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○昼から大きなアワビをご馳走になりました④

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 夜が明ける頃になると七類港周辺はかなり風と波が強くなってきました。港の待合室へ行くと、高速船レインボーは欠航の貼り紙の横にフェリーは運行予定と言い訳程度に書かれていて、そのうち隠岐の島へ渡る人たちが沢山集まってきました。隠岐の島へは「おき」「くにが」「しらしま」という3隻3千トン級フェリーが運行していて、先発する「おき」は道後行きのようでした。私は角市さんからメールで指示された9時30分発の「くにが」です。船内はかなり込み合っていましたが、窓際の升席に居場所を確保し、30円の毛布を被って横になりました。出航し日本海へ出ると台風の余波は想像以上に大きく、ローリングやピッチングを繰り返し、寝ている体を持っていかれそうになりました。乗客は馴れたもので、おしゃべりやビールを飲むなど思い思いに過ごしていました。

 近くに座っていた若い女性は船酔いでしょうか、気分が悪いとトイレに駆け込む人も何人かいたようです。私は元々船乗りだし、早起きして運転をして疲れていたのか、1時間ほどぐっすり寝込んでいました。


 船員さんに聞けばこの日の波の高さは3~4メートルだそうで、思ったほど台風の影響を受けなかったとのことでしたが、そこはやはり日本海、太平洋の大波ほどではありませんが、瀬戸内だったらとうに欠航だろうと思いながら、ふるさと訛りで話す島人の話を空耳で聞きながら過ごしていると、やがて2時間余りで途中の寄港地知夫島に着き、何人かの乗客を降ろして、目と鼻の先の西ノ島別府を目指し再び走り始めました。所要時間は2時間半で12時過ぎに別府港に到着しました。懐かしい角市正人さんが出迎えてくれました。事前に「食事は魚か肉か」聞かれていたので、近所のレストランで昼食を取りました。同席した水産会社の社長で議会議員と色々な会話を交わしながら、「昼から美味しい刺身定食をいただきました。ここでも明くる日の即売のために来島していた江府町の方々と一緒のレストランでの昼食となりました。歓迎のために来られていた西ノ島町の町長さんとも名刺交換の機会を得ました。


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 角市さんはこの日私のためにまあ見事なアワビを自分の手で確保していて、動き回るあわびをレストランで刺身とバター焼きにして、贅沢にもいただきました。まあその美味しかったこと、1個400グラムもあるあわびは、私と社長の胃袋に別腹で入ってしまいました。多分東京などの都会の料亭で食べると目が飛び出るほど高級なものなのです。角市さんには時々宅配便でアワビやサザエを送ってもらっていますが、有難いおもてなしにお礼の言葉もありませんでした。

 講演会場となっている中央公民館の事務所でお茶をいただきなら時を過ごし、いよいよ講演が始まりました。「まちづくりの新しい風」、~逆転の発想~について90分間熱弁をふるわせてもらいました。私の講演の様子は役場に勤める角市さんの娘さんがビデオ撮影をしてくれました。

 それほど大きな集会ではありませんでしたが、話を聞く態度も立派でしっかりと話をしたつもりですが、はてさて参加した皆さんの耳にはどう聞こえたことでしょう。

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○五度の隠岐の島・西ノ島町③

 私にとって島根県隠岐の島は思い出の地です。この島は昭和46年5月5日こどもの日に結婚した私たち夫婦が新婚旅行に行った場所なのですから、忘れようとしても忘れられないのです。もう40年も前の出来事なので当時のことは断片的にしか記憶はなく、5月の連休というのに肌寒く、名残の八重桜が咲いていたこと、旅先で買い求めた隠岐石楠花を大事小事に持ち帰ったこと、国賀海岸の雄大さに圧倒されたこと、宿泊した民宿が余り綺麗ではなかったものの魚や貝類が美味しかったことくらいしか覚えていないのです。

 その後役場職員の研修旅行で訪ねたり、講演にも3度ばかりお邪魔したり、その折一度だけ妻を同伴して連れて行ったりしていますが、今ではすっかり友人中の親しい友人となった角市正人さんが住んでいることもあって、何かにつけて気になる島なのです。

