shin-1さんの日記

○何と40周年・あっぱれ豊友会

 「40年前、私は一体何をしていたのだろう」。ふと思いました。63歳から40年を引き算すると23歳です。そう、私は40年前双海町の青年団長でした。家業である漁師をしながら青年団活動にうつつを抜かし、その年には第14回NHK青年の主張の県代表にも選ばれるなど、それなりの活躍をしていたようです。そしてこの年の秋、青年学級で「青年の生活設計」という学びから自分の目標をしっかりと立てたのでした。私にとって40年前は旅立ちの記念する年だったのです。

 その頃、昨日招かれた大洲市長浜町豊茂では、青年団OB有志によって「豊友会」なる集団が誕生していました。そして今日までの40年間時には輝くように、時には牛歩の如くひたすらバトンを受け継いで活動してきたのです。全国の事例は別として愛媛県内では地域に特化してこれほど長く有志が集団を組んで活動を続けている事例は聞いたことがないのです。「いやああっぱれ」と豊友会の皆さんに心からなる賞賛の拍手を送ります。

 この40年間、日本の山村地域は大きく様変わりをしました。過疎、少子高齢化、農林業の疲弊など指を折っても余りないほどマイナス面が襲いかかり、10年後という近い将来さえも分らないほど五里夢中の暗いトンネルの中に入ってしまっているのです。トンネルの向こうに出る一筋の光さえも見えてこないままに・・・・・。

 それでも人々は歩みを止めるどころか、その糸口を探ろうと、記念大会を催しました。地元の人たちが約80人ほど集まっていました。勿論記念大会ですから市長さんや地元選出の市会議員さんたちも顔を連ね厳かな式典と地域づくりフォーラム、それに祝賀交流会が持たれました。

 私の役割は「まちづくりの新しい風」と題した基調講演と、「地域の特性を活かした魅力あるふるさとづくりをどう進めるか」というテーマでのパネル討論コーディネーターでした。講演は50分、パネル討議は2時間でした。

 講演では私の知りえた豊友会の活動の問題点を経済という視点、活性化という視点、未来という視点で話させてもらいましたが、意識も知識も高い豊友会の皆さんにとっては馬耳東風でしょうが、新たな旅立ちへの応援歌とでも理解して欲しかったのです。特に居並ぶ市会議員さんへ、腰の引けた行政への橋渡しとして聞いて欲しかったのです。

郷土史研究家米岡幸市さんの歴史というタテ軸からの話は中々興味をそそる薀蓄のある話でした。地域ボランティアの鎌田清美さんの活動や交流というヨコ軸からの話は棚田や統合後の学校利用という提案もあって、おもしろ発想でした。柳沢から駆けつけた木林森クラブ会長の平谷和夫さんはジャンボ門松・ほたる祭り・雲海展望公園などを手掛けた実績を楽しく話されました。豊友会会長の菊岡禎巳さんは日頃の活動を紹介しながら見えてくる問題点を披瀝しながら話されました。

 討論はフロアーも巻き込んで進めましたが、やはり感心事は3年後に廃校になる予定の小学校跡地の活用でした。私も翠小学校の事例を引き合いに出しながら、学校の持つ目に見えない影響について話しました。学校がなくなれば次は限界集落です。襲い繰る不安の中でどう生きてゆくのか、いよいよ豊茂にも正念場がやって来るようです。

 祝賀の交流会を終え松本さんとふたりで帰路に着きましたが、余韻や興奮冷めやらず二人で潮路という店に立ち寄って二次会をやりました。飲むほどに饒舌になるはずの松本さんも昨夜ばかりは飲むほどに気持ちが冴え、これからどうするのか、お互いの腹を割って話し合いました。私は引き時の潮時、松本さんは上げ潮時と潮時立場が違うため、次へのステップアップに向けたアプローチの仕方もまちまちですが、旧友知人にも会え、将来を考える考える上ではいい一日でした。

  「元気かね 声かけくれる 人ありて 体の変化 少し気になり」

  「偉いねえ 四十年間 続けてる 俺にはちょっと 真似が出来ぬわ」

  「帰らない 褒めた言葉に 帰れない 言うんじゃなかった 言ってよかった」

  「参加者は 全員四十 歳とりて 十年後には みんなプラス十(とう)」  


 

