shin-1さんの日記

○消えたガソリンスタンドの灯

 双海町に4軒あったガソリンスタンドが一軒また一軒となくなり、合田石油店が8月いっぱいで店を閉め、ついに上灘地区にはガソリンスタンドが一軒もなくなってしまいました。昔のような「ガソリンは地元で入れる」という地元依存体質がなくなったため、またセルフや安売りといったガソリンスタンド間の下等競争が激しくなって、松山など近隣市町村のガソリンスタンドを利用する人が増え、立ち入って行かなくなったのです。聞くところによると追い討ちをかけるように地下タンクの更新時期を迎え、塩害対象地域ゆえに地下タンクの埋設更新にはそれ相応の資金的投資が必要らしく、経営者の年齢的な見定めもあって、止む無く廃業することにしたというのです。

 合田石油で給油が出来なくなって約1ヶ月が過ぎました。私たちは松山などに行く機会も多く、自家用車は松山へ出かけたついでに給油できるのですが、単車や草刈機の混合油など、比較的少量のガソリンを必要とする高齢者などは「大変不便になった」とぼやいていました。事実私も単車のように余り沢山ガソリンが入らないものや、草刈機の混合油などは備蓄しなければならないのです。

 耕運機にしても草刈機にしても今までは地元の気安さから、ガソリンをポリ容器入れてもらっていましたが、本当は鉄製容器でないといけないそうで、近々真っ赤な鉄製容器を買わなければならなくなってしまいました。かように一事が万事暮らしが不便になることなど、気にも留めていませんでした。一昨日は風呂の石油給湯器のタンクの灯油が少なくなって、妻は買い物に行くついでにトラックの荷台に5つもの灯油ポリ容器を積んで仕入れに行きました。親父の隠居でもこれからは灯油の配達がなくなったため、私たちが購入する時買って帰らなければならなくなりました。

 国道沿いにあった合田石油の灯が消え、看板が取り外されました。使われなくなったガソリン注入用のメーター機が2台並んでいる姿は何ともわびしく寂しいものです。ガソリンスタンドの「いらっしょませ。ありがとうございます」といった元気な挨拶や、人がたむろする姿はもう見ることも聞くことも出来ないのです。

 私の退職と同じ日に始まった市町村合併後の町の斜陽化は、道行く人の数も行き交う車の数もどんどん減って、立ち行かなくなり廃業する人が予想以上に進んでいるようです。建設業者や料飲業者、自動車修理工場など、店をたたんだり規模を縮小したりする姿が目立って増えました。

 30億とも40億ともいわれる役場という田舎にしては巨大産業が潰れたわけですから、下請け企業が倒産するのは当たり前かも知れません。その分吸収統合した伊予市役所本庁は少なからず活気が戻ったようですが、多分隣の中山町も、私たちの町と同じような運命を辿っているのではないかと思われるのです。追い討ちをかけるように、民主党政権がマニュフェストで掲げた高速道路無料化という実験事業が始まり、並行路線の国道56号線や国道378号線は目に見えて交通量が減って国道沿線の店は死活問題だと嘆いているのです。


 庶民の暮らしを守るはずの政治が庶民の幸せを奪う姿には大きな憤りを感じますが、思ってもどうにもならない問題だけに深刻で、ノーというサインを清き一票でつきつける選挙の機会もまだまだ先のようです。加戸県知事が任期途中で辞めるため、にわかに賑やかになってきました。中村松山市長が立候補するようで、その穴埋めに野志南海放送アナウンサーや帽子県議、菊池市議が保守地盤を割ってしのぎを削っているようです。

 誰が立候補しても別にかまいませんが、選挙の時だけ庶民の暮らしを守るパフォーマンスをする政治家は、正直必要ではありません。もっと庶民の暮らしに目を向ける政治家が欲しいものです。合併の時結んだ政策協定をもう一度思い出し、この町にも再び活気を取り戻して欲しいと切に願っています。