 今年の7月7日、隠岐の島・西ノ島町で議員をしている角市さんが、二人の議員さんを連れて人間牧場へやって来ました。角市さんが議員五期目で、議長も経験しているますが、西ノ島にその痕跡が残る牧畑農業の保存運動に取り組んでいる方です。ひょんなことから知り合いとなり、5年前に行われた牧畑シンポジウムに基調講演を頼まれたりしながら交流が深まり、お互い気心の知れた間柄となっているのです。

 議員ながら絵を描いたり、素潜り漁をしたり、最近は焼火焼の窯元に通って陶芸までやっているのです。西の島を愛する心は島一番で、島に生えている野生のサンショウを使って「鬼の涙」という商品を開発したり、まあ私にはない特徴を持ち合わせた面白い人です。指折り数えて驚いたのですが、私と角市さんとはまだ4~5回しか出会っていないのに、もう何十年も付き合っているような錯覚にさせるのですから凄い人です。

 その角市さんから2ヶ月前に西の島町へ講演に来て欲しいと依頼がありました。私のスケジュールの都合もあって、10月30日~31日で日程調整をすることになりました。角市さんとはメールでやり取りしながらパンフレットも出来上がり、楽しみに再開を待っていました。

 ところが、行く4~5日前にこの季節としては大きい台風が日本を覗いながら北上し始めたのです。夏から秋にかけて台風が少なかっただけに、「何でこんな時期に維持の悪い」と思いましたが、台風にも都合があるのでしょう。予想よりスピードがあり進路を東よりに変えたため、直撃は免れましたが、それでも「瀬戸大橋は風で通行止めにならないだろうか?」「隠岐の島行きの船は結構にならないだろうか?」と、かなり気を揉みましたが、待っていてくれる角市さんのことを思うと、「よし行こう」と、金曜日の夜準備をして早めに床に就きました。

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 台風の風や吹き戻しが吹くまでに瀬戸大橋を渡りたいと午前0時に妻に起こしてもらい、一路島根県に向けて出発しました。自家用車はまだ一年を過ぎた新車なので、高速道路の走りは快適でした。時折台風の余波と思える強風が吹きつけ小雨がぱらつく中、安全運転に心がけながら、双海~伊予インター~瀬戸大橋~米子道~米子を通って、船着場のある島根県七類港まで行きました。船の時間は9時30分なので時間はたっぷりあるので、途中仮眠休憩を取りながら、何度も通ったことのあるなれた道を走ったのです。

 前日フェリー船会社に確認したところ、波の高さ3~4メートルという気象予報なので多分欠航にはならないだろうという話でした。七類港で鳥取県江府町の町長さんに偶然いきなり声を掛けてもらいました。聞けば西の島町とは姉妹縁組をしていて交流が続きているのだそうです。一行はイベントの物産展に参加し、町長さんはB級グルメの審査を頼まれているのだそうでした。江府町へは何度か講演に出かけていて、一行の中には顔見知りの人が何人かいて親しくお話をさせてもらいました。

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○隠岐の島西ノ島町からの帰りは明日になります。②

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 上の2枚の写真を見ると今でも新婚旅行のことを思い出します。私たち夫婦はというより、亭主関白な私の一方的な提案で進行旅行先を隠岐の島にしてしまったのです。今のようにインターネットも普及していな昭和46年の出来事なので、現地のことを殆ど調べもせずに、「楽園の島」くらいにしか思わず、隠岐の島という地名に憧れて選びました。もう時効が成立しているので告白しますが、本当は与論島に行く予定だったのに、何かの手違いで隠岐の島に変更してしまったのです。でもそのことがご縁で友人が何人かでき、今もこうして何度か訪れることが出来るのですから世の中は分からないものです。

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○今日から2日間島根県隠岐の島西ノ島町へ行きます。①

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 上の夕日は隠岐の島の自慢の夕日で、よくポスターなどで見かける写真です。まるでローソクが燃えているような神秘な夕日で、隠岐の島の人は日本一の夕日だと自慢してます。

