然見つめる 機会になりて」

  「蜂たちが 集め集めた 蜂蜜を 私横取り 勝手なものよ」

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○第二縁開所訪問

 家の横に私設公民館「煙会所」を設置したのは、私がアメリカから帰国した昭和51年直後でしたから、もうかれこれ34年も前のことです。以来この「煙会所」は時には遠来のお客さんを迎えるゲストハウスとして、またある時は青年たちのたまり場として、多くの夢と希望を育んできました。そしてこの「煙会所」で身も心も熱くした人たちが自分のふるさとに帰り、一念発起して「煙会所」のようなたまり場が欲しと行動を起こしたのです。

 たまり場が完成する度に私の所に、「造りたい」「造る」「造った」と連絡が届き、その都度名前をつけるので本家「煙会所」の分家としての看板が欲しいという依頼を受けて、看板を送り届けてきました。北は青森県三戸郡倉石村の「八心堂」や南は奄美大島瀬戸内町の「第17縁開所」など、今では全国17地域に分家しているのですから驚きです。

 私にとって忘れられないのが「第二縁開所」です。鳥取大学農学部を出て奥さんと入植した丹原町来見で有機農業を営む西川さんとのご縁が始まり、家の横にゲストハウスを建てるという話を聞き、私たち夫婦は書家である叔父に書いてもらった看板を持参して建前に行きました。その後ゲストハウスは完成し、私も一~二度訪ねたことがありますが、最近は行く機会に恵まれず、むしろ西川さんが私の主宰するフロンティア塾に参加したり、人間牧場へ泊まりに来たりしたものの、第二縁開所の思い出さえも薄れていたようです。

 三日前近くの中川公民館へ講演に出かけたついでに、西川さん宅を訪ねました。運よく奥さんが在宅中で第二縁開所へ案内してもらいました。

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 こじんまりとした部屋は研修生たちが泊まれるように木製の二段ベッドが置いてあり、隅には西川さんらしいドラム管利用の囲炉裏が設えていて、彼自慢のギターやウクレレなどの楽器も置かれていました。第二縁開所を造ってから10数年が経ちました。その間西川さんご夫妻にも私にも、それぞれの時間が過ぎた訳ですが、この施設の果たしてきた役割は大きかっただろうと推察をするのです。

 今朝人の気配のない「煙会所」へ入りましたが、この「煙会所」の囲炉裏を囲んだ過ぎし日々や、多くの人の顔が浮かんできました。今はすっかり人間牧場にその場を奪われ、来客用の応接間として活用していますが、再び賑わいを取り戻したいとも思っています。

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(今朝の私設公民館「煙会所」)

  「分家した 施設訪問 懐かしき 看板目にし 在りし日偲ぶ」

  「縁開く 縁が深まり それぞれの 人の心に 温かさ増し」

  「さあ今日も どんな顔々 集まるか 日々が楽しみ 煙会所秋」

  「看板も 風雨晒され 読みにくく 同じ日々過ぎ 俺も色あせ」

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○風の吹く駅で

 机の上の掃除をしていると、1ヶ月前の9月4日に25周年を終えた夕焼けプラットホームコンサートのパンフレットが出てきました。オレンジ色の紙は4つ折になって、文字さえ判読できないようになっていました。当日の抽選券を兼ねたパンフレットは、コンサートが終ると胸のポケットに終われ忘れ、そのまま洗濯機にかけられたのです。妻は洗濯物をたたむ時そのパンフレットを見つけ、そのまま脱衣場の窓辺に置いて自然乾燥したのでしょうが、数日前掃除をしていてそのパンフレットを見つけ、大事なものだと思って私の所浅井の机の上に置いて暮れていたのです。

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(洗濯され文字が判読しづらくなったパンフレット)

広げるのも困難でインクの文字は滲んで判読さえ難しくなっていましたが、どうにか開けると、プログラムと抽選券と書かれた表面の裏面に、当日運営に携わった人たちが歌った「風の吹く駅で」という高橋研さん作詞作曲の歌詞がありました。当日は皆さんの歌声に合わせて口ずさんだ程度でしたので、もうメロディーは忘れましたが、市役所の松本さんにお願いして、この歌のメロディーを手に入れたいと思うようになりました。

