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〇小さい春をみ~つけた②

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 ・花の名知らず

 まるで菜の花のようにJR予讃線のヅハ沿いを黄色く彩る花を見つけました。秋にピンクの花をつけるカタバミの花に葉っぱも花も似ているのですが、花の名前が分からないのです。近所の人に聞いてみましたが、近所の人も分からないと言っていました。春を感じる野草に思わず目を奪われ、立ち止まりしゃがんで見とれてしまいました。大きな花は大きな花なりの主張がありますが、こうしたちっちゃな花も群れをなすと綺麗ですね。

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 ・菜の花

 この花は双海町を代表する閏住の菜の花畑です。もう木の花の見ごろも峠を過ぎていますが、今年も立派に咲きそろい多くの人の芽を楽しませました。今は名残の花で既に花の散った茎には来年のために実を結んでいるようです。

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 ・黄砂に煙る

 ジェット気流に乗って中国大陸からやって来る黄砂現象が昨日見られました。視界が悪く洗ったばかりの車の上には少し黄砂が積もりました。これも春の洗礼です。前日は見えた人間牧場ウッドデッキからの眺望も昨日は春霞といったところでした。

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 ・ミツバチが飛び交う

 冬越しをしたミツバチが昨日は陽気に誘われて盛んに飛び回り蜜を集めていました。草や花よりも動き回れる小動物たちはいち早く春や陽気を感じるのかも知れませんね。昨年は初めてのこともあってミツバチに翻弄されましたが、今年は養蜂二年目なので何とか納得のいくようにと願っています。何はともあれ種蜂となるミツバチの越冬を確認できたことはこの春一番の大きな喜びでした。昨日の突風に吹き飛ばされないよう、井上師匠が作ってくれた土台にビニールの紐で固定をしました。

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  「この花は 何の花かな 人に聞く 洒落てその人 何~の花(菜の花)」

  「冬を越し 巣箱入り口 たむろする ミツバチたちよ よくぞ耐えたね」

  「春霞 正体黄砂 気流乗り はるばる日本 春の使者来る」

  「花粉飛ぶ 杉の木下で 作業する 花粉症にも ならず鍬打つ」

 

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〇小さい春み~つけた①

 昨日の日本列島は日本海で急速に発達した低気圧の影響で朝から南風が吹き荒れ、九州では歩けないほどの強風にあおられて一人が死亡したり、静岡では山焼きの災に巻き込まれて三人が死亡するなど、各地で強風が原因の悲しい事故が相次ぎました。

 わが双海町でも海は白い水しぶきをあげて南西の、いわゆる「やまぜ」が猛威をふるって吹き荒れました。そのため温度は一気に上昇して、前日より10度も高くなり、各地で初夏並みの気温となったようです。特に夜早くには稲光と雷音がまるで空襲のように不気味に光と音の天体ショーを見せてくれました。

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 ・こんにゃくの芽吹き

 昨日は陽気に誘われて、そこここで小さな春を沢山見つけましたが、何と言ってもこの一枚は春の象徴するようなこんにゃく畑で見つけた芽吹きです。このところの陽気に誘われ土を割るように飛び出したこんにゃくの芽吹きは、作物を作る者にとっても待ち遠しかった出来事でした。

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 ・桜の開花

 この一枚も日本中が待ち焦がれていた桜の開花です。「早咲きは早く散り、遅咲きは遅く散る」は私が考えた一言ですが、冬北風が強く吹くわが町ではまだ蕾が固いようですが、人間牧場に通じる農道の風が当たらない日当たりの良い場所では、早くも桜の花が裂き始めました。この分だと節句には名残の花しか見れないかも知れませんが、昨日の南風で一気に開花が進みました。

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 ・レンゲの花の咲く近所の田んぼ

 私たちが子どもの頃は、殊勝にもレンゲの花を積んで遊んだりしましたが、レンゲの思い出は何といっても、お節句に母が作ってくれた海苔巻き弁当を持ってレンゲ畑に出かけその上に広げて友達と一緒に食べたことです。一年に一度の至福の時でした。そんなふるさとの風習も残念ながら消えてしまったようですが、レンゲ畑を観る度に母の顔を思い出すのです。

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 ・道端で見つけたボタンの花の開花

 「えっ、もう?」と思われそうですが、昨日道端でボタンの花の蕾が開こうとしているのを発見しました。ボタンの中には品種改良が進んで寒の寒さの中で咲く寒牡丹もあるようですが、これも早稲系なのでしょうか。それにしても早過ぎますね。