 さて双美町も夕日だったら負けてはいません。わが町だって夕日は日本一だと思っているのですから・・・・。

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 この夕日はシーサイド公園恋人岬のモニュメントの穴の中に春分と秋分にスッポリ夕日が入った写真です。これも絵になる風景だと思いませんか。

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○台風14号接近

 「今年の夏は暑かったねえ」「今年は台風が来なくてよかったねえ」「このところ急に寒くなって、やっぱり寒いより暑い方がいいねえ」なんて会話が、あちこちで聞かれるころとなりました。確かに今年の夏は「スーパー猛暑」という言葉まで聞かれる異常な暑さでしたし、奄美大島の大雨被害は悲しい出来事でしたが、台風銀座といわれる九州や四国に住んでいる私たちにとっては、台風も殆ど来ずにやれやれと思ったものです。数日前早くも木枯らし1号が吹き荒れ、すっかり台風のことなど忘れて、ストーブやコタツ、それに冬物などを取り出し、寒さ対策に取り掛かっていました。

 ところが数日前から天気予報で、時ならぬ大型台風の接近のニュースが取り上げられるようになって、この週末に予定されているイベントや行事が、中止もしくは延期になるのではないかと気をもませています。季節は秋本番なので、紅葉祭りや収穫祭、コスモス祭りなど多彩なイベントが目白押しで、楽しみにしていた人も、儲けようと目論んでいた人も、中止や延期となるとがっかりするに違いないのです。私も長い間地域づくりの現場で働き、天気予報に一喜一憂し、決行・延期・中止などの決定に神経を使いましたが、「天に向かってブツブツ言うな、晴れの日には晴れの日の、雨に日には雨の日の仕事がある」と豪語してみたものの、内心はハラハラ、ドキドキの連続でした。

 私はこの週末、つまり明日と明後日、島根県隠岐の島・西ノ島町へ講演に出かける予定です。そのため昨日あたりから台風の進路が気がかりで、妻は「危ないから止めたら」と否定的な話をするため、悶々の時を過ごしているのです。

 妻が危ないからと言うのには訳があります。10年も前に台風19号が愛媛県を直撃しました。中島町のみかんが台風の大風で吸い上げられた塩水をかぶって枯死し、大打撃を受けた台風でした。その時私は佐田岬半島の中ほどにある瀬戸町へ強風の最中、講演に出かけました。国道沿いには車が何台も亀をひっくり返したように横転、国道のあちこちには大木が倒れて道を塞いでいました。前に進めず止む無く瀬戸町のトンネル内でUターンして三机まで下り、知人で商工会事務局長の奥山さん宅に身を寄せ、電線の切れ停電になった部屋にローソクを何本も立て、ビールを飲みながら、二人で台風の通過を待ったのです。

 そんな苦い経験が頭を過ぎった妻は、当然のことながら「台風を甘く見ないで」と口を酸っぱくしていうのです。私の予定では午前0時を回ったら車で出発し、松山道~瀬戸大橋~米子道~島根松江七類港へ車で行き、そこからフェリーで隠岐の島へ渡ろうとと思っています。隠岐の島は日本海なので台風の進路から外れていますが、はてさてフェリーが欠航にならないか心配しているところです。

 まあ世の中に心配の種の一つや二つはあるものです。妻が言うように「台風を甘く見る」ことなく、目的地を目指したいと思い、今日は早めの夕食を済ませて床につき、早朝の旅立ちを予定しているところです。

 

  「早旅の 準備万端 整いて 明日は久方 日本海見ゆ」

  「甘く見ちゃ 駄目だと妻が 注意する 台風情報 刻々見つつ」

  「そういえば えらい目に遭い 避難した 場所でローソク ビールを飲んだ」

  「世の中に 悩み一つや 二つある それを越えるが 人生ってもの」 

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○私が副会長とは知りませんでした

 一ヶ月ほど前、旧双海町役場時代に助役を務めていた藤田さんから電話があり、市町村職員年金連盟伊予支部双海分会の総会を開くので、スケジュール調整をしたいと相談がありました。私のような者のスケジュールを聞かなくてもと思いましたが、聞けば何と私はその団体の副会長になっているそうなのです。役場OBの会なのでスケジュールが空いていれば、これまでも必ず参加をしているのですが、前回は所用でどうしても出席できませんでしたが、私が知らないところを見るとどうやら欠席裁判で決められたような節があるのです。私に合わせるというのであれば、さらには副会長という責任もあり、私のスケジュールの合間である10月27日(水)を選ばさせていただきました。