「風の吹く駅で」     作詞作曲 高橋研

(歌詞掲載不可のため割愛)

 かつて夕焼けプラットホームに起承転結と4回も登場し、私の願いを聞いて「双海恋歌」を作詞作曲してくれた下田逸郎さんのことを思い出しました。オリジナルなあの歌も今に歌い続けられていますが、この歌も素晴らしく、是非口ずさむ程度に覚えたいと思っていますが、音楽が苦手な私ながらハーモニカで吹けるようにしたいと思っています。

 

  「ポケットに たたんで終い 忘れてた パンフ広げて 文字を拾いぬ」

  「この歌の 文字をなぞりて 在りし日の 人を思いつ 歌口ずさむ」

  「この歌を 教えてもらい 歌いたい 叶うことなら ハーモニカ吹く」

  「風の吹く 駅で私も ハーモニカ 吹いて競演 風に吹かれて」

 

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○66回目の誕生日

 高齢になると、何だか誕生日が来るのが憂鬱になるそうです。「ああまた一つ歳をとってしまうのか」と、殆どの人が思うそうなのですが、若い頃はこんな話を聞いても「俺はそんなことを思わないだろう」と思っていました。しかし自分が実際にその歳になると、加齢の重みはまるでボディーブローのようにずっしり心に響くのです。比較的ポジティブに生きる私がそうなのですから、ネガティブな人や女性は思わず自分の顔を鏡に写し、そう思うだろうなあと推察するのです。

 わが家は親父が9月1日に92歳、妻が9月12日に65歳、私が今日66歳と、この一ヶ月で3人が1歳ずつ歳をとって高齢化社会真っ只中です。ゆえに親父のこれから、妻のこれから、勿論66歳になった私の将来をどう見据えるか、いよいよ正念場となってきました。

 昨日私の元に2通のハガキが届きました。一通は元県議会議長を務めた俊成薫さんからです。俊成さんとは若い頃ひょんなことから知り合い、もう20年間も切らすことなく私の誕生日に達筆なお便りが毎年届くのです。俊成さんには私たち21世紀えひめニューフロンティアグループの活動として行っていた「無人島に挑む少年のつどい」で子どもが事故に巻き込まれた時、海上保安協会の会長として尽力して助けていただいた恩があるのです。その後双美町でウォークラリーをやった折も沢山の人を送り込んでいただきました。今は政界を引退しておられますが、日中友好奉賛会会長や県木材協会長などをして幅広くご活躍をされているようです。

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 もう一枚素敵なハガキが届きました。ハガキの友だちである高知県大月町に住む高校事務職員の掘充恵さんからです。女性らしい手づくりのハガキにはバーズデーケーキと花束をあしらったカットが添えられ、嬉しい祝詞となりました。高知新聞の記事を引用して、「田んぼの肥やしは人の足音」という格言を送っていただきました。

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 人にはそれぞれ誕生日があって、誰しも同じように一年に一回その日を迎えるのです。私も早66回目の誕生日を迎えました。掘充恵さんが書いている通り「素敵な一年の始まりになりますように」と思えば、今日は66回目の一年の始まりなのです。また俊成薫さんが書いているように産み育ててくれた父母への感謝に合掌し、健康と多幸を祈る日と考えれば、まさに今日は一年の中で最も大切な一日だと思わなければならないのです。

 今朝妻が、「あなた誕生日おめでとう」と言葉をかけてくれました。歯の浮くような言葉ですが最も身近な人からの祝福を「ありがとう」と甘んじて受けました。娘や息子がプレゼントをくれたし、長男の嫁は何処で捜し求めたのか、「進一」「繁子」と名前入りの夫婦箸をプレゼントしてくれました。少しボケてきて自分の箸が分からなくなっても、この箸なら迷い箸にならないと大笑いをして貰いました。

 ここまで書いていると、携帯電話のメール受信音が急に鳴り出しました。メル友の青木晴美さんからです。「66回目の誕生日おめでとうございます。また一年若松さんらしく、元気に過ごして下さい」とのメールでした。ありがとう皆さん。