  「結局は 上に向かって ツバを吐く 自分に戻る 切ない心情」

  「また一軒 店の灯消えて 寂しけり 時代はどんどん 進むというに」

  「この町で 生きて死のうと 思うけど 不安が募り 心乱れる」

  「選挙時に あなたの暮らし 守ります 言った言葉が しらじらしくも」

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shin-1さんの日記

○忘れかけていた若者からのメール

 学校でパソコンを習わなかった古い時代に育っている私ですが、少しずつ独学して、今では何とかパソコンをいじくって、メールのやり取りや毎日小まめに日記帳のつもりでブログをかけるようになっています。人から見れば幼稚な私のパソコン操作で今では沢山のメル友にも恵まれ、毎日メールを開くのが楽しみになっています。最初はエッチなメールにドキドキもしましたが、迷惑メールとして一括消去が出来るようになって、メル友のメールに返信したり、時には全国からメールで講演依頼などもあって、請われるままにプロフィールや写真、似顔絵などを添付送付しているのです。

 今朝起きてメールを開くと、正直な話忘れかけていた若者からメールが入っていました。松野町役場に勤めるMさんからです。松野町といえば松前町と並んで合併しなかった町ですが、その後合併騒動の後遺症とでもいうのでしょうか、議会と執行機関との対立など、何かと新聞紙上を賑わせているようです。先日も議会提案の副町長廃止案が可決され、前代未聞のような騒動になっているようです。鹿児島県の阿久根市長の専決処分騒動もそうですが、議会がもめるとまちは二分され、行政が停滞して速いスピードで進化している時代の波に、乗り遅れてしまうのです。私も役場に勤めていたころ、船券売り場問題や町名変更問題で議会がもめ、国や県に相手にしてもらえない時代がありました。役場でまちづくりを担当していたため、二つの事件に巻き込まれ、警察の家宅捜査や参考人取調べまで受けたのです。二度とないショッキングな事柄なので、今も私の脳裏に鮮明に残っているのです。

 さて役場のMさんからのメールですが、今年の4月21日旧友で元教育長の芝さんを介して、道の駅特産市の総会に講演を頼まれ出かけた折の役場の担当者がMさんなのです。講演が終わって直ぐに私のところにお礼のメールが入り、その対応に感心し私もハガキで返信した記憶があるのです。その時のメールはまだパソコンの中に消さないまま遺しているのです。

 Mさんからのメールは、私の話を聞いてから今日までの半年間、特産市の改善に向けて努力している姿がこと細かく書かれていました。いやあ正直嬉しく思いました。私の持論ですが5千人にも満たない小さな町を、いっぱしの町にするには実は役場職員のやる気さえあれば簡単なのです。その例は私です。私も停滞しきった何処にでもある何もない無名の町を何とか有名にしようと頑張りました。100人の中で99人が反対するような夕日をテーマにまちづくりを進めましたが、それなりにいい町を作りました。

 森の国ホテルやおさかな館のある道の駅など、物語は既に出来ているのですからやれば簡単にクリアーできるのです。私は役場職員でありながら、毎朝5時に起き役場に行くまでの3時間、道の駅のあるシーサイド公園で清掃活動を12年間もやりました。じゃこ天に串を刺して食べることを発案したり、ちくわを夕日の望遠鏡、夕焼けソフトクリーム、夕日日コーヒーなど、全知全能を傾けて頑張りました。菜の花の種を落として花畑を作り冬の人の来ない時期に人を来させる話題は今も地域住民に受け継がれているのです。

 Mさんのメールにはそこら辺のことにどうやら気がついて一歩前へ踏み出した心情が吐露され、つい嬉しくなりました。Mさんのやる気は本物のようです。早速私は彼にメールを送りました。「また逢いましょう」と・・・・。


  「記録した ブログ呼び出し 彼のこと 思い出しつつ またブログ書く」

  「町もめる その都度役場 翻弄され 前へ進めず 一歩後退」

  「心情を 吐露したメール 受け取りぬ 核心部分 気付いて実行」

  「町なんて 十人馬鹿と 気違いで どうにでもなる 本気でやれば」


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