  「いつの間に あちこち身近か 足元に 小さな春を 見つけ喜ぶ」

  「この時期に ボタンの蕾 開いてる 人も早稲だが 自然早稲系」

  「行く春を 惜しむが如く 愛おしむ 上や下へと 目をやりながら」

  「春雷が 稲光ともに 春告げる 孫は両手で へそを押さえて」  

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〇人間牧場での農作業

 今日は、このところのめまぐるしく変わる天気もあって延び延びになっていた、人間牧場の農作業をしに出かけました。天気予報だと午後には雨が降るかも知れないといっていたので、弁当も持たず予定していた茅刈り、石垣積み、こんにゃく畑の草引き、畑の草取りの順に作業を行いました。

 まず最初は茅刈りです。人間牧場は5年前に荒れた放任園で茅やカズラが生い茂っていましたが、茅もカズラも人力で何とか除けましたが、茅は一株だけ風流を楽しもうとそのままにしていました。案の定その一株は人間牧場の四季を演出してくれ、春の芽立ち、夏の青草、秋のススキと季節の趣を見事に表現してくれているのです。そろそろ茅も新芽を吹く頃になったので、少々遅い作業ですが、遅ればせながら思い切って刈り取ることにしました。一昨年までは鎌で、去年は草刈機でやりましたが、中々はかどらず、今年は思い切ってチェンソーで刈ることにしました。この選択は正解でいとも簡単に刈り取ることが出来ましたが、茅の柔らかい葉っぱが目につまり、後片付けに少々手間がかかりました。刈り取ったススキはブルーベリー園の下草に敷き詰めました。一ヵ月後には切り株に青々とした新芽がでることでしょう。

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 続いて石垣積みです。かまど小屋の新築に伴い引いた給水パイプと排水パイプが露出しているため、これを隠すために、昨年の公開セミナーの折り、皆さんに運んでもらった石を使い無謀にも素人の私が石垣積みに挑戦しました、石垣は石の癖組みだと言われるように、癖を見抜かなければなりません。しかし言うは易し行うは難しのことわざどおり、癖

が分からず四苦八苦しましたが、どうにか石を積み上げ、土をならして屋外からウッドデッキに通じるように道もつけました。邪魔にある杉の枝打ちも行って何とか様になりました。

 これでパイプが隠れいい雰囲気となりました。

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 こんにゃく畑の草引きは、こんにゃくが植わっている場所に竹を立てていたのが目印となって大助かりでしたが、草の中から早くもこんにゃくの芽がニョキリと可愛らしい顔を出していました。新芽を傷つけないように注意を払いながら草を引いてい行きました。植え付けして今年で3回目の芽を出したことになります。二年生の芋を植え付けたので今年で5年生となるはずで、多分今年の秋には立派な芋が出来るだろうと、早くもこんにゃく作りへの夢が広がっています。今年はサツマイモ畑の下の段々畑にもコンニャクイモを作付けしようと思っています。

 種芋は結構高いので少し小ぶりの安い種芋で我慢しようと思っていますが、早速この冬に耕しておいた畑の雑草の山を切り崩して、雑草を畑の外に出す作業をしましたが、少し腹が減ったのと、午後3時に人に会う約束があるので道具類を片付け、下まで降りたところで長男夫婦に出会いました。連休なので遊びに来たようですが、息子の車で孫たちと再び人間牧場へ行き、お風呂を楽しむ息子たちを残して、私は細い道を一直線に駆け下りて自分の車まで行き、自宅へ帰ってきました。

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  「午後雨の 天気予報を信じつつ 弁当持たず 作業熱いる」

  「素人の 私石垣 積みました どうなることか 後が心配」

  「こんにゃくの 新芽発見 草の中 冬の寒さを 堪えて芽吹く」

  「一人だと するようなった 孫が来る 牧場久方 賑やかなりぬ」

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〇東京からのお客さん

 ふとしたことから知り合った国立教育政策研究所社会教育実践研究センター専門調査員の伊藤女史が昨日、調査のために東京からわざわざやって来ました。前日夜遅く松山に入り大番頭の米湊さんと小番頭の松本さんがお相手をしてくれ、昨日は午前10時に松本さんが案内して朝10時に我が家で落ち合いました。