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 10月7日付で事務局をしてもらっている、市役所双海支所から往復はがきが届きその日のうちに返信用ハガキを切り取って、出席に○をつけて投函しました。その後一ヶ月はあっという間に過ぎ去り、一昨日会場となっている地元の料理屋さん「双楽」へ出かけていきました。近くだし、酒も飲まないし、天気もいいので単車で行きました。役場OB会といっても、会員は50人そこそこで、先輩の中には既に高齢になった人や亡くなった人もいて、出席は17人ほどでしたが、かって先輩・同僚・後輩として机を並べて仕事をしてきた方ばかりなので、面談する度に懐かしい思い出が蘇り、若かりし頃の話しに大いに花を咲かせました。12時40分からの昼食を兼ねた会は、会長さんの挨拶や、支所長さんの現状報告、会計報告、監査報告は型どおりで、むしろ同窓会という雰囲気でした。

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 私は役場に教育長の2年間を含めて35年間務めました。その間教育委員会、産業課、企画調整室、地域振興課、教育長と4回しか異動をしませんでしたが、まったく席を並べることのなかった人が殆どながら、小さな町ゆえ全員何らかの思い出があり、色々と深いつながりのある思い出深い人もいるのです。

 懇親会は約2時間で終り、来年も出席しようと約束しようと記念撮影をして散会しました。聞けば役員の任期は2年の順番で、来年の総会で私が会長になるのだと、問答無用と言われました。まあ頭を悩ましたり、腹がうずいたりすることもないようなグループなので、来年を含めて2年間は元気で役職を務めなければなるまいと、自分に言い聞かせた次第です。会員の皆さんもどうか元気でお過ごしいただきたいものです。


  「副会長 なっているとは 知らなんだ 欠席裁判 次年会長」

  「懐かしい  顔々揃い 懐かしき 話に花を 咲かせて語る」

  「集まりし 人それぞれに 人生が 欠席人の 消息も聞く」

  「来年も 元気で会おう 握手する 時の流れは 力奪いて」



 

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○人権教育講演会

 いつも声を掛けてくれる八幡浜市保内町宮内公民館の金谷さんから、「人権教育」の講演依頼がありました。私は「人権教育」に余り詳しくないのでためらいの返事をしましたが、百戦錬磨の金谷さんは「詳しくなくってもそれをこなすのが若松さんのいいところ」と、褒められたようなくすぐりの言葉に心を動かされ、ついつい引き受けてしまいました。金谷さんは果樹農協に勤めていたころからの知り合いで、退職後公民館に勤め始めてからも何かにつけて気心を許す間柄なのです。

  昨日の会場となった公民館の2階大ホールは、予定されていた100席は満員で、参加者の中には顔見知りの方も多く、少し気遅れがしました。というのも金谷さんが作ったであろう講演会の案内状には、「~若松進ちゃん人権教育を大いに語る~」などと吹聴した怪文書(笑い)が町内に配られていたのです。

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 私が付けたこの日の演題は、「幸せな人生を共に生きる」でしたので、まあそこそこ90分くらいの時間だったらと軽く思って講演を始めました。私はいつも肝に銘じているのは、「どんな立派な話でも、実践できないような話はご法度」「評論化的話は極力しない」「参加者が眠るのは講師の責任」です。この日は私たちの身の回りの社会の変化について、気になることを10項目ばかり取り上げて前段話しました。

 ①地域のコミュニティの崩壊と少子化(地域での支え合いが出来にくくなった)

 ②高齢者福祉施設の充実と親子の人間関係(家族とは・親子とは一体何か)

