○第二縁開所訪問
家の横に私設公民館「煙会所」を設置したのは、私がアメリカから帰国した昭和51年直後でしたから、もうかれこれ34年も前のことです。以来この「煙会所」は時には遠来のお客さんを迎えるゲストハウスとして、またある時は青年たちのたまり場として、多くの夢と希望を育んできました。そしてこの「煙会所」で身も心も熱くした人たちが自分のふるさとに帰り、一念発起して「煙会所」のようなたまり場が欲しと行動を起こしたのです。
たまり場が完成する度に私の所に、「造りたい」「造る」「造った」と連絡が届き、その都度名前をつけるので本家「煙会所」の分家としての看板が欲しいという依頼を受けて、看板を送り届けてきました。北は青森県三戸郡倉石村の「八心堂」や南は奄美大島瀬戸内町の「第17縁開所」など、今では全国17地域に分家しているのですから驚きです。
私にとって忘れられないのが「第二縁開所」です。鳥取大学農学部を出て奥さんと入植した丹原町来見で有機農業を営む西川さんとのご縁が始まり、家の横にゲストハウスを建てるという話を聞き、私たち夫婦は書家である叔父に書いてもらった看板を持参して建前に行きました。その後ゲストハウスは完成し、私も一~二度訪ねたことがありますが、最近は行く機会に恵まれず、むしろ西川さんが私の主宰するフロンティア塾に参加したり、人間牧場へ泊まりに来たりしたものの、第二縁開所の思い出さえも薄れていたようです。
三日前近くの中川公民館へ講演に出かけたついでに、西川さん宅を訪ねました。運よく奥さんが在宅中で第二縁開所へ案内してもらいました。
こじんまりとした部屋は研修生たちが泊まれるように木製の二段ベッドが置いてあり、隅には西川さんらしいドラム管利用の囲炉裏が設えていて、彼自慢のギターやウクレレなどの楽器も置かれていました。第二縁開所を造ってから10数年が経ちました。その間西川さんご夫妻にも私にも、それぞれの時間が過ぎた訳ですが、この施設の果たしてきた役割は大きかっただろうと推察をするのです。
今朝人の気配のない「煙会所」へ入りましたが、この「煙会所」の囲炉裏を囲んだ過ぎし日々や、多くの人の顔が浮かんできました。今はすっかり人間牧場にその場を奪われ、来客用の応接間として活用していますが、再び賑わいを取り戻したいとも思っています。
「分家した 施設訪問 懐かしき 看板目にし 在りし日偲ぶ」
「縁開く 縁が深まり それぞれの 人の心に 温かさ増し」
「さあ今日も どんな顔々 集まるか 日々が楽しみ 煙会所秋」
「看板も 風雨晒され 読みにくく 同じ日々過ぎ 俺も色あせ」