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shin-1さんの日記

○雪の金山出石寺

 「おい松本君、金山出石寺へ行こうか」。それは急な思いつきでした。昨日は大洲市長浜町豊茂で行われた「豊友会40周年記念大会」に招かれていたので、えひめ地域政策研究センターの松本さんと二人で出かける事にしました。松本さんは双海町下灘の出身なので私の車で行こうと相談がまとまっていて、彼の実家の前で11時の待ち合わせです。家を10分前に出ましたが、途中妹の経営する「くじら」という海産物の店先で妹の顔を見たので、素通りも悪いと思い立ち寄り、会釈程度の会話を交わしました。国道沿いで松本さんを乗せ昼前のことでもありラーメンでも食おうと通りすがりのラーメン屋に立ち寄り、ラーメンが来るまでの時間に金山出石寺へ行くことの相談がまとまりました。

(豊茂入口の人面広場に設置された大きな草鞋に度肝を抜かれました)
(豊茂の名物人面岩)

 穏やかな瀬戸内の海を右手に見ながら長浜まで走り、つい最近出来た信号を左に曲がってしばらくすると肱川に出ますが、引き潮のため肱川の水も少なめで、右手後ろにかかる片勝ち鬨の赤橋がバックミラーに映りながら視界の外に消えてゆきました。JR出石駅付近で右折し、出石大橋を渡るともう金山出石寺へは一直線です。途中豊茂の大本さんと連絡を取った松本さんは、今日の会場となる豊茂公民館に全国大会のパンフを置いて、再び坂道を走りました。この道を走るのは久しぶりなのですが、改良は途中までしかできておらず、行政の台所事情を垣間見る思いがしました。杉木立の中を走ること15分余り、道沿いに残雪が見えてきました。カーラジオから流れる全国ニュースでは首都圏を含め太平洋沿岸を通過中の低気圧の影響で大雪に見舞われ、積雪があると報じていましたが、標高820メートルの金山にもかなりの雪が残っていて、バスの回転場辺りからは道の雪が凍ってアイスバーンになっていました。それでも往復1時間という痴愚の予定にあわせた目安があるので、ゆっくりと登って行きました。やがて町指定天然記念物である桂の大木付近に行くと、車のタイヤがスリップし前に進まなくなりました。危険を感じたのでUーターンして路側帯に車を止め、二人で雪道を歩く事にしました。凍った雪道は歩きにくいものです。日差しを浴びた所はびちゃびちゃに解けているし、歩きにくいことこの上なく、少々太り気味の松本さんの洗い息遣いをを少し後ろに聞きながら、かなり長い車道と参道を休む間もなく一気に歩きました。

 連休なので普通だと参拝客も多いのでしょうが、この雪道に行く手を阻まれまばらでした。私たちのように無防備でやって来た人もいれば、スノータイヤで追い越して行く人もいてそれぞれです。

(雪に覆われた参道)
(山門前の石段も氷ついていました)
(雪の白と空の青が見事なコントラストの金山出石寺境内)
(金山出石寺本堂)
(山門の入り口にある大師像も雪を被って寒そうでした)

 参道前の石段は完全に凍結していて手摺に捕まるように慎重に登って行きました。鐘楼で手を合わせて入り鐘をつき、大師堂と本堂を巡ってお賽銭を入れ祈りを捧げました。周囲の山並みは少し春霞の感じでしたが、その遠望を楽しむ暇もなく早々に下山です。元来た道を下るのですが、雪道は滑りやすく少し早足で新雪部分を踏み分けながら転げるでもなく元の場所に戻って車に乗り込みました。

 往復僅か50分程度の短い時間でしたが、御仏のご加護か何事もなく豊茂公民館まで帰って来ました。九十九折の狭い道の両側に広がる長閑な山村風景とは裏腹に、時折視界に入る住む人絶えて崩れしままの民家に限界集落の厳しさを感じました。数年前に襲った台風による風倒木も痛々しさをさらけ出し、冬枯れのクヌギ林や、棚田のあちこちに咲く黄色い菜の花が印象的でした。

 ここでは親友菊地さんや大本さんたちが地域を守るため長年頑張っています。しかし時代の流れは否応なしに山村の暮しを押し流そうとしています。最早見方であるはずの行政さえも見放し、ぶつける当てもない憤りを感じながら生きて行かなければならなのでしょうが、せめて人生の結末だけは楽しくあって欲しいと思うのです。

 金山出石寺への短い旅路はまた私の心に新たな火種を生んだようでした。

  「雪道を 恐る恐ると 分け入りて 霊峰出石 参拝登山」

  「住む人も 途絶え潰れし 人家あり 冬の山里 寂し風吹く」

  「もう春が そこまで来てる 山村の 棚田あちこち 黄色い菜の花」

  「村人の 姿も見えず ひっそりと 山の向こうに 煙り一本」

  「

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