  「重ねたり 六十六度の 誕生日 目出度くもあり 目出度くもなし」

  「世の中に 私気遣う 人がいる 嬉しいことと 素直喜ぶ」

  「一枚の ハガキ嬉しや 誕生日 今日は朝から そわそわしきり」

  「ボケてから 使えるようにと 名前入り 箸を贈られ 思わずウフフ」

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○忙しい一日

 長い付き合いの久万町の渡辺さんから、「今度愛媛県に赴任してきたキャリアの人がどうしても海の近くの町を訪ねたいというので、双海町とあなたを推薦しました。是非よろしくお願いします」と電話が入りました。おっつけその方から電話が入り、「土曜日の10月2日午後4時、シーサイド公園で待ち合わせ」することにしました。

 私はこの日先約があって旧丹原町、西条市中川公民館の講座に招かれていたので、まず午後1時から始まる講演をこなさなさなければなりません。前日そのことをかぎつけたちろりん農園の西川さんからも電話が入り、「あなたの話を夫婦で聞きに行きます」との連絡を受けました。折角だから西川さん宅へ立ち寄ろうと早めに家を出て12時近くに西川さん宅に到着しました。西川さんとはもう20年来の深い付き合いで、彼が私を勝手に「ししよう~」と呼んだり、彼の出版した「晴れときどきちろりん」という本の序文を書いたりしているのです。

 彼が自宅横にゲストハウスを造った時、私たち夫婦はお祝いに叔父に書いてもらった「第二縁開所」という看板を持参してお岩煮に駆けつた間柄なのです。何年かぶりで久しぶりに訪ねた第二縁開所は随分使い込まれ、芸予地震で隙間が出来たと聞いていた壁も綺麗に修復され、ドラム缶をはめ込んだ簡易な囲炉裏も造られていました。西川さんは連絡どおりあいにく留守でしたが、奥さんにお茶を入れてもらい少しの間積る話をしました。

 カーナビで探し当てた中川公民館は直ぐに見つかり、女性職員と講演直前まで楽しいおしゃべりをしました。やがて2階のホールに50人を越える人を集めて講演が始まりました。終始笑いに包まれ居眠りする人もなく1時間30分の講演を無事終えることが出来ました。

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 最初は小松インターから高速に乗る予定でしたが、桜三里を通って川内インターから乗った方が早いというアドバイスを受けて、そのとおり進みました。桜三里の追い越し車線はスピードが出るのですが、取り締まり重点区間なので自重気味な走りました。案の定取締りをしていて何台かの車が捕まっていたようです。

 桜三里を下った頃、約束していた方から電話が入り、二名で伺うはずの東京からのお客様がホテルに到着しないので少し遅れるかも知れない」と電話が入り、3時40分頃にはシーサイド講演に帰る予定だったタイムスケジュールに少し余裕が出てきました。

 自宅に帰ると急いで普段着に着替え妻と二人で連絡を待ちました。昨日は東京からのお客さんが女性だと聞いていたので妻も同伴することにしたのです。相手の女性は飛行機に一便乗り遅れたそうですが何とか午後4時30分にシーサイドに姿を見せました。

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 早速翠小学校の外観、わが家の煙会所、海舟館、人間牧場と夕闇迫る自慢の施設を巡り、潮路という海鮮レストランに案内しました。双海と私を渡辺さんが指定したということは夕日と魚料理と直感し、レストランの女将さんに事前にその旨を伝えていましたが、鯛、アワビ、サザエ、ウニ、鱧、アマギなどの旬の魚が所狭しとな並べられ、親しく歓談をしながら舌鼓を打ちました。残念ながら曇り空で夕日は見えませんでしたが、幸運にも西の空が焼けて幾分かの夕焼けを見ることができました。2時間余りの会食を終え、女性の方の宿泊先である第一ホテル、そしてキャリアの方の官舎がある持田まで無事見送ることが出来ました。帰りに孫たちの顔を見ようと娘のマンションと息子のマンションを訪ねました。昨日も24時間があっという間に過ぎる忙しい一日でした。