 伊藤さんのご主人は八幡浜の出身らしく、愛媛は馴染みの土地でシーサイド公園などは既に見学しているので、まずリクエストされていた下灘駅へ向かいました。駅には平日ながら列車を待つ人や見学者がいて、運よくプラットホームへ滑り込むように入ってきた一両の列車が、何とも長閑なローカル線の風情を醸していました。最近地元の老人クラブがこの駅に野菊を植えたり掲示板や「ウフフ・・」という落書き帳を備え付けたりして、駅をきれいにしようと取り組んでいますが、その張本人の元商工会長西下芳雄さんにも偶然出会いました。西下芳雄さんは私のいとこで、前日も花活けの花器を作ったらしく、季節の花が彩りよく飾られていました。

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 その後奥西周りで人間牧場へ直行しました。昨日はこのところの天候不順が?のように青空が広がり、日陰は少々寒いもののウッドデッキからの眺めは最高で、青い空を写した海も真っ青で、遠望も開けて「これぞ人間牧場」と自慢できるほどの眺望でした。伊藤さんは人間牧場の話に耳を傾けたり、そこら辺を見学したりしていましたが、ロケーション風呂からの眺めにも感心していました。人間牧場もいよいよ春を迎え、スモモの白い花が満開に咲いていました。眼下の下灘豊田漁港はこの休漁日のようで漁船が綺麗に並んでいました。

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 潮路というレストランで軽い食事をしながら海を眺め、くじらという妹のお店でソフトクリームをご馳走になりながら菜の花を眺め、最後は改装なった翠小学校を見学に出かけました。この日はチェロの演奏会があったようで、校長先生とも面談しましたが、伊藤さんは松本さんの案内で学校の見学をしていました。

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(改装なった翠小学校)
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(廃材利用のエコ時計)
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(故梶原忠弘さんが寄付された翠小学校の象徴であるカワセミの石造)

 つかの間のご案内でしたが、松本さんや伊藤さんの後ろの時間が設定されていたので、簡単な町内ウオッチングは終わりましたが、伊藤さんと分かれてから、社会教育とまちづくりの話を深く話さなかったと少々悔やみましたが、お互いその辺は分かりあっているのと自分を納得させました。その話は次の機会にとっておきましょう。


  「そこここを 案内歩く 町内で 懐かし人に 出会い懐かし」

  「いつの間に 人間牧場 春が来て スモモの花も 満開に咲く」

  「漁休む 漁船居並ぶ 港町 長閑けき春を 堪能しつつ」

  「都会より 田舎がいいと 自慢する 果たして田舎 本当にいいのか」 


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〇地域づくりグランプリの表彰式

 「せいよ再発見!地域づくりグランプリ」の審査を依頼されたのは昨年でした。年が明けたころ西予市役所から茶色の分厚い封筒が宅配便で送られてきました。中にはイベント部門14件、伝統行事部門23件の応募作品がぎっしり入っていました。2月の始めの締め切りなので少し間があると思いつつ気になって少しずつ読み始め、1月下旬には採点を終えて採点票を事務局へ送り返しました。

 あくる日広島県福山市へ早立ちしなければならない前日の3月2日に本審査会が市役所で開かれました。審査員は友人の前田眞さん、それに愛媛新聞の門田支局長さんでした。年齢が上という理由だけで審査委員長に選ばれ仕方なく撮りまとめを行いました。

 あらかじめ送り返していた個別の審査票に書かれた得点表は集計されて一覧表になっていました。独自性、地域性、具体性、継続性、主体性の各項目ごとに5点満点を積み上げてゆく採点基準は、イベントや伝統行事ゆえにある意味個々の主観が入るものですが、多少の差異はあっても、三人の審査員の採点はそんなにぶれていなくて、ホッとしました。

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 合併して6年近くが経ちますが、海抜ゼロメートルの旧明浜町や旧三瓶町から高知県境旧野村町大野ヶ原までとてつもなく広くなった西予市には特徴あるイベントや伝統行事が数多く残っています。その中で審査員が選び市長さんに答申したのは次の通りでした。

 イベント部門(応募14件)

 グランプリ   土居家観月会(惣川自治振興会)

 準グランプリ  どてかぼちゃカーニバル(どてかぼちゃフェア実行委員会)

 準グランプリ  渓筋川まつり(渓筋自治振興協議会)


 伝統行事部門(応募23件)

 グランプリ   御田植え祭り(土居総務区)

 準グランプリ  渡江歌舞伎くずし盆踊り(渡江盆踊り保存会)

