○共栄網の加工場が完成
我が家は生まれた時漁家でした。夏から秋にかけてはイワシ巾着網でカタクチイワシを協同で獲り、各家々に分配して煮干を作っていました。その頃は子どもとて貴重な労働力で、親父やおふくろと一緒になって一生懸命働きました。私が大きくなるのと相前後して下灘の巾着網は廃れわが家も鯛網や底引き網に転換して行ったのですが、当時の長閑な漁村の暮らしを思うとついつい懐かしさが込み上げてくるのです。
下灘の巾着網が廃れた後、上灘小網の「共栄網」という巾着網は船引き網に漁法は変わりましたが、今もカタクチイワシで煮干を作り、チリメン弱を加工して生計を立てています。小網が今日まで残ったのは坂の集落ゆえにいわしを運ぶ重労働から開放されたいという願いが集結し、共同加工場を建設したからでした。以来加工場は多くの成果を上げて漁民の暮らしを向上させましたが、施設の近年老朽化が目立つようになり、色々な知恵を絞って再建に取り組み、このほどやっと新しい加工場が完成しました。
何日か前の愛媛新聞にその全容が紹介されました。外観はオレンジ色で統一され、外から見るととてもイワシの加工施設には見えないモダンな建物です。知らない人は国道沿いにお目見えしたこの施設のことを、今流行の「特老ですか?」と聞く有様です。
私も中を覗いたことはありませんが、近代的で衛生的な加工場は煮干のシーズンを迎えて活気に満ちているようです。
双海町は農業と漁業以外これといった産業のない町です。その農業もみかんの不振、漁業も魚の不漁と、この30年いいことは余りなかったような気がします。ゆえに農業も漁業も将来が危ぶまれていますが、この加工場がもっともっと発展して欲しいと願うのです。
私は高校を卒業後漁業に7年間従事しました。病魔に襲われ漁業を断念、止む無く転職して別の道を歩んできましたが、今でも漁業のことが気がかりで、時々当時の仲間たちと漁業について話をしますが、明日の漁業を語り合った仲間たちからは残念ながら希望に満ちた話は殆ど聞こえず、諦めにも似た話しかしないのです。
漁業を病気とは言いながら途中で見切りをつけた私ですから、大きな声では言えませんが、やる気にさえなればいくらでも方法はあるのです。私のこの歳になりながらも万分の一の恩返しをしたいと考えていて、イメージ的には固まりつつあり、近いうちに綿新漁業に対する夢を聞いて欲しいと思っています。私は現在愛媛海区漁業調整委員でもあるのですから・・・・・・。
「おらが町 漁業発展 して欲しい あれやこれやと 夢を描きつ」
「未利用の 資源ゴロゴロ 転がって 誰も気付かず 浜辺で朽ちる」
「海草の 産地表示を 読んでみる ヒジキワカメも 韓国・中国」
「急がねば いや落ちつけと 独り言 海はこれから ホスピタリーに」