  「退職を したというのに 忙しく 毎日過ごす 楽しきことよ」

  「この町と 私を指名 する友の 心情察し 魚もてなす」

  「寄り添いて 客をもてなし してくれる 妻に感謝の 一日終わる」

  「孫笑顔 疲れふっ飛ぶ 活力に 夫婦ともども 力いただく」

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○消えたガソリンスタンドの灯

 双海町に4軒あったガソリンスタンドが一軒また一軒となくなり、合田石油店が8月いっぱいで店を閉め、ついに上灘地区にはガソリンスタンドが一軒もなくなってしまいました。昔のような「ガソリンは地元で入れる」という地元依存体質がなくなったため、またセルフや安売りといったガソリンスタンド間の下等競争が激しくなって、松山など近隣市町村のガソリンスタンドを利用する人が増え、立ち入って行かなくなったのです。聞くところによると追い討ちをかけるように地下タンクの更新時期を迎え、塩害対象地域ゆえに地下タンクの埋設更新にはそれ相応の資金的投資が必要らしく、経営者の年齢的な見定めもあって、止む無く廃業することにしたというのです。

 合田石油で給油が出来なくなって約1ヶ月が過ぎました。私たちは松山などに行く機会も多く、自家用車は松山へ出かけたついでに給油できるのですが、単車や草刈機の混合油など、比較的少量のガソリンを必要とする高齢者などは「大変不便になった」とぼやいていました。事実私も単車のように余り沢山ガソリンが入らないものや、草刈機の混合油などは備蓄しなければならないのです。

 耕運機にしても草刈機にしても今までは地元の気安さから、ガソリンをポリ容器入れてもらっていましたが、本当は鉄製容器でないといけないそうで、近々真っ赤な鉄製容器を買わなければならなくなってしまいました。かように一事が万事暮らしが不便になることなど、気にも留めていませんでした。一昨日は風呂の石油給湯器のタンクの灯油が少なくなって、妻は買い物に行くついでにトラックの荷台に5つもの灯油ポリ容器を積んで仕入れに行きました。親父の隠居でもこれからは灯油の配達がなくなったため、私たちが購入する時買って帰らなければならなくなりました。

 国道沿いにあった合田石油の灯が消え、看板が取り外されました。使われなくなったガソリン注入用のメーター機が2台並んでいる姿は何ともわびしく寂しいものです。ガソリンスタンドの「いらっしょませ。ありがとうございます」といった元気な挨拶や、人がたむろする姿はもう見ることも聞くことも出来ないのです。

 私の退職と同じ日に始まった市町村合併後の町の斜陽化は、道行く人の数も行き交う車の数もどんどん減って、立ち行かなくなり廃業する人が予想以上に進んでいるようです。建設業者や料飲業者、自動車修理工場など、店をたたんだり規模を縮小したりする姿が目立って増えました。

 30億とも40億ともいわれる役場という田舎にしては巨大産業が潰れたわけですから、下請け企業が倒産するのは当たり前かも知れません。その分吸収統合した伊予市役所本庁は少なからず活気が戻ったようですが、多分隣の中山町も、私たちの町と同じような運命を辿っているのではないかと思われるのです。追い討ちをかけるように、民主党政権がマニュフェストで掲げた高速道路無料化という実験事業が始まり、並行路線の国道56号線や国道378号線は目に見えて交通量が減って国道沿線の店は死活問題だと嘆いているのです。


 庶民の暮らしを守るはずの政治が庶民の幸せを奪う姿には大きな憤りを感じますが、思ってもどうにもならない問題だけに深刻で、ノーというサインを清き一票でつきつける選挙の機会もまだまだ先のようです。加戸県知事が任期途中で辞めるため、にわかに賑やかになってきました。中村松山市長が立候補するようで、その穴埋めに野志南海放送アナウンサーや帽子県議、菊池市議が保守地盤を割ってしのぎを削っているようです。

 誰が立候補しても別にかまいませんが、選挙の時だけ庶民の暮らしを守るパフォーマンスをする政治家は、正直必要ではありません。もっと庶民の暮らしに目を向ける政治家が欲しいものです。合併の時結んだ政策協定をもう一度思い出し、この町にも再び活気を取り戻して欲しいと切に願っています。