 準グランプリ  三瓶町朝立地区秋祭り(朝立地区)

 審査委員会特別賞

           卯之町秋祭・夏祭

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 昨日地域づくりグランプリの表彰式が西予市役所で行われ、審査委員長として講評をするよう依頼され出かけて行きました。会場には被表彰団体の方が各団体2名ずつ見えられ、マスコミも新聞やテレビが来て賑やかな表彰式となりました。講評は粗相があってもいけないのでメモを読み上げるような形でさせてもらいました。

 西予市では限界集落といわずイキイキ集落と呼んでいるのだと市長さんの説明を受けましたが、集落の高齢化や少子化による過疎化は深刻の度を増しているようです。ゆえに応募のあったイベントは伝統行事の存続はかなり厳しい状態になっていますが、遺し伝えることの意味をかみしめながら今後も、存続して欲しいと願い、願わくば多に類を見ない素晴らしいものが沢山あるだけに、これらを観光資源として生かして交流を深め、活性化に一役買って欲しいと締めくくりました。

 今年は私もその幾つかを見に行こうと思っています。

  「グランプリ 表彰式に 出席し 講評述べる 機会恵まれ」

  「そこここに 遺し伝える ことありて 将来不安 隠しきれずに」

  「賞金と ともに賞状 市長より いただき帰る 笑顔残して」

  「今年こそ グランプリなる お祭りを 見たいものだと 予定に入れる」

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〇もりともバリバリ

 昨日は昼休みを利用して松山駅の近くにある商工会連合会の建物に立ち寄りました。この界隈も郊外を通る環状線が抜けたためすっかり通らなくなり、見覚えのある建物もすっかり様変わりした感じがして、ついついその場所を忘れるほどでした。今月中旬からえひめ政策研究センターが日本銀行松山支店の直ぐ隣から商工会連合会へ引越ししたのです。センターの引越しは南町の農業指導センターから松山市民病院隣の生活保健ビルを経てこれまでの元松山地方局と移転しており、今度が4度目なのです。20年余りで4度目ですから事務所移転としては多い方で、一昨年前まで私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議の事務局があるものですから、ついつい便利に使っていたものの、いざ事務所移転となるとこれから当分は慣れるのに苦労するなあと思いつつ、フジグラン松山の5階駐車場に車を止めて、松本さんに携帯電話で場所を聞きだしました。

 かつて双海町商工会が活発に活動していた合併前、特にむらおこし運動華やかなりし頃は商工会連合会の補助事業でむらおこし運動に取り組み、連合会へも度々出入りしていました。記憶にある連合会の茶色い建物はグランフジの直ぐ隣にありました。ゆっくり歩いて行きましたが、今回移転した事務所はよく会合で訪れた3階の大ホールでした。商工会連合会も市町村合併で喧嘩の加盟商工会が合併して激減し、年に何回しか使わない大ホールなどは必要なくなってしまったようで、ビルを維持管理するためには賃貸した方が得策と選択したようでした。

 入り口には既に「えひめ地域政策研究センターの看板が掲げられ、3階までエレベータに乗りました。かつて大ホールだった事務所は既に350個ものダンボールが殆ど片付けられて、事務所としての昨日を再開していました。所長さんとは会えませんでしたが、お二人の主任とは松本研究員を交え久しぶりに面談しました。伊予市から出向して私の手足となって陰に陽に働いてくれた松本研究員も、3年間の出向を解かれ伊予市へ帰ってゆくのです。多分今日出るであろう県庁の異動内示でお二人は古巣の県庁へ帰られるのでしょうが、一つの時代の終わりを感じました。

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 松本さんが「若松さんのことが「もりともバリバリ」というブログで紹介されていましたよ」といわれ、帰ってからパソコン画面でそのブログを開いて読みました。今治の方が先日今治市玉川町であった学集会の模様をルポしていました。私は話をしなければならないのでこの写真は取れないため、貴重な落伍風景の3枚の写真入りで色々書かれていました。参加者を前に裂き織の羽織を着てその気になって高座で熱演する私の姿を見て、思わず笑ってしまいました。

 芸人気取りではありませんが、何とか様になっていて、村上さんの活けてくれた活花や森さんが持参した椿の花も美しく会場を飾っている姿が写っていました。

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(もりもとバリバリで紹介された落伍風景)