 ③食生活と健康問題(額に汗して働く勤労・第一次産業の疲弊)

 ④進む情報化の波(近い情報<遠い情報)

 ⑤流通革命と価値観の変化(重厚長大<軽薄短小・ガソリン料金<お茶や水)

 ⑥市町村合併と広域社会(行政サービス<住民負担・ふるさと意識の低下)

 ⑦危険な時代と自己責任(頻発する犯罪・自然災害)

 ⑧環境の変化(自然環境・社会環境・教育環境の悪化)

 ⑨高学歴社会(知恵人<知識人)

 ⑩貧富の格差増大(人間や人権<金や物)

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 こんな日常の暮らしの気がかりなことや矛盾を紐解きながら、3つのリンゴ、氷山の一角という話をしました。人間は自分の目に見えない潜在能力で物事を判断する悪い癖があるのです。その癖を学習という手法によって知識を知恵に変え顕在化することが大切なのです。差別心は恥ずかしながら私の心の基底にもあります。それを取り除くには子どもたちが学校で習うように、繰り返し学習して得たことを習慣化実践によって、顕在化させるのです。

 信じ難いことですが現代は、①自分が信じられない、②人が信じられない、③社会が信じられない、④未来が信じられない世の中です。自分を信じ、人を信じ、社会を信じ、未来を信じ、幸せな人生を共に生きて行きましょう。

 分かりやすい話を分かりやすく話したかどうか疑問ですが、少しでもお役に立てたら幸せです。


  「不得意と 逃げる間は 差別する 心どこかに 置いたままなり」

  「顔見知り ちらほら会釈 してくれる 嬉し恥ずかし こんな話で」

  「芋持ちて 隣町から 夫婦連れ 嬉し出会いに 思わず感謝」

  「ああ今日も いい日でしたと 感謝する 今日は帰らぬ 昨日になりぬ」   

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○「こやけ」の綺麗な夕方でした

 「♭夕焼けこやけの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日か~」「♯夕やけこやけで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手々繋いで皆帰ろ カラスと一緒に帰りましょう~」はご存知「赤とんぼ」と「夕焼けこやけ」の歌詞ですが、最近は葛原しげるの「♭ぎんぎんぎらぎら  夕日がしずむ  ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ 真っ赤っかっか空の雲 みんなのお顔も真っ赤っか ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ~」を加えた三曲を、いつまで経っても下手糞ながら自慢のハーモニカで、臆目もなく人様の前で吹いているのです。私のハーモニカを聴いた皆さんは、ハーモニカの上手さはさて置き、懐かしいハーモニカの音色に郷愁を覚え、最後はお追従の拍手を送ってくれるのです。私はそれをアンコールと勘違いして別の曲を披露するというあつかましくも迷惑な行動をとっているのです。しかし中には懐かしさの余りに思わず口ずさんだりして、益々悦に入るのです。

 ところで、「赤とんぼ」や「夕焼けこやけ」に歌われている、「夕焼け」と「こやけ」とはどういう状況をいうのかご存知でしょうか。夕日博士を自認する私の長年の研究によると(エヘン)、「夕焼け」とは太陽全体が沈んでしまう、つまり太陽の上弦が地上から消えてしまうまでの様です。つまり太陽が西に傾き始めて日没30分前くらいになると、それまで肉眼では見えにくかった太陽が輝きを失い肉眼で見えるようになるのを夕日や夕焼けというのです。それは地球上にはチリやゴミが無数に飛び散っていますが、それが太陽の談反射を遮り、光を通しやすい赤い光だけが残るから赤く見えるのです。

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 では、「こやけとは」一体どういう状況をいうのでしょう。まるでご当地検定のような質問ですが、種を明かすと、「こやけ」とは太陽の上弦が地球上から姿を消した一瞬から「こやけ」といい、にしのそらに明るさが残る状態を「こやけ」というのです。この時期は「秋のつるべ落としの夕日」といわれるように日の入り後の「こやけ」状態は短く、逆に夏の「こやけ」状態は長く続いているようです。