  「結局は 上に向かって ツバを吐く 自分に戻る 切ない心情」

  「また一軒 店の灯消えて 寂しけり 時代はどんどん 進むというに」

  「この町で 生きて死のうと 思うけど 不安が募り 心乱れる」

  「選挙時に あなたの暮らし 守ります 言った言葉が しらじらしくも」

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○忘れかけていた若者からのメール

 学校でパソコンを習わなかった古い時代に育っている私ですが、少しずつ独学して、今では何とかパソコンをいじくって、メールのやり取りや毎日小まめに日記帳のつもりでブログをかけるようになっています。人から見れば幼稚な私のパソコン操作で今では沢山のメル友にも恵まれ、毎日メールを開くのが楽しみになっています。最初はエッチなメールにドキドキもしましたが、迷惑メールとして一括消去が出来るようになって、メル友のメールに返信したり、時には全国からメールで講演依頼などもあって、請われるままにプロフィールや写真、似顔絵などを添付送付しているのです。

 今朝起きてメールを開くと、正直な話忘れかけていた若者からメールが入っていました。松野町役場に勤めるMさんからです。松野町といえば松前町と並んで合併しなかった町ですが、その後合併騒動の後遺症とでもいうのでしょうか、議会と執行機関との対立など、何かと新聞紙上を賑わせているようです。先日も議会提案の副町長廃止案が可決され、前代未聞のような騒動になっているようです。鹿児島県の阿久根市長の専決処分騒動もそうですが、議会がもめるとまちは二分され、行政が停滞して速いスピードで進化している時代の波に、乗り遅れてしまうのです。私も役場に勤めていたころ、船券売り場問題や町名変更問題で議会がもめ、国や県に相手にしてもらえない時代がありました。役場でまちづくりを担当していたため、二つの事件に巻き込まれ、警察の家宅捜査や参考人取調べまで受けたのです。二度とないショッキングな事柄なので、今も私の脳裏に鮮明に残っているのです。

 さて役場のMさんからのメールですが、今年の4月21日旧友で元教育長の芝さんを介して、道の駅特産市の総会に講演を頼まれ出かけた折の役場の担当者がMさんなのです。講演が終わって直ぐに私のところにお礼のメールが入り、その対応に感心し私もハガキで返信した記憶があるのです。その時のメールはまだパソコンの中に消さないまま遺しているのです。

 Mさんからのメールは、私の話を聞いてから今日までの半年間、特産市の改善に向けて努力している姿がこと細かく書かれていました。いやあ正直嬉しく思いました。私の持論ですが5千人にも満たない小さな町を、いっぱしの町にするには実は役場職員のやる気さえあれば簡単なのです。その例は私です。私も停滞しきった何処にでもある何もない無名の町を何とか有名にしようと頑張りました。100人の中で99人が反対するような夕日をテーマにまちづくりを進めましたが、それなりにいい町を作りました。

 森の国ホテルやおさかな館のある道の駅など、物語は既に出来ているのですからやれば簡単にクリアーできるのです。私は役場職員でありながら、毎朝5時に起き役場に行くまでの3時間、道の駅のあるシーサイド公園で清掃活動を12年間もやりました。じゃこ天に串を刺して食べることを発案したり、ちくわを夕日の望遠鏡、夕焼けソフトクリーム、夕日日コーヒーなど、全知全能を傾けて頑張りました。菜の花の種を落として花畑を作り冬の人の来ない時期に人を来させる話題は今も地域住民に受け継がれているのです。

 Mさんのメールにはそこら辺のことにどうやら気がついて一歩前へ踏み出した心情が吐露され、つい嬉しくなりました。Mさんのやる気は本物のようです。早速私は彼にメールを送りました。「また逢いましょう」と・・・・。


  「記録した ブログ呼び出し 彼のこと 思い出しつつ またブログ書く」

  「町もめる その都度役場 翻弄され 前へ進めず 一歩後退」

  「心情を 吐露したメール 受け取りぬ 核心部分 気付いて実行」

  「町なんて 十人馬鹿と 気違いで どうにでもなる 本気でやれば」


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