  「移転した 事務所を訪ね 懐かしく 辺り見渡し 思い出よぎる」

  「落伍する 私の姿 写真入 ブログに書いて 友は発信」

  「何となく 様になってる 自分見て 思わず一人 含み笑いを」

  「この後で 足がしびれて ヒョロついて 足首捻挫 今も痛くて」



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〇うわあー凄い、内子の枝垂桜

 私が移動する範囲の県内ではあちこちに桜が咲き始め、いよいよ春本番です。普通桜は気象台が指定する標準木の桜の花が5つ以上開くと開花宣言となるのですが、今年は異常ずくめで例年より10日も早く桜前線は高知に上陸しました。これまで日本で一番桜の開花が早いとされた宇和島や熊本では、一番咲きを目指して必死になっているようです。特に気象台の撤退した宇和島では元気象台職員やボランティアの人たちがこの一ヶ月丸山公園の桜を丹念に調べて日本一を目指したようですが、残念ながら耕地に先を越されてしまったようです。

 普通の人から考えれれば「何も一日や二日遅れたぐらいで悔しがることもないのでは」と思われそうですが、どうしてどうして当事者たちは「日本一」に命をかけているのです。


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 今日は西予市で開かれたグランプリの表彰式に出席するため海岸線を通って長浜から、肱川沿いに大洲への道を通り、途中から国道56号線を走りました。私たちの町の桜は大島桜を除けば吉野桜はまだ蕾が固いのに、私の町より温度の低い大洲では2分咲きの所もあって、驚いてしまいました。

 表彰式が終わって午後2時からの愛媛か行く漁業調整委員会に出席するため大洲から内子経由で56号線を上りましたが、驚いたことに旧内子町役場のの横の河川敷には枝垂桜が満開でした。時間的な余裕もあったので役場庁舎前の駐車場に車を止めてぶらり散歩をして一足早い花見を楽しみました。

 物珍しさもあってこの日の陽気に誘われ、何人かの人たちがお昼時の花見散歩ををしていて、中には卒業したのであろう中学生たちがキャーキャーいいながらVサインをして写真を撮っていました。それにしても内子の桜は見事でした。

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 私の町の桜がどうしてこのように気温の低い山里より遅いのかは諸説がありますが、私の考えでは海沿いに面しているため風が強くつぼみの表皮が乾燥して硬いからだと思うのです。まあ菜の花や水仙で他市町に水をあけて話題になっているので、桜くらいはゆっくりと人並みより少し遅れるのも仕方ないことだと思っているのです。

 今年一番桜が早かったのは、実は堀の内の旧競輪場あたりの若木でした。これは標準僕でないため余り話題になりませんでしたが、10日以上も早く咲いていました。関係者の話によると植えたその年は根を張ろうとするため成長が早まってこんな現象が起るのだそうです。緋寒桜やか川津桜、大島桜、蜂須賀桜など、早咲きの桜は一足早く咲いて話題をさらったものの、早くさい多分散るのも早く、いよいよ本命の吉野桜前線が日本列島を駆け上がってゆきます。5月には北海道に上陸し、日本は花の季節を迎えるのです。忙しい合間を縫って今年も季節の花々を愛でたいと思っています。


  「うわあー凄い 枝垂桜の 咲くを観る 日本いい国 桜が咲いて」

  「俺の町 桜の蕾 まだ固く いつ咲くお前 せっかちに聞く」

  「さあ春だ 心浮き浮き どことなく 今年は何処で 花見しようか」

  「デジカメに 写したデーターを 妻に見せ 自慢している 私単純」

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〇校名変更式そして卒業式

 今年も学校評議員をしている私の元へ小学校、中学校、高校の3校からそれぞれ卒業式や入学式の案内が届きましたが、残念ながら先約があって、卒業式は中学校のみ1校へ昨日出かけて行きました。列席者は市長さんはじめお歴々のいわゆる「長」の付いた方ばかりで、「学校評議員」などのありふれた肩書き出の出席は私一人だったのかも知れません。でも人の値打ちなど肩書きで決まるものではないと自分で納得して、堂々と来賓席に座って卒業式を見守りました。

 今年の双海町は異例続きで、63年の歴史に幕を閉じる下灘中学校と同じく、63年の歴史に幕を閉じながら双海中学として下灘中学校を統合する上灘中学校ではそれぞれ閉校式、校名変更式などの行事が行われ、歴史の証人としての意味もあるのです。

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(校名変更式での校長式辞)

