shin-1さんの日記

〇うわあー凄い、内子の枝垂桜

 私が移動する範囲の県内ではあちこちに桜が咲き始め、いよいよ春本番です。普通桜は気象台が指定する標準木の桜の花が5つ以上開くと開花宣言となるのですが、今年は異常ずくめで例年より10日も早く桜前線は高知に上陸しました。これまで日本で一番桜の開花が早いとされた宇和島や熊本では、一番咲きを目指して必死になっているようです。特に気象台の撤退した宇和島では元気象台職員やボランティアの人たちがこの一ヶ月丸山公園の桜を丹念に調べて日本一を目指したようですが、残念ながら耕地に先を越されてしまったようです。

 普通の人から考えれれば「何も一日や二日遅れたぐらいで悔しがることもないのでは」と思われそうですが、どうしてどうして当事者たちは「日本一」に命をかけているのです。


若松進一ブログ

 今日は西予市で開かれたグランプリの表彰式に出席するため海岸線を通って長浜から、肱川沿いに大洲への道を通り、途中から国道56号線を走りました。私たちの町の桜は大島桜を除けば吉野桜はまだ蕾が固いのに、私の町より温度の低い大洲では2分咲きの所もあって、驚いてしまいました。

 表彰式が終わって午後2時からの愛媛か行く漁業調整委員会に出席するため大洲から内子経由で56号線を上りましたが、驚いたことに旧内子町役場のの横の河川敷には枝垂桜が満開でした。時間的な余裕もあったので役場庁舎前の駐車場に車を止めてぶらり散歩をして一足早い花見を楽しみました。

 物珍しさもあってこの日の陽気に誘われ、何人かの人たちがお昼時の花見散歩ををしていて、中には卒業したのであろう中学生たちがキャーキャーいいながらVサインをして写真を撮っていました。それにしても内子の桜は見事でした。

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 私の町の桜がどうしてこのように気温の低い山里より遅いのかは諸説がありますが、私の考えでは海沿いに面しているため風が強くつぼみの表皮が乾燥して硬いからだと思うのです。まあ菜の花や水仙で他市町に水をあけて話題になっているので、桜くらいはゆっくりと人並みより少し遅れるのも仕方ないことだと思っているのです。

 今年一番桜が早かったのは、実は堀の内の旧競輪場あたりの若木でした。これは標準僕でないため余り話題になりませんでしたが、10日以上も早く咲いていました。関係者の話によると植えたその年は根を張ろうとするため成長が早まってこんな現象が起るのだそうです。緋寒桜やか川津桜、大島桜、蜂須賀桜など、早咲きの桜は一足早く咲いて話題をさらったものの、早くさい多分散るのも早く、いよいよ本命の吉野桜前線が日本列島を駆け上がってゆきます。5月には北海道に上陸し、日本は花の季節を迎えるのです。忙しい合間を縫って今年も季節の花々を愛でたいと思っています。


  「うわあー凄い 枝垂桜の 咲くを観る 日本いい国 桜が咲いて」

  「俺の町 桜の蕾 まだ固く いつ咲くお前 せっかちに聞く」

  「さあ春だ 心浮き浮き どことなく 今年は何処で 花見しようか」

  「デジカメに 写したデーターを 妻に見せ 自慢している 私単純」

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shin-1さんの日記

〇校名変更式そして卒業式

 今年も学校評議員をしている私の元へ小学校、中学校、高校の3校からそれぞれ卒業式や入学式の案内が届きましたが、残念ながら先約があって、卒業式は中学校のみ1校へ昨日出かけて行きました。列席者は市長さんはじめお歴々のいわゆる「長」の付いた方ばかりで、「学校評議員」などのありふれた肩書き出の出席は私一人だったのかも知れません。でも人の値打ちなど肩書きで決まるものではないと自分で納得して、堂々と来賓席に座って卒業式を見守りました。

 今年の双海町は異例続きで、63年の歴史に幕を閉じる下灘中学校と同じく、63年の歴史に幕を閉じながら双海中学として下灘中学校を統合する上灘中学校ではそれぞれ閉校式、校名変更式などの行事が行われ、歴史の証人としての意味もあるのです。

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(校名変更式での校長式辞)

 先日は下灘中学校の閉校式へ出かけましたが、昨日は上灘中学校の校名変更式が卒業式の前に行われました。上灘中学校は自宅から歩いてほんの3百メートルくらいしか離れていないので、好天に誘われて歩いて行きました。中学校は来月には双海中学校として再スタートするのに、本校舎は耐震診断で危険校舎と診断され壊したままで、まだ着工もされず狩校舎でのスタートとなりました。

 校名変更式は校歌の作曲家の奥さん、作詞家のご家族、歴代校長、歴代PTA会長なども招かれ、かつて13年間も教育委員会に勤めていたこともあって、特に歴代校長先生たちの顔々にであい、懐かしさが込み上げてきました。教育委員会では社会教育を担当していましたが、社会教育施設の充実していない頃だったゆえ、この上灘中学校は文化祭も町民体育祭も、またソフトバールやバレーボールの大会も全てこの上灘中学校が会場でした。ゆえにこの学校は人一倍足を運び、人一倍愛着があるのです。

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(上灘中学校最後の卒業式での卒業証書授与)

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(卒業生たちの合唱)

 上灘中学校では校名が変更するに先立って、記念事業のために実行委員会が組織され記念碑建立や記念誌の発刊が寄付によって行われていて、私も記念誌に紀行文を依頼されました。その文章の中にもう一つの思い出としてその辺のことを書かせていただきました。

 校名変更式が終わると30分余りの休憩時間があって、私たちが控え室でお茶を飲んで談笑している間に、今度は上灘中学校最後の卒業式の準備が行われ、相次いでの出席となりました。卒業生は男子9名、女子17名の合計26人と、私たちの時代から比べるとかなり寂しい人数でした。それでも小規模校ゆえの慈しみや顔見知りの子どもの顔もちらほら見えて、少し涙が出てきました。

 今の卒業式は「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌わず、私の知らない「YELL]と少しだけ知っている{君がいたから」を合唱し、最後に歌い収めとなる「上灘中学校校歌」を全員が大きな声で歌いました。私はこの学校の卒業生でないのでこの歌は口ずさむ程度なのですが、私の子ども4人はそれぞれこの歌に思い出があるはずだと思いつつ、隣の人の声を聞きながら口パクで歌詞をなぞってゆきました。

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(記念誌への私のつたない紀行文)

  「卒業式 蛍の光 歌わずに 仰げば尊し ないゆえ湿らず」

  「皆勤の 子ども表彰 したいなあ 様変わりした 卒業式見て」

  「この子らは この学び舎を 後にして 何処を目指して 行くのだろうか」

  「いつの世も 同じようなる 流れにて 記憶の彼方 去ってゆくもの」

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