 一昨日はは大分県豊後大野市へ大分県公民館研究大会の行き戻り、昨日は八幡浜市保内町宮内公民館の人権研修会への行き戻り、同じ夕やけこやけラインを連続して二日間通りました。昨日は夜7時からの会合だったため、右手の伊予灘の海と空を染め分けた「こやけ」を見ながらのドライブでした。夕日は既に落ちていたものの「こやけ」の美しさに見とれながら走りました。日ごろは見えることの少ない山口県祝島付近や大分県国東半島・姫島あたりまで、「こやけ」が見事なシルエットを見せてくれました。残念ながら先を急いでいたので、上の一枚の写真しか獲ることは出来ませんでしたが、見事な「こやけ」に心表れる思いがし、車が来ないことを確認して走る車の中から夕闇迫る「夕やけこやけライン」を一枚撮りました。

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  「夕やけも いいがこやけも 味がある 海の向うに 思いを馳せて」

  「反射板 まるで電気を 点けたよう ヘッドライトに 照らされた道」

  「山口や 大分辺り シルエット 見えて明日の 天気占う」

  「同じ道 行きつ戻りつ この二日 講演先に 思い巡らす」 

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○豊後大野市講演日帰りの旅②

 迎えの臼杵タクシーに乗り込み、運転手さんと他愛のない四方山話をしながら見慣れた光景の山道を1時間ばかり走りました。国道10号線を越えて豊後大野市の中心地旧三重町へ入りました。最初大分県公民館連合会からメールで講演依頼の打診があった時、「えっ、豊後大野ってどの辺だったっけ」と戸惑いました。それもそのはず平成の大合併で三重町、清川村、緒方町、大野町、千歳村、犬飼町、朝地町の5町2村が合併して出来た人工4万人の街なのです。この九町村名を聞いて思い出すのは何といっても清川村です。清川村には17年も前に一度行ったことがあり、そのご縁で今は市内緒方公民館長になっている渡邊久洋さんとは、その後音信こそ途絶えていましたが、思い出に残る出会いをしているのです。渡邊さんご夫妻も一度わが家に見えられ、煙会所で懇談をしているのです。

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(会場となったエイトピアおおの)

 今回の講演が決まったある日、渡邊さんから一通のお便りをいただきました。~前略~「清川公民館時代にご講演をお願いしましたし、そのご縁で双美町を訪れ、若松さん宅の囲炉裏を囲み、お話を伺ったことを懐かしく思い出します。あれから17年ほど時間が経ちました」。~中略~「県公連事務局から記念講演に『若松進一さんをお願いした』と聞いて、大変懐かしく、そして再会を楽しみにしているところです」~後略~という内容でした。

 第61回大分県公民館研究大会の会場はエイトピアおおのというモダンで立派な公民館でした。県公連会長である中野臼杵市長さんは社会教育を、会場市の橋本市長さんは青年団をそれぞれ経験されていて、講師控え室での面談は賑やかでした。石井県教育庁社会教育課長さんとご一緒に渡邊久洋さんと懐かしい握手を交わしました。勿論私もこの17年間の間に人が変わったほど進化していますが、渡邊さんもすっかり立派になられて頼もしく思いました。あの時お腹を大きくしていた奥さんのこと、3人の子どものことなど、願わくば泊まって語り明かしたいほどでした。

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(素晴らしい文化ホール、エイトピアおおのでの公民館研究大会)


 大会には350人ほどが大分県から集まっていました。昔馴染みの好で渡邊さんから私の紹介をしていただき講演が始まりました。私の話は90分でしたが、話したいことがいっぱいありながら、あっという間に時間が過ぎてしまいました。まあ何とかそ責めを終えたようです。

 講師控え室に来年1月30日に講演が決まっている大分市西部公民館の工藤社旗教育主事さんが見えられ、「夕やけ小やけもまちづくり」について簡単な打ち合わせをするなど、早くも気の早い話となりました。またお茶を出してくれた女性が高知大学出身ということもあって、出会いの不思議や広がりを大いに感じました。