 先日は下灘中学校の閉校式へ出かけましたが、昨日は上灘中学校の校名変更式が卒業式の前に行われました。上灘中学校は自宅から歩いてほんの3百メートルくらいしか離れていないので、好天に誘われて歩いて行きました。中学校は来月には双海中学校として再スタートするのに、本校舎は耐震診断で危険校舎と診断され壊したままで、まだ着工もされず狩校舎でのスタートとなりました。

 校名変更式は校歌の作曲家の奥さん、作詞家のご家族、歴代校長、歴代PTA会長なども招かれ、かつて13年間も教育委員会に勤めていたこともあって、特に歴代校長先生たちの顔々にであい、懐かしさが込み上げてきました。教育委員会では社会教育を担当していましたが、社会教育施設の充実していない頃だったゆえ、この上灘中学校は文化祭も町民体育祭も、またソフトバールやバレーボールの大会も全てこの上灘中学校が会場でした。ゆえにこの学校は人一倍足を運び、人一倍愛着があるのです。

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(上灘中学校最後の卒業式での卒業証書授与)

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(卒業生たちの合唱)

 上灘中学校では校名が変更するに先立って、記念事業のために実行委員会が組織され記念碑建立や記念誌の発刊が寄付によって行われていて、私も記念誌に紀行文を依頼されました。その文章の中にもう一つの思い出としてその辺のことを書かせていただきました。

 校名変更式が終わると30分余りの休憩時間があって、私たちが控え室でお茶を飲んで談笑している間に、今度は上灘中学校最後の卒業式の準備が行われ、相次いでの出席となりました。卒業生は男子9名、女子17名の合計26人と、私たちの時代から比べるとかなり寂しい人数でした。それでも小規模校ゆえの慈しみや顔見知りの子どもの顔もちらほら見えて、少し涙が出てきました。

 今の卒業式は「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌わず、私の知らない「YELL]と少しだけ知っている{君がいたから」を合唱し、最後に歌い収めとなる「上灘中学校校歌」を全員が大きな声で歌いました。私はこの学校の卒業生でないのでこの歌は口ずさむ程度なのですが、私の子ども4人はそれぞれこの歌に思い出があるはずだと思いつつ、隣の人の声を聞きながら口パクで歌詞をなぞってゆきました。

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(記念誌への私のつたない紀行文)

  「卒業式 蛍の光 歌わずに 仰げば尊し ないゆえ湿らず」

  「皆勤の 子ども表彰 したいなあ 様変わりした 卒業式見て」

  「この子らは この学び舎を 後にして 何処を目指して 行くのだろうか」

  「いつの世も 同じようなる 流れにて 記憶の彼方 去ってゆくもの」

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〇移動落伍

 昨日は今治市玉川町で開かれた生涯学習講座に招かれ出かけました。玉川といえばもう20年近くも通いつめた地域なので知人友人も多く、昨日の会はそうした馴染みの皆さんが集まる会なので、少し思考を凝らして移動落伍にしてみました。友人の井出サツミさんから事前にお話しをしていたら、事務局の方が台座を積み上げ赤毛氈敷いた立派な高座を作ってくれていました。そして渡部妙子さんがお嫁入りのときに持ってきたというこれまた立派な座布団を用意してくれたのです。

 マイクの高さも抜群で、この上もない舞台設営に応えようと、めくりなども人間牧場から運んで準備万端整え、「人生楽しく暮らそう」という演題で裂き織の羽織を着て90分話させてもらいました。一話10分の演目を10本ばかり考えていましたが、残念ながら一つ一つの話についつい熱がこもり、結局5空本の演目で終わってしまいました。

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 皆さんの笑顔や笑いに助けられて90分の公演が終わっていざ高座から降りようとしたらしびれが切れてよろつき、足首を捻挫してしまいました。幸い軽い捻挫で歩くには問題なかったのですが、人様の前で失礼な弱みを見せてしまう結果となってしまい、日ごろの暮らしでは長時間座ることなどないだけに、これからはしっかりせねばと深く反省しました。

 その後井出さんの計らいで近所のふれあい茶屋で心のこもった昼食会が持たれました。ふれあい茶屋は廃止になった農協の事務所を借りて地元有志の女性たちが立ち上がり即売所と食堂を経営していました。まだ著に付いたばかりで一日おきの営業のようでしたが、出された田舎料理は心を込めた旬の手作りだけにとても美味しくいただきました。練炭火鉢で焼いてもらったしいたけも、山菜の熱々てんぷらも、また猪丼も、デザートのおはぎも全て満足の味でした。

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 聞くところによると代表の越智信枝さんとは20年前に松山で開かれた生活改善研究大会の席でお会いしたそうで、その時の私の余興が忘れられないと汗顔の話をしてくれました。頑張っている越智さんはじめ10人余りの皆さんと記念写真を撮ったり雑談しながら楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

 撮った記念写真を見ながら、井出さんや森さんや山本さんと始めてあった頃のことを思い出し、またエプロン姿で写っている地元の人たちのイキイキした姿に、漁協女性部の皆さんの姿を重ね合わせました。行く先々でこうして私を囲んでくれる人が沢山いる私は幸せ者だとつくづく思いました。

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  「行く先に 女性が沢山 集まりて 私幸せ しみじみ思う」

  「あれこれと 春の香りや 味用意 心こもった もてなしうけて」

  「覚えてますか そういえば おぼろげながら あの日あの時」

  「手土産に 貰ったジャムを パンに塗り 今朝は至福の あの人思う」

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〇ある老人から学んだこと

 三日前、今治市清水公民館で行われた「地域福祉推進フォーラムで一人の老人に出会いました。昔学校の先生をしていたというその老人は、本宮森一さんという方で、88歳だそうですが今なおかくしゃくとして、パネラーとして立派な発表をされました。

 先生は面白い人型絵を描いた発表資料を作られていました。その図表の中には健康長寿、友愛奉仕、感謝報恩、国土再生、多世代家族、日々是好日などという希望的言葉が並び、私の健康法として毎日実践している、毎朝の石鹸泡の洗顔マッサージ、40回以上のカメカメ食事(快食)、朝の柔軟筋力アップ体操、午後の筋力アップ体操、入浴前後の柔軟体操とマッサージ、寝d個での深呼吸とマッサージなどが書かれていました。特に大変失礼ながら思わず噴出してしまったのは、朝の石鹸泡の洗顔マッサージで、まるで朝シャンをする若者のような習慣が、健康にとって何を意味するのか聞いてみたいような感じもしました。

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 これらのことを実践することによってボケもせず、米寿を迎えた88歳の今もしっかりと生きている姿を見て、これらの注意事項の積み重ねの実践力に納得しました。

 私は一番興味をそそられたのは「多世代家族」という言葉でした。テレビで観たある地方の五世代同居のことを引用され、日本も昔は多世代が一軒の家に同居する姿は沢山あって、親族同士がお互い助け合って生きていたそうです。特に貧乏な時代背景や全ての作業が手仕事に頼らなければならなかったため、家族の絆が必要だったのです。家を建てるときは自分の森林を伐採運搬し、屋根の茅葺も調達から茅葺まで全てをみんなでやったそうです。また人糞は大切な肥料源で汲み取りも散布も全て大家族がなければ出来ませんでした。

 今の社会は豊かになって仕事が分業化され、金さえ出せばどんな作業も全て他人がやってくれ、多世代が同居して力を出す必要がなくなっtばかりか、一緒に住んでいる家族でさえバラバラになっているのです。


 日本の家も大きく様変わりしました。わが家のような田舎の古風な家は障子や襖で仕切られていて、いざという時には大広間になるよう設計されていますが、今の家は壁とドアで細かく仕切られ、家族個々のプライバシーが守られるようになっています。部屋に入れば自分の世界だし、襖や障子のような人の息遣いは感じられないのです。ゆえに一つ屋根の下に住んでいても家族といえるかどうか疑問のようにも思えるのです。

 「家族」という言葉は本宮先生が言うように「族」なのかも知れないと納得して話を聞きました。わが家も長男家族が間もなく変える計画で、その準備をしなければなりません。家族が一緒に住むとお互いが気兼ねをしなければならないいやな部分もありますが、それこそ家族にとって大切なことなのだと、親父と長年同居した経験から思うのです。わが家では「多世代家族」を目指していますが、私が受けた長男教育と同じように、私の息子にもこれまでやって来た長男教育が正しい判断だったと納得しました。


  「面白い 話を聞いて 納得す 老いた人から 生き様学ぶ」

  「コツコツと 続けることに 意味がある サプリ飲んでも 元気にゃならぬ」

  「泡洗顔 毎日すると 言うけれど そのわり顔は 普通の老人」

  「この人の 歳まで生きる 仮定して いいという事 俺も始めよう」

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