 木枯らし1号と思しき大風は幾分収まりましたが、前日まで半袖姿が目立った外の風景は一転、冬支度に身を縮めながら寒そうに歩いていました。

 運よく帰りは17時30分の船便に乗れました。オレンジフェリーのオレンジ四国に乗りましたが、これまで乗ったどのフェリーよりも豪華で、まるで動くホテルのような雰囲気でした。

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  「お互いに 時は流れて 十七年 握手した手に 力がこもる」

  「いい話 でしたとメール 水知らぬ  人から届き 嬉しくなりて」

  「市長さん 青年団で 磨いたと 嬉しい話 してくれました」

  「帰り船 動くホテルと 見まがうよう 次も乗りたい 気持ちになりて」 

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○豊後大野市へ日帰り講演小旅行①

 昨日は木枯らし1号と思えるような強い北西の風が吹き荒れる中を、大分県公民館連合会主催の第61回公民館大会の記念公園に招かれ、双海町~(自家用車)~八幡浜~(フェリー)~臼杵~(タクシー)~豊後大野市と、日帰りとしてはかなりきつい道中旅をしました。

 札幌では初雪が降っているというニュースを聞いて朝7時過ぎに家を出る頃は、まだそれほど北西の風は強くなかったのですが、長浜を過ぎると海は白馬が走るが如く大波が立ち、海沿いを走る夕やけこやけラインのあちこちでは潮水の洗礼を受け、ウォッシャー液を出しながらワイパーで洗わね、ば前が見えない時が何度もありました。少し早めに八幡浜に到着したので、港の近くにある妻の実家へご機嫌伺いに立ち寄り、建設有の魚市場に変わって仮移転している魚市場を見学しました。

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 フェリー乗り場で宇和島運輸カウンターで切符を買い求め待合室で待っていると、中年がらみのおばさん3人組の一人に声を掛けられました。その声の掛け方が、「よくテレビに出ている双海町の夕日の仕掛け人」でした。名前は知られていませんが、「双海町・夕日・仕掛け人」という固有名詞を並べられれば会話は十分で、「まあお食べなさい」と差し出すみかんやお菓子を断わりながら、待合会話となりました。聞けば大洲の方らしく、「昔女学校に通っていた頃予讃線海岸周りの列車の窓から真っ赤で大きな夕日を見て綺麗だった」とか、「双海のシーサイド公園は賑わっている」とか、断片的な話をしました。今日から二日間3人で別府温泉へ遊びに行くのだとクーポン券を見せてくれました。私の乗るのは臼杵航路、3人が乗るのは別府航路で、船も行き先も出発時間も違うため、私は3人と別れて9時40分発のフェリーに乗り込みました。

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 昨日までは穏やかだったと船員さんが言う宇和海の海はかなり荒れていました。窓越しに八幡浜向灘の耕して天に至ると形容されているみかん畑や、日本一細長い半島と形容される佐田岬半島を見ながら、北西の風波を横波として受けるるためかなり大きくローリングする船内で読書に耽りました。元船乗りの私にはこの程度の揺れは子守唄で、2時間20分の船旅は難びりゆっくりでしたが、隣の升席にいた若い女性は気分が悪いとトイレへ駆け込んだり、小さい子どもが大きな桶で泣き叫び、まあこれも船旅の風景だと感じつつ豊後水道を渡りました。船は少し早く臼杵湾に入りました。臼杵の街はその周辺にある町や村への中継点として、何度か訪ねているため、別に戸惑いもなくタラップを降りました。本来ならここから先は公共交通を使うのですが不便という理由で、今回に限り大分県公民間連合会が手配してくれ待っていたタクシーに乗り込みました。運転手は渡邊さんでした。佐賀関も渡邊さん、これから行く豊後大野で待っていてくれる人も渡邊さんと、不思議なご縁を感じながら目的地へ向かいました。


  「名前など 言ってもらえず ほら夕日 声をかけられ 嬉しくなりて」

  「段畑の みかん薄っすら 紅化粧 窓越し見える あれが向灘」

  「木枯らしが 機嫌悪くし 右左 船を揺らして 水道進む」

  「佐賀関 今日は煙突 裏を見る 仲間今頃 どうしているか」

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